1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
パウロは、分裂の危機に瀕した人々に対して、キリストによって一致するように呼び掛けた一方で、人々が様々な知恵によって言い争っている現状を鑑み、自身が知恵に依らずに福音を伝えにきたこと、また、コリント教会の人々も知恵に依らずに救われたはずである事を訴えかけようとした。
しかし、その呼びかけを行う際に予想される反対意見はいくつかあった。例えば、同じ福音宣教でも、パウロは説教が下手で、アポロは説教が上手であり雄弁であるなどという、語る者による差異の問題である。同じ福音を語るにも、やはり知恵や知識、論法によって効果は変わるし、「福音宣教にはやはり人間の知恵と知識が必要不可欠ではないか」と考えるのは、いかにも知恵信仰に囚われるコリント教会の人々らしい考え方である。パウロはこの反論に対し、予め反駁しておく必要があった。
人間の知恵は、神の御言葉を宣べ伝える時にはあまり役に立たない事をコリント教会のギリシア人達は知る必要があった。何故なら、ギリシア人であるコリント教会の人々にとって、様々に複雑な知恵や知識は称賛されるべき物であったが、それは神の知恵とは根本的に異なるものだからである。人間の知恵が、複雑かつ難解で、真理を迂回し、問題を解決することのない、即ち的を得ないものである特性を持つのに比べ、神の知恵は単純明快で真理に向かって真っすぐに到達できるものであり、かつ問題を最善に解決する特性を持つ。その証拠に神は、人間が思索や探求、理論、証明その他あらゆる手段を持って福音を見る時、その内容を「愚かである」と判断するように福音のことばを予め設定することにされた。知恵に依らず、ただ御言葉の力によってそれを受け入れた人間にのみ、その先の本当の真理へ到達できるよう、福音の内容を恣意的に調整されたのである。それ故に、福音はキリストによる十字架の言葉によってのみ、信じるか信じないか判断されるものとなり、説得や説明、解説、その他諸々の要素によって人を「信じさせること」が出来ないように、神が恣意的にされているのだとパウロは語ったのである。
そのような手段を持って人々を救おうとする神の深淵なる知恵を、人間は理解する事が出来ない。それ故に、理解できなものを人間は愚かであると嘲笑うのである。しかし、神の知恵を理解する事すらできず、嘲笑っている時点で、人間の賢さが神に匹敵しない証拠となっている。皮肉にも、滅びる人々は、神を嘲笑う行為そのものによって、自身の愚かさを露呈しているのである。
〇十字架の言葉
十字架のことばとパウロが形容するものは、福音宣教の方法と、キリストの十字架の証言、福音の約束の伝達など、あらゆる宣教的な方法と内容の二つの概念を内包している広義的な言葉である。
しかし、今回の内容の文脈の中で語るならば、即ち「神の独り子であるイエス・キリストが私達の罪の罰の身代わりとなって十字架に掛かられた事、十字架の上で死なれた事、墓に葬られた事、三日目に死人の中から復活された事」という一連の内容であるとさえ理解していれば十分である。
この十字架のことばは、滅びに定められている人を決して喜ばせる事がない。滅びゆく人は、宣教の方法を見ても、内容を聞いても、そのどちらも取るに足らない愚かな事として嘲笑うのみである。しかし、救われる者、召された者にとっては、この十字架の言葉は決して愚かな事ではない。何故なら、召されて救われる人々は皆、自分がこの十字架の言葉によって、不思議と救いの中に招き入れられた事を知っているからである。救われる者、即ち召されて招かれた者は、この招きの力によって神の知恵の全貌をしり、その全容を完全には理解することが出来ないものの、神の御手によって生まれ変わり命が新しくされた事によって、自身が聞いている十字架のことばの霊的な重要さを理解できるようにされるのである。だから、救われた人は、この十字架の言葉が重要なことであり、決して「取るに足らない愚かな事」ではないと確信をもって臨むことが出来る。しかし、その確信はこの世的な視点から見るのであれば、知恵や法則、検証、理論に基づくわけではないので、その力を知らない人々から見れば、やはり「根拠も無く信じている」ようにしか見えないことだろう。この世の視点で見るならば、信仰そのものが愚かな行為に映る。これもまた、信仰に至ったものが高ぶらないようにするための神の知恵なのである。
〇知恵ある者の知恵を滅ぼし〜
イザヤ書29章14節からの引用を用いている。原文は七十人訳(古いギリシャ語翻訳聖書。ところどころ、現在の訳とは違う部分がある)から引用している為、多少文型が違う者の、おおむねその内容は同じである。
神は知恵と悟りによって、神に依らず真理へ到達して誇る者が出ないようにする為に、敢えて、知恵ある者の知恵と、悟りある者の悟りが全く役に立たない方法で、自らの真理を提示される。それらは全て、人間の驕りが完全に破壊され、「私は神を見出し、福音を自らの力で手に入れた」と神に対して誇り、高ぶる者が出ないようにする為である。何人たりとも、神の前に立ちはだかり、対抗することは許されない。神の前にただ素直に平伏すもののみが、真理に到達する事が出来る。
〇知恵者どこに、学者はどこにいるのか
これは、この世界における人間の知恵や知識が全く無用の長物であるという、反知性主義の言葉ではない。この言葉の要点は、神よりも偉大な知恵や知識を持つものが居ないという事を弁えるようにという呼びかけである。知恵や知識によって、神の前に対抗することは出来ないという事実を十分に弁えているならば、人間の知恵や知識は大いに有益なものとなる。何故なら、神は人間のこの世界を収めさせるために、自らに模って、人間に知恵と知識を与えたからである。
それ故に、知恵や知識は、私達が神の御心の通りに物事を成し遂げる時に有益なものとなる。それを神に向ける時に、それは愚かなものとなる。そのことについては良くわきまえるべきである。
勉強をし、頭を使う事が愚かであると考え教えるのは行き過ぎである。知恵や知識は、正しく用いられる時、私達にとっては金や銀以上の価値あるものとなる。
〇宣教の言葉の愚かさによって
前述の通り、神に依らず自分の力で立つ事が出来ると誇る者が一切現れないようにする為に、神は自身の知恵を用いて、人間に知恵によっては自らの存在へ到達することができない、突き止めることが出来ないようにされた。人間の知恵によって到達できる領域は、神が居るとしか考えられないという、片鱗的な物をみるところまでにとどまるのである。
例えば、宇宙の広さ、ミクロの世界の精密さ。自然環境の美しさ。被造物の造形の完全さを見る時、人間はその全てに設計者が居る事を認めざるを得ない。それを認めた時が人間の知恵の敗北であると考える科学者も多いが、権威として究めれば究める程に、神の存在はありありと映し出される。しかし、その神が何者であるかまでは人間は突き止めることを許されていない。それを突き止める事が出来るのは、神が自ら啓示された、「キリストによって照らされた」聖書の御言葉によってのみである。
このキリストによって照らされたという部分は特に大事である。即ち、いかなる神の御言葉の研究も、キリストによって照らされなければ、それは「この世の知恵」に他ならない。旧約の律法学者や、サン・ヒドリンの指導者ガマリエルすらも、イエスの御言葉について理解できなかったのはここに原因がある。如何に聖書を学んでいても、キリストを信じる信仰に照らし合わせて読まない限り、それは十字架の力にはなりえない。その事を弁えてこそ、聖書の学びには力がこもるのである。
何にせよ、人は自身の知恵による研究では、例え神の御言葉を紐解いてさえ、神の存在とその真理、御心に至ることは出来ず、神を「発見」することは出来ず、「神からの啓示」によってしか知る事は出来ない。それ故、神は自らのキリストによる特別な啓示によって、自らが用いた十字架の事実を、宣教と言う愚かな手段によって、人々に伝える事を選ばれたのである。
注目すべきは、宣教は「愚かな手段」であるという事を、神自身も認めたうえで用いられているところである。宣教は、十字架のことばとは違い、「愚かな手段であるように見える」のではなく、実際に愚かな手段そのものなのである。しかし、愚かであるが故に、神の知恵ある計画の中に用いる事が出来る。虫を退治する計画の中で、敢えて虫に餌を与えるような「良い」と言えない手段も、それによって虫を捕らえると言う叡智の中では重要な役割を担う事があるのである。
パウロは、神は愚かな手段を、自らの知恵の計画の為に用いたと言い切る事によって、敢えて自分達が愚かな事をしているのを、はっきりと認めて宣言したのである。
それ故、私達はキリストの十字架の事実をそのまま相手に伝える時、「もっとうまいやりかたがあるのではないか」「こんな愚かな手段を何故取らなければならないのか」と考えて思い悩む必要がないのである。
これによって、私達は、福音は実は「理解したり、考えたり、思索して救いに至る決断を促すもの」ではなく、「ただ聞くだけで救われ、信じる決断に到達させるもの」という特性がある事を知る事が出来る。私達は自身で救いに入るのではなく、神の力によって、救いの中にねじ込まれるのである。神の知恵は、私達に対して「手順」や「手間」を要求しない。ただそれに触れるだけで救われるほどに、その構成は完全な神の知恵によるものなのである。
〇しるしと知恵
パウロは、ユダヤ人やギリシア人の特徴を上手く書きだして、両者が「信じる根拠として求める」二つの要素を提示した上で、それを一切提供しない事を宣言している。ギリシア人は、物的な証拠よりも、理詰めで分かるように理路整然とした「証明」を要求する。ユダヤ人は、弁償的理論の確かさには興味を示さない。それが真実である事を示す為の、天的な啓示、即ち奇跡や不思議な事を「証拠」として提示するようにのみ要求する。ちなみに、しるしを求めること自体は悪い事ではない。しかし、しるしは自身が「神を信じる」と決断して進んだ結果が正しかったことを、神様が裏付けて起こしてくださるように求めるものであって、自身が神を審査(試みる)ために求めるものではない。ユダヤ人は常に、自身が神を審査する側に回ろうとするので、非難の対象となった(マタイ12章39節)。この態度は、イエスに対しても、ユダヤ人達が同じように取った態度であった。
しかし、そのどちらが提示されたとしても、それを持って信じるかどうかは、結局その個人の判断による。信じたくないと頑なになるなら、どんな「証拠」や「照明」が提示されても、人々は結局一切信じる事がない。信じたようにその場では思えても、必ず後から判断を翻すであろう。実際に、イエスの癒しの御業を見た人々も、五千人の給食のような奇跡が提示された際にも、それをもって福音を信じる者は一切出なかった。イエスを信じて救われた人々は、常にその御言葉を聞いて、素直に信じた人々のみである。
それ故、神はあえて、「しるし(証拠)」や「知恵(証明)」を提供せず、寧ろ「つまづき(反証)」と「愚かさ」を提示する事によって、彼らが「納得して救われる」可能性を一切排除した。救われるのは、正に、知恵に依らず霊によってイエスを信じようと決断した人々のみに限られるのである。
〇十字架につけられたキリスト
十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にとっては「木に掛けられた呪われた罪びと」にしか映らないし、ギリシア人をはじめとする異国人には、「不死不変」であるはずの神が死んだと言うのは荒唐無稽な話であり、まして、人間であったとしても「確実に死んだ人間が、生き返るはずはない」と考えて、どのようにとっても愚か者の戯言にしか映る事がない。
当時の、ギリシアでは神は人間に関わらず、興味もない完全で不変な者であると考えられていたし、迷信の渦巻く古代世界の中であってさえ、死は「確実に不可逆」なものとして共通認識が出来上がっていた。
ユダヤ人にとっては、木に掛けられ呪われた人間によって私達が救われるなどと言う主張は、聖書を解き明かすものにとってすら、受け入れがたいつまづきであった。
しかし、パウロは恐れずにこの「十字架に掛けられたキリスト」事を人々に宣べ伝える。霊によって召された人々は、証拠も証明も必要なく、確実に誰も信じないだろう所からでも、不思議に救われて信じるに至る事を、パウロは知っていたからである。それがどういう理屈でそうなっているのかについては、宣教しているパウロ自身も証明することはできないだろう。しいて言うなら「神の力」とか、変数的な言葉を当てはめて、便宜的にその作用を表現することしかできない。平たく言えば「良く解らないが神の力でそうなるんだ」としか言いようがないのである。
その真理は、先の項目でも述べたように、有体に言うならば、「どんなに愚かな手段であっても、信じる人は信じる」のである。神の力によってそのようにされているからである。この事を考える時、パウロが前で言っていた、「十字架のことばは、神の力である」という言説がいよいよ活きてくる。「十字架のことば」それそのものが、人々を救いへ推し進める指向的な力そのものなのである。
だから、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝える時に、その伝え方の上手い下手を気にすることは無い。如何に巧みに伝えようが信じない者は信じないし、如何に下手に伝えようが、信じる者はそこから救いを見出すのである。また、信じてもらえなかったからといって落ち込むことも無い、それはその人が「まだ召されていない」だけであって、時が来れば同じ手段で必ず信じるからである。
逆に言えば、それは「救われなかったもの」から言い訳の余地を奪う。自分に理解力が足らなかったので救われなかったのだとか、相手の説明が下手だから救われなかったのだとか、他の要素にその責任を転嫁する事もできない。神の前での自己弁護は一切許されないのである。
〇召された者自身にとっては
パウロは、自身という言葉を用いて、キリストの証はそれぞれ一人一人が、個人的な体験を通して確信するものであることを語る。福音の核心は人づてによってではなく、また周囲の雰囲気に流されてでもなく、自分自身の体験と確信をもって近づく事が出来る。それ故、誰であっても、自分の確かな体験を通して福音を語る事ができるのであるから、福音戦況は誰によっても伝えられるのである。
そして、それらの体験も、確信も、神から召されたと言うただ一点によってのみ齎される者である。知恵が優れているからでも、身柄や血筋が尊いからでもなく、神様が召して下さったと言う憐みによってのみ、私達は主の神の力を体験するに至るのである。
また、その召しにも時がある。今日は招かれていなくても、明日になったら招かれているかもしれない。毒麦のたとえ然り、その人が神様に召されているかとうかは、最終的な結果を見なければ判断できない。死ぬ最後の日に召される人もいる。だから私達は軽々しく救いと召しについて分かった気になって判断してはならない。その人が召されているかどうかは私達は分からないのだから、いつも諦めずに伝道は続けなければならない。
〇神の愚かさは人よりも賢い
パウロはこれらの事を振り返り鑑みて、一つの結論に至る。それは、ギリシア人達が「愚か」だと神について嘲笑っているその部分についてすら、彼らが持っている人間の全ての知恵よりも優れているのである。これは逆説的な皮肉である。何故なら、彼らが「愚か」だと判断したその一切は、彼らの知恵では解読することすらできなかった高度な知識の集合体だからである。彼らが「愚か」だと言ってしまう時点で、その知恵が彼らの叡智の全てに勝っている事が証明されてしまっている。
また、ユダヤ人達は、イエスという完全なる証拠が目の前に提示されていても、それを証拠であると判断する事も出来なかった。「証拠を見せろ」と言いながら、その証拠を理解できないのも、また人の知恵の限界である。
人間の知恵は、神の知恵のあらゆる部分に対して、意味をなさないのである。
事実、十字架の知恵を人は愚かと言い、十字架の贖いの力強さを、人は弱い印だと嘲笑う。人間とはどこまで行っても、神に相対することは出来ず、そのなされる業を理解する事すらできないのである。
〇ポイント整理
1.救いは、説教の巧みさや説得、知恵によって得られるものではない。
2.誰も、「自分が賢いから救われたのだ」と誇らないようにする為に、神様は敢えて十字架を愚かなことに見えるようにされた。
3.十字架は、それをただ聞いただけで召された者を救いの中へ導く神の力である。
4.十字架には神様の知恵と、イエスの力強さの集大成であるが、人間はそれを神の愚かさ、神の弱さだと判断して嘲笑う。ここに人間の罪がある。
5.私達は福音を宣べ伝える時に怖気づいてはならない。口下手な伝道でも、言葉巧みな説教でも、そこに込められている十字架の力の総量は一切変わる事が無いのであるから、自身を持って十字架を宣べ伝えよう。
2.詳細なアウトライン着情報
〇十字架のことばの力
18a 十字架のことばは、滅びる者達に(とって)は愚か(なことば)です。
18b しかし、救われる私達に(とって)は、神の力(のことば)です。
19a (なぜなら聖書には)こう書いてあるからです。
19b 内容:私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る。
〇この世の知恵について
20a (神よりも)知恵ある者はどこにいる(という)のですか。
20b (神よりも知識のある)学者はどこにいるのですか。
20c (神を論破出来る程の)この世の論客はどこにいるのですか。
20d 神は、(私達が誇る事の出来ないように)この世の知恵を愚かな物にされた(の)ではありませんか。
〇宣教の方法
21a 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知る事がありませんでした(できないようにされました)。
21b それ故、神は宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救う事にされたのです。
22a ユダヤ人は(信じるために)しるし(奇跡)を要求します。
22b ギリシア人は(信じるために)知恵(によって真理)を追求します。
23a しかし、私達は(しるしの求めにも、知恵の求めにも応じずに)十字架につけられたキリストを(愚かだと言われようとも)宣べ伝えます。
〇十字架の真理
23b ユダヤ人にとっては(救い主が死んだという事実は)つまづきになります。
23c 異邦人にとっては、(死んだ人間が生き返ったという事実は)愚かなこと(に聞こえる)です。
24a しかし、ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、召された者達にとっては、(キリストの十字架の言葉は)神の力、神の知恵であるキリスト(そのものなの)です。
25a (何故そう言い切れるのかと言えば、)神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
着情報3.メッセージ
『御言葉の力』
聖書箇所:コリント人への手紙 第一 1章18〜25節
中心聖句:『十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。』(Tコリント人への手紙1章18節) 2022年8月14日(日) 主日礼拝説教
パウロは、福音は知恵に依らない事をコリントの人々に告げましたが、同じ福音を伝えるにも、説教の上手さや聖書知識の豊富さなど、御言葉以外に知恵の絡む要素は宣教の中で多く存在します。知識があり雄弁な人でなければ福音を宣べ伝える事はできないのでしょうか。
パウロは、このような疑問に対し、まず福音は人間の知恵や知識によっては宣べ伝える事が出来ない事を確認します。何故なら、イエス様の十字架のことば――即ち、救い主イエスが十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活したという内容――そのものが、愚かな戯言としか考えられない内容だからです。実際的な証拠を求めるユダヤ人の目にも、理論的な証明を求めるギリシャ人の目にも、この十字架のことばは賢明な内容に映りません。何故なら、木に掛けられた事は呪われている証拠であり、死人が復活する事は理屈に合わないからです。それ故、例えどのように上手に語っても、十字架のことばは、常に与太話だと受け入れられません。十字架のことばは、最初から人々を納得させ、信じさせるようには出来ていないのです。しかし、パウロはその事そのものが、神様の御計画なのだと語ります。十字架のことばは、敢えて知恵では解き明かせないように、神様の御心によってされているのです。
神様は、十字架のことばを、どこからどう見ても愚かな話にしか聞こえない内容にする事で、人々が自身の知恵や実力によっては、救いを勝ち取る事が出来ないようにされました。それは、「私は賢く実力があったので救われたのだ」と、神様の前で自分を誇る人が誰一人現れないようにする為です。それ故、理性的にキリストの十字架を検証しようとする人は、どうあがいても、最終的に救いへ至る事ができません。ならば、神様に召された人はこの「愚かさ」によって、どうやって救いに入る事が出来ると言うのでしょうか。パウロはその疑問に対して、「救われる私たちには神の力です(18節)」と宣言しています。十字架のことばは、「証拠」でも「証明」でもなく「神の力」だと説明するのです。福音は、聞いた後、納得して自ら救いへ移動する物ではなく、聞いた時に神の力によって、救いの中へ押し込まれるものなのです。それが例え下手な説教、口下手な宣べ伝え方であったとしても、そこで語られているのが確かにキリストの十字架のことばであるならば、神様に召された人は、その力によって救いに入る事が出来ます。それによって、伝道は少しずつでも世界中へ広がっていくのです。
神様は、十字架という最高の知恵を持って救いを与えて下さいましたが、人間はその知恵を理解できず、十字架の知恵を愚かだと笑い、イエス様の事を弱いと嘲笑います。しかし、そこには確かに、人間の理解できない賢さと力が存在し、その事を宣べ伝える言葉にも、確かに神の力が宿るのです。神様は、キリストの言葉を宣べ伝えようとする私達を常に励まし、その力によって福音宣教を成功させてくださいます。だから、自身の知識や雄弁さに拘らず、神様の力を信じて、知り合いに、隣の人に、福音を宣べ伝えていく事が出来るのです。
前ページ
次ページ