1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
結婚が神からの賜り物であり、また独身でいる事の出来る自制力もまた、神からの賜り物であることを語った上で、パウロは実際的に、どのように現状に対応していくべきかを、それぞれの立場の人々に対して語りはじめる。
一つ目は、独身でいる人、または配偶者を失った人々に対する命令である。
二つ目は、クリスチャン同士で結婚している人々に対する命令である。
三つめは、聖書の教えに基づいて、パウロ個人が、配偶者が未信者、または異教徒である人々に対しての命令である。
ギリシャ社会における結婚制度は、ユダヤ社会の中よりもはるかに自由度の高いものとして設定されていた。
ユダヤ社会では、女性が男性を離縁することが認められて居なかったが、ギリシャ社会ではこれが認められていたのである。
また、ユダヤ社会の中では、夫婦で宗教が違うという事態は早々礼に無いことだったが(ユダヤ教徒とキリスト教徒の例はある)、ギリシャ社会の中では、そもそも万物の「主」の存在を知る人々が少なく、未信者の夫婦の内、一人だけが救われると言うことも少なくなった。それ故に、ユダヤ教の世界だけではない、あらゆる事態に対して、聖書に基づいた正しい指導がギリシャ社会の中で生きるクリスチャンに必要だったのである。
パウロは、「キリストの教えを引用しての指導」と、「聖書の考え方に基づいて、神の霊と使徒としての権威を用いて指導」の両方を用いてコリント信徒に命令を行っている。後者も神の霊と神の権威によって語られている命令であるので、キリストの命令に比べて劣るものではない。パウロ自身も、使徒の権威を用いながらも、その命令は全て聖書の基本原則に忠実に行われており、神学的にも納得できる内容の命令を下している。パウロは、使徒としての権威を乱用しない。それらの言論の全ては、パリサイ人らしく、聖書の原則に基づいて行われている。
私たちは、パウロのこのような姿勢から、例え聖書の中に直接書かれていない、想定されていないような事態が起こったとしても、聖書の基本原則に基づいてその問題を捕らえて対応することが出来る事を、確認することが出来る。
どのような問題であったとしても、聖書の原則に基づいて考える時、クリスチャンならば誰もが同意できるであろう結論に確かに辿り着く事ができるのである。そのような指導を行う事が出来るのもまた、一つの霊によって召されている私達クリスチャンの強みなのである。
例えば、信者でない配偶者、または、その配偶者との子供をどのようにあつかうかについては、パウロはアブラハム契約の基本に基づいて解釈し、命令を行っているし、全てのものは神が聖別して与えて下さっているという考え方に基づいての指導も行っている。
また、未信者の配偶者を救えるかどうか、どうして分かるのか。という内容の問題についても、それぞれの人には、それぞれの救いの計画があり、その為に用いられる人材は必ずしも配偶者ではないという視点から命令を行い、配偶者の救いについて重荷を負うて苦労している人々に慰めの言葉を与えている。
この一文については、色々と訳し方や捕らえ方があるが、今回の説教では、与えられた神の霊と自身の信仰に基づいて、新改訳2017の、ネガティブな意味合いでの訳文(即ち、配偶者の夫(または妻)を救う事が出来る確証がどこにあるのかというニュアンス)を支持する立場で研究を行なっている。
今回の箇所も、先週に研究した内容と同じく、「神が与え、取り去られるものに対して、人間が異を唱えてはならない」という聖書の基本原則に基づいてパウロが語っているという立場をとって、文脈的な解釈を行って行うものとする。神が「平和を与える為に」常に私たちに働いておられるという15節の言動も踏まえて、文脈的にこれを捕らえることとした。
〇結婚していない人々について
8節でパウロが訴えかけている人々についてであるが、結婚していない人(ギ:アガモイス)は男性系複数、やもめ(ギ:ケライス)は、女性系複数で書かれており、独身男性達、及び、配偶者の居ない女性達というのが直訳の言葉になる。
……とはいえ、パウロのこの命令は、独身の女性、または男やもめとか言われる人々に対して適用できない物ではないし、パウロ自身もおそらくは男やもめであったことから、これらは男性系、女性系に関係なく、独身の人、配偶者と死別した人全員に当てられている勧告であることは間違いない。
コリント教会の中には、独身の女性や男やもめと言われるような人々は少なかったのかもしれない。
彼らに対する勧告は、7節でパウロが勧めている内容の延長である(詳しくは先週の研究を参照)。独身生活、またはやもめ生活に有益性や楽しみ、恵み、喜びを見出す事によって、現状維持を続けることが出来るならばそれが一番良いのだ、というパウロの基本スタンスは変更されていない。
その上で、自制の賜物が与えられて居ない人々に結婚するように再度命令を行う。これはアオリスト、命令形、能動相で行われている。
その理由は、情欲に動かされている人々(ギ:プロウスサイ)より、結婚している人々(ギ:ガメーサイ)のほうが、優れている(ギ:クレイトトン)からだとパウロは説明している。この優れている、とは、〜よりはましだ、若しくはベターだという意味合いで用いられているようで、これこそがベストという言い方ではない。やはりベストは、自制の賜物が与えられた上で現状を維持する生き方なのであるが、どのような生き方を選ぶにしても、そこには主の憐みがある。
この選択でクリスチャンに優劣をつけることは間違っているという結論には変更がない。
〇結婚している人々について
既に結婚している人々、とりわけクリスチャン同士については、既にキリスト本人からの命令が下されているので、それを確認するだけで済む。
妻は夫と別れてはならず、夫も妻と離縁してはいけない。
キリスト派、マルコ10章でこれについて話した時、明らかにモーセにさかのぼり、ユダヤ教の律法の範囲内で話しているため、クリスチャンにまだなっていない、ユダヤ教徒同士の結婚についても、この原則が適用されることは明らかである。
例えキリストによって魂が新しくされていないとしても、神の前で誓った結婚は有効である。
ユダヤ教では、律法の中で夫が妻に離縁状を出す事は合法であるとされていたが、他でもない主キリストが禁止したのであるから、キリストのしもべであるクリスチャンは、神の前に結婚したクリスチャン同士のそれを取り消す事が許されない。
例え、法的に離婚したり、また本人たちが勝手に離婚したと宣言したとしても、それは神の前に取り消す事が出来ないものである。
したがって、その後に再婚したりするならば、そのような時には姦淫の罪を犯しているのと同等の事として扱われるのである。(マルコ10章1-9節)
尚、マタイには姦淫の罪を犯した場合は離婚が認められることが言及されている(マタイ5章32節)が、それは例外の話であるのでここで取り上げられている事ではない。
一応解説すると、ユダヤ教では、姦淫の罪は石打ちの死罪と定められているため、姦淫した時点でその配偶者は死んだものとして扱われる。ギリシャ法が支配するイエスの時代では、ユダヤ法に則ってむやみに処刑する事が禁じられていたので、姦淫した人間との離縁、及び再婚が解禁されるという手法がとられていたようである。
〇配偶者が未信者の人々について
「これを言うのは主ではなく私です」と宣言された上で、この例外的な事態についてパウロは命じている。
これは、福音書の中や、イエスの教えの中では取り扱われてこなかったケースであるが故なのだが、パウロが命じるので、その命令の質が劣っているとか、権威が無いという訳では断じてない。
むしろ、神から賜った権威に基づいて、かつ聖書の基本原則に基づいて命令が行われているため、この命令は神の御言葉と同列の命令として私たちは受け止めなければならない。
→ほかの人々
その他(ギ:ロイポイス)、即ち独身者、やもめ、またクリスチャン同士で結婚している以外の人に対しての勧告である。
ユダヤ社会の中であるならばこの三者だけで話がすむのであるが、コリントという町の中ではその他が存在する。
それは即ち、クリスチャンでない「異教徒の」配偶者を持つクリスチャンである。
(前述の通り、ユダヤ人同士の結婚は、神の前に誓うものなので、異教徒、未信者とはみなされない。そもそも、この時代クリスチャンはユダヤ教イエス派と呼ばれており、キリスト教とユダヤ教の厳格な区分けは行われていなかった)
このような事態が発生する原因として、クリスチャンが他宗教の人間と結婚した場合、または、他宗教の一家からクリスチャンがでた場合など、様々なケースが考えられ。しかし、古代においては、一家の家長が信じる宗教がそのまま一家の宗教になるという例が一般的であり(ヨシュア24章15節、使徒16章31節)、それに照らし合わせるならば、殆どの場合が、他宗教一家の中から(それも大多数は妻の方に)クリスチャンが出たケースであろうと考えられる。
また、そのようなケースを想定する場合、予想できるトラブルのケースは限定される為、パウロもそのケースに従って話を行っているだろうことが文脈から読み取る事が出来る。
即ち、妻が勝手に宗旨替えしたことに夫が怒って妻を離縁するケースか、一家の宗教を統一しようとする夫の号令に従わない妻が夫の元を立ち去る、または夫を離縁するケースである。
そうなった場合、基本的には離婚となることが殆どであり、例え受け入れても配偶者までがクリスチャンになると言うケースはまれであっただろう。それ故に、パウロは相手が立ち去る場合が殆どであることを念頭に、この話題を取り扱っているものと思われる。
→承知している場合
承知(ギ:スネウドウケオウ)は、同意の意味である。これは、承諾、許諾、合意、納得という意味であり、賛同という意味ではない。即ち、しぶしぶでも受け入れている場合を指している。賛同するのは、配偶者もまたクリスチャンとして救われるケースであろうから妥当な言葉選びであるかもしれない。
基本的には、一家は同じ宗教を信じるのが基本ではあるのだが、多神教の世界観に生きるギリシャの人々は、イエスやユダヤの神を、「諸々ある神々の内の一つ」と考えて反対しないケースも多かったかもしれない。
そのような場合は、クリスチャン側から離婚する事は許されない。これは、男性側、女性側どちらであったとしても同じである。
パウロは14節から、なぜなら〜と理由を説明する。
信者でない配偶者は、信者である夫や妻によって、聖別されているが故に、彼らを離縁してはならないのである。
聖別されている(ギ:ヘギアスタイ)は、神の為に特別に取り分けられるという意味の言葉である。これは、綺麗だとかきよいとか、聖人であるとか、そういった意味合いの言葉ではない。神が目的の為に取り分けられ、特別な存在にされているという意味合いの言葉である。
ここで「聖別された」と「妻」、または「夫」を接続しているのは、接続詞「ギ:ガル」であり、これは原因、説明、推論、または継続を現わす為の接続詞である。即ち、「未信者の配偶者は、クリスチャンの配偶者が原因で神から聖別されている」とここには書かれている。
これはパウロが以前6章で話した、遊女と一つになるという議論とも多少関連している。
「遊女、若しくは偶像崇拝者と一体になる事は罪である」と6章では議論されたが、それに基づいて考えるならば、「その理屈は正式な手続きを経て為された結婚に於いても適用される」と結論する人々が出てくることも無理からぬ話である。しかし、パウロは「そうではない」とここでその結論を否定する。
未信者の配偶者は、クリスチャンの為に神が特別に取り分けられた特別な存在である。神はこの配偶者を、愛する神の子らに賜る為に、未信者の中から特別に取り分け、聖められたものとして、与えて下さったのである。
だから、私たちは例え配偶者が異教を信じていようとも、クリスチャンで無かろうとも、その配偶者と交わる事によって、罪を犯したり、身体を穢したりするような事は起こり得ない。「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない」(使徒10章15節)のである。
配偶者がもし、神によって特別にきよめられ、取り分けられた存在で無いと言うならば、その配偶者と設けた子供は姦淫と不義の子ということになり、生まれながらにして神に憎まれる者とされてしまうのであるが、実際にはそうではない。例えばテモテは、父が異教の者であったが、祖母ロイスと母ユニケの信仰によって聖いものとされ、パウロによって御霊を受けて尊く用いられたことは、知っての通りである(Uテモテ1章5節)。
即ち、例え相手が未信者の夫であろうとも、その間に受けた子供であろうとも、それらは全て、神の恵みによって、神に属する者とされているのであるから、安心してこれを受け取り、日々を主と共に楽しく過ごせばよい。クリスチャン夫婦に対して、そうでない者が負い目を感じたり、引け目を感じたりするようなことは決してあってはならない。パウロも、独身者、やもめ、妻帯者、その他の人々の全てを同列の愛する兄弟姉妹として取り扱っているのである。
→承知していない場合
最も多いケースは、クリスチャンになる事を配偶者が承知しない場合であろう。相手が未信者の夫であるならば、一人だけ家族の宗教に従わずに改宗することは、夫の支配に対する反逆であり、逆上した夫が、クリスチャンの妻を追い出すような結果になったとしても仕方のないことである。
また逆に、夫が宗旨替えを行い、一家の宗教を塗り替えようとする時に、反発した妻が自ら離縁状を突きつけて出て行くことも、(男性側からに比べれば事例は少ないだろうが)当然予想されるケースである。
勿論、そこに至るまでに可能な限り説得し、かつ配偶者の為に祈らなければならないが、これについては、最早どうしようもない事であり、少なくとも神は、クリスチャン配偶者にその責任を問われる事は無いとパウロは教えている。
この際に、私たちが確認しなければならないことは聖書の基本原則である。
→聖書の基本原則
まず、神が結び合わされた者を引き離してはならない(マルコ10章9節)のであるが、未信者の夫と未信者の妻が、回心前に行った結婚はその範疇には入らないというのが基本的な考え方である。
しかし、ひとたびそのどちらかが救われたのならば、救われていない配偶者もまた、神によって聖別される。未信者の配偶者は、クリスチャンが「平和」を得て暮らす事が出来るように、神が供えられた賜り物だからである。
それ故に、神が供えられた賜り物に対して、クリスチャンは悪いと言ってはならないし、それを拒絶して自分勝手に捨て、離婚することは許されない。神が良いと言ったものを、悪いと言ってはならないからである。
しかし、(あくまで)不可抗力で、相手が離れていくならば、それは相手の人間の意思によってではなく、神がその賜り物を取り去ったのであると考えるべきである。あくまで、神は愛する神の子が平和に暮らす事が出来るように、全ての恵みを備えられるのである。従って、神が最早必要ないと判断されれば、賜った配偶者が取り去られるケースも当然ながら存在するのである。
そうであるならば、神が「捧げよ」と求められているものを、自我によって手放さず握り続けることは、神の民の取る態度ではない。御心によって取り去られるものはそのままにしておき、新たに神が「良い」といって賜るものを、キリスト者は喜んで受けるべきなのである。
余談だが、クリスチャンが未信者の配偶者と、「信仰を承知しないという理由以外のこと」で離婚しそうになった時には、努々注意しなければならない。
自らの自分勝手さや行動、悔い改めない心によって、神から与えられたものが居なくなるように仕向ける事は、神に対する反逆と見なされるからである。
だから、自らの落ち度で離婚の話が立ち上がったならば、クリスチャンは可能な限りこれを引き留め、改善関係に努め、悔い改めて真摯に関係修復に取り組むべきである。また、その努力の甲斐も無く離婚になってしまったとしても、クリスチャン同士の結婚の例にならって、再婚せずに独り身で過ごす事が推奨される。あくまで未信者である夫や妻との離婚が許されるケースは、「配偶者がクリスチャンであることを承知しない」が故に行われるものに限られるのである。
→配偶者の救いについて
クリスチャンの生活が平和であることを願って、神は未信者の配偶者を備えられたのであるが、その配偶者が救いに入るかどうかは全く別問題である。先述した通り、不可抗力によって仕方なく相手が立ち去っていく場合、または追い出されたりした場合には、それが神の御心であると受け止めて、それに甘んじるべきなのであるが、その際に、神が取り去られようとするものにクリスチャンが、「伝道の為にという聖なる理由」でしがみつくケースがある。
即ち、最早相手が立ち去ろう、または追い払おうとしているのに「もしかしたら伝道の可能性がまだ残っているかもしれないから」と無理に追いかけたり、追い出されたのにしつこく付きまとったりするケースがある。それは、神の御心ではないだろう。魂の救いは、人間の思いや努力によって勝ち取るものではなく、主の救いの計画に従って、神の霊によって齎されるものだからである。
人の救いは、神の御心によって、聖霊の力によってのみ起こり得るものである。どれだけ親しい人間が長年祈りを重ねて訴えかけても、相手が救われるかどうかは判らないし、逆に、全く関係性の無い人間が不意に勧めたことがきっかけで、心動かされて洗礼に至る事もある。(例えば三浦綾子の「塩狩峠」では、主人公の永野信夫は、クリスチャンである母や妹、婚約者ではなく、通りすがりの牧師伊木一馬の辻説教をきっかけに信仰を決意している)。
それ故、「配偶者がまだ救われていないから」と、破綻している結婚に食い下がってはならない。それは、「配偶者が救われないとあきらめる」のではなく、神の造りたもう救いの計画を委ね、神の用意された配偶者を救う為に備えられた人々に対し、配偶者を救う働きを明け渡すということである。
例え離婚したとして、その後に、元配偶者が他の人に出会って救われることは十分に起こり得るのであるから、「自分がやらねばならない」という、自我は磔殺し、常に神の御心に対して忠実でいることが求められるのである。
→平和を得させようとして
神は、クリスチャンを愛し、福音の賜物を与える為に、独り子であるキリストすら惜しまずに全てを与えて下さった。
それはひとえに、私たちが神と共に活き活きとした平和な人生を送る為である。
それ故に、神から与えられるものは、全て私たちが平和に過ごす事ができるようにという賜り物なのである。
配偶者を無くして「何が平和か」とか、「平和が手に入るはずがない」と考える人も居るかもしれないが、神はどのような時でも最良のものを与えて下さるし、全てを良きに成して下さると、もっと積極的に信仰をもって、神の善意を信じるべきである。
例え未信者の配偶者に離縁されて一人になってしまったとしても、神は愛する私たちが平和に過ごす事が出来るように、どの悲しい出来事すらも用いて大きな喜びにつながる御業を行って下さり、より良い恵みを注いで下さるのである。
私たちは、これを信じることが出来るだろうか。
2.詳細なアウトライン着情報
〇やもめ達と独身者達に対して
8a 今、私は結婚していない男性達(女性も含む)と、未亡人達(男性も含む)にに告げます。
8b 私のように(神の恵みに満たされて現状に)留まっていられるならばそれは良い事です。
9a しかし、自制心を持っていない人々は結婚しなさい。
9b 結婚している人々の方が、(現状維持を行って)情熱を燃やしている(又は持て余している)人々よりも強い(又は優れている)からです。
〇既婚者達に対して
10a 既に結婚している人たちに命じます。
10b (これを)命じるのは、私ではなく、主です。
10c 妻は夫と別れてはいけません。
11a もし、別れたのなら、再婚せずにいなさい。
11b もしくは、夫と和解しなさい。
11c このどちらかです。
11d また、(同様に)夫は妻と離婚してはいけません。
〇信者で無い配偶者がいる既婚者達に対して
12a そのほかの人々に言います。
12b これを言うのは、主ではなく、私(パウロ)です。
12c 信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
13a また、(同様に)女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいる事を承知している場合は、離婚してはいけません。
14a なぜなら、信者でない夫は(クリスチャンの)妻を理由に(神から)聖別されています。
14b また、信者でない妻も、信者である夫を理由に(神から)聖別されているからです。
14c そうでなければ、あなたがたの子供は汚れている(不義の子という)ことになります。
14d しかし、実際には(神によって)聖別されているではありませんか。
15a しかし、信者でない方の者が離れていくなら、離れて行かせない。
15b そのような場合には、信者である兄弟、あるいは姉妹は、縛られることはありません。
15c 神は平和を得させようとして、あなた方を召し出されたのですから。
16a 妻よ、あなたが夫を救えるかどうか、どうしてわかりますか。
16b また、(同様に)夫よ、貴方が妻を救えるかどうか、どうしてわかるのですか。
着情報3.メッセージ
『配偶者について』
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章8〜16節
中心聖句:『神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。』(Tコリント人への手紙7章16節) 2023年3月19日(日) 主日礼拝説教
神様が与えて下さった賜物を喜んで受け取り、恵みの内に過ごす事が、神様が私たちに求めておられる生き方であることを、先週は学びました。この原則は独身や結婚の問題だけでなく、配偶者についてのあれこれについても適用されている事を、パウロは教えようとします。
パウロは7章後半で、配偶者に対して、私たちがどのような立ち位置でいるべきかを具体的に教えています。パウロは、独身や、配偶者を無くした人々に対しては、7節で語った通りに、独り身でいるところに恵みを見出して現状を維持することが最上であることを宣べつつも、自制の賜物が与えられていないならば結婚するように命じました。結婚相手もまた、神様からの賜り物だからです。また、クリスチャン同士で結び合わされ結婚している人は、神が結び合わせて下さったものを切り離さないように、キリストの名によって命令しています。一度神の名において結び合わされた者は、法的な手続きを得ようが、本人達がどのように宣言しようが切り離せない為、再婚するなら姦淫の罪を犯すことになるからです (マルコ10章1-9節)。また、片方がクリスチャンで、相手が未信者の場合は、パウロは自らの使徒として神から委ねられた権威に於いて、クリスチャンの側から離婚する(当然、相手が離婚したくなるように仕向けることも許されません)ことを禁じました。例外は、結婚相手がクリスチャンである事を承服せず、自ら立ち去る場合のみで、その場合は引き留めてはならないと命じました。
このように様々なことをパウロは命じましたが、これらは全て、「神が良いと判断されたことを、人間が自分の思いで否定してはならない」という聖書の基本原則に基づいて行われているものです。結婚相手にせよ、独身でいる為の自制の賜物にせよ、それらは全て、各々の人生に応じて、神様が必要なものとして与えて下さっているものです。ですから、私たちは神様の与えて下さった一つ一つのものを、最良のものが与えられていると信じて、謙遜に受け取らなければなりません。ですから、例えクリスチャン相手でも未信者相手でも、自ら離婚を切り出すことは、神様の御心に逆らう罪を犯すことになりますし、未信者の配偶者が、キリストに従う事を良しとせずに離れていくことも、神が御心によって取り去られたものであるとして、甘んじて受け入れなければならないのです(当然、それ以外の、とりわけ自身が原因で迫られた離婚については、悔い改めて食い止めるべきです)。それが例え「伝道」という聖なる目的の為であっても、決して食い下がってはなりません。その人の救いの計画は、必ずしも配偶者に委ねる訳ではありません。神様は、別に最善の道を用意しておられるからです。
例え、一見それが最善でないように見えるものであっても、神様の与えて下さるものは全て私たちにとって最善です。何故なら、天の父なる神様は唯一無二の大切な独り子すら惜しまれなかったのですから、御子よりも価値の無いものを惜しまれる筈がないからです。私たちはこれを信じることが出来るでしょうか。神様を信頼し、御心に従って喜んで歩みましょう。
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