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牧師の説教ノート(10月23日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙3章18〜23節

1.時代背景、舞台、文脈背景


1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 神の宮を破壊すると言う行為そのものが、神の怒りを招くと警告し、パウロは分派の愚かさを指摘した。
 そこから更に更に踏み込んで、分派がそもそも起こったのであろう原因を指し示し、その考え方がまず愚かな事であることを告げるのである。

 そもそも、分派が起こった直接の原因は、コリント教会の人々が、自分達の指導者の中で最も偉大な者が誰であるかを論じる事で、自らをも知者であるとしようとしたところにあった。パウロに価値があるのか、アポロに価値があるのか。それらを論じて言い争うことで、彼らは価値ある指導者を擁護する自分達が、如何に聡明であるかを言い表そうとしたのである。

 しかし、パウロはここで、恐るべきことを宣べ始める。コリント教会の人々が価値があると信じた全ての物について、「それらは全て手に入っているが故に、等しく価値が無い」事を言い表した。彼らがこの世的な目線から価値があると信じたものは、等しく私たちが教会を建て上げる為のただの道具であり、私たちそのものも、キリストが用いるただの道具であり、そしてキリストもまた、父なる神様の御心を果たす為の道具なのである。

 それ故に、何に価値があり、何に価値がないと論じ合うことは、それそのものが愚かである。この世の知恵の中ではそれを語る事には一定の価値があるのかもしれないが、神の御前ではその知恵は一切通用することがない。むしろ、そのような価値の無い者に価値を見出して囚われる事で、この世の自称「知者」達は、自分の知恵によって自分を滅ぼす結果に陥るのである。

 しかし、パウロが本当に言いたい本論はそこにある訳ではない。パウロは、自身が土台を据えたと教え、その上に神の宮である教会を建て上げるのが教会員の仕事であると宣言し、かつ神の宮を破壊する者は主が裁かれるという警告も行った。その文脈の上で、「誰も人を誇ってはならない」という言葉を捕らえ、また、全てはわれらのもの、我らははキリストのもの、キリストは(父なる)神のものという一文を解釈すべきである。

 土台の話題から神の宮、またその破壊までの話の中で、パウロは常に、コリント信徒の振る舞いが、神中心であるか、それとも人間中心であるかによって、神の評価が全くわかれることを教え続けてきた。その延長で、この箇所でも、私たちが、自分中心に生きる私人であるのか、それとも神中心に生きる公人であるのかを問いかける話題を提供している。私たちは、キリストの十字架の贖いにあずかり、洗礼を受けた時点で、私人ではなく、キリストに属する公人である。それ故に、クリスティアン(キリストに属する者)と呼ばれるのである。私たちは、いわばタイムカードを切ってキリストの為に働いている公人である。この立場の話題によって、何故この世の知恵が愚かと言われるのかが全て説明されるのである。

 私人と公人の自分自身を、私たちは使い分けて生活している。公人になる時、私たちは行動基準や価値観そのものを使い分けている。自分の「私物」と、業務上の「私物」も全く違う価値観で運用する。それ故に、私たちは「私人」としての知恵ではなく、「公人」としての知恵によって生きて行かなければならない。聖書的価値観以前に、社会人であるならば当然理解できる当たり前の理屈が、この箇所には込められている。


〇誰も自分を自分を欺いてはいけません(18節)
 欺く(ギ:エクザパタオウ)は、欺く、騙す、誘惑する、それも徹底的にという意味があり、自分自身がそうであると思い込んでいる状況に対して苦言を呈するパウロの口調の強さがうかがえる。
 自分を騙すとは、即ち自分がそうであると思い込んでおり、疑っても居ない様子を指すのであろう。自分自身に知恵があると、コリント教会の人々は当然のように思い込んでいるし、また信じているのである。
 このような過ちは、コリント教会に限った事ではなく、あらゆる教会の中で起こりやすいことであったのだろう、ガラテヤ教会への書簡でも、同じような「自分を欺く」話題がとりざたされている(ガラテヤ6章3節)。
 何も、自分を騙して真実から目を逸らすことは、教会の中だけに限った事ではなく、人間大なり小なり、誰でもそのように行って自分を騙しているのは言うまでもない。自分自身の現状をありのまま直視するには、この世界は少しばかり辛すぎるからである。
 しかし、あえてこれを直視しない限り、何時までも私たちの心の内には、罪の自覚も、また十字架による救済も訪れない。自分自身が如何に小さく、また如何に罪深い者かについての直視を、私たちは定期的に思い起こして、己の心の内を点検しなければならないのである。


〇知恵のあるもの(18節) / 愚かになりなさい / 人間を誇るな(18-21節)
 もし/IF(ギ:エイ)の言葉で始まり、自分がこの時代で知者だと考える者がいるならば、と原文では書かれている。ここで取り扱われている知者(ギ:ソフォス)は、この時代(ギ:アイオニ)、若しくはこの世という言葉に掛かっており、それが今の時代の中でのみ通用するものであると限定されている。
 この時代(ギ:アイオニ)、とは即ち、イエス様が来られて世界が新しくされるまでに限定された区分を言う。イエス様が来られるまでの限定的な時代の中では知者と呼ばれても、イエス様がこられ、神の前に立たされたときにはおがくずのように飛ばされて消え去ってしまう。そのような「知者」が、この時代(世)の知者なのである。
 
 また、逆に愚か(ギ:モウロス)は、愚かな、ばかげたという意味のある言葉である。正に愚者という意味そのままの言葉であるが、何に於いて愚者であるのかという事については慎重に検討しなければならない。
 オリゲネスは、ケルソス反駁論の中で、【「あなたがたのうちのだれかが知者だと思うのなら、あまねく愚かとなれ」と言っているのではなく、「知者になるために、この世における愚か者となれ」と言っているのである(「ケルソス反駁論」1巻13頁)】と言及しており、その見方はおそらく正しい。

 つまり、キリストの十字架の言葉を始めとする神の知恵は、この世に於いては愚かだと評価されるのであるから(1章18,23節)、この時代における一時的な知者ではなく、神の前の永遠の知者と呼ばれたいならば、この時代に於いては寧ろ「愚か者」と評価されるようでなければならないのだと言う事をパウロは言っているのである。

 その立証の為に、パウロは聖書を二か所引用している。一つは19節で、ヨブ記5章13節からの引用である。この御言葉は、ヨブの友人テマンが、ヨブに対して用いた苦言の中の一つである。テマン達ヨブの友人は、ヨブに対して「的外れ」な助言を行っている為、これらは真面目に聞いてはならない御言葉であるように思われるが、しかしヨブの友人達の言葉はその全てが間違っている訳ではない。彼らは、言ってることは正しいのだが、今その場に於いては的外れという意味で言葉を用いている。パウロが引用したこの箇所も、「部分的にはあっている」所の代表例の一つである。
 悪知恵(ギ:パノールギア)は、万事(ギ:パン)成し遂げる者(ギ:エルゴン)の複合語で、知恵や計略によってあらゆることを実現してしまう人を指している。転じて、目的の為なら手段を択ばない人間、またその様子という意味で、悪知恵という意味合いを持つようになった言葉である。この世の知恵者は、自分の目的の達成の為には手段を択ばないが、その手段を択ばないという特性によって、寧ろ墓穴を掘る事になり、最後は身を亡ぼすことになるという意味で、パウロはこの御言葉を引用しているのである。

 もう一つは、20節の御言葉で、これは詩編94篇11節からの引用である。思い計ること(ギ:ディアロギスモウアス)とは、論議や思考という意味で用いられる言葉である。これは、この世の知者、即ち神を考慮に入れない人々の論議という意味でパウロに用いられている言葉である。神が存在するという事実を考慮に入れず汲みあがる論理は、その全てが前提に於いて間違っており、如何に巧妙な積み木をつみあげようが、根元が間違っている為にその全ては上手く行かないのである。また、このような人々は、神は自分のことなどを見ていないと考えるが、その考えその物も愚かである。神は、全ての人間が考えて居る事を全て知られており、その上で行動をするのであるから、神の前に愚かとされる知恵をいくらもっていたところで、それは何も知恵のない愚者となんらかわりがない状態なのである。

 しかし、神の建物の話をしている途中で、文脈的に見れば一見意味がつながらないような事を、なぜパウロはいきなり宣べ始めているのだろうか。文脈の一貫性を考えるならば、パウロは分派している事についての苦言と、神の宮を建て上げるという教会員の義務について宣べているのであるから、その文脈の中でこの話題が登場していると考えなければ話がつながらない。この後の話題が、「誰も人間を誇ってはいけない」と、「全てはあなたがたのもの」へとつながっているのであるから、何か一つの物に価値を見い出して己の知恵を誇るのを今すぐやめるようにという趣旨で、パウロが話していると見るのが自然であろう。

 「これに価値がある、あれに価値がある、これに価値を見出してひいきにしている私は知恵のある素晴らしいものである」などと話すのは、この時代の知恵に縛られた神の前での愚者なのである。

 全てのものは、私たちに与えられて居るのであるのだから、十の道具を持っているなら、十の道具全てを有効に用いるべきであって、その道具の間に優劣はない。もし、妙なこだわりで十の内一つだけで使い、残りの九つを全く使わずに放置するというならば、それは残り九つの道具をまったく使わない損失を被る。何か一つに価値を見出して固執することは、他のあらゆるものの価値を無にする愚かな行為なのである。


〇人間を誇るな(21節)
 この人間を誇るなという言葉には、様々な意味が見いだされるようにも思えるが、文脈から考えると、そう深い意味はないのかもしれない。それは即ち、パウロが一章から散々コリント教会に対して訴えかけている「分派をやめろ」という文脈の中で語られていることであり、ある意味一つの結論だからである。

 それは即ち「私はパウロに」「私はアポロに」「私はケファに」といって、人間を神輿にして互いに分派し、言い争っている人々に対して、「それをやめるように」という意味での結論なのであるから、要するに「私はパウロ」「私はアポロ」といった、人間を誇って神輿に担ぐ行為を、誰もおこなってはならない、という意味でとらえるのが、この後の話題などから考えても文脈上自然である。

 この文脈の中で見るならば、パウロの事の言葉を「人物崇拝してはならない」という教えの根拠として用いるのは不適切である。人間を信奉してはならないという意味ではなく、寧ろ、どれもこれも全てが手に入っている価値の等しいものであるのだから、一人に拘らず全員を上手く使いなさいという意味でパウロは言っているのである(「キリストを差し置いて人間を信奉してはならない」という話題については、もう既に「土台」の話題が出た時に議論されつくしている)。

 自分が知恵のあるものだと思うならば、寧ろこの世の人のように一つのことにこだわるな。寧ろこだわりを持たない無粋者、愚か者と呼ばれるようになれ。それこそが神の前での真に知者なのであるからして、あなた方の行っている、人間を誇る行為は知恵ある行為ではないと、そのように勧めているのであろう。


〇すべてはあなた方のもの、キリストのもの、神のもの(22-23節)
 以上のことから、私たちはあらゆるものを既にもっていて、それらを適切に利用して、自分の行うべき手の業、即ち教会を建て上げる業を行っていくべきなのである。ここでようやく前段落の話題と、当該段落の話題が合流する。

 私たちにとって、この世の全ての者は与えられている道具に過ぎない。だから道具に価値を見出す事は愚かである。道具はどのように使うか考えるべきものであって、その道具を振りかざせば利益が得られる訳ではないからである。一流の職人は、一流の道具を手にするが、その道具の価値に目がくらんで振り回される事は無い。道具に「使われている」職人は、一流ではなく三流だからである。同じように、私たちもこの世のあらゆるものに「使われている」状態であってはない。この世の全ては、私たちの道具として、神から与えられて居る。私たちはそれらをどのように使って、教会という共同体を建て上げていくかを考えるのである。

 この時、私たちは「すべてのものが与えられている」状況について、勘違いしないようにしなくてはならない。それは即ち、私たちはキリストのものであり、キリストはかみのものであるということを忘れないようにすべきであるということである。
 努々、私たちはキリストの十字架に報いる為に弄しているのであり、そのキリストの十字架は、父なる神の愛によって齎されているのである。だから、私たちに与えられて居る「すべてのもの」は、キリストの命じた大宣教命令(マタイ28章18-20節)の為に用いられるべきであるし、その大宣教命令は、全ての人が滅びないで永遠に生きる者とされる為にある(ヨハネ3章16節)という、父なる神の御心に沿って、勧められていくべきなのである。

 私たちは、社会で働く時、あらゆる権限と、あらゆる道具、また資金などが与えられる。それらの権限や仕事道具、資金は、自分個人の持ち物であり、私的に乱用するべきものであろうか。断じてそうではない。業務上の職権や備品、経費は、雇われている会社の利益の為に用いられなければならない。それを私的に用いる事は、業務上の横領であり、背任行為である。社会で働いている人間ならば(たとえそうでなくても)、それは当たり前の常識であろう。同じように、私たちもすべてのものが与えられているが、それらが手にある事は、私たち個人とは何の関係もないのである。私たちは、神の利益になる為に、この世の全てのものを用いる。それは、パウロも、アポロも、ケファも、この世界も、いのちも、死も、現在もっているものも、未来に手に入る者も、全ては、それを用いて神の宮を建て上げ、父なる神の利益を出す為の「備品」であるという点では同じことなのである。

 手に入る者一つに価値を見出し、それによって言い争い、逆に父なる神に損害を出しているのが、如何に愚かなことであるか、私たちは考えなければならない。それは、会社の備品の一つに拘って、他の備品を用いず、寧ろ会社に損害を与えているにも関わらず、自分が有能な良き社員だと思い込んでいる、愚かな社員と何ら変わりのない状況なのだ。そのような愚物になりたくないと願うならば、自らの立場を弁え、私たちは自己点検を疎かにしてはならないのである。



2.詳細なアウトライン着情報

〇神の前に知恵は愚かである
18a だれも自分を欺いてはいけません。
18b あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたとするならば、知恵のある者となるために愚かになりなさい。
19a 理由:何故なら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。
19b 証明1:「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪だくみによって捕らえる(ヨブ5:13)」と書かれているし、
20a 証明2:また「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる(詩編94:11)」とも書かれているからである。

〇自分達を誇るな
21a ですから、誰も人間を誇ってはいけません。
21b (なぜなら)すべては、あなたがたのもの(だから)です。
22  (それが)パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、全てはあなた方ものです。
23a (そして)あなたがたはキリストのもの。
23b キリストは(父なる)神のものだからです。

着情報3.メッセージ

『クリスチャンの業務』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 3章18〜23節
中心聖句:『あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。』(Tコリント人への手紙3章23節)  2022年10月23日(日) 主日礼拝説教

 私たちは神の宮を建て上げるために、イエス様に属する者として働いています。それ故に私たちはクリスチャン(キリストに属する者)と呼ばれます。それは、いわば「キリスト社員」と言い換える事もできます。私たちは自分達の立場についてよく弁えなければなりません。

 これまでの段落で、パウロは、自身の為の宮を建てることを戒め、神の宮を破壊する愚かさについても警告してきました。今日の段落では、私たちにクリスチャンの立ち位置について弁えるよう促しています。コリント教会の人々は、パウロやアポロと言った一部の働き人だけを持ち上げて、それを支持することによって自分達の知恵が明らかにされると考えていました。しかし、それは全くの勘違いです。確かに、この世の価値観では、隠された特定の良いものを見出すことを「知恵」と呼び、それを見出すことの出来る人を「通」などと呼んだりします。しかし、その知恵は神様の前では全く愚かなものであり、寧ろその「知恵」によって、私たちは罠に陥るとパウロは警告しています。何故でしょうか。それは、クリスチャンになった私達の「立ち位置」が、最早神様によって決定的に違うものとされているからです。

 私たちは、イエス様が罪の罰の身代わりとなって死んでくださったことを信じ、その救いの恩恵にあずかる為に、洗礼を受けます。その時、私たちの立場は、キリストに属すものとして生まれ変わるのです。それは云わば、タイムカードを切った社会人、また予鈴の鳴った学校の生徒のように、私人ではなく、公人としての活動が始まるということです。私たちは生活の中で私人と公人を使い分けます。その際に、用いる価値観も全く別の物に切り替わらないでしょうか。例えば、業務用の印刷機は何百万もする高級品ですが、印刷業者はその「備品」を用いるのにためらいを持ちません。何十万もする高価な黒板に、チョークを用いて授業の回答することにためらいを持つ生徒だっていないはずです。彼らが考えるべきことは、いかに備えられているものを使って、業務や学業を果たすかだけです。同じように、私たちクリスチャンも、最早十字架によって救われて、キリストに属する者となった時点で、一つ一つのものの価値に拘るのではなく、神様から与えられて居る全てのものを用いて、いかに神の宮である教会を建て上げていくかについて考えなければならないのです。だというのに、自身の持ち物にこだわったり、一つの物をえこひいきして、他の備品を使わずに業務や学業に支障をきたすのは賢明な事でしょうか。それ故に、この世の知恵は神様の前で愚かとなるのです。

 私たちは、最早神様の前では私人ではなく公人です。この立場を決してはき違えてはなりません。しかし、その一方で神様は、キリストの業務に携わる私たちの手の業を喜んで、全ての物を与えて下さり、私たちが喜んで働くことの出来るように全ての必要を満たして下さいます。私たちは、神様に養われた活き活きとした毎日を、張り合いをもって歩む事ができるのです。神様に喜んでお仕えし、自身の持つ全ての物を用いて、自らの役目を果たしましょう。


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