1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
前回の箇所では、パウロはコリント教会がはき違えている「心の問題」、若しくは「心の在り方の問題」について触れた。即ち、それは「罪から逃れたいという心と意思をもって洗礼を受け救われたはずなのに、何故、救われる以前と同じように、罪を犯す機会を待ち望んでいるのか」という問題である。
今回の箇所でパウロが取り上げているのは、そこから更に一歩踏み込んで、「身体の問題」、若しくは「身体の扱い方の問題」について触れているようである。
コリント教会の中では、既に二元論、またグノーシス思想が入り込み、少なからず混乱が巻き起こっていた。一部のコリント信徒は、不品行を繰り返す事を寧ろ誇っておりそれを推奨すらすることを行っていたのは、この二元論、及びグノーシス思想が原因であると考えられる。彼らは以前から、パウロや他の使徒、また教師が唱えていた、律法主義、及び祭儀律法(食物規定や祭儀規定)からの脱却を説くために唱えていたのであろう、「我々には全ての事が許されている」という言葉を曲解し、性的不品行を行う言い訳として悪用していたようである。コリント教会の中でも少なからずそのような現状が垣間見えており、パウロが頭を痛めて対応せざるを得ないような状態になっていたようである。
祭儀律法や、律法主義からの脱却は、初代教会のクリスチャンに与えられた大きな課題であった。それまでのユダヤ人は、豚を食べてはならないとか、食事前に手を洗うとか、祭儀律法と、それに合わせた口伝律法に縛られ、生活していたのである。古い時代では、ユダヤ人達は、そのような律法を守らなければ救いがないとも教えられ、生きてきたのであるが、最早新しい時代に於いて、そのような祭儀律法は神の民である新しいユダヤ人、即ちクリスチャンを縛るものではなくなっていた。最早、キリストに在って福音を信じ、永遠の命を握った聖徒たちは、豚であろうが何であろうが食べて良いし、キリストにあって免除された日ごとの燔祭にいそしむ必要も、食事の前に手を洗い清める必要も(衛生的には勿論洗って手指の消毒はした方がいいのだが、儀礼としての義務は)無いのである。
更に踏み込んでいえば、安息日に於いて、御心を果たす為にならば、働く事すら私たちには許されている。安息日の主の御名に於いて、私たちは安息日の中でも、善い事の為に弄する事すらできるのである。即ち、不品行に陥らず、神の御心を為す為であるならば、古い時代に人を縛っていた一切の誓約は、私たちを縛るものではなくなっている。これによって、「すべてのことが私(達)には許されている」と、私たちは口に出して宣言することが出来るのである。
……のであるが、二元論者、グノーシス主義者は、これらのことを、罪を好きなだけ犯して、不品行にふける為の言い訳として用意されていると受け取った。「肉体は汚いものであるから、これを好きなだけ汚す事は問題がない」という意味で「全ての事が私には許されている」という言葉を用いたのである。その結果洗われたのが、教会の中から追放されるべき失格者達であり、パウロが指摘した、父の妻を手に入れている青年などの人々なのである。
しかし、これらの社会思想を教会の中に持ち込み、聖書に無い教えによって人々を惑わすような者達は反駁されるべきである。パウロは「身体は汚い価値の無いものである」と教えるグノーシス主義、二元論に対して、「身体は神からの賜り物であり、永遠に滅びない、神の為に存在する者である」とはっきり宣言する。私たちの身体は決して粗末に扱われて良いものではない。これは神からの賜り物であって、やがて肉の身体から新しい霊の身体に作り替えられて、永遠の命を宿し、私たちの魂が神と共に永遠に生きる為の器として用いられるのである。
〇全てのことが許されている(合法だ)(12節)
先にも触れたが、恐らくこれはパウロ自身や他の使徒、教師達が、キリスト者の自由を語り、律法主義からの脱却を目指す為に説教の中で用いた言葉なのであろう。問題は「誰が」そのあげあしを取るようにしてコリント信徒に曲解させようとしたのが誰なのかか、ということである。
これについては、様々に考察出来るが、恐らくは既にコリント教会の中に入り込んでいたギリシャ思想の異端、即ちグノーシス主義に取りつかれた人々によって提唱されていたものではないかと考えられる。
彼らはギリシャ的二元論(即ち、霊は善で、肉体は汚れた汚いものと考える思想)に基づいて、「肉体は元々汚いものであり、やがて滅びるものであるから、そのような肉体に汚い事をやらせておくのは妥当であり、かつ適切である」と考え、かつ教え、扇動して、教会の人々を惑わしたのである。
パウロはキリスト者の自由という意味で、「全ての事は許されている」と教えたのであろうが、二元論者は「体は汚いものなのであるから、全てのことは許されている」と、意図的にこれを曲解して、人々を扇動した。その際に用いられた言葉が、「ギ:アディアフォラ」である。これは「益にも悪にもならない」、「どちらでも良いもの」であると言う意味を持つ言葉である。
即ち、肉体はやがて滅ぼされるのであるから、肉体が性行為にふけろうが、不品行に汚れようが、「益にも悪にもならない」もしくは「どうでもよいこと」なのであると、他の信徒に教えたのである。パウロは以前の手紙でも罪のリストを挙げたし、今回の手紙でも、そのような人々は神の国を継ぐことが出来ないと宣言している。それにも関わらず、このグノーシス思想に取りつかれ、積極的に不品行にふける者は、教会の中に次々と現れ、決して後を絶たなかった(イレナエウス『異端反駁論』1巻6章3節)。肉体は汚く、霊は清いので、不品行をいくら行ったところで、霊が汚れる事は無い。即ち、救いの後の霊には影響ないのだから、これはどちらでもよいこと(アディアフォラ)なのだ、と不品行にふける人々は言い訳を行ったのである。当たり前ながら、そのような態度は完全に反駁されるべきものである。
しかし、この様な社会思想が教会の中に入り込むことは決して珍しいことではない。近代の教会ですら、高等批評を始めとするリベラル思想に惑わされたし、現在進行形で、LGBT問題における同性婚を教会の中で認めるように、社会的な圧力が教会にはかかっている。いつの時代も、これらの状況は教会の中で起こるべくして起こっているのである。しかし、様々な問題が教会を悩ませ、どのように教会が惑わされようが、その解決方法は常に一つだけである。それは「神の御言葉や御業に忠実に立ち返る」ことである。パウロは、これらの肉体問題について、肉体を持って復活されたキリストに立ち返って、二元論やグノーシス主義を反駁した。常に聖書の価値観に、また神の御心に立ち返るところに、全ての問題の解決があるのである。
〇私は何者にも支配されない(12節)
グノーシス主義者、二元論者は、全てのことが「アディアフォラ(どちらでもよい)」なのなのであるから、肉欲に身を任せる事は、キリスト者の自由の一環だと述べていたようである。しかし、アディアフォラを主張して肉欲にふける事は、どうあがいても「キリスト者の自由」にはつながる事がない。
キリスト者の自由についてまがりになりにも語るならば、それは(どのような趣旨であろうとも)自由が体現されている必要があるからである。自由とは、なにものにも縛らないことである。即ち、我慢しようと思えば我慢できるし、手に入れようと思えば手に入る状態を自由と呼ぶのである。
しかし、これを唱えて不品行にふける人々は、まるで不品行の奴隷であるかのように貪欲にそれを求め、それをせずには一日を終える事が出来ない程に、不品行のいいなりである。
彼らは、偽りのキリスト者の自由を主張していたが、その偽りの自由ですらも体現できていないような、話にもならない状態だったのである。
〇食物は腹の為、腹は食物の為、そのどちらも滅ぼされる(13節)
これらの言葉も、どうやら二元論者、グノーシス主義のコリント信徒が掲げていたスローガンのようである。パウロが皮肉を込めて引用している物言いからも、これらの言葉の端々にグノーシス主義の人々の、見当違いな言い分が垣間見える。
即ち彼らは、「食物も、腹も、どちらも神が滅ぼされるのだから、何を食べようが私達の問題にはならない。同じように、身体と性欲も同じような関係で神は滅ぼされるのだから、好きなように振舞えばよいのだ」と、主張していたようである。
しかし、これらの言い分は全く間違っている。何故なら、確かに腹も食物もどちらも、主の日には神によって滅ぼされるが、身体が滅ぼされることはなく、身体は永遠に存続するものだからである。身体と腹を同列に数えて同じようなものとして扱おうとする主張はただの詭弁であり、福音への無知から現れる主張そのものである。
〇神は主をよみがえらせたが、同じ御力によって私たちをもよみがえらせてくださる(14節)。
何故、パウロは身体は決して滅びないと断言することが出来たのか。パウロはその根拠を、復活のキリストに目を向ける事で証明した。
初穂として蘇ったキリストは、魂だけの存在ではなく肉体を持っており、しかも十字架に架かったのと同じ身体を持ったままで、霊なる身体を手に入れられたからである。パウロは、キリストの手にはくぎの跡があり、そのわき腹には槍のあとが空いていたことを思い起こさせ、私たちの肉の身体は廃棄されることがなく、霊の身体を着せられる事によって永続する事を確認しているのである。
主の日には、土による肉の身体、即ち古い身体の「しくみ」は、新しい「しくみ」にとって代わる為不要なものとなるが、身体そのものは、キリストと同じように復活し、永遠に存続する。だから、身体は腹のように廃止されることは無く、永遠に、神との交わりの中にはいっていくのである。それ故、私たちの身体は不品行、即ち性欲を満たす為にあるのではなく、神と共に生きる為に存在するのであり、主キリストもまた、私たちの身体が、神と共に歩めるように、十字架に架かって下さったのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇身体について
12a 「すべてのことが私には許されている(もしくは、私にとって合法だ)」
12b と言うが、(原文には無し。翻訳時の追加補足部分)
12c すべてのことが、益になるわけではない。
12d 「すべてのことが私には許されている(もしくは、私にとって合法だ)」(12節と同一ギリシャ語)
12e と言うが、(原文には無し。翻訳時の追加補足部分)
12f 私はどのような事にも支配されることはない。
13a 「食物は、腹(もしくは臓物)の為に。そして、腹(もしくは臓物)は、食事の為に」
13b と言うが、(原文には無し。翻訳時の追加補足部分)
13c 神はそれ(腹)や、それら(食物)をやがて滅ぼされる。
13d そして、身体は不品行の為にではない。
13e しかし、主の為ではある。
13f そして、主は、身体の為にいるのである。
14a そして、神は、主を起き上がらせた。私達もまた、彼のその力で起き上がらせて下さるのである。
着情報3.メッセージ
『神の身体』
聖書箇所:Tコリント人への手紙6章12〜14節
中心聖句:『神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。』(Tコリント人への手紙6章14節) 2023年2月26日(日) 主日礼拝説教
「自身で決断し、罪から聖められ、天国に入る義が与えられたというのに、何故救われる以前のように罪を犯す機会を待ち望んでいるのか」と、パウロは厳しくコリント教会を叱責しました。続けてパウロは、更にコリント教会の人々の身体の扱いについて追及します。
当時、コリント教会の中には多くの肉体的な不品行が横行していましたが、何故そのようなことが起こったのでしょうか。それは、古代ギリシャ文化に、「霊は清いが肉体は汚れたもの」「肉体が滅びた時、霊は本当の意味で自由になる」という思想が存在していたからです。これを二元論、もしくはグノーシス主義と言い、この思想によって、新しい身体、永遠の命、神の子としての身分が与えられるという福音の約束を宣べ伝えていた教会は、大いに脅かされていました。「すべてのことが私には許されている」とは、恐らくパウロや他の教師が、「ユダヤ教の祭儀律法(食べてはならない食物の選別や、身を清める儀式等の制約)に、最早クリスチャンは縛られる必要がない」という意図で語った教えであったのでしょうが、コリント教会の人々はこれを「肉体は汚いから罪によって汚れても何の問題もない」と勝手に曲解して、不品行にふける大義名分としていたようです。パウロは、その曲解に対し、断固反対しました。
パウロの口ぶりから、教会に入り込んだ二元論者、グノーシス主義者達は、 「食物も、それを食べる腹(内臓)も、やがて神は滅ぼされるのだから、身体を清く保つなんて無駄な事だ。むしろ、身体は性欲の為にあるのだから、腹を食物で満たすように、不品行にふけるほうが、余程キリスト者の自由を体現しているのではないか」という類の主張を行っていたようです。しかし、これは明らかに大きな間違いです。そもそも、不品行無しでは生きられない時点で、彼らは自由などではありませんし(12節)、身体が滅びることは有り得ないからです。確かに、身体の古い仕組み、すなわち腹によって食物を得て生きるという仕組み自体は廃止されますが(13節)、初穂として復活なさったイエス様がそうであったように、現に私達の今用いられている肉体が新しくされて残り続けるのです(ヨハネ20章27節)。私たちの魂は、肉体の中に在って完全とされます。そうでなければ、どうして永遠の命と共に、新しい身体を神様が与えて下さるのでしょうか。私たちは、今用いているこの肉の身体が、新しい霊の身体へと作り替えられて、神様と共に永遠に過ごす存在とされるのです。神様もまた、私たちの新しい身体と共に居て下さって、永遠の親しい交わりを持ってくださるのです(黙示録22章1-5節)。
身体は神様からの賜り物であり、新しく作り替えられて永遠に用いる為の大切なものです。だから、自分の欲に身を任せて、不品行の道具として用いるべきではありません。父なる神様は、私たちに新しい身体を与える為に、独り子のイエス様を十字架に掛けてくださったのですから、私たちもそれに報いて、共に励まし合い、キリストを頭とする神の身体として一致すべきではないでしょうか。自らの身体を聖く用いて、神様の前に忠実にお仕えしましょう。
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