1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
久しぶりにコリント信徒への手紙の学びに戻る。パウロは、それまでコリント教会の信徒を恥じ入らせる為に、様々な論説を行ってきたが、ここで口調は変わり、優しい語り掛けが始まる。
パウロは確かに、コリント教会の人々が恥じ入るように言葉を仕向けたが、その目的は恥をかかせるためではなく、愛を持って諭し、方向修正を行う為であった。
パウロは、コリント教会の人々に対して、洗礼を授け、信仰に導いたキリストに在っての霊の父としての責任があった。親が子を責任を持って育て、時には厳しく戒めて軌道修正を行わせるように、パウロは、なみなみならぬ愛情と責任感をもって、コリント教会のいい加減な信仰を指摘し、戒めようとしたのである。
コリント教会の人々が、アポロを始めとするどの教師によって、良い学びを得たとしても、彼らはあくまで養育係であり、彼らを信仰に導いた父親とはなりえない。信仰における父親と呼ばれる者は、それほどに大切な存在なのである。現代でも、信徒を信仰に導いた牧師は、自身が洗礼を授けた者がその後にどうなったのかについては常に気に掛ける。自信が洗礼を授けた者の信仰の行方がどうなっても良いと考えるような教師は、神に在ってならば誰一人として存在しないことであろう。
それ故に、パウロはいつだってコリント教会に出かけて行って、戒める用意と覚悟があった。パウロがコリント教会を訪問する事を妨げているのは、神様の御計画と御心のみであり、パウロの個人的な感情ではない。しかし、パウロが自分達の所へ顔を出さないので、一部のコリント教会の信徒は思い上がった(18節)ようである。即ち、自分達があまりにも立派であるので、パウロは恐れて、面と向かって対決することなどできはしないのだろうと考えたのである。甚だしい勘違いと思い上がりであるが、このような思い上がりは、冷や水を浴びせるような厳しい戒めと指導によってのみ修正される。そのような意味でも、パウロは彼らに向かって鞭を奮って厳しく戒める責務が存在するのである。それは正に、親が実の子供に対して担う責任そのものである。
そのような責務をもってパウロがコリント教会の信徒たちに求める事は、端的に言えば聖めを求める謙遜な姿勢をやめないことであろう。自分に倣うようにと言うパウロの言葉も、全ては「私達抜きで王様になっている」コリント教会の人々の状態を是正する為である。となるならば、パウロがその後に言っている通りに、キリストの為に遜って、この世の屑のような取り扱いを受けながらも忠誠をつくし、聖めを追い求め続ける「姿勢」に倣うようにという文脈でこれらの事が語られていると考える事はおそらく正しいと思われる。
そして、それらの「姿勢」と信仰によって得られる神に対する信頼感、また霊的な実体験こそが、信仰者の言葉に力を与え、その力の中にこそ、神の支配は存在するのである。徹頭徹尾、パウロがコリント教会の人々に求める事は、信仰の「姿勢」の是正である。私たちは聖めについて、自分の努力や力で勝ち取ることは出来ないが、しかし、聖めを追い求める姿勢までも放棄してしまっては、結局「思い上がった人々」となってしまうのである。
〇愛する私の子供として諭すためです(14節)
諭す(ギ:ノウセトン)は、心(ヌース)に置く(ティセーミ)からきている言葉であり、良く戒めと訳される言葉でもある。父親が子供に対して与える訓戒としての用法が多く、過ちを責めるニュアンスも有している。これ単体では、配慮や愛といったニュアンスは無いが、直前の愛する者(ギ:アナペタ)と併せることで、愛する者を諭すと訳する事が出来る。私の子供(ギ:テクナ モウ)と併せて、テクナ・モウ・アナペタ・ノウセトンとなり、「愛する私の子供を諭す」という文型になる。
その意図する所は、日本語でいうところの「愛の鞭」といった表現に近いものである。親権者等、その対象に責任のある人が、敢えて手厳しく間違いを叱責することで、正しい方向へ導こうとする行為である。
特に、私の子供と強調されているため、パウロは並々ならぬ思いでコリント教会の信徒を攻め立てている。それは、自分とは直接関係のない、また責任の無い信徒へ行う忠告とは、全く違う意味や重さを持つものである。
〇養育係、父親(15節)
養育係(ギ:パイダゴウゴス)は、保護者、家庭教師などの役割を担う奴隷の事である。教師(ギ:ディダスカロス)とははっきり区別されているので、注意が必要である。本来、彼らは、子供(パロス)を、学校へ連れて行く(アゴー)存在として、パイダゴウゴスと呼ばれていたが、後に、しつけやその他を教える養育係という仕事も行うようになった。パウロの時代に於いて、彼らは自身の主人の子供などを養育する際、厳しく叱責を行い、礼儀作法や、御言葉の暗唱(ユダヤでは12歳までに旧約聖書を全て暗唱できるようになる必要があった)、その他様々な社会常識を教育する存在であった。彼らは周囲の人々から尊敬されたし、尊敬に値するだけの能力がある為に、パイダゴウゴスに抜擢されるのである。しかし、彼らは実の父親(ギ:パテロス)のように替えが効かない存在ではない。他に能力に優れた者が居れば、複数存在しうるし、簡単に取り換えの効く存在でもある。
何より、教師も、養育係も、必要とみてそれをあてがい、監督するのは他ならぬ父親である。父親は、決して養育係が何人束になっても、その価値が等しくなる存在ではないし、誰もその代わりを務めることは出来ない。
同じように、パウロはコリント教会の人々の、キリストに在っての霊的な父親であって、他のどの働き人にも勝る掛け替えのない存在なのである。もちろん、それはキリスト・イエスに在ってなのであるから、パウロが自らの実力で、彼らの魂を勝ち取った訳ではないし、コリント教会が立ったのもパウロの実力によるのではない。それでも、パウロは、キリスト・イエスの御手の内にあって、コリント教会の人々を「産んだ」のである。
一万人という表現からも、コリント教会には無数の働き人がやってきて世話を焼いたのだろうことが伺えるが、しかし、それでも、パウロはそれらの無数の働き人に勝るのである。彼らコリント教会の人々が、アポロやその他の働き人からどれほど世話になったとしても、やはり彼らが一番世話になった存在はパウロなのであるから、コリント教会の人々は、パウロのいう事に耳を傾けなければならないのである。
〇私に倣う者(16節)
倣う者(ギ:ミメタイ)は、文字通り模倣する者、追随する者を現わす言葉である。パウロは、コリント教会の人々が、自分に倣って行動するようにと願うのであるが、それは彼らを自分の思い通りにしたいからではない。むしろ、パウロを通して、コリント教会の人々がキリストに倣う為にこれを勧めているのである。
パウロは、少なくとも自身の出来る限りにおいてキリストに倣っているのであるから、キリストに倣う自らに倣えと言っている以上、パウロは神の前にコリント教会の人々を好きにすることは決して出来ない。
パウロもまた、キリストに倣う事を最大限努力しているからである。
これは、パウロの私生活から、全ての動作に至るまでをまねろといっているわけではない。後に17節で、テモテを通して「キリスト・イエスにある私の生き方」を思い起こせと言っているのであるから、コリント教会の人々が学ぶべきは、パウロの、キリスト・イエスに仕える生き方の姿勢と忠誠心である。
パウロとて、自らを罪びとの頭であると言い(一テモテ1章15節)、自らが体の欲に逆らえないみじめな人間であると独白している(ローマ7章24節)。
パウロとて、聖められ続けている最中であれば欠点もあるが、しかし、主に仕えるという姿勢の面に於いてのパウロは非の打ちどころがないし、主の為に己の身を捧げつくす忠誠心は、言葉ではなく行動によって証明している(4章11-13節)。
その点に於いて、パウロは、コリント信徒の人々に対して自分に倣うようにという事が出来るのだが、しかしパウロは自分に「倣え」とは言えども、「追いつけ」とは言っていない。あくまでパウロが求めているのは、神に仕え、遜り、聖めを追い求める姿勢を真似しようとすることである。実際に出来ているかは大きな問題ではない。目指そうとしているかどうかこそが問題なのである。
〇テモテ(17節)
テモテは、そのような意味で、パウロに倣い、その姿に追いつこうと努力している素晴らしいモデルケースであった。テモテは、パウロに倣う事で聖めを追い求める姿勢を絶やさず持つ人であった。彼は若いと侮られたが(Tテモテ4章12節)、確かに聖めを求めないコリントの人々よりも信仰の先を行く者である。信仰に限らず、道に年齢と言う者が関係しない事を、私達日本人は良く知っている筈である。いつだって、道とは真摯にそれを向き合い、たゆまず努力して先へ歩く者が先んじるのである。
子供が父親を思い起こすのに、他人の手を借りなければならないとは、如何に恥じ入るべき事柄であるかは言うまでもない。子供よりも赤の他人の方が、自分の父について詳しいとは、その関係が成立していない証拠なのであるから。
しかし、最も大切な事は、テモテを侮らず、また自分達の恥に囚われる事無く、テモテの「姿勢」を通して、パウロの神に対する姿勢をも思い起こし、自らの在り方を改めることなのである。
〇思い上がった人々(18-19節)
思い上がる(ギ:プスィオウ)とは、膨らむ、誇る、傲慢になるという意味の単語である。
彼らが何故、パウロが戻ってこないと考えて思い上がっていたのかについては推測の域を出ないが、4章8節でパウロが「私たち抜きで王様になっている」と言及していることから、おそらくは、自分の聖めが完成したと考えて、パウロよりも自分達の方が偉大な存在であると思い違いをした人々の事なのであろう。彼らは、パウロが戻ってこない理由を、神の御心によってではなく、自分達と面と向かい合う勇気がなく、恐れを為しているからだと考えて居たし、また口にも出していたようだ。パウロが敢えて言及するという事は、クロエの家の者や、伝え聞く噂などからよく聞こえていたという事なのだろう。
しかし、実際にはパウロがコリント教会に戻ってこないなどということは有り得なかった。パウロはコリント教会に直ぐに戻る事ができたし、寧ろ、戻るつもりが満々であった。しかも長期に滞在するつもりですらあった。だからこそ、その前に、諸々の問題を解決しようと願って、手紙を何通も送り、かつテモテまでも遣わしたのである。
彼らは自分の聖めが完成したと勘違いして傲慢に、増長していたが、実際そんなことはまったくなく、寧ろ若者であるテモテにも遠く及ばないお粗末な信仰生活を送っていたのである。
パウロは彼らに対して特別な事を要求しているわけではない。「あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおり(17節)」とあるように、ただ単純に、普遍的な要求を行っているだけである。そのような一般的、普遍的な要求を、年若いテモテ程もこなすことが出来ない時点で、彼らの聖めは「成った」とこどか、立ってすらいないのである。
このような人々は、口は良く回るが、御言葉を実行する力は一切無かった。それらの事は、5章にはいってからパウロが具体例を挙げて叱責していく有様を見ていれば、明らかすぎる程に明らかである。誰でも、完全に自らを律しきることはできないし、罪に囚われて失敗もするものであり、完全にこれを行うことは出来ない。しかし、だからと言って、それらの一切を自己正当化して、自らの過ちから目を逸らす態度の一切は許されるべきことではない。彼らが、第二コリントに登場する「大使徒」であったのか、偽教師の教えに扇動されて思い上がっただけの元来の信徒であったかは不明である。しかし、いずれにせよ一度思い上がった人々は、この叱責によって激しく「しぼむ」必要があった。
〇神の国の力を見せよ
神の国(ギ:バシレイア・トゥ・セウー)とは、支配の領域をさす概念である。国境という言葉があるように、国とは土地ではなく、土地に及ぼす事の出来る影響力そのものを指す言葉である。土地に対する影響力がなくなれば、その土地は更に強い影響力を持つ他の国に奪われる。戦争での土地の取り合いは、戦国時代の大名の戦でも見ていれば十分に理解できるものであろう。
同じように、神の国も土地ではない。どこからどこまでが神の国かという問いかけはナンセンスである。神の国とは、御子イエスの王としての権威が及んでいるあらゆるところを指すのである。それ故に、御子イエスに従う人々の居るところに、神の国の力は働き続けている。
20節の直訳は、「神の国は言葉の中にはない、寧ろ力の中にある」というものである。その力とは何であろうか。それは、御言葉が実現する力そのものである。クリスチャンは、キリストを信じ、それに倣う者として服従することを、洗礼の際に約束する。その時に、神の国の権威は誓約して洗礼を受けた者の上に及ぶこととなる。
それは、単なる名目やただの建前、また生活の指針や目標ではなく、実際にその御言葉をその人に実現させるだけの力をもってやってくるのである。御言葉を実行する事は普通に考えれば容易な事ではないが、キリストに服して、これに従う事を望む人々に、神の国は確かに力を与えて、それが実行できるようにする。
私たちは、この不思議な霊的な影響力、即ち「神の国の力」を受けて、聞いた御言葉を実践し、信仰生活を歩んでいくのである。
「神の国の力を見せる」とは、それ即ち、その人がどれほど御言葉をその生活、行動に実現することが出来た上で、後達へ示す道の言葉が示せるかという指針に外ならない。
しかし、それは私達日本人ならば当たり前に解る事であろう。「書の道は理屈にではなく、書く文字の中にこそある」とか、「花の道は、活けた花の中にこそ全て語られているものである」とか言われれば納得しないだろうか。道とは、実際に志した道が、道として実現されているかどうかのみが問われるし、それが実現されているからこそ、その人々が後を思う者に示す「教え」には価値があるのである。
いくら理屈をこねくり回すのが上手かろうが、下手な書しか描けぬのであれば、その者の教えに価値はないし、碌に花が生けられない者の屁理屈に耳を貸すものはいない。
同じように私たちも、「神の道」に忠実に歩み、神の国の力の一端を、他の人々に対して、自らの行動によって証した上で、有益な教えを与えられるものとして歩まなければならないのである。
〇あなたがたはどちらを望みますか
以上の事を踏まえて、パウロはコリント教会全体に対しての選択を迫る。これは思い上がった人々という一部の者ではなく、コリント教会全体への呼びかけでもある。
彼らが自らの教会の有様に目を向けて悔い改めるならば、パウロの来訪は愛と柔和による良いものとなるであろう。その為には、コリント教会は思い上がった人々や、党派争いをしている人々を戒めなければならないし、場合によっては追い出す必要すらある。
もし、それが出来ず頑なになるならば、パウロの来訪は鞭による強制的な「更生」の嵐となる。
思い上がった人々や、党派の争い、また教会の中で行われている罪は、本人たちの問題である以上に、教会そのものの問題である。教会は、そのような「異常」が内包されている状態を見て見ぬふりをしてはならないのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇コリント信徒への語り掛け
14a 私がこれらのことを書くのは、あなたがた(コリント信徒達)に恥ずかしい思いをさせる為ではありません。
14b (あなた方を)私の愛する子どもとして諭すためです。
15a たとえ、あなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。
15b この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
16 ですから、あなた方に勧めます。私に倣う者となってください。
〇テモテの派遣
17a (私に倣う者となってもらえるよう)そのために、私はあなたがたのところに(既に到着しているであろう)テモテを送りました。
17b テモテは、私が愛する子です。主に在って忠実な子です。
17c 彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
17d (何を?)キリスト・イエスに在っての私の生き方をです。
〇警告
18 あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。
19a しかし、主のみこころであれば、(このパウロは)すぐにでもあなたがたのところに行きます。
19b そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。
20 神の国(と)は、ことばではなく、力に(こそその意味が)あるのです。
21a あなた方は(次の内)どちらを望みますか?
21b 私があなた方のところに、鞭をもって(戒めの心で)行くことか。
21c それとも、愛をもって柔和な心で行くことか。
着情報3.メッセージ
『神の国の力』
聖書箇所:コリント人への手紙第一4章14〜21節
中心聖句:『神の国は、ことばではなく力にあるのです。』(コリント人への手紙第一4章20節)
2023年1月15日(日) 主日聖餐礼拝説教
名古屋聖会では、主の御手による成長という聖めの恵みが語られました。私たちは、福音を聞いて、信じ、イエス様の十字架の血潮によって罪が赦され、キリストの弟子とされました。キリストの弟子となったからには、私たちはただひたすらに聖めを求めなければなりません。
パウロは、これまでの手紙の中で、コリント教会の人々が敢えて恥じ入るように、手厳しく現状の糾弾を行いました。それは、コリント教会の人々が自分自身の罪や弱さに向き合うのを忘れ、傲慢になり、聖めを追い求めるどころか、自分が完成した何者かであるかのように思い込んでいたからです。パウロは14節で言っているように、それを霊的な父親として諭す為に、あえてコリント教会の人々を恥じ入らせるような物言いをここまで行ってきたのです。コリント教会の人々は、「聖めなど追い求めなくとも良い。時が来れば自分達は勝手に完成するし、既に完成している」と思い込んでいました。これは大きな勘違いです。パウロは、私たちに聖めを追い求めるように訴えかけていますが(Uコリ7章1節etc..)、それは、福音の約束を信じて洗礼を受けた一人びとりが、キリストの弟子として、キリストに似た者になるよう、他でもないイエス様御自身によって命令されているからです(マタイ28章19-20節)。私たちは、イエス様の十字架によって罪は赦されていますが、未だ罪が心の内にある身ですから、心の内側の自らの罪から目を逸らして、聖めを追い求めようとはしなくなってしまいがちです。自らの罪や弱さに向き合おうとしないので、神様の前に自分が完成された王であるかのように振る舞い、思い上がってしまうのです(4章8節、18節)。パウロはそうであるから、少なくとも聖めを追い求め続けている自分の姿勢に倣う者となるようにコリント教会の人々に求めました。それだけではなく、自らの愛する同労者であるテモテを送って、実際にその姿を思い起こすことが出来るように、コリント教会の人々に機会を与えようとしたのです。
聖めを追い求め、自らの弱さに向き合い、神様の前に熱心にそれを祈り求める人は、神様の御力を体験します。神様の御手の業が、その人の上に実際に働いて、自らの努力ではどうにもならなかった、罪の性質や欠点が、聖霊の内住による全き支配によって聖められ、癒されるからです。そのような神様の御力を体験した人の言葉には、力がこもります。神様の御手の業と、聖めの業の力強さを知っているので、聖書の御言葉が必ず実現することを確信できるからです。神様の支配、即ち神の国の力強さは、そのような確信に基づく霊的な指導の中にこそ現れます。聖めを追い求めもせず、その力を体験した事のない人の言葉には、この力がありません。だからこそ私たちは、聖めを追い求めなければならないのです。
私たちは、教会全体でこの聖めを追い求め続け、互いに励まし合ってキリストに似た者へと近づいていきます。私たちはそのように聖められることによって、キリストに喜ばれる物へと一歩一歩近づいていけるのです。皆で一致して協力し、謙遜に聖めを追い求めましょう。
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