『究極の癒し』
聖書箇所:マタイの福音書11章25~30節
中心聖句:『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイの福音書11章28節)
2025年5月18(日) 主日伝道礼拝説教要旨
本日は、「重荷を負うて苦労している人はわたしのもとに来なさい」という呼びかけの箇所を開きました。これは教会の前を通る時に、特に良く目にする御言葉であると思います。教会の門前では、この御言葉が意識的によく掲げられます。何故なら、それだけ重荷を負っている人が世の中に多いからです。人生の中で、私たちは様々な「重荷」を背負わなければなりません。私たちを疲れさせ、悩ませるこの「重荷」を、どうにかする方法などあるのでしょうか。
そもそも、私たちが漠然と「重荷」と呼んでいるこれは一体何なのでしょうか。原典のギリシャ語聖書では、これにフォルティゾウ(φορτίζω)という言葉が使われています。これは、「(重荷を)背負わされる」という受け身の言葉です。つまり聖書は、「重荷とは他人から背負わされるもの」であると語っています。私たちは、この世に生まれて、親や、学校、友達、メディアなど、様々な所から価値観を学びます。「男は背中で泣く」なんて美学が昭和には流行りましたし、現代でも私たちは、「勝ち組」や「負け組」といった言葉の影響を強く受けて、それに基づいて他人を見下そうとしたり、逆に自分を省みて惨めな思いをしたりしてしまいます。
しかし、その価値観は、本当に私たちが好きで選んだものでしょうか。むしろ、押し付けられたものが殆どではないかと思います。例えば、私たちが、自分の生活にある程度満足していても、隣の人の年収を聴けば妙な焦りを覚えます。外側から「キャリアアップ」、「投資」、「老後」なんて言葉が聞こえてくると、順風満帆な生活でも途端に不安になってしまい、慣れない分野に不用意に手をだして、騙されたり、痛い目を見たりしてしまうこともしばしばです。
例え、「他人の声」を力ずくで振りほどいたとしても、なおも私たちは安心することが出来ません。何故なら、私たちが、天地を造られた神様によって創造された一人ひとりである為に、今度はこの神様との関係も考えていかねばならないからです。神様は、御自身のルール(律法)によって、私たちの行動の良し悪しを判断されます。私たちは少なからず律法に違反してしまう為、世の終わりの日には、罪びととして滅びの罰を受けねばならないと定められているのです。結局、私たちは、嫌でも外側からの重荷に振り回されて、安心することが出来ないのです。
そのように振り回されて苦労している私たちに、「休ませてあげよう」と呼びかけられるのが、救い主であるイエス様です。この方は神の独り子であって、私たちを創造された子なる神でもあられます。だから、人間が勝手に作り出した価値観ではなく、私たちが安心できる、本当に価値あるものを教えてくださるのです。先に挙げた厄介な罪の問題についても、イエス様は御自身が罪の罰の身代わりに十字架の上で死なれることによって、解決の道を開いて下さいました。自分が罪びとであると認め、悔い改めてイエス様を信じて洗礼を受けるならば、全ての罪が赦されるようにして下さったのです。だから、私たちが決断してその招きに応じるのならば、イエス様は地位や名誉、勝ち負け、時流、家族や人間関係、そして罪の問題にまで至る全ての重荷を、私たちの背中から降ろして、癒し、休息させてくださるのです。
「重荷」を降ろして安らぐ時、私たちは本当の意味で幸福な、活き活きとした人生の中に招かれます。昨日までがんじがらめにされていた、あらゆるこの世の価値観から解放され、この天地を造られた父なる神様が、自分を本当に愛して、大切に扱って下さることを知るのです。神様の愛を受けて安息する時、私たちは究極的に癒されて、本当の意味で自分らしく生きる新しい人生を手にすることが出来ます。自分の背負う重荷に疲れていて、それを辛いと思うなら、私たちはすぐにでも、イエス様の前に進み出て、その重荷を降ろすべきなのです。
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