1.時代背景、舞台、文脈背景
1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
2章まででパウロは、私たちに霊的に神の御心を知る力がある事や、神の恵みによってこの世の人とは違う特別な存在にされている事を語ってきた。しかし3章からは、そのような恵みがコリント教会の上には現れておらず、彼らが実際には生まれながらの人(2章14節)と全く変わらない生活を送っている事を指摘し、理想と現実のギャップについて語り始めている。
私たちは水と聖霊によってバプテスマを受け、魂が神に属するものとして生まれ変わるのであるから(ヨハネ3章1-15節)、本来ならば、2章でパウロが話す通りに、神の御心を尊び、その通りに行動する状態になっていなければならないのである。そのような文脈で、パウロは御霊に属する人という言葉を用いているようである。
しかし、コリント教会には御霊に属する人が存在しないという現実がある。事実、彼らの行なっていた党派争いは、この世の人びとが行うことであって、霊によって御心に従う人々の行う事ではないからである。何故なら、神の御心によって一致しているならば、その時点で御霊に属する人同士では、理論上争いは起こらないからである(マルコ3章24-25節)。
主の御心は一つであり、その計画に衝突などは理論上起こらないのであるから、教会の中で分派の争いが起こることは基本有り得ないはずであるし、それは正しいことではない。だから、教会の中で分派争いが起こるのは、いつも人の肉なる心によって引き起こされるのである。
また、パウロは党派の争いが起こる原因についても宣べている。分派争いの原因をパウロは、「十字架のことばによって救われた者たちの中でも、その価値には差異がある」という考えそのもだと指摘する。それの良い例として、パウロは彼らが掲げている、パウロとアポロの二人の旗頭について、主の前には何の差異も無い事を言い表し、かつ、手紙を書き送っているコリント教会の人びとの間にすら何の差異も無いという事を結論づけているのである。
パウロは、二章までで説明してきたあらゆることは、コリント教会の人々が御霊に属する人なら態々言うまでもない言葉であると語った。御霊に属する人相手にならば「それは主の御心ではないからやめなさい」と一言いえば済む話を、ここまで引き延ばして語ってきたのである。そしてここからも引き延ばして語るのである。そもそも御霊に属する人が一人でもいるなら、このような分派争いはそもそも起きない。だからコリント教会の人々は、この無様な霊的状況を、教会全体で恥じ入らなければならなかった。
〇信仰の幼子
幼子(ギ:ネピオイス)は、未熟な、悟りの無い、幼いという意味を持つ、そのまま幼児をあらわす言葉である。
信仰に入ったばかりの人が、信仰した瞬間に成熟した霊的視野と訓練が施されているかと言えば、それは有り得ない事である。イエスも、新しく生まれる(ヨハネ3章5-6節)ことを教えているのだから、生まれた物は子供から大人へ成長しなければならない。それは、神が被造物全てに適用されている自然な成り行きであり、それが神の秩序である。
だから霊的に生まれた人も、幼子から御霊に属する大人に成長していくのである。それ故に、「霊的な幼子である」こと自体は非難されるべきことではない。誰でも最初はここからである。問題なのは、何時まで経ってもここから次のステップへ進まない事であり、コリント教会の人々が正にそうであると、パウロは、「兄弟たち」という愛の呼びかけを行いながら、心を鬼にして叱るのである。
〇実は
実は(ギ:アッラ)は、強調表現であり、注目されるべき事を現わす単語である。実は今でもまだ無理なのだ、という言葉が、如何に驚くべき事であり、恥ずべき事であるかを、パウロは敢えて協調している。中学生にもなってまだ九九が言えないとか、色々例があるが、聞いた人間がぎょっとするレベルで「遅れている」ことを現わす文脈で、パウロはこの強調単語を用いている。
実際に、コリントの人々が救われて、教会が形成され、今やパウロやアポロによって「建てあがり」、手紙を書き送られているコリント教会の人々は、とっくに霊的な大人に成長していなければならない段階にあった。現在の教会とて、開拓から結成、拠点の確保、宗教法人の登録、会堂建築まで全て終わった上で、集まりの中に誰も霊的に成熟した人が存在しないというのは、大分恥ずかしい話である。パウロはこれを「恥ずべき事」として、コリント教会の人々へ訴えかけたのである。
〇肉の人だからです。
実際には、そのような批判を受ければ、そんなことはないと否定したくなるのが人情というものであるが、パウロは、コリント教会の人々が行うであろう反論についても、丁寧に先回りしてそれをつぶしていく。実際に党派争いが起こってしまっているという事が、その良い証拠なのであると、論より証拠とばかりに、コリント教会の人々へそれを突きつけるのである。
肉の人(ギ:サルキコイ)、とは「肉の特徴を持つ」という意味合いを持つ言葉である。妬み、争い、自己主張、党派心など、肉欲と呼ばれる者に忠実な罪に属する「悪いもの」という意味合いでこの肉という言葉は用いられている。一節の肉に属する人(ギ:サルキノイス)は、「肉で造られている」という意味であるので、コリント教会の人々が、形だけは霊によって生まれ変わっている事を認めている。どれほどに幼くとも、その見分けがつかないとしても、彼らは霊と水によって生まれ変わっているという事実そのものは変わらない。だからと言って、結局肉でできた人々と同じことをしているのでは、生まれ変わった意味が全くないのである。
これらの言葉は、「子供そのもの」と「子供のようである」という二者の差異に近しい者であり、子供が「子供らしい」と言われたところで、それは当たり前の事なので非難には当たらないが、大人が面と向かって「子供のような人間だ」と評価されれば、大分屈辱的な思いを受ける事だろう。しかし、コリントの人々はこの屈辱的な非難を甘んじなければならない程に、党派争いという情けない事を行っていたのである。
それは、大の大人が話し合いもせずに取っ組み合って情けなく喧嘩をしているのと大差がない状況だ。話し合いで解決できない大人は軽蔑される。同じように、互いに霊的な調和を保てず派閥争いを行う信仰者もまた、軽蔑されるべき存在なのである。
〇ただの人
人(ギ:アンスローポイ)は、そのまま人という意味である。直前に否定の「ギ:ウーク」が入り、ただの人ではないかという否定の言葉になる。ただの人とは、霊と水によって生まれ変わっていない、かつキリストの十字架の言葉を信じていない、世の人と何も変わらない状態を指す。肉の人という言葉を3節で用いているが、ただの人という言葉は、肉に属する人という1節の運用に近い。即ち、「お前は本当に生まれ変わっているのか?」という、尋ねられた本人の信仰と受洗、悔い改めの根幹を疑う質問である。だから指導者は、不用意にこのような質問を、指導する人に大して行ってはならない。しかし、パウロはそれを承知の上で、敢えてコリントの人々を恥じ入らせるために、このような言葉遣いをしているように見える。
〇何なのでしょう
関係代名詞(ギ:チ)の中性動詞を用いて、「何」と表している。英語でいうならWhatである。
誰(Who)、ではなく、何(What)、と言っている事は意外と重要である。
何故パウロはこのような言葉遣いを行ったのだろうか。それはコリント教会の党派争いの根底にあったのが、前任教師と後任教師の時代ごとの断裂だったからである。「パウロの時代は良かったがアポロの時代はよくない」「アポロの時代は良かったが、前のパウロはダメだった」と、これが党派争いの根源にあるものなのである。
だからパウロは、自身やアポロの人柄や人物的価値ではなく、神様の前の役割に注目してこの表現を採用したようだ。それは正に、「パウロの時代とアポロの時代とどちらの働きの方が偉大で重要であったか」を議論していたコリント教会の人々へのあてこすりそのものであったかもしれないし、ただ単純に与えられた役割の大きさで働き人に優劣をつけてはならないという意味で、役割を強調していただけかもしれない。
いずれにせよ、パウロにも、アポロにもその職務の身分に差異は無く、「ただ自分達は二人とも、神様から言われた事を言われた通りにやっただけだから、その働きに優劣をつけて言い争うのはナンセンスである」と、パウロは人々に対して主張したかったようである。パウロが手紙を記述した場にアポロは居なかったが、恐らく彼も同席していたならば、同じことを口にしたはずである。
何故働き人の働きに優劣がつかないのだろうか。それはパウロが後の項目で言っている通りに、パウロやアポロの働きも含めて、それら全体を用いて教会成長の指揮を執られては、他でもない神御自身だからである。だから働き人が変わったからと言って、教会の一貫性や連続性が損なわれることはないのである。どちらの方が失格で、どちらの方が合格か、などということは起こりえない。全ては神の御業の御手の内だからである。
料理に用いる包丁が途中で変わったからと言って、メニューがカレーからハンバーグに変わるだろうか。中華鍋からホーロー鍋にかわったかといって、酢豚がホワイトシチューに変わるだろうか。道具が変わろうが、多少材料が入れ替わろうが、料理人は一貫して作ろうと思った一つのメニューをつくるのである。同じように、道具が切り替わったところで、神の御計画の連続性は決して損なわれない。
現代の教会でも、今の先生になってから教会は変わったとか、良くなったとか、そのような評価が口にされる事もあるが、それは牧師批判ではなく、神の御手の業への批判となるということは、各々心に留めておくべきであろう。ダビデが、王に選ばれたサウロがどれほど乱心しても手にかけなかったように、働き人は神の御手の中で、その計画に従って役割を果たすのである。そのような文脈では、アポロも、パウロも、神に使われる働き人という点ではまったく大差がないと言えるだろう。
〇私が植えて、アポロが水をそそぎました。
パウロはここで、教会成長における自身とアポロの役割を、農作業に例えている。植えるとは、勿論教会を開拓することであり、水を灌ぐとは開拓された教会を成長させたという意味であろう。開拓期と拡大期、二人の指導者の時代について互いに言い争い、妬みあうのは正に愚かな事である。
開拓したところで教会が上手くいく保証などなく、卓越した説教で教会を養い拡大しようとしたところで、教会び拡大と成長が保証されるわけではない(実際に拡大はしても霊的な成長はしていない)。同じように世話をしても、植物が同じように育つわけではないことように(それ故に間引きという作業がある)、結局のところ、本当に大切な働きを担われているのは全て神であることをパウロは言わんとしているのである。
また、パウロもアポロも、成長させてくださる神に仕えているという意味では、一つのチームであると言える。働き人は個人個人で手柄を競って競争している訳ではない。同労者なのであるか、協力して一つの目標を目指しているのである。その一つの目標を与えているのは、他ならぬ神なのであるから、究極的には、植えているのも、水を注いでいるのも、成長させているのも全て神の御業なのである。働き人はその神の御業が成就するために用いられたことを喜びこそすれ、他と争いあっていては意味が無いのである。
〇成長させたのは神です
成長させた(ギ:エウクサネン)は、能動相未完了過去で表されている動詞である。
未完了過去は、過去に始まり、今現在も続いている動詞に対して用いられる形である。パウロとアポロの働きがアオリスト(既に終わった動詞)で表されているのに対し、神の御業は今現在でも尚続いている。働き人が行う働きなど一瞬の事に過ぎないが、神の御手による宣教の働きは、キリストによる贖いの御業が全て成就するその日まで決して止まる事が無いのである。神の御手の業に比べれば、人間の働きが如何に矮小であるか、その動詞の扱い一つによっても差は歴然としていると言えるだろう。
また、それら教会成長を主題にあげるなかで、パウロは信徒それぞれの、「幼子から」「霊の人」へ成長する為の信仰成長についても同時に論じている。説教者が何を語ろうが、それを用いて各々の信仰を成長させるのは神である。だから、それぞれの信仰について互いに批判し合い、競争し、また誇ることは何の意味も無い事である。
(だと言うならば、信仰を成長させるのは神なのであるから、霊的な幼子のままでいるコリント教会の人々の成長の遅さについても批判される云われは無いのではないか、と考えることも出来るかもしれないが、彼らが
〇労苦に応じて自分の報酬を受けるのです
なになのでしょうの項目で、パウロもアポロも、働き人としての価値は皆無であるかのような語り方が行われたが、厳密にはそれは違う。パウロもアポロも、その働きには確かな価値はあるが、しかし、成長させて下さる神の御手の業に比べれば大したことがないという意味であって、働き人の働きに価値がないと断ずるのは間違いなのである。
もちろん、神の働きに比べれば、人間の働きは大したことが無いのは勿論その通りである。しかし、他でもない神御自身は、働き人の働きを決して過小評価せずに、その働きに応じて正当な対価を与えてくださるのである。
神は、それぞれの働き人の働きに応じて、惜しみなく素晴らしい報酬を様々に与えられる。その報酬がいくらになるのかは神が決められることであるので、他の人と自分の働きについて比べること自体がナンセンスである。
神の評価基準は、「自分に与えられた労苦に応じて」であり「他の人より役に立ったかどうか」ではない。五タラント人の働きと、二タラントの人の働きを、主人が同じように褒めたように、神は働きの量ではなく、自分の職務に忠実であったかどうかで、その報酬を計られる(マタイ25章19-23節)。そして、その報酬は、「小さなもの(十の金貨袋)に忠実であったから、十の街を支配させる」と主人が口にした通り、その見返りは非常に大きいのである(ルカ19章12-19節)。
〇神の同労者
同労者(ギ:スネルゴイ)は、仲間、協力者、ヘルパーといった意味を持つ単語であり、パウロもアポロも、コリント教会の人々も、全てがそれであるのだとパウロは締めくくっている。その役割に差はある。パウロが上、アポロが水を撒くならば、コリント教会の人々は建物であり、また畑である。そこには働き人と、働き人が用いる道具、また仕事場という差はあれば、それらの全ての持ち主が神であるという事、また神がそれらを使って自分の目的を果たそうとするならば、等しく人も道具も土地も、主人に利益をもたらす良い持ち物なのである。
そのような視点で見る限り、全ての物に差異はない。例えは悪いが、実際に働く農奴の人足より、古代は畑を耕す機械鋤のほうが何倍も価値があることもあった。使用人も、道具も、土地も、何もかもが組み合わさって、主人に利益をもたらすのであって、どれが欠けても主人の目的を果たす事は出来ない。
それ故に、党派争いなどは愚の骨頂なのであり、これを理解する所に霊的な成長、即ち御霊に属する霊的な大人が形成されるのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇貴方達が霊的な目を持たないので
1a 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができませんでした。
1b だから、肉に属す人、キリストにある幼子に対するように語りました。
2a 私はあなたがたには(霊的な意味での)乳をを飲ませ、(霊的な意味での)固い食物を与えませんでした。
2b (その時のあなたがたは)まだ(霊的な堅い食物を食べる事は)無理だったからです。
2c 実は、今でもまだ(それは)無理なのです。
3a (なぜなら)あなたがたは、まだ(霊的に見れば)肉の人だからです。
3b あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
3c (なぜなら)あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、
4a (たとえば)ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っています。
4b (その時点で)あなたがたは、ただの人ではありませんか。
〇霊的な奉仕者について
5a アポロとは(主の前に一体)何(もの)なのでしょう。
5b パウロとは(主の前に一体)何(もの)なのでしょう。
5c (この者たちは)あなたがたが信じる為に用いられた奉仕者です。
5d (だから)主がそれぞれに与えられた(役割)とおりのことをした(だけの働き人な)のです。
6a (具体的には、この教会を霊的に成長させる為に、)私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。
6b しかし、(実際に教会を)成長させたのは神です。
7a ですから、大切なのは、(パウロのように)植える者でも、(アポロのように)水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。
8a 植える者も、水を灌ぐものは、(主に仕える働き人として)一つになって働きます。
8b (そして)それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
9a 私たちは神の為に働く同労者です。
9b あなたがたは神の畑、神の建物です。
(だから神の前に、人間として崇められる要素は何もないのです)
着情報3.メッセージ
『神の御手の業』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 3章1〜9節
中心聖句:『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。』(Tコリント人への手紙3章6節) 2022年9月25日(日) 主日礼拝説教
パウロは、十字架のことばを信じた人は、御霊によって物事の分別がつくと説明しましたが、実際にそれが出来るコリント教会の信徒は一人も居ませんでした。そこでパウロは、まず彼らの肉的な言い争いをやめさせる為に、神様の御手の業について教えようとします。
私たちは十字架のことばを信じた時に、神の御霊である聖霊様を与えて頂けます。これによって私たちは、全ての物事について、神様の御心に従って正しく判断することが出来るようになります。これが御霊に属する人です。しかし、コリント教会の人々は、肉体の欲に振り回されて、神様の御心を全く理解しようとしていませんでした。これでは十字架のことばを信じていない人と何も変わらず、生まれ変わった意味が何もありません。それ故、パウロは彼らを肉の人と呼びました。もしコリント教会の人々が御霊に属する人ならば、私たちが互いの優劣を競い合うことが、如何に愚かであるか説明できるはずです。しかし、実際には創始者のパウロと、拡大の立役者であるアポロのどちらが偉いかを言い争っていたのですから、やはり彼らは、肉に属する人となにも変わらず、霊的な判断が何も出来ない人々なのでした。
霊的な言葉や分別のつかない人達に、分派の愚かさを説いたところで、理解できるはずがありません。それ故パウロは、コリント教会の人々の言い争いを辞めさせる為、働き人の功績を比べる事の愚かさを、子供に言い聞かせるように説明し始めました。パウロは、自分やアポロを植物の世話人に例えました。しかし、世話人がどのように世話をしたところで、植物はいつも思い通りに成長する訳ではありません。植物が成長するかどうかご存じなのは他でもない、この天地を造られた神様であるのと同じように、働き人の労を用いて教会を成長させて下さるのもまた、神様の御手の業です。神様に用いられるという意味では、働き人の業はどれも同じものであって、比べるようなものではありません。そのような意味で、パウロもアポロも、等しく神様に用いられる道具の一つであって、コリント教会の人々もまた、神の畑、神の建物として、主の御手の業に用いられる道具の一つです。実際に商売や運営を行うのが、店員でも設備でも商品でもなく、それらを取り扱う店主であるように、私たち一人びとりを用いて宣教を進めるのも神様です。そして、良い店主が従業員や商売道具をとても大切にするように、神様もまた、御手の業の道具である私たちをとても大切に取り扱い、その働きに応じて、一人びとりに大きな報酬を約束して下さり、また永遠の命をも与えて下さるのです。
神様は、私たちを比べるのではなく、それぞれが自分の役目にいかに忠実であったかで判断してくださり、その働きに応じた素晴らしい報酬を与えて下さいます(ルカ19章12-19節)。だから、私たちは競いあう必要がないのです。それをパウロは、コリント信徒の人々に教えようとしました。同じように私たちも互いに協力し合い、それぞれ与えられた役割をこなしながら、その労に応じた神様からの大きな報酬を、共に喜んで受け取ろうではありませんか。
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