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牧師の説教ノート(6月11日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙8章4〜6節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 様々な前提条件を確認した上で、パウロは偶像に献げた肉の問題について、直接言及し始める。
 ただし、結論は10章の最後の部分で宣べられる事になる為、偶像に献げた肉の問題は、ここではまだ決着とはならない。
 9章からも、パウロは話題を転換して様々な事を話しているように見えるが、全ては偶像に献げた肉に纏わる話であり、話の文脈は統一されている。

 パウロが、8章から長らく言及してコリント信徒達へ伝えたい内容は、「何が正しく、何が間違っているかよりも、私たちにとって大切なことがある」ことと、「私たちにとって大切なのは、主なる神から評価されることである」という二つの内容である。「偶像に献げた肉は、食べたところで私達を穢す事は無いのであるから、食べても別に問題がない」というのは、確かに正しい知識である。
 しかし、だからと言って、偶像に献げた肉を食べようが食べないが、私たちは、主から評価を受ける事もなければ、下げられる事もない。それ故に、私たちにとって、その知識がいくら正しかったとしても、「どうでもよいこと(ギ:アディアフォラ)」なのである。
 この視点を持たない限り、この偶像に献げた肉の問題について、正しい見地、即ち神の国の価値観を得ることは出来ないだろう。

 パウロが、6節までで、愛の配慮をコリント信徒に勧めた理由は、これらの見地、即ち、神から評価されないことには意味が無いことをコリント信徒に伝える為の説明であり、「偶像に献げた肉を食べても、神様からの評価は変わらないが、良心の弱い兄姉を気遣う方が、神様からの評価を受ける」為である。

 それ故に、パウロは、今週の箇所の7節から、神に評価されることと、知識が正しいことはまた別の問題である事を、様々な例を挙げながら説明していく。即ち、今週の箇所の7節から、10章末尾までは、これらの見地を得させるための一連の説明であって、話題も結論もまた一つであると言うことを念頭に読んでいけば、話が飛ぶように見える一連の話も理解がしやすいのではないかと思われる。

 コリント教会は、つい最近まで偶像の信仰を持っていて改修した人々も多く、偶像が現実に存在しないと言われても、それを実感として受け入れられる者ばかりでは無かった。それ故に、いくら食べても大丈夫だと言われても、偶像に献げた肉を食べたことによって、自分は罪を犯したのではないかと罪責感に苛まれたり、自分がしたことが正しかったのか、間違っているのか確信が持てずに傷つく結果を招き、それによって、教会から離れたり、嘆きながら耐えられなくなって信仰を捨ててしまうことになりかねない危険性もあったのである。

 それ故、自身が偶像に捧げた肉を見せつけるように食べた上で、相手にもそれを強要し、そのような信仰の定まっていない人々を悩ませるような結果を招く者は、いくら良心が強かろうが、神の御心に従っているとは決して言えないのである。
 確かに食物は食べても食べなくてもよい、「アディアフォラ」であるが、時と場合、経緯までを鑑みた場合、それらは決してどちらでも良いものとはならないのである。

 それが正しい知識であったとしても、その正しい知識を不注意に振りかざすものは、神からの不興を買うこととなり、その者は、躓かせ、失われた魂に対しての血の責任を問われる事になる(エゼキエル書33章6節)。

 正論で人を追い詰めて傷つける行為を、現代では「ロジハラ」などと呼んだりするが、理屈的に正しいことが、全ての場面において「正解」で無い事を私たちは弁えなければならないし、正論で人を傷つける行為が、決して良い事であるなどと勘違いしてもならない。「正しい」と、「良い」は似て非なるものなのである。

 では、どのような物差しを用いて、私たちは、その場その場での対応に対して、「良い」を判断すればよいのだろうか。
 答えは簡単である、「良いものは神だけである」とキリストも語っている。
 つまり、「主の御心に適っているかどうか」、「神がそれを見て喜ばれるかどうか」こそが、私たちにとっての「良い」なのである。
 私たちは知識的な正しさよりも、神の御心に在って「良い」を追求していかなければならない。


〇7節
 「知識(ギ:グノーシス)」は、即ち、偶像は存在せず、この世界に神と呼ばれるに足る方は一人のみであるという知識がこれに当たる。
 1節では、この知識について、「私たちは皆」とパウロが言っているにもかかわらず、ここでは持っていない人もいると語られ、矛盾が起きているように見える。しかし、「ある」と、新改訳2017で訳されている部分には、ギリシャ語の「内にある(ギ:エン)」が用いられており、知識を保有しているかではなく、内側に自分のものとしてもについているかが言及されている。

 知識として知ってはいても、身については居ないということは、私たちの生活の中でも良くあることである。頭では判っていても、やはり疑ってしまう、怖がってしまうような人々も、当然教会の中には存在したのである。

 「習慣(ギ:スネセイア)」は、これまで、自身の生活の一部に「偶像」と、「偶像に捧げられた食物」が密接に存在していた事が示されている。
 そのような前提がある場合、いくら「偶像は居ない」「その食物に力はない」と言われても、その実感を得ることはとても難しかっただろう。それまで、偶像は確かに実在し、その食物にはその偶像の力が宿っていると実感しながら生きてきたのである。

 それならば、偶像に捧げられた肉を食べるという行為は、改宗したばかりの兄姉にとっては、この上なく自身の身を穢すものであったに違いなく、それ故に、そのような偶像に捧げられた供物から距離を置こうと考えることは当然のことであったと思われる。
 そのような兄姉の賢明な努力を嘲笑って、「知識のある人々」は、彼らのことを「弱い良心」だと馬鹿にしたのである。

 「弱い良心(ギ:スネイデシス・ウートン・アスセネス)」は、信仰が薄いという意味合いではなく、確信に至っていない兄姉の事を指して、「知識ある人々」が使った「蔑称」であろうと思われる。パウロは、そのような自身に知識があると誇っている人々を辱める為に、敢えてそのような蔑称を彼らが用いているように引用して、このところで話していると考えられる。

 「穢される(ギ:モルネタイ)」は、良心の呵責に苛まれたり、自身の行動に対して悩み苦しむ状況を指すものである。未だ確信に至っていない者に対して、分別がついていないことを無理やりに行わせ、その者を悩ませる時、私たちは、その兄姉の良心を「穢している」ことになるのである。これは勿論、キリストに対しても、神に対しても大きな罪となり、それらは決して、「アディアフォラ(どうでもよいこと)」とはならない。


〇8節
 「立たせる(ギ:パラステセイ)」は、傍に来させる、前に立たせる、法廷に立たせると言った意味合い以外にも、さまざな意味を持つ単語であるが、「判断される」といった意味合いでこの箇所では用いられているようである。

 即ち、神によって判断される裁きの場に私たちを立たせるのは、食物ではない。即ち、食物によって、私たちは、神から、称賛も咎めも受けないという意味合いでここでは用いられている。
 未来系で書かれている単語であるため、恐らくは将来、この世の終わりの裁きの際の事を語っていると考えられるが、写本によっては現在形で書かれているものもあり、現在形で考える場合は「今、その時に神からの不興をかうか、良い印象を与えるか」といった意味合いでの単語の使用になる。
 しかし、未来形でも現在形でも、どちらでも大切なのは、「食物によって私たちは裁かれない」という部分である。

 「損(ギ:ヒステロウメサ)」は、劣っている、不足している、後れを取っているという意味合いがある単語であり、「得(ギ:ペリッセウーオメン)」は、必要十分、豊か、溢れている、たくさんあるという意味がある。
 即ち、食べなかったからといって、神の前で、その評価について「劣っている」「後れを取っている」ということは無いし、食べたからと言って、やはり神の前で、「覚えが良いとか」「その評価に必要十分である」ということにはならない。
 結局、食べ物は私たちにとって、神の前での評価に繋がらない以上、どうでも良い事なのである。だから、偶像に捧げた肉を食べられるからと言って、私の方がクリスチャンとして上だ、などと考えたところで、その自己評価にも何の意味もないのである。


〇9節
 「気をつけなさい(ギ:ブレペテ)」は、そのまま、警告を促す言葉である。確かに、食物は、どうでも良いものであり、それによって私たちが神の前に立たされることは無いのであるが、しかし、状況によっては、私たちが裁かれる要因に変化する事もある。
 それ故に、食物の事だからと侮って、横暴に振舞う時、私たちは神の前に立たされることになる。

 「権利(ギ:エクソーシア)」は、自由、権利、資格という意味である。クリスチャンは、この世界のものを全て自身をもって、その良心に従って自由に食べても良いのであるが、その権利は、神の御心に逆らったり、他の弱い兄姉を躓かせる為に用いられるものではない。
 もし、それを履き違える時に、私たちは神の前に立たされ、その自由の行使によって裁かれる事になるのだから、努々気を付けるべきである。

 「つまずき(ギ:プロスコムマ)」は、躓き、転ぶきっかけといった意味のある言葉である。信仰的な失敗、即ち、心穏やかに過ごす事が出来る信仰生活を頓挫させるようなことを指す。偶像に献げた肉を無理に食べさせられる事も無ければ、乱れなかったはずの心や良心が、そのことによってかき乱され、平安で居られなくなる時に、それは躓きなのである。
 「信仰が無くなること」を躓きと定義する向きもあるが、やはり、心の平安が奪われる機会と考える方が恐らく正確だろう。

〇10節
 「知識のある貴方(セ・トン・エコンタ・グノーシン)」は、所謂「良心の弱い人々」を侮辱していた人々の自称であり、パウロも敢えてその自称を引用することによってあてこすっているように見える。単純に、嫌味、皮肉として言っているのではなく、これによって、自身が知識を持っていると奢っている人々が恥じ入って、悔い改める為という狙いがある事は明らかである。

 「食事をしている(ギ:カタケイメノン)」は、直訳すると、休んでいる、横たわっているという意味の単語である。当時のギリシャ地方では、食事をする際は、横たわって行われるのが一般的であり、イエスもそのように弟子達と食事をとられていた。
 偶像の宮で食事をする機会とは何であるかと言えば、当時、神殿に纏わる食事に社交目的で招かれることは珍しい事では無かった。当然、その中には少なからず、偶像の神への礼拝的な行為も含まれていた筈である。
 現在発掘されている、オキシリンクス・パピルス写本の中にも、「私ケレモンは、貴公を、明日、サラペイオン(サラピス神殿)におきます、主サラピスの食卓にお招き申し上げます」といった招待状の記述が残されている。

 コリントの街の中では、特に他意なく、善意でこのように互いに食事に誘い合うことは一般的であった。
 それ故に、「そのような場所に出かけて行って食事をすることは、別段何も問題はない」と、知識と良心によって判断し、唯食事をして帰ってくるだけならば、その人は特に主から裁きを受ける事もないのであるが、その姿を、良心の弱い人が目撃した場合、意図せぬところで、その人を躓かせる結果を招き寄せる事になる。

 やむを得ず出かけて行き、また見せつける目的も無くそうなってしまった場合は、それは単純に不運と過失であり、悔い改めれば主も許して下さるが、自信満々に言いふらし、かつ、必要もないのに弱い人々に見せつけて「私の良心の強さをみせてやろう」などと喧伝しつつ食事に参加したのだとすれば、その者は疑う余地も無く主の前に立たされ、弱いものを躓かせた罪によって裁きを招く事になるだろう。

 「後押し(ギ:オイコドメセセータイ)」は、建築、築き上げる、構築、啓発、奨励といった意味合いがある。上記の通り、偶像の宮での食事は偶然目撃されるものではなく、意図的に見せつけられて行われる物である。
 おそらくは、「良心の弱いお前の信仰を、建て上げてやろう」などと言って、その人を偶像の宮へ連れて行き、そこでわざと食事を行って、良心の弱い人を困惑させている様子を、パウロは想定しているのであろう。

 自称、知識のある人々は、良心の弱い人々の信仰を建て上げる(ビルドアップ)させようとして、それを行っているつもりなのかもしれないが、寧ろ、その人間は、間違った方向に建て上げられ(奨励され)て、偶像礼拝に参加するようになる。
 それは即ち、偶像礼拝から解放された筈の兄姉を、元の偶像礼拝に送り返すことに外ならず、偶像の神の力を得た肉と信仰して、偶像に献げた肉を食べ、教会の礼拝にも、また偶像礼拝にも両方参加するようになってしまうのである。
 それは、正に、その兄姉を滅びの中に追い込む行為に外ならない。


〇11節
 「滅びる(ギ:アポロウタイ)」は、そのまま滅びの意味である。直接法現在で書かれている為、将来的に滅びの中に入るのではなく、現在進行形で滅びの中に突き落としているという事になる。即ち、偶像礼拝の中にその兄姉を追い込むことによって、その人は主との命の交わりから外れて、命の道ではなく、滅びの道を歩む羽目になるのである。
 その原因が、そそのかした人間による「正しい知識」だというならば、最早その血の責任は、その「正しい知識」の持ち主に全て降りかかる事になる。その際における、神の怒りは計り知れない。
 
 「死んでくださった(ギ:アペサネン)」は、そのまま、死なれたという意味である。アオリスト、直接法、能動相で書かれている為、積極的に、能動的に死んだという意味合いがある。良心が弱いと見下しているかもしれないが、その人の為にも、積極的に自ら死の中に足を踏み入れて下さったキリストの事を、私たちは決して忘れてはならない。


〇12節
 「罪を犯す(ギ:ハマルタノンテス)」と、「傷つける(ギ:ツプトンテス)」は、並列して語られている単語であり、罪を犯すのと、良心を傷つけることは並行して行われる。
 即ち、良心の弱い兄姉を躓かせ、悩ませることは、その兄姉に対する罪であり、同時に、その良心をいちじるしく傷つけるのと変わりがないということである。

 食事を食べること自体は確かに、良くも悪くもないどうでも良いものであるが、それを用いて、キリストが救おうとした兄姉を傷つけようとするなら、それはキリストに対する著しい罪である。
 それ故に、パウロは、キリストに対して罪を犯していると、そのような行為を平気で行う「知識ある人々」に対して宣告しているのである。


〇13節
 「躓かせる(ギ:アカンダリゼイ)」は、9節のプロスコムマとは、意味は同じであるが、ニュアンスは少し違う方向で用いられている。アカンダリゼイは、罠にかける、不快にさせる、罪に誘うという意味があり、即ち、自分が偶像の肉を食べていること自体が、弱い兄姉にとっての罠になってしまうのならば、という意味合いで、この説は語られている。
 当然のことであるが、これは限定的な条件文であり、もし、そういうことになるのだとすれば、という前提の下でパウロも語っているので、パウロがこれを書いてから以後、常に菜食主義者となったと考えるのは不適切である。

 しかし、気持ちとしては、そのように考える事は必要である。自身の良心の強さによるのではなく、私たちは、共に居るに兄姉の良心に合わせ、気遣って行動しなければならない。それが愛の配慮である。

 そして当然であるが、「良心の弱い人々」もまた、少しずつでも信仰的に成長し、自身もまた、良心の弱い人々に合わせられるようになって行かなければならない。自身の良心の弱さを立てにして、他人に対し「躓きました」などと自己表明するような輩もまた、それによって信仰の強い兄姉を躓かせ、神の前に立たされ、裁かれる事になるということは、当然ながら弁えるべきである。神の前に、所謂「弱者ビジネス」の概念は、決して通用しない。パウロは、何時まで経っても信仰的に成長せず、乳飲み子のままであるコリント信徒達に対して戒めを行った。それはもう、前の箇所で学んだ通りである(Tコリント3章1-2節)。

 大切な事は、神の御心の為であるならば、私たちは何時でも、自分の利益や権利を放棄する用意が無ければならないという所にある。そう考えれば、私たちは常に損失を被る人生を歩むかのように錯覚するが、万軍の主は、神の国と神の義を求めて行動する者には、多くの恵みを注いで下さる。私たちが被った損失程度を、補填できない方が私たちの神であろうか。信頼して、神の御心を追い求める人生を、私たちは歩んで行って良いのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇食物と、私たちに下される主の評価の関連性
7a しかし、全ての人にこの(偶像は存在せず、したとしても我々の神にはなり得ないという)知識があるわけではありません。
7b ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に捧げられた肉として食べて、その弱い良心を穢されてしまいます。
8a しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。
8b 食べなくても(私たちへの主の評価について)損(マイナス)にならないし、食べても(私たちへの主の評価について)特(プラス)にはならないのです。

〇キリストに対する罪
9  ただ、あなたがたのこの(全てのものを食べても身体が穢れる事は無いという)権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
10a 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、(どうでしょうか)
10b その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。
11a つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになるのです。
11b この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。
12  あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

〇結論と実践
13a ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、私は今後、決して肉を食べません。
13b それは、(弱い)兄弟をつまずかせないためです。

着情報3.メッセージ

『正しいと良いの違い』
聖書箇所:コリント人への手紙第一8章7〜13節
中心聖句:『兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。』(コリント人への手紙第一8章13節) 
 2023年6月25日(日)主日礼拝説教完全原稿

 6節までに様々な前提を確認したパウロは、いよいよコリント教会の信徒達に対し、偶像に献げた肉を食べることについての是非に回答しようとします。まず大前提として、人間が創作した偶像の神はこの世に存在しませんから、それに献げた肉を食べたところで私たちの身体が穢れることはありえませんし、また、どのような肉でも、天地の全ては、主なる神様のものなのですから、私たちはそれらの全てを、感謝して食べる権利を持っていることは確かです。しかし、その権利を行使することが、常に神様の前で「良い」と評価される訳ではありません。

 ……というのは、私たちクリスチャンは、キリストの十字架の血潮によって買い取られた、神の奴隷だからです(7章22節)。少なくとも、キリストを信じて洗礼を受けたならば、私たちは自分の意思でキリストの所有物となっています。ならば私たちは、自分の行動が「正しい」かどうか以上に(勿論正しいことは非常に大切なのですが)、それが主人であるキリストに評価されるものであるかについて注目しなければならないのではないでしょうか。行動自体が間違ってないとしても、それで主人の不興を買うなら、それは本末転倒だからです。
 昔から、「損して得取れ」と言われるように、例え一時的に損をしても、結果的にそれが上役や周囲からの良い評価につながり、自分の利益になることもあります。同じようにパウロも、「権利があるかどうか、またそれを用いるのが正当であるかどうかよりも、主イエスから不評を買い、罪を犯すことを避ける方が大切である」と、コリント信徒達に勧めているのです。

 パウロが、7〜10節で、手紙に書いているのは、正にそのようなことなのです。偶像に献げた肉を食べることに心を痛める兄姉達を馬鹿にして、これ見よがしに偶像の宮で礼拝に参加し、その肉を食べる様子を見せつけて、弱い人々を躓かせようとする人間が大勢いたのです。そのような暴挙を弱い人々が見れば、それによって心が更に傷つき教会から去るようなことにならないでしょうか。また、偶像礼拝に参加する事は良い事なのだと勘違いして、教会にも、偶像の宮にも出かけるようになり、結果、救いを取り逃すような事にならないでしょうか。
 
 まだ弱く、信仰に入ったばかりの兄姉達も、天の父なる神様に愛されて招かれた一人びとりです。そして他でもない私たちの主イエス・キリストは、この人々の為にも十字架に架かってくださったのですから、それを台無しにするような真似が、良い評価につながろうはずもありません。むしろ、「救済の計画の邪魔をする反逆者である」として、弱い人々を躓かせた人は、その激しい怒りを、他でもない自分の主人でる神様から受ける羽目になるのです。天の父なる神様もまた、そのような事をする者には血の責任を問うと宣言されていますし(エゼキエル書33章6節)、イエス様もまた、「石臼を首にかけて海に沈められた方が、まだその人のためになる」とすら言われていいるのです(マタイ18章6節)。それ程までに恐ろしい結果を招き寄せてまで、自身の些細な「自由と権利」を行使することは、果たして賢い選択なのでしょうか。

 私たちは、「自分にとっての正しい」よりも、イエス様にとっての「良い」を求め続けるべきです。パウロが、13節で、他の兄姉を躓かせない為に、肉を食べることを避けると宣言したように、神様の御心に適う「良い」ことを行う為には、自分の自由や権利を返上し、不利益を被るような選択を取らなければならない時もあるでしょう。しかし、神様は、そのように歩む人が被った損失以上の恵みをもって、十全に報いて下さいます。恐れずに神様のことを信頼し、自分にとっての「正しい」ではなく、神様にとっての「良い」を追い求めていきましょう。



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