1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
七章に入ると、パウロがコリント信徒からの手紙への返事について話し始めるが、ここで一つの大きな節目に入る。
パウロはいままで、クロエの家の者達等、様々な兄姉から「聞いていた」事について小言を宣べてきたが、ここからは実際にコリント教会の信徒から「書き送られた」事についての回答を行っている。
いわばQ&Aのようなものがここから始まっているのである。
一つ目の質問については、書かれている通り「男が女に触れないことは推奨されるべき」という言い分についてのパウロの見解を問う内容である。この「べき」には、ギ:カロスが用いられているが、これは、高潔、善良、立派、高貴などといった意味があり、要するに麗しいとか、推奨されるという意味合いで用いられる単語である。
パウロは、この言い分について同意はせず、むしろ欲望に耐えきる自制心の賜物が与えられて居ない人々に対して、「結婚をするように」と命令を行っている。
この聖書箇所では、「非常に低次元で低俗な内容が扱われている」と考え主張する人々が一定数存在するようである。しかし、パウロがここで扱っている内容は、あくまでも、性的モラルが著しく低いコリントという街で、各々が罪を犯さない為にどのように自衛していくかという、実際的な対処法である為、結婚という概念全体がが「性欲を制御する為に行なうもの」として定義されている訳ではないことは確認しておく必要がある。
パウロが問題にしている内容は、各自、この性的に激しく乱れた環境の中で、どのように罪を犯さずに乗り越えることが出来るかという事についてであり、実際に自らの力のみでこの誘惑に打ち勝ち、自制の中で神に仕えることができるならば、それが一番良いことは、大前提だとも話している。
しかし、神が人に与える賜物はそれぞれであり、その賜物に応じて、それぞれが自分の賜物に沿った人生を賜るのである。即ち、欲望を避けて一人で生きる事が出来る能力も、また欲望に弱い故に神から与えられる結婚という関係も、それぞれ神が私たちに与えて下さる恵みの手段なのである。
「結婚している人が上」、「独身でいる方が麗しい」等と言った議論は、現代日本に於いても相変わらず答えが出ず、言い争われている永遠の命題であるが、パウロはこの命題について、「人それぞれに神が最善として与えられて居る恵み、賜物に対して、人間の価値観で優劣をつけることは許されないことだ」という、聖書の基本的な価値観に基づいて、「人それぞれに神が与えた生き方がある」という言葉を用いて結論しており、人によって幸せの形、即ち神からの贈り物の形は違うのだから、どちらが上であるかと言う議論そのものが愚かな事であるとコリント教会の人々に訴えるのである。
〇良い事だ(1節)
男が女に触れないことをさして、「それはよいことだと他の連中に言ってやってください」という要請が、恐らくパウロに当てられた質問状の中に書かれていたのであろう。自由の為に積極的に不品行を犯そうとする人々に相反して、完全な禁欲主義を良しとする集団もコリント教会の中には居たのである。不品行を行うグノーシス主義者が「左派」とするなら、これは右派であろうか。このことからも、コリント教会全部が堕落した教会であると結論づけることは早計であろう。
「良い事だ(ギ:カロス)」は前述したとおり、高潔、善良、立派、高貴などといった意味があり、それはニュアンス的に、相対する「男が女に触れてしまう」事に優位性を保っていると主張していると考えられる。要するに、「女に触れる連中は、女に触れない兄弟に比べて劣っている」と、この手紙の質問を当てた人々は言いたいのであり、それをパウロと言う指導者に、肯定、もし可能ならば認定して欲しいと言う意図があったように見える。
しかし、パウロは禁欲者が、女性に触れる人々より「優れている」という結論は出さない。勿論禁欲そのものは麗しいことであるが、それが出来る賜物は神様からの賜り物であって、その人間の栄光を現わすものではない。従って、禁欲できるからと言って、出来ない人間に対して誇ったり、優位に立つことの根拠とはならない。まして、行き過ぎた禁欲主義が、結婚した正式な夫婦にまで及び、その性的な関係の一切を断とうとする不自然な行動を引き起こすならば、それははっきりと否定されるべきである。パウロははっきりと、夫婦は互いに性行為を拒んではならないと戒めている。
〇淫らな行いを避ける為(2節)
男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持つがよいというパウロの勧めがここに書かれている。ここには「持つ(ギ:エクゾウ)」のギリシャ語が用いられており、保有し続けることが推奨されていることは明らかである。
パウロが、「女性に触れない事が良い事だと言ってくれ」という質問に対して、いきなり結婚するようにという回答を出した理由は、「淫らな行いを避ける為」である。即ちパウロは、不品行が蔓延るコリントという町の中で自身を清く保つためには、余程の自制心の賜物が与えられて居ない限り、これ以外に逃れうる方法がないという意味で、その救済法を教えているのである。
〇結婚についての議論(2〜5節)
パウロの語る夫婦関係が、性的な不品行を避けるところに主題を置いているからといって、これを低俗な議論だと退けるのは余りにも早計である。パウロは性的な部分以外でも、積極的に夫婦関係についての教えをこの箇所では宣べている。
ここで注目されるべき議論は、三つある。
一つ目の議論は、妻(ギ:グナイカ)と、夫(ギ:アンドラ)が、どちらも単数で書かれている事についてである。即ち、「配偶者は異性を一人だけ得るべきである」という趣旨の内容を宣言しているのである。
一夫多妻や、多夫一妻、また不特定多数との乱れた性的結合をパウロは決して認めていない。創世記2章24節の御言葉に従い、一人の夫は一人の妻であり、一人の妻は一人の夫であるべきである。これを言っているのはパウロではなく、主である(マルコ10章3-9節)。パウロはこの問題について、非常に忠実に聖書の基本原則に従って話を行っているのである。
二つ目の議論は、夫と妻が平等の権利を持つということについてである。
体の「権利(ギ:エグゾウスィアゼイ)」は、行使する権利、支配権、権威などという意味があるが、既にパウロが六章で説明した通り、身体の所有権はキリストにあるので(6章19節)、キリストの意向に反しない範囲で、夫は妻の身体の管理権限を持ち、妻は夫の身体の管理権限を持つということをパウロは言及しているのだろうと思われる。これは所有権ではなく、管理する権利という意味合いでの話の事だと思われる。
これは含蓄深い議論である。夫は、自分の身体を心配する妻の助言に従うべきであるし、妻も夫の言うことを聞き入れて、休むべき時には休むべきである。
何にせよ、夫は自分の好き勝手に自分の身体を用いて、妻からの性的欲求を退けることは出来ないし、妻も自我によって、夫からの性的欲求を退ける権利はない。
例え聖なる目的の為に、夫婦間での性交渉を中断することは、あくまで祈りや礼拝などの聖務に「集中する」ためであり、それらの交渉が汚らわしいからしてはならないといっているわけではない。
だからパウロが、決して夫婦の間にある性行為、性関係を不浄だとか不潔だとか言っていない事を私たちは弁えるべきである。キリスト教の中でも、ある敬虔な(と自分では思っている)人々が、必要以上に禁欲主義に傾倒し、夫婦間の性行為を汚らわしい行為であると断じ、子供をつくる目的以外では一切性交渉を持つべきではないと主張しつづけた歴史は実際にあった。しかし、少なくとも聖書の中にはそのような教えは一切無い。キリストの栄光を穢さないという前提はあるものの、周囲に迷惑をかけないお互いの性交渉について、寧ろ聖書はそれを祝福しているのである。
それ故に、性交渉を伴わない、世間体的、名目的な結婚を聖書が認めていないと言うことも、我々は弁えるべきである。結婚したならば、それは本当の意味での(アクチュアルな)結婚で無ければならないのである。
また、余談であるが、祈りへの専念の為に、夫婦生活の余暇を設けることが許されているということは、夫婦の間で行なわれる行為として、祈りがそれほどまでに貴ばれているからである。
三つ目の議論として、持ちなさい(ギ:エクゼトウ)は命令形であるという点についてである。パウロは後に、これらの事を譲歩であり、命令ではないと言っているが、ここでは確かに命令形が用いられており、さらには、「義務を果たしなさい」、「拒んではいけません」も全て命令形で書かれている事を見落としてはならない。この問題については、後述の「譲歩」で取り扱う。
〇自制力が無い
自制力が無い(ギ:アクラシア)は抑制の欠如、若しくは広い意味での不節制を意味する言葉である。欠如している、という言い方は、私たちにとって一つのヒントになるかもしれない。
即ち、自制心とは欠如しているものであって、訓練によって獲得できるものではないということである。勿論、それぞれの持ち合わせている自制心を訓練によって強化することはできるが、それぞれが元々持っている我慢強さ、自制心と呼ばれるものには差異がある。
何も訓練しなくてもどこまでも我慢できる人もいれば、訓練しても我慢できない人もいるのである。それ故に、自身に自制心が「ある」のか、「ない」のか、私たちは自分と向き合って素直にそれを探り、認めなければならない。そのような自制心の無さを憐れんで、神は誘惑から逃げる手段を与えて下さるからである。
また、そのように夫婦間の性交渉を含めた関係が推奨される理由として、パウロは男も、女も、どちらも同じように「自制する事が出来ない」可能性をはらんでいることを言及している。何故なら、大前提として、私たちは「自制する賜物が与えられて居ないと神から判断されているので」、結婚という関係を賜物として与えられているのである。裏を返せば、私たちは配偶者が居なければ自制できないと、「少なくとも神によって判断されている」ということをよくよく弁え、決して思い上がらないようにしなければならない。
それ故に、結婚という賜物を与えられて居る人は、夫婦ともに自制の効かない者同士で協力し、助け合いながら、一丸となってお互いの聖さを保つ必要がある。そうでなければ、決して聖なる生活が成り立つことは有り得ないであろう。
また、お互いに権利や立場はイーブンであるのだから、例えそれが聖なる目的であろうとも、御互いが離れ、夫婦としての役割を果たさない期間をつくる際には、双方の同意が必要な事もパウロは言及している。一方的に、夫は妻の同意も無く外泊を行なったり、外へ遊び歩いてはならないし、妻も、夫の同意なく勝手に実家に帰ったり、外へ出かけてくるような事があってはならない。
少なくとも、御互いが互いに、どこにいて、何をしているのか知らなくても平気であるという状態が続くならば、それは聖書の教える健全な夫婦関係とは言えないだろう。私たちには確かに自由や権利が与えられているが、それを私たちに与えるのは、他でもない私たちの所有者であるキリストである。私たちは自らの与えられた自由や権利を用いる時、それがキリストの教えを越えず、キリストの栄光を穢さないものであるかよく考え、慎重に自分自身を規制しなければならない。規制出来ないならば、それを補うための手段(この箇所では結婚)が自身に与えられるよう、主の前に良く祈らなければならない。
〇サタン(5節)
いうまでも無く悪魔のことであるが、私たちを誘惑し、罪の中に引きこもうとする力があるということを、私たちはよくよく理解しなければならない。私たちが自制心の無さによって勝手に自滅するのを、このサタンは悠長に待っている事はしない。勿論誘惑が無くとも私たちが勝手に自滅することもあるが、大抵の場合は、積極的に私たちを罪に陥れようと、その隙を伺っている者は存在するのである。
それらが付け込んでくる要素こそが、夫婦仲の不全であったり、互いの権利を侵害しあうなど、愛から離れて反目し合う所に存在するのである。
〇譲歩(6節)
パウロは、5節までを説明した後で、譲歩と、非命令についての話を行い始める。新改訳2017では、「以上」として訳されている言葉は、対角、主格、単数で書かれた「ギ:トウト」であり、日本語ならこのこと、英語ならば単数形の「This」に相当する言葉である。パウロが5節までつらつらと述べている事柄を指して、「以上」と総括するならば、このトウトは複数形であるべきである。
その上、前述で述べた通りに、命令ではなく譲歩であると言いながら、数々の事全てに命令形を用いていることでも、この「トウト」が5節までの事柄を指すならば、パウロの言論には、自制心の無い人々への結婚を命令する文脈的にも数々の矛盾が生じることになる。
したがって、文脈的、文法的に無理のない解釈を考えるとするならば、「これ」は、以上ではなく、「以下」と訳す方が適切であるように思われる。即ち、譲歩されているのは「結婚についての事柄」ではなく、後述されるパウロの「願い」についてであると考える方が妥当であろう。
〇パウロは独身状態を称賛しているのか?
新改訳2017では、読み方を限定する為に、7節の言及に「独身である」と言う語句を挿入しているが、ギリシャ語には一切そのような文言は書かれていないので、これは日本語訳としては適切でない。(新改訳2017自身もそれは本文に無い事を注釈してはいるが)
また、そもそも「私のようでいる」は、「ギ:ホス」を訳しているのであるが、「私がそうであるよう」に、「いわば」、「どのように」、「その間に」、など、この言葉は訳せる範囲が非常に広い。
また、「ギ:エイミィ(英語で言う所のBe動詞)」が合わせて用いられているので、「私自身そうであるように、あなたがた全てもあるべき姿であることを私は願っているのだ」と訳す事もできるし、そちらのほうが妥当であるように思える。
即ち、パウロは独身であるべきとか、結婚しているべきだ、といったどちらの方が優れているという結論を出そうとしているのではなく、彼自身がそうしているように、自らに与えられた現状の生活の中に存在する神の恵みを見出して、それを喜んで受け取るべきであるという励ましのメッセージを送っているのである。
だから、パウロが独身を称賛しているとか、「独身こそ聖く、結婚は汚れている」とか考えることは文脈的にも無理筋であるし、そもそも聖書の原則にも反する。
パリサイ人であるパウロ自身だって、当然結婚していた時期がある筈であるし(エッセネ派以外の、パリサイ人、サドカイ人は、「人は一人でいるのは良くない(創世記2章18節)」の御言葉に従って、共に結婚は大きな義務であると考え、教えていた。そしてパウロは自身をヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人であったと宣言している(ピリピ3章5節)のであるから、結婚経験が無く、しかも意図的に独身であったならば、この発言は言えないはずである)、「ペテロのように妻を連れ歩く権利がないのだろうか(9章5節)」と発言していることからも、彼自身が独身主義者ではなく、たまたま、この手紙を書いている時には何らかの理由(死別か、クリスチャンへ転向した際に離縁が起こったのか色々考えられる)で独身にだっただけであると考える方が自然である。
したがって、この聖書箇所では、独身こそ尊いと言う考えは成立しない。パウロが言っているのは、あくまで現状に恵みを見出し、今の状態を維持せよという奨励である。
〇神からの賜物(7節)
以上の事から、私たちにとっては、独身でいることも、また結婚していることも神からの賜り物である。 私たちは決して、自分自身の現状について嘆く必要はない。独身でいることを楽しみ、また結婚していることを楽しみ、一人びとりが、神様の恵みの中で活き活きと生きる事を、神様御自身も望んでおられる事をパウロは訴えているように見える。
そもそも、人によっての最善は人の人生によって様々であるし、それを十分にご存じの神様が、それぞれに最良の恵みを与えて下さっているのである。何故人間は、そのように神が「最良」と決めて与えられているものを、自分の価値観で、良いとか悪いとか、優れているとか劣っているとか判断するのだろうか。
神が良いと言ったことに対して異議を唱えるのが、人間の罪の本質である。従って、神様からの賜物に対して優劣をつける自体が愚かであるし、コリント人の質問はナンセンスである。神の恵みに異論を唱えるような暇があるならば、自分自身の現状に対して、神がどのような恵みを与えて下さっているか、少し立ち止まって考えてみるべきではなかろうか。
2.詳細なアウトライン着情報
〇結婚の命令
1a さて、あなたがたの書いてきた(以下の)ことについてですが。
1b 内容:「男が女に触れないのは良い事だ。」
2a 男はそれぞれ自分の妻を持ちなさい。(命令)
2b 女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。(命令)
2c 理由:それは淫らな行いを避ける為です。
〇夫婦がもつ身体への権限
3a 夫は自分の妻に対して義務を果たしなさい。(命令)
3b 妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。(命令)
4a 妻は自分のからだについて権利を持っていません。
4b 理由:それは、夫のものだからです。
4c 同じように、夫も自分のからだについて権利を持っていません。(命令)
4d 理由:それは、妻のものだからです。
5a お互いにそれ(体の権利)を奪うようなことがあってはなりません。(命令)
〇例外
5b ただし、もしお互いに合意した時は、祈りの為の(夫婦生活の)余暇をとり、また一緒になることはできます。
5c これは、あなたがたの自制力の無さによって、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。
〇パウロの奨励
6a (今からの)このことは譲歩として言う事です。
6b 命令ではありません。
7a 私が願うのは次のことです。
7b 内容:私もまたそうであるように、全ての人が「(あるべきすがたで)ある(のを感謝して受ける)」ことです。
7c しかし、彼には自身の神からの賜物があります。
7d 一人びとりそれぞれなのです。
着情報3.メッセージ
『結婚について』
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章1〜7節
中心聖句:『一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。』(Tコリント人への手紙7章7節) 2023年3月12日(日) 主日礼拝説教
パウロは6章までの間に、様々な人々から伝え聞いていたコリント教会の問題について言及してきましたが、7章からは、コリント教会から届いた質問状に対しての返信を始めまていきます。最初の質問は、性的な禁欲主義の是非についての質問でありました。
一つ目の質問は、パウロが引用している通り、「禁欲して(独身で)いる人は、(結婚して)女性に触れている人々よりも優れていると思うのですがいかがですか?」と言った内容のものであったようです。パウロはこの質問を受けて、独身が優れていると肯定せずに、寧ろ「不品行の誘惑を受けない為に、男女は結婚するように」と、命令しました。性的に乱れた世の中で生きるにあたって、私たちの大部分は、不品行の誘惑に抗う賜物が与えられていません。ですから、特別に性欲を自制できる(もしくは生まれつきその欲求がない)人でもない限りは、神様から与えられる、祝福された関係の中でこれを管理していくしかないのです。パウロは更に、結婚は一人の男性と一人の女性が行うものであることや、例え聖なる目的の為であっても、夫婦が相手に無断で離れることの禁止、また、自身の身体の管理権限は配偶者にこそ委ねられていることなど、結婚生活に於いての大切な命令を、3-5節の中で行いました。私たちはこの命令から、夫婦の関係というものについて、良く学ばなければなりません。。
パウロは、そのような命令を行った上で、「再臨が近い事を覚えて、各々が自分の現状を維持すること勧める」という自身の願いを宣べています。6-7節は、ギリシャ語の訳し方が非常に難しく、7節冒頭の原文は、直訳すると「私自身がそうであるように、あなた方も『ある』であって欲しい」と書かれています。独身状態が礼賛されている訳ではありません(詳しい解説は教会ホームページをご覧ください)。パウロは、「私自身が、現在独り身であるところに恵みを見出して喜んでいるように、各々が自身の現状に恵みを見出して、それを維持し楽しむことを期待している」と人々に勧めているのです。しかし、パウロ自身も「この事は命令ではなく譲歩として言うのですが(直訳)」と言っているように、幸せの形は人それぞれですから、現状維持に拘らず、それぞれが祈りつつ最善の道を選び、活き活きと過ごせばよいのです。
パウロのように独身状態に有益さを見出す事も、結婚生活に幸福を感じることも、全ては神様からその人に与えられた賜り物です。人それぞれの人生に合わせて、神様は最適な賜物を与えて下さるのですから、その恵みに優劣は存在しないのです。既婚者の方が上だとか、独身者の方が賢いだとか、神様から与えられる恵みに自分達の想いで勝手に優劣をつけることは、神の国の価値観ではなく、この世の価値観です。私たちは、イエス様の十字架の血潮によって、福音の約束を与えてくださる神様にこよなく愛されているのですから、最善のものは与えられていると信じて、日々の中に恵みを見出し、活き活きと過ごせばよいのです。与えられた素晴らしい賜物に目を向けて、一喜一憂せずに神様にお仕えしていきましょう。
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