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牧師の説教ノート(2月12日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙6章1〜11節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 コリント教会員同士の間で起こっている訴訟について、パウロは続けて取り上げていく。
 内部の人々を裁き、神の宮の聖性を保つことが、私たち神の民の仕事であること。また、その為に裁きは正しく執行されるべきことを語った後でのことである為、連続性のある話題の一環として、裁きについて正しく執行されていないコリント教会の現状について続けて叱責を行ったのであろう。

 今回取り上げられている「世界を裁くようになる」という言葉は、この世界でのあらゆる出来事が、来るべきキリストによる新しい御国での生活に直結していること、また、この世での振る舞いは、来るべき新天新地で過ごす為の訓練であるということなどを良く表した言い回しである。

 私たちは、来るべき新天新地を相続し、主イエスと共にこれらを所有し、治める為にこの世界であらゆる訓練を積んでいる。それらの事を念頭に置くならば、やがて新しい天地で御使いすら裁く権威が与えられる私たちが、日常の小さな争いごとすら仲裁出来ないのは、確かに恥ずべきことであろう。

 やがて王になって国を治める地位にいるものが、家の使用人の掌握すら出来ないようでは話にならない。同じように、やがて世界を治めて管理する仕事の与えられるのが、神の民である教会なのであるのだから、その時に備えて、私達は主に在って少しでも、神の国を受け継ぐ者として相応しい資質を身につけるために、訓練を行ない続けるのである。


〇あえて、裁き、正しくない人
 ギリシャ語では文頭に存在する、「あえて(ギ:トルーアオウ)」は、あえて、大胆、図々しい、などの意味を持つ強い単語で、その必要もないのに、わざわざ裁判を起こそうとする「訴状好き」の事を指している。当然ながら、このような「なんでもとりあえず訴訟しようという」態度そのものがクリスチャンの態度に全く相応しくないことを、パウロは宣言しているのである。

 教会内でもめ事が起こったり、論争が起こること自体は、パウロは勿論承知している。しかし、それらは兄弟間の間で適宜、仲裁されるべき事柄であり、その争いを教会の外へ持ち出すことは恥ずべきことである。
 争い(ギ:プラグマ)は、ギリシャでは主に裁判係争(即ち訴訟の意味)に用いられる単語である。
 正しくない(ギ:アディコン)は、不義のという意味でもあるが、別段教会の外の邪悪な人々という意味ではなく、単純に「聖徒でない、まだ聖められて居ない人々、信仰に至っていない人々で構成されている」という意味合いで用いられている。
 教会の中の争いは、教会の中で解決すべきである。部外者に訴えて自分達を裁いてもらおうと考えるのは、神の民として恥ずべき考え方である。

 ただし、これによって、キリスト者は一切裁判をすべきでないという風潮が長らく教会の中で流行りつづけたが、それもまた間違いである。パウロの言っている事は、
 1.教会内の人間同士が
 2.一対一で(すなわち、教会全体を巻き込む争いではない)
 3.私的な(即ち信仰にとは関係のない生活レベルの)争いをしている
場合において、裁判所に訴え出るようなことをするなという話である。

 教会の外の邪な人々から訴えられたり、トラブルになった場合、教会が社会的な裁判に関わるということは十分容認されなければならない。パウロも、キリスト教の名誉そのものが揺るがされる事態に陥った際には、自ら、カエサルに対して上訴を行っている(使徒行伝23章17節、25章11節etc..)。


〇聖徒が世界をさばくようになる
 神の民が世界を裁き、キリストを補佐するという概念は、既に福音書の中でもキリストによって弟子達へ宣言されている(マタイ19章28節、ルカ22章28-30節)し、旧約の預言の中に於いても、聖徒が国を受け継ぐ時が来ることが、ダニエルによって預言されている(ダニエル7章22節)。

 無論、これらの御言葉は十二弟子に権威を授ける宣言であり、これによって聖徒全員が裁きの業に預かる事が出来るようになると明言されている訳ではないのだが、初代教会はこれを周知の事実として受け取っていたし、パウロもそれを事実としてコリント信徒へと語っているのである。

 この世界(ギ:コスモス)は、全宇宙的なあらゆる世界の事柄を指す。それは御使い達への裁きにすら波及することを、パウロははっきりと宣言しているのである。

 天使は無冠詞で書かれており、御使い全体を指す言葉であるのだが、当たり前ながら、御使いは被造物で最高位に大きな価値を持つ存在であり、無冠詞で表現することによって、御使いその者よりも、御使いと言う被造物の至高性に対して目を向けるようにパウロは促している。
 即ち、御使いを含めたどのように至高な被造物であったとしても、それらの中で聖徒の裁きを受けない者は何もなくなるということをパウロは言っているのである。

 だと言うのに、それほど広い裁きを行い、天使さえ裁く地位を与えられるはずの者が、日常(ギ:ビオティカ)の小さな事件すら裁く力が無いと言うのはどういうことかとパウロは叱責を行う。
 このようなことすら裁けないのであれば、そのような者達は新しい御国の最下級の裁判所にすら、その席が用意されないことは明白である。「貴方達はそれでもよいのか?」とパウロは訴えかけているのである。

 また、「あなたがたは知らないのですか?」という問いかけは、知っていて当たり前の事、または全員で共有している事柄について失念していることに対して用いられる指摘である。パウロがこれを多用しているということは、パウロがここで語っているあらゆることは、既に聖徒であるなら当たり前に知っており、理解していなければならない事柄なのである。
 つまり、「言われるまでもない」はずの事柄なのであるが、コリント教会の人々はこれを実行することができていなかった。


〇それなのに、教会の中で軽んじられている人々
それなのに(ギ:オウン)は、「したがって」という意味で用いられるのが一般的な単語であり、ここから長らく、この箇所は教会の中で軽蔑されている者を裁判の席に着かせよと翻訳されることが一般的であった。
しかし、近年のギリシャ語研究で、これは「それなのに、それだのに」と逆説の用法もあり得ることが判り、その用法が文脈的にも自然であるため、新改訳2017でも、「それなのに」という訳語が採用されている。

長らく、これは教会の中で軽んじられている人々を裁判官の席につかせて裁きを行わせよという命令であると解釈されてきたが、文脈的にパウロは教会の外で裁判を行っている人々のことを話しているし、後の5節につなげる為には、軽んじられている人々が裁判の席についている状況が、所謂「懲罰」につながるものであることをパウロが肯定しているということを認めなければならない。だが、それはパウロの性格からも考えにくい。

教会の中の小さな人々は、軽んじられたり、所謂「罰ゲーム」の材料として利用されて良いような存在だろうか? 答えは否である。パウロはむしろ、この様な動きがあれば怒り叱責する立場にある。だからパウロ自身がこのような命令を下したとは到底考えられない。それ故、文脈的にはパウロが皮肉として、「それなのに、あなた方は教会の中では軽んじられている(重んじられる事のない外部の)人々を、裁く者の座につかせているのだ」と言っているとする方が、叱責という意味においても意味が自然であり、矛盾がない。

教会は「神の宮」であると同時に、「神の国」であって、主の支配の権威の内にある共同体である。ならば、その共同体は一つの「国」として機能しなければならず、自分達の事は、自分達で十分に裁けるだけの自立性を確保していなければならないのである。その為に聖書は存在するし、教える為の使徒や教師が存在するのである。

また、後に5節で、パウロは何故、争いを仲裁出来る者がいないのかと問うている。これによって、あくまでパウロの方針は、「日常のごたごた程度のことならば、教会の中ですら裁判を行わない」所にある事がわかる。何かトラブルが起こっても、教会員の誰かが仲裁すればそれで事足りるような状況の維持こそが、教会の中の霊性として、あってしかるべき状態なのであると、少なくともパウロは考えていたようである。

 教会の中で求められる態度は、対立的な係争ではなく、仲裁によって行われる平和的な示談である。いくら聖徒同士であろうが、くだらない私的なトラブルで、いちいち教会内で聖徒たちに訴えを起こすようなのであれば、それは「訴訟好き」となんら変わらない、クリスチャンに相応しくない態度である。そのような者は神の御国を継ぐことは当然ながら出来ない。

 また、以上のような前提があるというにも関わらず、兄弟が兄弟を「外へ」告訴している状況は、愚にもつかないことであろう。コリント教会の信徒は、「自分達は神の民でありながら、最早、身内を仲裁できる能力のある人間が一人も居ない無能の集団である」と、周囲に対して喧伝しているのである。


〇そもそも、敗北
 そもそも(ギ:エデ)という言葉を用いて、そのような話になっていること全体を指して、それがネガティブな事であると言う評価をパウロは下す。なぜ敗北なのかについては、9〜10節でパウロが語っている通り、そのような事をする人々は神の国を受け継ぐことが出来ないからである。福音の約束を受ける為に、私達はキリストを信じると言うのに、神の国を受け継ぐという最終的な勝利を失って、どのように勝利を宣言すればよいのだろうか。
 福音音約束を受け損ねる、即ち神の国を受け継ぎ損ねる時点で、私達には敗北しか残されていないのである。


〇不正な行いを甘んじて受ける
 不正な行いとは、価値観の相違や物事の解釈の差、また人に害を及ぼそうとする悪意によって行われる争いごとである。
 そのような仕打ちを受けて、相手を訴え返すということは即ち、相手に対して同じ害を与えようとする意志の発露である。それどころか、あわよくば相手に自分よりも大きな不正を働いてやりこめてやろうという欲望の現われである。
 聖徒同士で、この様に互いにだましあい、損害を与えあう事に快感を見出している姿が、本当に自分達の目指すべき聖められた姿であるかどうかは良く考えたほうが良いであろう。

 むしろ、聖徒はどのような損害を受けたとしても、相手に損害を与えようとすること望む自分の欲について思い留まるべきなのである。しかし、実際にはコリント教会の信徒は、「自分が不正を受けたことを言い訳に、相手に更に大きな不正を働いて罪を犯すことを心から望んでいる」。しかも、その対象が教会の外にいる悪人に対してですら恥ずかしい事であるというのに、神の民である聖徒同士でこのようなことを望み合っているのだから、それはもはや罪のチキンレースとなんら変わりはないだろう。

 悪を行う者の行為を甘んじて受ける事は、クリスチャンのあるべき態度である。復讐と憎悪と呪いは主に全て委ねればよいことであるし、復讐は私の行う事だと、主御自身も言われているし(申命記32章35節、ローマ12章19節、ヘブル10章30節)、ダビデも詩編で、自らの復讐と呪いを主に委ねる祈りをいくつも行っている(詩編109篇etc..)。

私たち自身は、復讐を行う事によって悪にはしってはならない。復讐は主に委ね、私たち自身は寧ろ、悪を行う人々に対して親切にし、行うべき義務を果たすべきである。


〇神の国を継ぐものとはならない。
 「淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者」これは、自らを穢す罪である。
 「盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者」これは、人に害を及ぼす罪である。
 勘違いしてはならないとパウロは厳しく言っているが、自らに対してあろうが、人に対してであろうが、望んで態々罪を犯し、働こうとするものが神の国を継ぐことなど一切ないのである。
 それは、「訴訟好き」な人間が、相手の不正を免罪符に、さらなる不正を自己正当化する行為となんら変わりはない。
 相手が平手でたたいてきたら、金属バットで頭をなぐりつけることが正当化されるだろうか。
 相手がなぐったからと、ウキウキと人を殴るような輩は、当然ながら邪悪な存在であり、神の国を継ぐものとはならないのである。


〇洗われ、聖なるものとされ、義と認められた
 何故、喜々として悪を行うのかと、パウロは問いかける。新改訳2017では、洗われ、聖なる者とされ、義と認められたとこれらの三つの事を受動系で翻訳しているが、実は洗うという単語だけは、受動相でなく中動相で単語が用いられている。
 ここに、自身を「洗った」ということについては、主の導きがあったとはいえ、少なからず自身の意思があった事をパウロは強調しているようだ。事実、パウロ自身もそのように、主イエスの光に照らされて盲目であったとき、自らを導いたアナニアから同じことを言われたのである(使徒22章12-16節)。

 即ち、自ら罪を厭って、十字架の血潮で自らを洗ったところには、少なからず自分の意思と決断があったと言うことは、教会の中では当たり前に共有されていた常識であった。騙されて洗礼を授けられる者はいないし、気が付かないうちに勝手にクリスチャンになっていた者もいない。自らの罪を認めるのも、悔い改めるのも、また自らの罪を告白して洗礼を受ける事も、全ては本人の明確な意思と決断によってなされるものなのである。

 そのように自ら決断し、悪の道を行く自らと決別しようと決断し、自らの意思によってイエス・キリストの十字架の血潮によって「自身の罪を洗いながした」にも関わらず、何故まだ、互いに訴え合うような、だまし合うようなことを好んで、率先して行おうとするのか、それは大きな矛盾ではないかとパウロは問うている。

 初心忘れるべからずとはよく言うものの、私たちは自らが何故洗礼を受けたのか、何を決断して、主の前で自らを「洗った」のかについては、折々の所で思い返すべきではないだろうか。


2.詳細なアウトライン着情報

〇裁判係争
1  あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。
2a 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。
2b (やがて主の日に)世界があなた方によってさばかれる(ようになるという)のに、
2c あなたがたはには、ごく小さな(身内の)事件さえもさばく力がないのですか。
3a あなたがたは(つぎのことについて)知らないのですか。
3b 私たちは、(主の日より後には)御使いたちを(さえ)さばくようになります。
3c それなら、日常の事柄は言うまでもない(簡単にさばけるはずの問題)ではありませんか。
4  それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。

〇叱責
5a 私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。
5b あなたがたの中には一人もいないのですか?
5c だれが?:兄弟の間を仲裁できる賢い人が
6a (賢い人が一人もいないが故に)それで兄弟が兄弟を告訴するのですか。
6b それも、それを信者でない人たちの前でするのですか。

〇クリスチャンの在り方
7a そもそも、互いに訴え合うこと(そのもの)が、既にあなたがたの敗北なのです。
7b どうして、むしろ不正な行いを甘んじてうけないのですか。
7c どうして、だまし取られるままでいないのですか。

〇邪悪な人は神の人を相続出来ない。
8a それどころか、(むしろ率先して)あなたがた自身が不正を行い、(他の人から)だまし取っています。
8b しかも、そのようなことを、兄弟たちに対してしています。
9a あなたがたは知らないのですか。
9b 正しくない者は神の国を相続できません。
9c 思い違いをしてはいけません。
10b これらの者はみな、神の国を相続することができないのです。
9d-10a どんな者が?:淫らな行いをする者、偶像を拝むもの、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に溺れる者、そしる者、奪い取る者は、皆です。

〇聖められているはずです
11a あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者で(は)ありました。
11b しかし、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められています。
11c 何によって?:「主」イエス・キリストの御名と、「私たちの」神の御霊によってです。


着情報3.メッセージ

『神の国の相続者』
聖書箇所:コリント人への手紙第一6章1〜11節
中心聖句:『しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。』(コリント人への手紙第一6章11節) 
2023年2月12日(日) 主日礼拝説教

 パウロは、教会の聖性を保つための戒規を行なおうとしないコリント信徒達を叱った後に、彼ら自身の悪を求める姿勢そのものに対しても厳しく問い詰めることを行っていきます。その為にパウロは、コリント教会の中で起こっている裁判係争問題を例にとって、話し始めます。

 コリント教会の中では当時、クリスチャン同士で盛んに互いを訴え合い、裁判係争を起す人々が散見されたようです。しかも、それは「あえて」と1節でパウロが言っている通りに、明らかに不必要な裁判を好き好んで起こす「訴訟好き」な人々の仕業でありました。争う内容も、信仰には関係のない日常(ギ:ビオティカ)の小さな問題ばかりで、互いにだましあい、より大きな被害を相手に与えようとする応酬が続いていたようです。日常生活の些細なトラブルを、クリスチャンではない外の人々に裁いてもらうなどと言うことは、本来あって良いものではありません。パウロは、何故その程度の問題を、仲裁する力が教会に無いのかと叱責します。教会はキリストの身体であって、皆が一致して協力すべき集団であって(1章10節)、しかも、やがて来るべき日に、イエス様と共に、新しい天地を相続し、その所有者となる人々の集まりでもあります。その日には、神様のお創りになられたあらゆる被造物(御使いでさえも!)で、神の教会の管理下に置かれないものはないのですから、私たちはそれらをやがて管理する一人びとりとして、平和的に争いごとを仲裁する能力が必要なのです。そうであるにも関わらず、コリント教会の信徒たちは、日常の些細な揉め事すら仲裁する能力すら持ち合わせていませんでした。そのような状態でおごり高ぶることの、何と恥ずかしいことでしょうか。

 そもそも、仲裁以前に、互いに相手を訴え合う時点で、クリスチャンとしては敗北なのだと、パウロは指摘します。何故、人間は相手を訴えるのでしょうか。それは相手により大きな損害を与え、あわよくば必要以上に奪い取りたいからです。相手からの被害を言い訳にして、喜々として拳を振り上げ、奪い取り、だましてやろうなどと考える態度は、到底、神の民の態度としては相応しくありません。むしろ私たちは、悪事を働かれたとしても、その怒りや復讐は全て神様に委ね、相手を赦し、誰に対しても果たすべき義務を親切を果たすことこそが、神様から求めらているのではないでしょうか(マタイ5章43-48節)。だから、いいわけを探し、罪を犯す機会を喜んで待ち望むような人は、決して神の御国に入る事はできません。神の国に入ることが出来ないならば、私たち神の民は、何によって勝利すればよいのでしょうか。

 私たちは、自分の罪に心を痛め、罪から逃れることを望み、自ら決断してイエス様を信じるのです。父なる神様も、そのような私たちを憐れんで、自らの独り子すらも惜しまず十字架に掛けてくださり、罪びとではなく、神の国の相続者としてくださました。私たちはその憐みに応答する為にも、喜んで罪を犯してなりません。むしろ罪を避けて、聖めを求めて歩みましょう。




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 (日曜日のみ)