1.時代背景、舞台、文脈背景
1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
十字架のことばによる宣教には、一切の知恵も補足も必要がない事は、5節までで明らかにされたことである。しかし、パウロは知恵そのものを非難し、知恵を捨てろと言っている訳ではない。その証拠に、パウロは、自らの手紙の中ではありとあらゆる理論を用いて、神の御心が何であるかを語っている。ヘブル人の手紙(が、パウロの書簡であるかは諸説あるが)の中でも、それは「手短にかいた(ヘブル13章22節)」と書かれており、明らかに難しいことが書かれているにも関わらず、パウロは自分が知恵を用いたことを意識していない。
パウロが言っているのは、「この世の様々な知恵を拠り所にして全ての物事を判断すること」を非難しているのであって、物事の理解の糧として知恵を用いる事そのものを非難しているわけではないのである。
しかし、そのような理解の糧としての知恵もまた、私たちの内に与えられた聖霊による霊的な視点と神からの知恵を理解した上で用いられるからこそ尊いのであるから、この世の知恵だけで霊的な事柄を説明しようとする行為もまた、パウロにとっては非難の的になると考えられる。
何にせよ、本当に重んずべき、神からの知恵について、パウロは一切否定的な言葉を口にしていない。
むしろ、この神からの知恵によって私たちが自身の魂を取り扱うことを、パウロは正しい行為であると主張しているのである。この説明の為に、パウロは「成熟した人たち」と「この世の支配者」という二つの単語を出して対比を行っている。例え最上位の者であったとしても、この世の知恵は、神からの知恵を軽んずるし、逆にこの世の知恵の外側で、福音を受け入れた人々は神の知恵を語るのである。
神の知恵について、「成熟した人達」が各々語り合う事ができるのは、その霊によって神の御心を知り、神の知恵の趣旨を理解しているからに他ならない。人間相手ですらその心の内側を覗き込見ることなど出来ないのに、何故人間は神の心の内を理解する事が出来るのだろうか。この究極の問いかけに対し、パウロは、「私達の心の内側には神の霊がある」と説明している。
ちなみに、パウロは、自身を含めたクリスチャン全体をさして「私たち」と言っている事も覚えて置くと良い。
キリストの十字架を信じる一人一人に、神は自らの心の内側を開示する。心の内側を覗き見る事が出来るように、神は自らの霊を私達の心の内側に置き、私たちと心の内、即ち御心を共有して下さっているのである。
それ故、心の内側に霊を受けている者は、皆神の御心を知り、それによって神の知恵について語り合い、また理解することができる。しかし、キリストの十字架を受けない者はその限りではない為、どれほど高尚な知恵を積み上げて物を語ろうが、神の知恵を理解することは永遠に出来ず、かつその論拠は空虚で的外れなものとなりつづけるのである。パウロは「この世の過ぎ去っていく者たち」という言葉を用いて、この世の支配者が持つ最も高貴な知恵や権力ですら、神の知恵の御業に対して何の影響を及ぼすことも出来ないと、その無力さがはっきりと宣言されている。
〇成熟した人たち(6節)
成熟した人たち(ギ:テレイオイス)という言葉を用いて、神の知恵を扱う人びとについてパウロが言及している。古来より、この成熟とは何かについては様々に議論が行われてきた。コンツェルマンはこれについて、「一段上のクラスの信仰者」の事であるという見解を見せている。このことは、三章から登場する信仰の幼子の議論と併せると適切な解釈であるように見える。しかし、パウロを含め、新約聖書の記者達が、クリスチャンの「等級分け」のような作業を行っていないことから、この事は適切とは言えないように思える。パウロが対比しているのは、あくまで十字架のことばを受け入れた者と、受け入れない者との対比である。信仰に入って、一人前になった人々というニュアンスは多少あったかもしれないにしろ、「成熟した人」という言葉は、キリストの十字架によって救われた人々の事を指していると考えるのが妥当であろう。クリスチャンの中での大人や幼子といった議論とは、区別して考えるべきである。
〇この世の知恵、支配者たちの知恵(6-8節)
この世の支配者たち(ギ:アルコントン)という語は、そのまま、支配者を意味する。この支配者たちについても、これが悪魔や悪霊という霊的な存在を指していると考える人々は少なくないようだ。しかし、成熟した人というついになる言葉があることや、新約聖書の中には、悪霊(サタン)がキリストを十字架につけたという思想が存在しないことなどから、この世の支配者とは人間であると考えた方が、文脈上自然であるように見える。事実、キリストを十字架につけたのは、ピラトであり、祭司長、長老、律法学者だからである。だから、わざわざ支配者という言葉を用いたのは、キリストの十字架のことばを受けない「部外者」の中でも、特別に力をもった人々を指す為にであろう。部外者が如何に人間の力を持っていても、神の知恵を知る事の出来ない彼らは、「真の知恵に辿り着けない」。この事実をもって、この世的な力に頼る全ての肉的な部外者と、十字架のことばを信じた全ての霊的な人の区別を行おうとしたのである。
これらのこの世の知恵とは、占星術や魔術などのオカルト的な「知恵」に加えて、数学、文法、詩学、音楽、そしておそらくは医学も含め、あらゆる人間の考えた学術について言及していると考えられる。つまり、この世的などのような知識、教養などの知恵や知識をもっていようがなかろうが、キリストの言葉を信じない部外者は、部外者であり、どんな愚者も賢者も等しく神の知恵に触れる事は出来ないのである。
そして、彼ら部外者は、皆一致して、神の知恵を嘲笑い、排除する方向で動く。その反応については、賢者も愚者も変わることは無い。真の知恵に気づき、神の前に首を垂れる者は誰もいない。
また、過ぎ去っていく(ギ:カタルゴウメノン)という単語は、効果をなくす、無効にする、廃止する、解放する、切断する、分離するなどというニュアンスをもったものであり、支配者という言葉と結び付ける事によって、彼ら知者や賢者が如何に知恵や知識を身につけようが、どのような偉業を成し遂げようが、神の御業と霊と知恵に対しては何の影響力も及ぼすことが出来ないことも強調されている。
事実、どのような知者も賢者も権力者も、キリストを十字架につけるという罪の深刻さを理解せず、強制的にでも止めようと試みた者は一人も居なかったのである(使徒行伝3章17節)。それは現代に於いても同じ事であろう。
〇神の知恵(6-9節)
しかし(ギ:アッラ)という反意の協調接続が7節に置かれている。7節では、新改訳2017聖書ではこの言葉は訳されていないようである。神の知恵の中の奥義は、隠されいるものであって、それこそを、成熟した人たちは語る。これらは、神の手によって隠されているので、それが啓示されない限りは誰も辿り着く事の出来ない奥義である。
それ故に、この世のどんな知恵を用いたとしても、この世の支配者たちはこの議論にすらたどり着く事が出来ない。しかし、既に十字架のことばを受け入れた人々にはこれが啓示されているので、彼らはこの事について、まるで当たり前の事であるかのように活き活きと語り合うのである。
ホルンカムによれば、これは「世からは隠されているが、霊の人には啓示されている、時の始まる前からの神の御計画」についてのことであるとされている。人間は自分の知恵では、この深い神の知恵や計画を知る事はできないが、それにも関わらず、神は十字架のことばを信じるひとりひとりに、それについて語り合う事が出来る程に、様々な事を啓示し、理解できるようにしてくださるのである。
しかし、これらの奥義(ギ:ムステーリオン)は、福音として広く人々に宣べ伝えられているにも関わらず、それをもってしても尚、全ての人に対して開示された訳ではなく、未だ隠されたままである。何故なら招かれていない者、召されていない者には、露骨に真理が開示されたとしても、それを見て、聞くことが許されていないからである。7節の隠された(ギ:アポケククルームメネン)は、現在完了で書かれている。これは「今までもそうだったし、今に至ってもそうである」事を示す時制の書き方である。即ち、神は今も尚、この神の知恵については隠されたままであるが、キリストの十字架のことばを信じた人々は、隠されたままの神の知恵の奥義が、隠されたままで全て開示ことになるのである。それ故に、キリストの十字架のことばは、未だに隠されたままであり、全ての人に開示されているという両方の側面を持ったままこの世界に、宣教という愚かな手段をもって宣べ伝えられるのである。
また、パウロは、この知恵、即ち福音の計画が、この世の始まる前から神によって計画されていたことを明らかにする。キリストの十字架や福音の御業は、後付けで付け焼刃用に行われたものではなく、初めからそうされることが既に決まっていたのである。
当然ながら、そのように神からの啓示に依らなければ知ることの出来ない、かねてからの計画を、この世の支配者たちが知ることは出来ない。もし彼らがこの事について知っていたならば、キリストを十字架にかけるなどという、最も罪深い役割を引き受けることなどありえなかったであろう。しかし、キリストの十字架は確かに、福音を理解しない人々によって執行され、キリストは私達の罪の罰の身代わりとなって死んでくださったのである。
その隠されたままの神の知恵の奥義が、十字架のことばを信じた私たちにのみ啓示されることは、9節でイザヤ書64章4節や52章15節等から自由引用されている通り、神様が愛する者達に、今まで誰も見たことも聞いたことも無かったような自らの知恵を教え、備えて下さるという聖書の御言葉の約束が実現する為である。恐らくこの事については、実際にキリストを信じている者たちにとって、言われるまでも無く明確なことであろうと思われる。私たちは、この十字架のことばが嘘でも無ければ、幻でもないことを、神の御手の業を目撃したことによっても、自らの信仰体験を通しても知っているからである。逆に、何の体験もしておらず、霊も肉のままである信じない人々に、それを伝えることは出来ない。どのように知恵をつくして説明しようと試みても、結局は十字架のことばは愚かなことであると信じてもらえないからである。それは、何も神を知らない、ユダヤ人以外の外国人達だけではない。イスラエルの宗教指導者であった、祭司長、律法学者、長老達もそうであった。主イエスが、あらゆることばを尽くしても彼らは十字架のことばを受け入れなかった。彼らは最後の最後まで、神の奥義について知る事は無かったのである。
では、そのように召される者、召されない者の差は一体どこで出るのだろうか。パウロはこの奥義について「神を愛する者」という単語を用いた。元のイザヤの御言葉では、これは「神を待ち望む者」なのであるが、パウロの語る今この時に於いては、待ち望んだ神は既に訪れた後であるので、訪れたその神を愛する者に、神は召しを与えて招かれるのである。逆に言えば、召されたクリスチャン達はこのことを自覚して、神を愛する者として、意識的にふるまうべきでもある。どのような経緯であれ、そして今がどのような状態であれ、私達は「神を愛する者」としての資質を見抜かれて神に招かれたのである。それ故に、キリストの十字架を信じて救われた全ての者は、「神を愛する者」に到達する見込みがあるのである。だから、今が例えそうでなくても、私達はそうあるように目指さなければならない。その為に、私達は常に御霊の聖めを求めなければならないし、パウロも「幼子」の理論を後に展開することによって、コリントの人々に対してそこを目指すようにとチャレンジを暗に与えているのである。
〇栄光の主(8節)
栄光の主とは、「その属性の本質が栄光であられる我らの王」という意味で、大変に希な、キリストの尊い特別な呼び名である。この呼び名が用いられているのは、聖書の中でもこことヤコブの手紙2章1節だけである。他に、この「栄光(ギ:ドクセース)」が用いられているのは、全て天の父なる神に纏わる部分のみである(使徒7章2節、エペソ1章17節)ので、暗に子なる神という意味でもこの称号は用いられているようである。これらの表現を通して、パウロやヤコブなどの使徒や指導者たちが、キリストを最高の栄誉を持って取り扱い、また神の子、子なる神、三位一体の神と同一の存在と考えて居たことが伺える。
〇啓示(7-10節)
啓示(ギ:アポカリュープスセン)とは、覆いを外すという意味から転じて、明らかにする、発見する、などという意味があるが、神が明らかにするという意味合いで、「啓示」という日本語に翻訳される。即ち、私達に対してこれを明らかにしている主体は神に在り、私達人間がこの啓示に対して積極的に何かを行う事は出来ない。即ち、神が明らかにして教えて下さる事に対して、私たちが互いに誇りあうような要素は何一つない。信仰者は、神が明らかにして下さることに対して、自分が特殊な洞察力をもっているとか、能力をもって御言葉を読んでいるとか、そのようなことを主張することは許されないのである。御言葉を取り次ぐものの説教の良し悪しは、決して人間的な能力によって定まる者ではないし、聖書の読み方が深いか浅いかなどと言う問題も、人間の知恵や特殊な力によって起こる者ではない。そこには、神がどこまで教え、明らかにしてくださるかという状況がただ提示されるだけである。それ故、使徒や特別な者ではない、全クリスチャンに対してこの啓示は等しく恵みとして与えられるのである(それを全てのクリスチャンが受け取ろうとする意思をみせるかどうかは別であるが)。
〇御霊によって(10-11節)
御霊とは、即ち私たちそれぞれに与えられている聖霊を意味する。十字架のことばを信じて救いに入れるのも、そのあと私たちを取り扱って霊的に成長させ、聖めをおこなうのもこの聖霊による。この聖霊は、私たちが神の召しによって救いに入れられる時、必ずひとりひとりに与えられるもので、キリストを主と信じながら、この御霊を受けていない人間は一人も存在しない。御霊に依らなければ、誰もイエスを主と呼ぶことは出来ないと、後に開示されるとおりである(Tコリント12章2節)。
この御霊は、三位一体の神である聖霊であり、それは即ちこの天地を造られた神、本人であるという事も出来る。本人の霊が私たちの内側にあるので、私たちはその心の内のどこまで深い部分について知る事が出来る。本人が語らなけば、それはどこまで行っても推測に過ぎないが、御霊は本人であるが故に、私たちに対して真実を啓示するのである。この御霊に依らなければ、私たちは何者であろうとも、神の姿をそとまきに見る事しかできない(実際、それすらも困難であるが)。神の内側にある御心を知る手段は、この御霊による手段以外に何もないのだ。
ちなみに深み(ギ:バソス)という言葉が敢えて使われているのは、テアテラ教会の偽預言者イセベルの「神の深みを知る」と得意になっている異端的郷里への皮肉でもあると考えられる。実際、黙示録では「サタンの深み」という強調句にこの単語が用いられている(黙示録2章24節)。異端者ごときには神の深みなど何も知る術は無いが、聖霊だけは、本物の神の霊であるが故に、その「深み」までも知り、かつ私達一人びとりに証して下さるのである。
〇この世の霊(12節)
「この世の霊とは、竜、悪魔とか、古い蛇とか呼ばれる空中の権威を持つ支配者(エペソ2章2節)に属する霊、即ちサタンのことである」と考える者もいるが、文脈を見れば、パウロはもっと単純に、この世界の中で生きる人間の事を指して語っているようである。
どちらかと言えば、「神の外側」を指して「この世」と呼んでいるのであろう。神の外側に生まれた霊ではなく、神の内側にある神ご自身の霊を受けていると読み解くのが文脈的にも正解であろう。
〇神からの霊(12-13節)
私たちは、神の内側にある霊によって、神の心の内側を直接覗き見る事ができるので、神の行っている全ての御手の業が、私たちに対する善意であり、恵みとして与えられていることを知るのである。
相手が何を思ってそれを行っているのかは、そのものに直接理由を聞くのが一番手っ取り早いのは、私たちの日常生活でも同じである。しかし、その者の語る「真相」が、真実であるか否かについては確かめるすべがないので類推するしかない。
しかし、私達は神の霊を持っていて、その心の内側を覗き見る事ができるのであるから、その善意の真偽については調べる必要すらないのである。
そのような意味で私たちは、神の御心の内側についての話題を共有する為に、神の御心を覗き見ることの出来る霊を用いるのである。観測した事象が事実であることを確認する為には、互いに同じ方法でその物事を観測するのが一番確実である。互いに交互に顕微鏡をのぞけば、自分の見た物を相手に説明する手間は省けるし、また誤解や真偽の検証といった面倒な作業も全て不要となる。
逆に言えば、御霊によって互いに主の御心を観測する以外に、神の内側について、それが事実であると共有する方法はないのである。例えば、ある人間の言動と思っている事が一致していると、一人のエスパーが保証したところで、周囲の普通の人間にはそれが真実であるかを確かめる術はない。
確実なのはその場にいる全員がエスパーになって、相手の心の内を覗き込む事であるが、普通の大人がそのような説明を受ければ、あまりのナンセンスさに性質の悪い冗談としてその説明を受け取ることであろう。
しかし、神の霊はそれを可能にする。一人一人が、自分の目で神の御心を確認することが出来るので、その霊の証言を通して、私達は神の御心について互いに語り合い、共有し、確認することが出来るようにされるのである。だからこそ、私たちは御霊によって知った情報によって、神の心の内側のことを互いに説明、共有し、もっと深い部分についての洞察を、互いに共有しながら深める事もできるのである。
また、それらの恵みが与えられている趣旨についても決して見過ごしてはならない。この霊は、私達が恵みを悟る為に、即ち、イエス・キリストの受肉、十字架、復活という出来事の意味を悟って理解し、かつ、自身に当てはめて考え、どのように関係があるのかについて適用することが出来るようにと与えられている霊である。つまり、御霊による啓示とは主観的、内的に自身に働きかける神の御心とその恵みを悟る為に存在する。それ故に、この霊による証はどこまでも体験的で私的であり、互いの経験を交えながらでなければこれについて語り合う事も出来ないのである。
〇それについて語る、御霊のことを説明する(13節)
語る(ギ:レゴウメン)は、12節に書き出されている神の恵み全般についてかかっている。私たちが神の恵みについて語るには、神の霊と、神の霊による御言葉が必要であるという文脈になる。また、このレゴウメンは「語らせもする」というニュアンスも含む。神の霊は私たちに、神の恵みについて、他の人々に証しをたてさせようとも働かれる。その際に、神のことばと結び付けて、人々に対して証をたてさせるのである。それは、決して人間の知恵によるものではなく、御霊によって与えられる表現に基づいて話されなければならない。証を相手に聞かせようと、様々な言い回しを考えているうちに、私たちの証は、神のことばではなく、人間の知恵によって話されることになってしまう。パウロがマケドニアとコリントで語った「キリストの十字架のことば」が、余計な装飾をはがされるごとに強力になっていったのは、このあたりに理由があるように思われる。
また、説明する(ギ:スンクリノンテース)は、説明する、比較する、解釈する、説明するという意味合いを持つ。この動詞は、ここでは分詞の主格・男性・複数であらわされているので、男性系として用いられている。この動詞が中性で用いられているならば、云わば普通の会話や通信を意味するのであるが、男性系が用いられている場合、霊的な人、霊的な言葉など、形のあるものに結び付けて考えるというニュアンスを含む事になる。それ故に、新改訳2017では、「霊的なことばによって」という訳し方がされているようである。これは即ち、私達は霊的な事柄を解釈する際に、自らに与えられた聖霊を通して、既に与えられて居ることば、即ち聖書の御言葉に照らし合わせながら、互いに説明を行うという意味になる。
以上のことから、語る、また説明するの両者の単語や文脈の特質によって、私達は自身に起こった霊的な事柄を証ししたり、自らが主に導かれて何かを行うときに、その説明の為に聖書の御言葉を用いなければならないことを知ることが出来る。証しや献身、受洗など、特別な事の折に、必ず御言葉が要求される習わしの意味はここにある。私たちは霊的な事柄を見る際に、決して自身の感覚だけで無作為に話してはならない。それは御言葉に結び付けられることによって、はじめて確実性を持ち、本当の意味での霊的な事柄を語り、説明することにつながるのである。
勿論、ただ御言葉を並べ立てて話せばそれで良いという安直な話でもない。証者は、御霊によって与えられる全てによって証を行うのである。即ち、御霊によって聖められた姿と、御霊によって恵みを知った喜びの態度と、御霊によって知り得た素晴らしい神の知恵、即ち福音の恵みと、御霊によって常に味わい続けている神と歩む喜びによって、私達はキリストの十字架のことば、また神の御霊の霊的な事柄を人に証するのである。十字架のことばには力があるが、その力に、より大きな力を増し加えるのは、神の御霊によって齎される神の知恵なのである。
しかし、自身に恵まれたこの事柄について説明する為に、何故、私たちはここまで苦労するのであろうか。この世の習わしならば、自身の受けた恩については教えられるまでも無く明白であり、自身に「御利益」があったことを理解するのに知識など必要ない筈である。また、人に対して、自身に受けた「御利益」を説明する際に、神のみことばと結び合わせる必要などどこにあるのだろうか。
それは、神が私達に求められる「交わり」にこそ理由がある。確かに「御利益があった」こと、また自身にメリットがあった事だけをよろこんで終わりならば、私達に神の霊は必要ないかもしれない。しかし、神の御恵みを受ける私たちには、その御心についての理解が必要である。何故なら、神はただ恵みを与えるだけでなく、その先に私たちとの深い交わりを求められるからである(イザヤ43章1-4節)。それ故、神の御恵みを理解する為には、神の霊による証が必要である。ただ利益を得たからそれで終わりと言うのは、私たちの自己中心的な考え方であって、神を蔑ろにする行為となる。私たちは神の御心を十分に理解し、神がどのように私たちを生かそうとされてそのような恵みを与えて下さったのか、またその愛によって自分が受けている大いなる恵みは一体何なのかを悟って、感謝しなければならないのである。
〇生まれながらの人間
生まれながら(ギ:プスイコス)とは、動物的、自然的、本能的というニュアンスを含む言葉であり、生まれながらの人間とは、即ち生まれてからそのままの姿の人という意味がある。肉なる人などと表現される場合もあるが、このところの表現については、生まれながらとは決してネガティブな意味合いを含んでいる訳ではない。ただ単純に、霊的に生まれ変わっていないということだけを指し示すものである。
また、厳密には、生まれながらの人も、霊の資質は持っている。この霊は人間にしか与えられていないものであり、人間だけが霊的な事柄について目を開かれているのである。しかし、生まれながらの人に与えられている霊は、あくまで肉体の付属物であり、肉体が主であり、それに逆らう事が出来ない。霊によって肉を従えるという所業を行う事は、生まれながらの霊には決して行う事が出来ないのである。
また、この世界に生まれた物は、霊によってもこの世界の中の霊的な事柄や理にしか目を向ける事が出来ないので、この世の外側に位置する、生ける神の霊的な事柄を決して受け入れる事が出来ないと、聖書は主張している。
少なくとも、生まれながらの人は、神の御霊の霊を持っていないので、人が人の心を覗き見ることが出来ないように、神の御心の内側を知る術は持ちえない。当たり前の事ながら、それを立証する術もないので、「自称知っている者」から、神の御心を教えられたところで受け入れることができないのである。それは旧約聖書の預言者達の言葉を決して聞き入れなかったユダヤ人の特性からもわかるとおりである。だから、まだ水と神の霊によって生まれ変わっていない人に対して、霊的な事柄を説明し、理解させ、受け入れてもらおうとする試みはことごとく失敗に終わるのである。
また、余談ではあるが、クリスチャンになったかといって、この生まれながらの特質が抜けるわけではない。魂は肉に従わなくなったが、その魂は依然、肉を用いて活動しなければならないのである。魂は神に従うが、肉は神には従わない。それ故に、魂と肉体は常に戦い続けなければならず、生まれ変わったはずの霊が肉に負ける事は往々にしてあるのである。これによって、次の項目の「正しい判断」を、クリスチャンが実行し続ける事が出来ないという矛盾が生じる。クリスチャンは、御心に従い続ける限り間違えることがないが、肉がそれを邪魔するので、本当にするべきことと真逆のことを行ってしまうことは往々にあるのである。また、その特性はパウロ自身をも大いに悩ませることとなった(ローマ7章15-25節)。
〇全ての事を判断し、誰によっても判断されない
主の御霊を受けた人は、霊的に生まれ変わるので(ヨハネ3章1-14節)、全ての物事について、霊的なものの見方を行うことが出来るようになり、正しい判断を下せるようになる。判断(ギ:アナキリネイ)は、調べる、調査する、判断する、弁えるといった意味合いがある。それは、全ての判断に於いて失敗しなくなるという意味ではなく(実際にクリスチャンは、生まれ変わった後も多くの失敗を行うので、常に悔い改め続ける必要がある)、主の霊が心の内側にいるので、目の前の事に対して、主が何を思われるのかをうかがい知ることが出来ると言う意味である。主の御心の沿う時、私達は何が正しいかを知る事ができる。何故なら、主の御心以上に正しいことはこの世界にはないからである。
この世界に、神の御心以上に正しい価値の判断基準など存在するはずもないのだから、私たちが主の御心にそって行動する限り、私達の行動の是非を判断するものが現れる筈もない。従って、私達は(理論上は)常に正しい事を行う事ができるようになる(筈な)のである(まぁ、実際にそれが出来てないのは、歴史と現代の教会の中をみれば一目瞭然ではあるのだが。それは正しい事を知る事が出来ないからではなく、知った上でわざと逆らっているのだから余計に性質が悪いことは言うまでもない。十字軍、宣教による征服。大抵キリスト教徒は歴史の中でろくでもない事を行っている。そのような人間の性質の悪さが、常にキリストの御名を穢し続ける。人間は正しい事が何であるか知っていても、その通りに実行することができない。そこに人間の罪の本質があるのである)。
ちなみに、この事は全てのことと書かれている以上、霊的な事柄だけでなく、この世におけるトラブルや問題、その他のあらゆることについて、御霊を受けた人は判断する事が出来る。この天地を造られた父なる神は生きておられ、この世界の全てにその主権は及ぶのであるから、私達に日常生活のトラブルから、霊的で高尚な問題に至るまで、ありとあらゆるところで、「主の御心」は正しい判断を私達に与えるのである。
〇誰が主の助言者足りえるか
私達が、何者にも判断されないという根拠はこの聖書の引用によって証明される。イザヤ書40章13節からの引用である。この世界の誰が、生きておられる神の御心を全て読みつくしたうえで、それを審議し、かつ生ける神よりも賢明な判断を降して、神に助言することが出来るだろうか。
主なる神と同じ判断に至らない限り、私達はこの世界に於いて決して「正しい」と評価できるような判断を下すことは出来ないのである。
しかし、私達は神の御霊をこの心の内に受けており、この世の知恵や知識によってではなく、「神がそう判断しておられる」ということを知る事が出来る。それが例え、意味も解らずに親の言う事に従っているだけの子供のようであったとしても、やはり、御霊によって御心を知り、それを間違いなく実行する限り、私達の行う事の「正しさ」は保証され、担保されるのである。それ故、私たちは、肉によって生きるあらゆる人の言葉に動揺する必要がない。答えは既に目の前にあり、誰が何と言おうと、それが神からの言葉である限りはそれが正しいという前提によって、行動することが出来るからである。
これは決して、律法によって紋切り型に、ルールを守るように生きるような画一的な「正しさ」とは全く異なる生き方である。主の御心は常にその場に臨在されており、私たちはどのような時も、寧ろ画一的な「ルール(律法)」に縛られる事無く、安息日の主であるキリストの心によって全てを判断することができるのである。
〇キリストの心
イザヤ40章13節は、父なる神の御心について言及しているが、パウロはキリストの心と言及している。それは、既にこの世界を裁く権限が、父なる方ではなく、キリストに移譲されていることを受けての発言である(マタイ28章18節)。
人間的な弱さを知り、父なる神の御心を知る手段を持ちながらも、それを完全に実行できない私たちの愚かさを良く知った上でキリストは全てを裁いて下さる。私達は、より深い理解と憐みによって守られながら、キリストと心を一つにして、あらゆる問題に対して恐れず向き合っていくことが出来るのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇十字架の知恵を語る
6a しかし、私達は、成熟した人たちの間では知恵を語ります。
6b この知恵は、この世(時代)の知恵でも、この世(これからの時代)の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもありません。
7a 私たちは、奥義の内にある、隠された神の知恵を語ります。
7b この知恵は、神が私達の栄光のために、世界の始まる前から(世々に先立って)定めておられたものです。
8a この知恵を、この世の支配者たちは、誰一人知りませんでした。
8b もし知っていたたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9a しかし、このことは、(聖書に)書いてある通り(のことが起こった為)でした。
9b 内容:目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった。
10a それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。
10b 御霊は、すべてのこを、神の深みさえも探られるからです。
〇御霊を知る霊
11a 人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。
11b 同じように、神のことは、神の霊のほかには誰も知りません。
12a しかし、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、(洗礼によって)神の霊を受けました。
12b それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えて下さったものを(神の霊によって)知るのです。
13a それ(神によって私たちに与えられている恵み)について語るのに、私達は人間の知恵によって教えられた言葉は用いません。
13b 御霊に教えられた言葉を用います。
13c その御霊(から)の言葉によって、御霊(によるあらゆる要素)のこと(について)を説明するのです。
〇肉は御霊を受け入れない
14a 生まれながらの人間は、神の御霊に属すること(についてのあらゆる話題を)受け入れません。
14b それは、それの人には愚かなことであり、(御霊を受けていないので)理解する事が出来ないからです。
14c 御霊に属する(あらゆる)ことは、(与えられている)御霊によって判断するものだからです。
15a 御霊を受けている人はすべてのことを判断します。
15b しかし、その人自信は、誰によっても判断されません。
16a (聖書にも書いてある通り)「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」(と書かれてある通りです)
16b しかし、私達は既に(神の御霊によって)キリストの心を持っています。
着情報3.メッセージ
『御心を知る霊』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 2章6〜16節
中心聖句:『「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。』(Tコリント人への手紙2章16節)
2022年9月11日(日) 主日礼拝説教
「知恵を用いずに伝え、また信じるのが、十字架のことばの奥義である」と、パウロは、コリント教会の人々に語りました。では、知恵も知識も不要であると豪語するクリスチャンたちは、何によって物事を判断しているのでしょうか。そこに神の知恵があるとパウロは語ります。
物事を判断する時には、何が必要でしょうか。世の人は知恵や知識を用いますが、私たちは、天の父なる神様の御心を基準に判断します。小さな子供でも、親のいいつけを守る限りは危ない目に合わずに済むように、私たちもまた、神様の御心に従う限りは、常に最良の選択を行うことができるからです。例えどのような知恵や知識を用いたとしても、天地を造られた神様の御判断に勝るものを下すことは出来ません。それ故、例え愚かな人でも、神様の御心に従うなら、常に最善の道行を選んで活き活きとした人生を歩んでいく事が出来るのです。
しかし、親の言いつけを守る子供でも、危険な目に合うことは良く起こります。それは、子供が親の言いつけの趣旨を理解しておらず、守ったつもりになっているからです。親の想いや考えを完全理解しないで行動する時、子供には危険が及びます。しかし、親も子供も違う人間ですから、思いや考えを完全に共有することは出来ません。それは、私たちと神様の関係に於いても同じなのです。それを解決する為に神様は、その知恵によって自らの御霊、即ち聖霊様を、私たちに送って下さいました。これによって私達は、神様の心の内側を直接覗き見ることが出来るようなったのです。これによって私たちは、神様の想いを完全に理解し、常に何かの選択を迫られた際には、神様の御心に適う選択を行うことが出来るようにされています。それだけではなく、その恵みの御業の意図や想い、また大切な独り子を十字架に掛けて死なせてくださったことに至るまで、私たちは神様の行われるあらゆる事についての完全な御心、即ち一方的な恵みで行われている善意を知る事ができるようにされるのです。
聖霊様が心の内にいる限り、私たちは常に正しく行動することが、理論上は可能です。しかし、世々の教会が常にそうであったかと問われれば、それは違うと歴史が証明しています。何故でしょうか。それは、たとえ聖霊様が心の内側にいても、私たちの魂は罪の奴隷である肉体の内にあり続けるので、肉体の欲に振り回されて、神様の御心を完璧に遂行することが出来ないからです。誰も、これには逆らえません。ここに人間の罪があります(ローマ7章15-25節)。だから私たちは、自身の肉体を打ち叩いて従わせるという、決して勝ち目のない戦いに、常に挑み続けなければならないのです(Tコリント9章27節)。しかし感謝な事に、私たちではなく聖霊様が、この戦いに勝利させてくださいます。弱点を聖められ、神の御霊の力によって、私たちは神様の御心を実践できるようにされるのです。これこそが、成熟した人々の語る神の知恵です。この知恵を大切に共有しながら、神様にお仕えしていきましょう。
前ページ
次ページ