1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
8章に入り、話題は偶像の肉の問題に切り替わる。「偶像に献げた肉についてですが」と、パウロが態々口に出して言っているのは、コリント教会からパウロに当てられた質問の次の項目へ移る為である。パウロは、その宣言としてこれを言っているのである。
即ち、ここから手紙の話題も、パウロが教えようとしている話の内容も切り替わるので、7章までの話題を絡めて、ここから先を読む必要はない(勿論覚え、踏まえて読むことは必要である。関連性がないというだけの話である)。
性の問題、また、それに伴う現状変更の問題など、多くの問題が取り扱われてきたが、8章からは偶像の問題について取り扱われていることが判る。
今まで取り扱ってきた、性や風俗の乱れの問題と、偶像の問題については、その結びつきが非常に強く、異教の神殿行事に於いては、神殿娼婦や神殿男娼を伴う背徳的な儀式が必ず行われると言い切っても良いぐらいに、切っても切り離せない問題であった。
異教の、特にギリシャ的な神殿のそれは、非常に性的な乱れが著しく、テアテラ教会に現れた自称女預言者イセベルも、「教え、惑わし、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている」と告発され(黙示録2章20節)ている。勿論、これらはクリスチャンにとって最も避けるべき不品行であり、可能な限り距離を取らなければならないものであった。
しかし、今回、8章から取り扱われている問題は、そのように、「異教の儀式に参加してはならない」とか、「偶像に心を惹かれてはならない」とか、「偶像を礼拝してはならない」といった、「一般的な偶像問題の話題」ではない。
コリント信徒たちは、この点については、とうの昔にクリアしており、今更、偶像に惑わされ、異教の礼拝に走り、躓こうとしているものは(少なくとも、パウロが手紙の中で問題視しないぐらいには)いなかったのである。
では、ここではどのような偶像の問題が取り扱われているのだろうか。
偶像に献げた肉の問題について、まず最初に私たちが理解すべきことは、コリント教会の信徒たちは、偶像についての正しい知識を確かに持っており、その知識はパウロも同意し、一致するものであったというところである。
即ち、コリント信徒達の「偶像に関する知識」は、完璧に近いもので、パウロもそれについては否定する所がなかった。
そもそも、本当にコリント教会信徒が、偶像を恐れたり、また迷ったりしているならば、最初の質問文で、「偶像の肉(ギ:エイドロストン)」という言葉を使うことはしなかっただろう。コリントでは一般的に、この肉の事は、「ギ:ヒエロストン(聖なる供え物)」とか、「ギ:セオストン(神への供物」と呼んで取り扱っていたのである。
それをわざわざ、神ではなく偶像と呼び変えて質問しているのであるから、コリント信徒達は偶像に惑わされるような弱い信仰は、持っていなかったようである。
では、コリント教会の人々は、この話題について、一体何をパウロに質問しようとしていたのだろうか。今回の偶像に纏わる質問は、偶像の事を弁えていても尚起こる問題、即ち、一般社会とクリスチャンの生活とのすり合わせの際に起こる、地方伝道の問題である。
コリント信徒は、例えクリスチャンになったとしても、コリントの街で生きる必要があったし、催事や祝い事など、様々な社会的イベントは、全てこういった偶像礼拝と切り離すことが出来ないため、異教の文化の中で生きる以上、偶像の文化とはどうしても折り合いをつける必要があったのである。それでなければ、コリント信徒は、クリスチャンに成った途端に、コリントの街から出て行かなければならない。
これは、現代の日本でもしばしばみられる、地方宣教、地方文化、地方習俗とクリスチャンの間に起こる(日本人クリスチャンにとっては)身近な問題なのである。
例えば、現代の日本だって、田舎の町内会では、神社のお堂が寄り合いの会場になるし、地域の祭りは当然神社の神事に関連するものとなる。これらは宗教行事というよりは、むしろ地域社会の伝道文化そのものであり、これを否定するのは、宗教心という問題を越えて、私たちの実生活にまで影響を及ぼす。
他にも色々と問題は起こる。例えば、町内会の寄り合いが終わった後、神主が(勿論善意で)、神社のお神酒の余りものを振舞ってくれることもあるだろう。会議中には、(これも勿論完全な善意で)供え物の払い下げであるまんじゅうを、茶うけに出してくれることもあるかもしれない。
私たちクリスチャンは、それが善意であり、宗教的意味が伴わない事を判っているのであるから、何の遠慮も無く、感謝してこれを食べれば良いのであるが、クリスチャンになりたての人や、知識が完全でない人にとってはそうでない。
町内会の懐疑で神社へ普通に出かけ、お供えの饅頭を喜んで食べ、お神酒をありがたく頂いている牧師の姿を見れば、(別になんら宗教上問題はないのであるが)少なからず躓く信者はいるのではないだろうか。
偶像に何の力も無い事そのものは判っていても、こういった地域習俗に根深く関係する問題は、私達クリスチャンにとって大きな悩みの種となり、躓きの石となるのである。
同じように、コリント教会の信徒達も、偶像の肉に纏わる儀式に関わらなければならない事については、頭の痛い悩みの種であったし、かつ貧しい下層階級の信徒にとって、肉という栄養を取る機会は、偶像の問題をさておいても逃したくはなかった。平たく言えば、肉を食べる事の出来る機会を全て放棄する事は、生活的にも生存的にも不可能であったのである。
また、祭りにともなって催事で生贄に捧げられた多くの肉は、払い下げられて売りに出された。割安の肉は、コリント信徒の一般家庭にとって、十分に栄養を取る良い機会であったし、普段のまずしい食生活が、安価で豊かになる心の拠り所でもあった。
信仰はさておいて肉は食べたいが、偶像に纏わる肉を喜んでたべるのはクリスチャンとして如何なものか。これがコリント信徒がパウロにかいてよこした質問の概要である。
箇条書きにしてまとめると、
1.コリントの街の祝い事は全て異教の祭りに関連しているが、クリスチャンはこれら全てと関係を断つべきか。
2.他所の家の食事に招かれた時、偶像に捧げた肉を出されたら、クリスチャンはそれを拒絶するべきだろうか。
3.店先で購入する、肉や革製品に、偶像に捧げた肉が混じっているかどうか判別るす方法が無く、避けきれないのだがどうすればよいのか。
といった問題が、コリント信徒の生活には差し迫るものであった。
偶像に捧げた肉については、実は既にエルサレム会議で、「偶像にささげたものは避けるように」と、外国人クリスチャン達に勧める決議を出しているのであるが(使徒15章23節)、ここで言われている「偶像に捧げたもの」と、コリント信徒の問題にする「偶像の肉」の問題は全く別の問題である。
エルサレム会議での決議は、「どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいる」ことを鑑みて、現地の宗教指導者に指導を委ねるという意味での便宜的なものに過ぎず、その意図する所は「異教の宗教儀式に参加しないように」という意味で、偶像に捧げたものは避けろといっていたのである。異教の宗教儀式に参加すれば、そこで振舞われる食事はつきものだったからである。
それ故、エルサレム会議の決議は、「偶像儀式の後に払い下げられた肉が生活必需品となっている」状況までは想定されていなかったと考えるのが自然である。それ故に、パウロも、エルサレム会議の決議については話題に出さず、また別の問題として真摯に、これについて答えているのである。
ここまで長く語ってきたが、要するに、コリント信徒は、パウロに「偶像の肉は食べても問題ないので、普通に食べなさい」という言葉を、使徒の権威によって命じて欲しかったのである。知識のあるコリント信徒は、皆、その知識によって偶像に捧げた肉を食べようが自分達に影響が及ぶことは一切ない事を悟っていたが、権威によってそれが保証されているわけではなかった。
みんなそうだろうと思っていても、公な権威によってジャッジが必要になるということは、現代社会でもよくよくあることである。問題ないと判っていても、公に判定が出るまではそれはグレーゾーンであることに変わりはないからである。
しかし、パウロはこの質問の意図を見た時に、その要求の意図する所に問題を見出し、まずコリント信徒に愛によって行動する事を語り始めた。コリント信徒が、自分達に良心に対して安心する為に、グレーゾーンを無くして欲しいという趣旨での質問ならば、パウロも素直に「食べて良い」といっただろうが、今回の質問の意図するところは、「偶像の肉の問題についてぐずぐず言う、良心の弱い連中を黙らせてほしい」というものだったからである。
偶像の肉の問題について割り切れず、それを食べる事について戒めたり、咎めたりする人々が少なからず居たのであろう。間違いなく、一部の「知識のある人々」は、そのような「良心の弱い人々」を鬱陶しく思っていたのである。
勿論、良心の弱い人々は、成長して「知識ある人々」に成長することが大切なのであるが、しかし、その成長を待たず、先に成長した人々が後進の人々に対して、何の配慮もしないどころか、する必要性すら感じていないということは、由々しい問題である。
それ故にパウロは、偶像の肉を食べる食べない云々の話の前に、何故か、まず「愛と知識」についての話題を取り扱い始めたのである。
信仰の先達による、後進への愛の配慮は、キリスト教信仰にとっても、最も大切な基本理念の一つであり、キリストですら「隣人を自分のように愛せよ」と、この命令を最も大切な律法の一つとして語ったほどである。
それ故、8章から取り扱われている「愛の配慮」も、7章の「神の与えたところに従う」という基本理念と同じぐらいに大切なものなのである。私たちは、偶像の肉の問題の是非よりも、ここから学ばなければならない。
「知識(ギ:グノーシス)」は、知識、知恵といった言葉であり、純粋に教養を指す言葉である。ここでは単純に、聖書の知識、及び信仰知識についていっているのであろう。しかし、そのような知識だけが先行する信仰は、人を「高ぶらせる(ギ:プスィオイ)」だけであると、パウロは評価を行っている。
プスィオイは、膨らむ、傲慢、思い上がり、という意味があり、増長を現わす言葉である。
人間は知識があれば思い上がり、その知識を振りかざして、他人に対し傲慢に振舞うようになる。
信仰も同じで、御言葉を学び、その理念を勉強することは大切であるが、ただ学んで知識を増やしているだけでは、それは信仰的な成長をもたらさず、寧ろ思い上がって成長は後退するばかりであると、パウロは言及しているようである。
では、私たちの信仰に、成長をもたらすものは何なのであろうか。それこそが愛の配慮である。私たちは知識を学び、身に着けることによって「強い良心」を手に入れるのと並行して、愛の配慮を実践し、これを自分の生活の中に身に着け、他の弱い兄姉の為に、忍耐することも学んでいかなければならない。
自身の言動や行動が、他の弱い兄姉にどのような影響を与えるのかを十全に思索し、その上で行動し、時には(本当ならば)必要のない事すらも、両親の弱い兄姉の為ならば行い、骨を折る事を辞さないようにすることは、その人に大きな信仰的成長を促す。
もし、信仰の先達が弁えて、弱い人々を躓かせず、寧ろ励まして導くならば、両親の弱い人々もやがて成長して強くなり、先達と同じく、愛によって更なる後進を導くように成長する。
そのような麗しい関係が成立する時、教会は更なる一致によって信仰が燃やされるようになるのである。正に、愛は人を育てるのに有益なのである。
そのような事を悟りもせず、自分が信仰の知識を手に入れただけで何者かになったかのように思っているならば、その人は、本当に「知るべき程の事」すら知っていない、的外れな信仰によって歩んでいるのである。
もし、その人が本当に「知るべき程の事」を知ったならば、そのような以前の自分の姿には恥じ入る以外になにもすることが出来ないだろう。
そして何より、私たちは、神すら知り尽くしていると思っても、実際には神によって知られている一人一人にすぎない事を弁えなければならない。
私たちが、神を愛するならば、神は私たちのされる事を全て見られており、同じように神に愛されている他の兄姉に対して、どのように振舞っているかも、見ておられるのである。
神を愛する者は神に知られており、誇っているコリント信徒も、弱い人々も含めて、一人一人が神によって召し出された神の民である。
その大前提を忘れる時、私たちは自分も、相手も神に知られている大切な一人びとりであることを失念し、愛による対応を見失うのである。小さなものを躓かせる者は、偶像礼拝を行なう者よりも、より過酷な仕打ちを受ける事になる。
そのことを十分に私たちは弁えなければならない。
〇1〜2節
「偶像に捧げた肉(ギ:エイドローストン)」は、厳密には、偶像への犠牲、偶像への捧げもの、という言葉であり、肉の意味合いはない。但し、生贄は一般通念的に生き物であり、コリントでも一般的にその肉が捧げられて、かつ流通したことから、「偶像に捧げられた肉」と限定して翻訳する事は間違ってはいない。
「知識(ギ:グノーシス)」は、一般的な知識、知恵、教養を差し、普遍的な知識量そのものを純粋に表現する言葉である。二元論などに代表される「グノーシス主義」も、このグノーシスから言葉が引かれているが、ここで取り扱われている言葉はそれには関係なく、純粋に「知っている」というニュアンスだけを持つ。
2節の「知っている(ギ:エグネオウケナイ)」は、現在完了、不定、能動で記されている単語である。即ち「もう完全にあらゆることを知り尽くしてしまっており、今後も何も学ぶ必要はない」という意味合いの言葉である。
しかし、実際には、そのように誇る人々は、「知るべきほどのことをまだ知らない」のである
「必須の(ギ:デイ)」と、「知識(ギ:グノーナイ)」を合わせる事で、「知るべきほどのこと」と言う言葉になる。実際には「必須の知識」とか、「必修の(基本的な)知識」とか、「知っていなければおかしい事」という意味になるようである。
また、そのような必須の知識を「知らない(ギ:エグノ)」は、アオリスト、不定、能動で書かれている。
自分が知り尽くしているといっているようでは、当然今まで一度も、必須の知識を得てはいないし、これからも得る事は出来ないだろう、といった意味があるようである。
この様な意図の言及がされてしまう理由は、恐らく、パウロへの質問状にかかれていた質問のせいであろう。
特にパウロの引用している「私たちはみな知識を持っています」という言葉は、偶像の肉の質問の際に、但し書きとして書かれたものだと思われる。このような、「私たちは、神と偶像についての知識は知り尽くしているから、その辺りの説明や言及については不要です」といった意味合いの文章が、質問に添えられていただろうことは容易に想像できる。
憶測になるが、コリント信徒の欲しかった回答は「偶像の肉を食べるのは何ら問題がない」というものである。その回答を得られれば、前述の通り、偶像の宮に入って平気で飲み食いし、それを他の心の弱い信徒に見せつけて勝ち誇っていた人々は、自分達の正しさにお墨付きをもらう事になり、もっと増長して、異教の祭りに堂々と繰り出すようになるだろう。また、自分達に意見をしようとする「信仰の弱い人々」を黙らせることが出来ると言う効果もある。
つまるところ、彼らは信仰の弱い人々を心から鬱陶しがっていたのであり、彼らを遣り込める為に、わざとそう言った行動を取って、あてつけにしていた可能性まであるのである。
ここまでなら、まだ義憤による暴走であると理解する事も出来るが、ここで留まる事が出来ないのもまた、人間である。
「私たちには全てのことが許されている」と誇る人々については、パウロも既に言及したが(6章12節)、彼らと同じように、この様な「知識を誇る人々」は、異教の神殿においての催事の参加、即ち神殿娼婦、神殿男娼との不品行へと、どんどんその行いをエスカレートさせていく。
それだけではない、ヨハネの手紙第一で取り扱われているような、知識だけが先行して実態に敬虔が伴わないグノーシス主義の異端に走り、実を持ち崩す恐れすらある。
それ故に、知識が先行し、愛の配慮が欠けた信仰は、他の人々を躓かせるだけでなく、本人の信仰をも危うくするのである。
以上のようなことから、偶像の肉の食事について語る前に、パウロは、愛の配慮が一切ないコリント信徒達の問題ある態度を諫める為に、まず愛の話から始めようとしたようである。
人を躓かせる為に、自分達を肯定して欲しいとなどと言う求めは、クリスチャンの求めるべきものではない。
「何故、他の人々に誇り、躓かせようとするのか」と、パウロはまずはそこについて問いかける為に、この話題を始めているのである。
〇3節
「誰かが神を愛するなら(ギ:ティス・アガパ・トン・セオン)」 は、そのままの意味である。
愛するは、フィレオウでもな、エロースでもなく、アガペーが用いられている為、神を畏れ、愛し、信仰するという意味合いで、「愛する」が用いられている。神へ向ける愛は、与えられるものであり、自分の内に最初から備わっている者ではない。
そのようにあ、神への愛を「与えられた者」は、神に「知られている(ギ:エグノスタイ)」。
これは、現在完了、直接法、中受動相で書かれた単語である。
知識を誇る人々は、自分が神を知り尽くしたと誇っているのであるが、実際は、神によって隅々まで知り尽くされている。
それは、知識によるのではなく、キリストを受け入れて信じたことによって、神に覚えられたからである。
このような導きは偶然でも、獲得したものでもなく、神の導きと招きによる。
知識に依るのでも、自分の力によるのでもなく、神によって選び出され、招かれたからこそ、自分は今、神を知るに至っているのだという「必須の知識」を得ない限り、私たちは愛によって振舞う必要性に、永遠に気づく事は出来ないだろう。
まずは、そのように愛の必要性を知る知識こそを、私たちは求めていくべきである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇愛の配慮の勧め
1a 次に、偶像に捧げた肉(の問題)について取り扱います。
1b (まずはじめに、あなた方が)「私たちはみな知識をもっている」(と主張している)こと(について)は理解しています。
1c しかし、知識は人を高ぶらせますし、
1d 愛は人を育てます。
2a 自分は何かを知っている(知り尽くして学ぶことなどなにもない)と思うひとが居るとするならば、
2b その人は、(クリスチャンなら、誰でも当然知っている筈の)知るべきほどのことすらも、まだ知らないのです。
3 しかし、誰かが神を愛するなら、その人は神に知られています。
着情報3.メッセージ
『知るべきほどのこと』
聖書箇所:コリント人への手紙第一8章1〜3節
中心聖句:『しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。』(コリント人への手紙第一8章3節)
2023年6月4日(日)主日聖餐礼拝説教完全原稿
久しぶりに、コリント人への手紙の学びに戻ります。章も新しくなり、取り扱われる話題も次のものへ移ります。この8章から取り扱われているのは、「偶像に献げた肉の問題」です。私たち日本人クリスチャンにとって、偶像やその備えものの問題は、非常に身近な存在です。牧師ですら、田舎では町内会の寄り合いで、近くの神社へ出かけることは良くあることです。その際に、神主さんの御好意で、供え物のお饅頭や、お神酒の余りなどが振舞われることもあるでしょう。もし、牧師がそれらを飲み食いしているのを見れば、躓くクリスチャン信徒の方も少なからずいるのではないでしょうか。ここで取り扱われるのは、そういう問題なのです。
偶像に献げた肉とは、コリントの異教神殿で捧げられた供え物の肉の事です。供えた後の肉は、供えた人や、儀式を行った祭司に与えられますが、食べきれないものは安値で市場に売りに出されます。その安い肉は、コリントの一般信徒にとって、肉を食べられる数少ない機会を提供するものでした。それ故に、この偶像に献げた肉を避けることは無理に近いものでした。
この問題の本質は、そのような肉を食べているのを見て、躓く良心の弱い人々が居るか否かといったものでした。パウロが、『「私たちはみな知識をもっている」ということは判っています』と述べている通り、コリント信徒の人々は、偶像を恐れて悩んでいた訳ではありません。むしろ、「偶像なんて居ないのだから、食べても問題なかろう」と、積極的に食べる人が多かったようです。しかし、一部の信仰の弱い人々は、偶像に献げた肉が穢れているかのように感じて、これを食べる事に罪悪感を覚えたり、時には他の兄姉をいさめたりもしたようです。
そのように、気にする人もいれば、気にしない人もおり、時折それで問題も起こったりしたので、「知識のある」コリント信徒の人々は、このグレーともいえる「偶像に献げた肉」の問題に決着をつけるため、パウロに公式な判断を求めたのでした。しかし、それは、グレーな問題をはっきりさせて、自分達の良心を安心させる為の敬虔な目的ではなく、良心の弱い人々を黙らせて優越感を得ようとする為に行われた、自己中心な目的の質問だったのです。
パウロは、例え、知識に問題が無く、行動そのものも間違っていなかったとしても、このように、弱い人々への配慮を一切行わず、むしろ黙殺しようとする「知識ある人々」の態度に問題を覚えました。それ故に、偶像に献げた肉を食べることの是非について語る前に、まず彼らに愛の配慮について教えようとし、「知識ある人々」をいさめようとしたのです。
信仰は道ですから、人によってその成熟には差があり、常に先達と後進が存在します。しかし、信仰の程度に差があるからといって、その一人びとりが神様に知られ、愛されているという事実に変わりはありません。神様は、信仰の強い人も、弱い人も愛されて、イエス様を十字架に掛けてくださったのです。しかし、私たちはそのような、クリスチャンなら誰もが知っていなければならない筈の「知るべきほどのこと」も弁えずに、信仰の弱い人々を裁き、時には虐げて排除しようとしてしまいます。ここに、配慮に欠け、自己中心な人間の罪があるのです。
信仰成長と、御言葉の知識は私たちにとって大切なものです。しかし、それによって他の兄姉を裁き、排斥しようとしてしまうならば、その知識は私たちにとって悪いものとなってしまいます。信仰の成長は、私たちが愛をもって配慮し、仕え合う為に、神様が授けて下さった賜り物です。神様の御心の通りに、互いに赦し、励まし合いつつ、共に歩んでいきましょう。
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