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牧師の説教ノート(1月29日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙5章1〜8節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 パウロが、コリント教会の罪を実際に告発する場面である。
聞いていて耳の痛くなるような内容であり、取り次ぐ側も、聞く側も苦しみを強いられるような箇所ではあるが、御言葉と向き合う事から逃げ出すことは許されない。
 罪の大小にかかわらず、教会の中に罪が蔓延していることを、教会は許してはならないし、もし放置するならば、それは後に、必ず教会全体を飲み込む大きな問題になるからである。

 但し、これは、罪を犯している個人個人への追及の箇所ではなく、教会全体が罪に対してどのような態度を取るべきであるを言及している箇所である。
 従って、私たちはこの箇所から教会諭以外の教訓を引き出そうと努力すべきではない。


〇現に聞くところによると(1節)
 現に(ギ:ホロース)は、全体に、全面的に、という意味合いがあり、この修飾は動詞の「聞く」にかかっていると思われる。
 「コリント教会」という名詞にかけて、「コリント教会の全てで不品行が横行していた」と読む人もいるようだが、コリント教会全てで不品行が横行していたならば、パウロはもっと大掛かりな怒りと叱責をもって教会を告発していただろうし、語り口も別物になっていたのではないかと思われる。したがって、「聞く」に、「現に」にかかっていると考えるのが自然な読み方のように思えるし、新改訳2017もそのように訳している。即ち、「コリント教会についての話題が出る度に、いつも不品行の問題が耳にはいるのだが?」とパウロは怒っているのである。
 となると、他の教会か、それともコリント教会からやってきた兄弟姉妹かは判らないが、それほどまでに注視されて公になっているような問題を、コリント教会は放置していたことになる。いや、後述の通り、寧ろ宣伝していたので、放置してただけのほうがまだましかもしれない。


〇淫らな行い(1節)
 淫らな行い(ギ:ポルネイア)は、ポルノの言語にも成った言葉で、淫行、売春、また偶像礼拝などを指す言葉として用いられている。読み込みの為には色々と用途を限定したくなるが、性的な不道徳全般に対して用いられる言葉であると考えて読むべきである。
 パウロは、告発した内容について、あくまで「不品行」と表現し、姦淫とは呼んでいない為、恐らく「貫通」には該当しないケースなのだろう。(当然父親が生きていて、離縁していない場合は、それは不倫なので姦通罪となる)
 性的な不道徳といってもケースバイケースで、具体的になにが、と名指しにすることは難しいだろうが、今回の問題についてははっきりしており、少なくともその実例は「ポルネイア」に該当するとパウロは考えたようだ。


〇父の妻を妻にしている(1節)
 父の妻(ギ:グネイカ・ティナ・トウ・パロス)とは、字の通り、自らの肉親的な父親の妻に当たる人物である。妻にしている、とは意訳であり、直訳は「所有している、とった(ギ:エセイン)」である、
 前述の通り、パウロはこの案件を姦淫と呼んではおらず、「自分の母」、ではなく、「父の妻」と書いているので、これらの問題には何かややこしい事情があることが推察される。恐らくではあるが、所謂継母のような存在を自身の所有物としている、という状態なのであったのではないかと思われる。


〇異邦人の間にもないほどの(1節)
 これは当たり前の事ながら、ローマ・ギリシャの文化の中ですら異常な行動であり、法でも禁じられている事である。異邦人はこの事について一切やらないという訳ではなく、異邦人の間ですら異常であると思われるほどの、という意味であり、ことの重大性を現わす言葉となっている。自身の父の妻を奪い、辱めるという行動は、旧約の時代に於いてはダビデの息子のアブサロムが見せしめとして行った所業である(Uサム16章20〜23節)。しかし、今回のことは性的な目的の為に行っているので、同様の事と考えるのは少し違うようだ。

 何にせよ、先妻の息子と、後妻の肉体関係は、ギリシャ社会の中でも大きな顰蹙を買う程の不品行であった。ギリシャ悲劇の中などでも、この様な関係について非難し、嘆くような描写は登場する(参考:エウリピデス『ヒッポリュトス』)。


〇思い上がっている(2節)
 度々用いられてる、思い上がり(ギ:プスィオウ)という言葉は、増長、膨れ上がる、誇る、傲慢になる、という意味がある。文脈から見るに、今回は、前述の激しい性的不道徳を「誇っている」と読むのが良いように見える。
 誇っているとは、即ち自慢している、奨励している、喧伝しているなどと取れ、少なくとも、非難や勧告、戒めとは真逆の行動をとっていることが伺える。
 当たり前ながら、そこには一切の慎みも謙遜もなく、「そのような破廉恥行為でも、われわれの間では行う事が出来る!」とか、「私たちクリスチャンは、このような罪を犯してもゆるされるのだ!」と、罪を犯している若者を、まるで広告塔のように持ち上げて、教会内外問わず盛んに言いふらしている様子が浮かび上がってくるのである(6章12節)。

 クリスチャンは十字架によって罪が赦されるので何をしてもよいし、することが許されていると彼らは宣伝しているわけであるが、果たして本当にそうであろうか。当たり前の事ながら、それは甚だしい勘違いである。そのような勘違いによって不品行が横行していたとすれば、それはまさしくこれは思い上がりであろう。その程度の事も分からず、互いに派閥に分かれて争っていたとなれば、その恥は幾重にも積み重なることになる。

 確かにクリスチャンも罪を犯すし、罪を悔い改めるならば、神はその罪を赦し贖って下さるのであるが、それは自らの罪と向き合って真摯に悔い改めていればこそであって、お手軽に罪が赦されると考え、神を侮って罪を犯すならば、それはまさしく神への反逆そのものである。そのような者の罪が赦される事は無いし、十字架の贖いも作用することはないだろう。正に、そのような人間は「失格者」とされるのである。

 6節でパウロは、再度「誇っているのは良くない」と言及しているが、これは「誇っている」という行為が悪いといっているのではなく、誇っている内容。即ち不品行を自慢しているという趣旨と考え方そのものが間違っているという意味で、コリント教会を糾弾しているのである。


〇悲しんで、自分達の中から取り除くべき(2節)
 取り除く(ギ:アルセーエック)、即ち追放する、交わりを断つという意味である。これは、現代の教会では「戒規」と呼ぶ行為であり、教会が罪に対して立ち向かう為に取られる適切な手段である。
 この戒規こそが、コリント教会が、罪を犯した若者に対しての取るべきだった、ただ一つの選択肢であったことは疑うべくもないだろう。しかし、それらの戒規は怒りによってではなく、悲しみ・嘆き(ギ:ペンセオウ)によっておこなれるべきである。
 戒規を執行する際、教会は一体何を悲しみ、何を嘆くべきであろうか。それは神の前から一つの魂が失われた事に対してであろう。このペンセオウは、しばしば死者を悼む際に用いられる言語だからである。
 神の前にどのような罪を犯しても良いと考え、神を侮り、反逆する行為は、最早キリストの十字架の贖いを投げ捨てることと同意である。それ故、そのような人々は「失格者」と呼ばれ、永遠の命を失うのである。
 何故なら彼らは、前述の通り、自らの意思で神と敵対し、悔い改めて、キリストに服従することを放棄したからである。

 大前提として、どのような罪びとも、キリストの十字架の贖いを信じている限りは、その救いの権利を奪われることはないのであるが、しかし、自身の固い意思によってキリストに敵対し、それを投げ捨てたと言うならば話は別である(この主張はアルミニウス主義による)。キリストに敵対する者は、十字架と福音の恩恵に預かることは出来ない。「キリストは受け入れないが、十字架の救いには預かりたい」という言い草は、決して神の前では通用しない。

 教会は、そのような者を見つけたならば、速やかにその者が教会の群れに影響を与える前に、速やかに破門し、教会の交わりの中から取り除かなければならない。それに対して躊躇をしてもならない。

 これを言及する際、パウロは接続詞「(ギ:)ヒナ」を用いているが、これは結果を先取りする為の接続詞である。即ち、「嘆き悲しんだ結果、取り除くことになるであろう」と予測しているか、若しくは「そのような者は即座に取り除かれよ」と命令していると読むことが出来る。前者寄りの両方であろう。

 しかし、ここで気を付けなければならないのは、パウロがここの本題として問題視しているのは、不品行を行っている青年の事ではなく、それを放置し、戒規を怠るどころか、思い上がってそのことを言いふらしている教会全体の不健全さについてあるので、あまり戒規についてこの箇所を以て追及したり、掘り下げたりすることは、この箇所の読み方としてはやや的外れであろう。


〇すでに裁きました(3節)
 この言葉からもわかるように、パウロも、またコリント教会の一員なのである。パウロは、少なくとも大きな不品行の罪を犯したにも関わらず、悔い改めようとしない青年に対して、断固として戒規を求める態度を崩す事は無い。例え、体は離れていても、コリント教会の一員として、パウロは教会全体に対して、戒規の執行を呼び掛けているのである。

 既に(ギ:エデ)は副詞であり、裁いた(ギ:ケクリカ)の現在完了動詞に掛かっている。だから直訳すると「既に裁いているし、今もその裁きを覆してはいない」という、終始一貫した態度を強調する表現が浮かび上がる。

 肉体は居らずとも、魂は〜という一連の言葉は、書いて字のごとくであり深い意味はない。体は無くとも、心を共に在るという文句は、聖書に限らず様々な場所で用いられる文学表現であるのは周知の通りである。


〇あなたがたと私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力と共に集まり(4節)
 これは、教会に与えられている、主イエス・キリストの権威によって、一致して戒規の判断を下すという厳かな表現なのであろうが、ギリシャ語の解釈が色々と難しい部分でもある。
 新改訳2017では、「しかも」という言葉を用いて意味を重ねており、「イエスの名」と「イエスの御力」の両方が、「集まる」と言う単語に掛かって集約されていると解釈しているようである。
 そのような新改訳2017の解釈はおそらく正しく、「主の御名によって、霊が一所に集まる時、そこには主の御力も働いて、権威だけではなく、実質的な霊的実行力も伴って裁きが下されるのだ」と表現しているのではないかと思われる。
 そのように主の御名によって霊が集まる時、その裁定にも権威が宿る。戒規とはそのような取り決めであるべきなのである、ということである。

 これらのことは戒規の為の集まりだけではなく、教会が一致して集まる全ての会合に当てはまることである。教会の方針を皆で一致して定める為の総会であったり、一部の人々の新しい主張が異端であるかどうか見定める宗教会議などについても同じ事である。

 キリスト者が、主の御名によって一所に集まる時、その下される結論が、ただの茶番であると考える人もいるようであるが、実際は名ばかりではない、神の国の権威と力が直接増し加わってその結論を導き出している。
 だから、その会議の結果、紡ぎ出される「信条」は、私たちにとって信仰の指針となり得るのである。


〇サタンに引き渡す/肉が滅ぼされるように(5節)
 引き渡す(ギ:パラドウナ)は、文字通り明け渡すという意味である。
 珍しい表現ではあるが、要は教会の交わりから切り離すという事である。
 教会の交わりとは、即ち神の支配そのものであり、神の支配から切り離すということは、サタンの支配下へ委ねることと同義である。
 肉が滅ぼされる(ギ:オレトロン・テス・サルコス)は、肉が破壊されるとか、滅亡するとか、台無しになるという意味があり、肉とは即ち身体のことであるので、身体が台無しになると直訳する事も出来る。

 これらが何を意図した表現なのかは、実際のところ判らない。
 教会の交わりから追放された中で陥る、自己破壊的な生活を指しているのかもしれないし、若しくは書いて字のごとく、本当に身体が滅ぶ、即ち病気等で破壊されていく様を言っているのかもしれない。実際に初代教会の時代、使徒の言葉は身体を破壊し、命すら奪う力と権威が伴っていた(使徒5:1〜6)。
 だから、実際に教会の交わりから断ち切られた人が、「父の妻」からすら見放される酷い病気にかかることを前提に、「肉が滅ぼされるように」と表現していても決しておかしくはないと言うことである。

 これらのようなことが行われるのは、後述の通りに、「彼の霊が主の日に救われる為」なのであるが、この様な事を通して、正しく歩む善良な人々が躓かない為に、現代からは想像を絶するような厳しい処分が、他でもない使徒の権威によって、戒規を受ける者には言い渡されるのである。


〇彼の霊が主の日に救われる為(5節)
 しかし、そのような想像を絶する戒規の判決も、結局はその人の魂が救われる為に行われる。想像を絶するような判決を受けたことによって、その人が自らの体験を通し、自らの罪の重さを悟る事を、パウロは期待しているのである。
 戒規を行った教会や、それを下した使徒がどう見ていようとも、その体験を通して、戒規を受けた者が悔い改めるなら、主はその人を何度でも救って、主の日に命の中へと招き入れて下さるのである。


〇パン種(6〜7節)
 パンだね(ギ:ズメ)は、増え広がるという意味合いでパウロが用いた比喩である。
 日本のことわざに直すなら、「朱に交われば赤くなる」とか「くさったみかん」が相当するかもしれない。
 パン種が新しい粉を膨らませるように、教会の中に悔い改めもせずに看過されている罪があると、それが周りに伝染し、パン種が全ての小麦を発行させて同じものにしてしまうように、全体をダメにしてしまうのである。

 また、パウロはそのような特性によってこの単語を選んだが、それと同時に、過ぎ越しの祭りを例にとるためという狙いも同時に果たす為に、パン種を用いている。

 「過ぎ越しの祭り」は、所謂、現代のイースター頃に行われる新年の祭りである。ユダヤ人は、この過ぎ越しの祭りの時に、一切のパン種を所有していてはならなかった。即ち、正月に入る夕暮れまでに、全てのパン種を家の中から探し出して、庭で燃やしてしまわなければならなかったのである。

 教会の中で、対処もされず放置されている罪がないかどうかを良く改め、過ぎ越しの祭りの前に徹底的にパン種を家の壁の隙間からでも見つけ出すような思いで、それらを取り除くようにとパウロは教えている。


〇過ぎ越しの小羊(7節)
 過ぎ越しの祭りに必要な物は、調理された種なしパンと、過ぎ越しの小羊の肉であるが、小羊が屠られるのはパン種を取り除く作業が一切終わってしまってからである。
 日本でも、正月前の大晦日では、まず大掃除を晦日におこなってから、おせちの準備を大晦日に行うし、おせちの準備が終わってから年越しそばをつくって食べるという手順を踏むものである。
 即ち、小羊を屠る儀式がはじまっているのに、パン種の掃除が終わっていないというのは、おせちも年越しそばも作り終えたのに、大掃除がまだ終わっていないといったような恥ずかしい状態を指す。

 もう既に小羊は屠られているのだから、パン種の除去は既に終わっているべきだし、終わっていないにしても急いでそれらを終わらせようと努力すべきではないのか、という趣旨でパウロはこの事を宣べている。

 また、それと同時に、パウロは「小羊が先で、パン種掃除が後」だと言及する事によって、私たちの罪の除去も、全てはキリストの十字架の血潮による贖いで成し遂げられるということを、暗にコリント教会の人々に伝えている。
 キリストの十字架によって洗い清められているのだから、私たちは最早種なしパンなのである。勿論、失敗するし誘惑も受けるのであるが、私たちは幾度もパン種を取り除かれるのであるから、そこを目指してなんども歩んでいくのである。


〇古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで(8節)
 古いパン種とは、即ち罪が赦される前に自分達が陥っていた生活習慣の事だろうと思われる。それに引っ張られる事をしないとか、新しく悪い想いを起こすようなことはせずに、といった意味合いで、この様な勧めが行なわれているらしいことは、文脈から見れば明らかである。誠実と真実の種なしパンとは、勿論罪のない状態で、主の御名を賛美するのにふさわしい教会となるという意味である。

 当然ながら、私たちは過去の生活習慣に引っ張られるし、洗礼を受けたからと言って、いつもこれらから神がかったように解放されたりするわけではないのである。また、以前よりも、更に悪い何かを取り入れてしまって、余計に罪に陥るようなことも起こり得るのである。
 私たちが目指すところは結局そこなのであるし、その原則は決して変えるべきではない。


〇まとめ
 古いパン種、即ち古い生活習慣から来る罪や弱さを完全に取り除くことは、私たちの力だけでは不可能なのであるが、だからといって取り除くことそのものを諦めて、寧ろ見せびらかすような真似は絶対にするべきではない。

 私たちは本来、キリストの十字架によって罪を取り除かれた「新しい粉」であるはずだし、そうあるべきである。だから、現実そうでない自分達の問題を認め、常に、それらの罪を取り除くように努め、「種なしパン」となる事が出来るように、私たちは常に、聖めを追い求め、祈り続けなければならないのである。

 私たちから罪を取り除いて聖めて下さるのもまた、屠られた神の小羊だけである。
 パン種を取り除ききってから小羊が屠られるのではない、小羊が屠られたから、パン種が取り除かれるのである。
 私たちは決してこれを見落としてはならない。

 いくら実現が難しく、また胸の内が悼むからと言って、私たちはここから目を逸らすべきではない。寧ろ許されるからこそ、神の小羊によって、私たちは自分の弱さと罪に向き合うことが出来るのである。謙遜に神様の前に自らの弱さを注ぎだし、それらが聖霊の内住による支配によって聖められることを、私たちは、常に諦めずに期待し、求め続けるのである。


2.詳細なアウトライン着情報

〇コリント教会の告発
1a 現に聞くところによると、あなたがたの間(教会員の中)には淫らな行い(をするもの)があります。
1b しかも、それは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いです。
1c 内容:それは、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
2a それなのに、あなた方は思い上がっています。
2b むしろ、(そのような事態があるならば)悲しむべきでしたし、
2c そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきでもなかったのですか。

〇罪の排除
3a (すくなくとも)私は、身体は離れていても霊においてはそこに実際にいる者のように、
3b そのような行いをした者をすでにさばきました。
4a すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、
4b しかも私たちの主イエスの御力と共に集まり、
5a そのような(罪を犯した)者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。
5b (なぜなら)それによって彼の例が主の日に救われる為です。

〇コリント教会への呼びかけ
6a あなたがたが誇っているのは、良くないことです。
6b わずかなパン種が、こねた粉全体を膨らませることをあなたがたは知らないのですか。
7a 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。
7b あなたがたは種なしパンなのですから。
7c 私たちの過ぎ越しの小羊キリストは、すでに屠られたのです。
8a ですから古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないでください。
8b (むしろ)誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。


着情報3.メッセージ

『古いパン種』
聖書箇所:コリント人への手紙第一5章1〜8節
中心聖句:『古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。』(コリント人への手紙第一5章7節) 2023年1月29日(日) 主日礼拝説教

 五章に入り、パウロは手厳しい叱責と共に、コリント教会の現状の是正を求めます。群れの中に蔓延る不品行を戒めもせず、それどころか寧ろ誇ってすらみせるコリント教会の態度は、全ての教会の中に在って、決して許容することの出来ない歪んだものでありました。

 コリント教会の中では、自分の父の妻(恐らくは父の後妻)を、自分の妻のように扱って同棲する者がいて、しかも、それは対外的に喧伝されているという、混沌極まる状態が続いていました。パウロが「現に」と強調する程、多くの人がコリント教会について聞く話題はそればかりだったようです。「キリスト者は自由であるからして、この様な破廉恥な行為すらも許される」と喧伝するコリント信徒達の態度は、聖徒としては甚だ受け入れ難い思い違いで、「寧ろそのような罪こそ、教会全体で一致して戒規すべきでないのか」と叱責するパウロの主張は、至極当たり前の正論でした。教会は、神の宮(3章16節)なのですから、その内に罪を抱え込んではなりません。自らの罪を認めず公にして、他の兄弟姉妹を躓かせる者がいるのだとすれば、教会はこれについて悲しみ、断固として不義に立ち向かわなければならないのです。

 教会の中では、自らの罪を認めず居直る者に対し、徹底して戒規が課されます(マタイ18章15-17節)。戒規には、陪餐の停止や、除籍といった厳しい処分も含まれますが、それらの全ては、戒規を受けた人が、自らの罪と態度を悔い改めて、正しい信仰を取り戻す目的の為に行われます。勿論、私たちは、罪を犯さずに生きることなど出来ません。しかし、「キリスト者として罪のない状態であらねばならない」という原則を忘れることも許されないのです。その為にも私たちは、常に自らの弱さや、罪に対し向き合わなければなりません。互いに励まし合って、罪の問題が、主に在って解決されるように祈り求めることもやめてはならないのです。一つの罪の許容が、古いパン種のように教会全体に蔓延って、他の弱い人々を躓かせます。だから私たちは、日々悔い改めて、聖めを求め、常に祈り続ける必要があるのです。

 パウロは、全ての罪を取り除くようにと命令はしましたが、それは自分達の努力によって成し遂げよと言っている訳ではありません。彼は「過ぎ越しの小羊、即ちイエス様が、私たちの罪の罰の身代わりとして十字架に架かって死んでくださったのですから、その血潮によって聖められなさい」と言っているのです。神様は真実で正しい方であるので、私たちが真摯に悔い改めて罪を告白するならば、十字架の血潮によってその罪を洗い流して下さいます(Tヨハネ1章9節)し、聖霊様の内住によって自身の努力ではどうにもならない罪を、日々聖めつづけて下さいます。だから私たちは、自らの罪を正当化するのではなく、寧ろ深く認めて、悔い改めることが大切なのです。自身の内にある罪から目を逸らさず、寧ろ神様の前に全て注ぎだして、罪を全て取り除き聖めて下さる神様を求めて、忠実にお仕えしていきましょう。


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