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牧師の説教ノート(7月2日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙9章1〜12節

1.時代背景、舞台、文脈背景

 9章に入って、パウロは自身の使徒性と、その権利を用いなかった件についての説明と弁明を、コリント信徒達へ始めようとする。

 何故、このような使徒性とその権利、即ち「使徒の特権」についての話を行うのかと言えば、パウロがその特権を用いないことについて、少なからず疑心を抱く人々が、教会の中にはいたからである。また、そのようにパウロが自分の特権を用いないことをあげつらって、人々を扇動し、惑わそうとする「自称大使徒」の存在も、その理由の一つにあげられる。

 パウロは15節で言及している通り、その権利を決して用いたかったわけではないが(むしろ、使うぐらいなら死んだ方がましであると本気で考えて居たが)、しかし、その権利が自分にもあるということ、また自分は使徒であり、敢えてそれを用いなかったのだということを、コリント信徒達に示す事で、「特権を用いない恵み」が、神の国の価値観の中に存在するということ、知らしめようとしたのである。

 これらの話は、10章末で結論づけられる、「権利も自由も、労役も、苦労も、献身も、全て神からの評価を受ける為に行われるものである」という価値観を学ばせるための途中経過である。
 パウロはこれを教える為に、寧ろ、「神の為に損することを喜ぶ」という、この世の価値観では決して理解出来ない概念が存在するのだ、ということを、まずはコリント信徒に悟らせたいと願ったのである。

 多少それらの主題からは逸れるが、パウロは律法の中にもまた、働く者への神の配慮が現れていることも、コリント信徒達に主張している。

 私たちは、自身に与えられている価値ある特権を、時には神の御心と、その御計画の為に捧げなければならない時がある。その時に捧げ、返上する私たちの「特権」は、大きく価値あるものである。そして、価値があるからこそ、神の前に献げる「供え物」足りえることを、私たちは十分に知らなければならない。

 私たちは、自身の奉仕や、献金等の供え物を「当たり前の事である」と、半ば強制されるが故に、逆に献げものの価値を軽く見てしまう傾向がある。即ち、献金や奉仕を「無償のもの」であると考えてしまうし、それ故に、他の兄姉が献げた供え物や、奉仕についても、粗雑に扱うようになってしまう。逆説的ではあるが、私たちが献げものを惜しまないが故に、その献げものに価値を見出さなくなってしまうのである。

 それ故に、フルタイムの奉仕者の奉仕や、また、教会の為に進んで働いたり、献げたりする人々の供え物を、教会は粗雑に扱う傾向がある。献身者は馬車馬のように働いて当たり前。むしろ献げものが足りなければけしからんのであって、十分な働きを行って初めて「マイナスにならない」程度に考えて、奉仕者に厳しくあたるのである。

 そのように、献げものや奉仕に価値を見出さず、無償の者として要求する事は、正に脱穀する牛に口籠を嵌める行為であり、聖書的な態度や、物の見方ではないのである。

 働き人は、教会によって大切に扱われて養われる特権があるし、神の前に備える時間や金銭は、「本来は自分の為に用いる権利がある」貴重で価値あるものなのである。私たちは、神の前に自分の財産をどれほど献げるかは、自分の意思で決めて良いのだし、もし捧げなかったとしても、それは自分の物として用いる権利がある、自分自身の財産である。そのことは、使徒の働きでも、アナニアとサッピラの一件によって確認されている基本事項であった(使徒の働き5章1〜5節)。

 それ故に、私たちはまず、働き人は教会の分け前に預かる特権があること、また、信徒の一人びとりも、自分の時間や財産を、自分の為に用いることの出来る権利があるということを、十分に確認しなければならない。私たちの金銭も、時間も、私たちの前には十分に価値のあるものであるし、価値があるからこそ、神の御心に従って献げるのである。

 神は、私たちが価値があると認めるものを献げる時に、私たちの真心を喜び、それを大いに評価して下さる。そして、私たちが献げる以上の恵みをもって、私たちに報いて下さるのである。神様は、いけにえよりも憐みを喜ばれる方である。だからこそ私たちも、自分の持ち物に価値があるということを十分に認めた上で、惜しみなく、主の御心の為に全てを献げなければならないのである。


〇1節
 「自由(ギ:エレウセロス)」は、自由という意味の中でも、特に義務からの自由という意味合いがある。即ち、働きに付随して、担うべき義務からの解放、即ち、「働き人は生活の為の労苦から解放される等の特権が、私には無いのだろうか」と問うているのである。
 「使徒(ギ:アポストロス)」は、そのまま使徒という意味合いで用いられる。
 「見たことが無いのか(ギ:ヘオラカ)」は、現在完了、直接法、能動相で書かれている。直訳すれば「私は、実際には人間の主イエスに在った事がないし、事実今もそうであるのでしょうか?」と言う訳し方になる。

 「貴方は主に在っての働きの実(ト・エルゴン・モウ・ヒメイス・エステ・エン・クリオウ)」に、否定の「ギ:ウー」が追加される事によって、貴方は主に在っての私の働きの成果ではなかったのですか?となる。動詞ののエステは、直接法、能動相、現在で書かれており、「今現在も実際にそうであろう」ことをパウロは主張している。コリント教会の信徒達に伝道師、彼らを回心に導いたのはパウロなのである。主に在ってのパウロの働きの実は、正に現在も教会に出入りしている兄姉達そのものであり、彼らがパウロの、使徒としての働きの成果を担保している事実はかわらないのである。


〇2節
 「少なくとも(ギ:ゲ)」は、強い強調の副詞であり、「他にはそうでなかったとしても、少なくともあなたにとってはそうだ」と言い切る時に使われるものである。パウロではなく、他の使徒によって救われたクリスチャンの中に、パウロの使徒性を疑う人々がある程度出てしまうことは仕方ないにしても、彼の霊的な伝道によって救われたコリント信徒の人々は、その使徒性を疑うことは出来ないはずなのである。

 「証印(ギ:ソフォラギス)」は、証印、印象指輪の事であり、当時の時代、文字の読めない人々が多かった時代には、その効果が絶大なものであった。主に指輪に取り付けられた印鑑を、柔らかくした蝋に押し込むとき、そこには証印が現れ、その手紙には、証印の主のものであるという事が担保されるようになった。

 同じように、コリント信徒達が信仰を守り、教会を作っている事実は、パウロが使徒であることの何よりの証拠であり、コリント信徒の結ぶ信仰の実は、パウロがまぎれもない使徒であることを証明し続けるのである。


〇3節
 「さばく(ギ:アナクリノウ)」は、新改訳2017では、さばくと訳されているが、厳密には、検査する、取り調べる、尋ねる、問いただすという意味があり、取り調べようとする様子を指す動詞である。現在形、分詞、能動相の、与格、男性、複数でかかれており、パウロにの使徒性を疑い、取り調べようとする輩が、一定数居たことが、この単語の使い方によって伺いしれる。

 「パウロが使徒では無いのではないか」と疑う人々が多かった理由は、パウロが使徒としての特権を用いなかった事が原因の一つである。パウロが、使徒の特権を用いず、また一切の金銭も受け取らないのを見て、一部の人々は、「パウロにはやましい事があるに違いない」と考えたのである。また、コリント教会を惑わした「自称大使徒」達も、「パウロは、自分が使徒ではないと自覚している。その証拠に、使徒だけが受けることの出来る特権を恐れて、享受することを遠慮しているではないか」と主張して、パウロが使徒ではない証拠として吹聴したようである。
 当然、それは的外れな議論である。何故なら、コリント教会そのものが、パウロの使徒性によって立っていたのだし、そもそもパウロが使徒でないなら、その宣教によって救われた全員が「偽物」であることになってしまうからである。

 「弁明(ギ:アポロギア)」は、法廷での口頭弁護に用いられる特殊な単語である。裁きの場に立たせて、自身を取り調べようとする人々に対し、パウロは自身をそのように弁護すると宣言している。

 ところで、この3節は、読み方によっては、2節までと、4節からのどちらにも掛かるように読むことが出来る。
 新改訳2017には、原文にはない「次のように」という言葉を無理やり挿入して、4節以降に掛かるかのように訳しているようである。
 しかし、パウロが、自分の使徒性を疑う人々に対する口頭弁護は、4節以降よりも、1〜2節に集約されている。むしろ、4節以降は、パウロが自分自身が使徒であることを証明した上で、その権利が自分にも発生している事を、コリント教会の人々に対して問い質しているような内容であるので、1〜2節に、3節の内容が掛かっていると読むのが正解だと思われる。


〇4節
 「権利(ギ:イグゾーシアン)」は、権利、資格、権利、特権、職権といった意味合いのある単語である。教会の世話を受けて飲み食いすることは、伝道活動を行う使徒たちの特権である。この場合、職権と訳したほうが適切かもしれない。兵士が食事をして体力を養うのは、職務の一環である、使徒達が、ますます宣教を行う為に、飲み食いして体力を養うこともまた、職務の一環だからである。
 そうであるにも関わらず、パウロはテントなどを作って自分自身の食費について、教会に頼る事が無かったのである。これは、コリント信徒達にとっては不可思議なことであっただろうと考えられる。


〇5節
 「連れ歩く(ギ:ペリアゲイン)」は、伴って共に出かけることを意味する動詞である。これは、パウロが「結婚をしたい」とか、「自分には嫁を貰う権利が無いのか」と、コリント信徒へ問うているのではなく、「妻を伴って伝道旅行に出かける際の経費」の話を行っているのである。

 教会は、使徒が妻を伴って伝道旅行を行う際、使徒本人だけではなく、伴って連れ歩く人々の食事や、その旅費も用意して賄う義務を、使徒に対して持っていた。牧師の研修費は出すが、牧師夫人の分は出さないという選択肢は、教会側には一切なかったのである。

 牧師が伴って出かける人々もまた、神の福音宣教には必要な人材であり、その働き人達に対しても、教会がその生活と費用を補償あうすことは、疑うべくもない当然の義務であった。パウロはそのように援助を受ける特権が、使徒の中でも何故か自分にだけ発生しないような理屈があるだろうかと、コリント信徒に問いかけているのである。だから、ここをさしてパウロが実は結婚したがっていたとか、パウロにも結婚願望が実はあったと考えるのは的外れな議論である。勘違いしないようにしたい。


〇6節
 「働く(ギ:エルガゾウマイ)」は、働きの中でも、特に稼ぐという意味合いが強い単語である。即ち、職務というよりは、糧を得るための働き、即ち生活費を稼ぐための稼業のことを指す。宣教の職務に従事する使徒たちは、この稼ぎの為の働きからは解放されていた。宣教の働きは稼業ではなく、主イエスからの使命である(マタイ28章18〜20節)。その職務が滞りなく遂行されるように、教会はその職務を支え養う義務があるのである。

 牧師が、月ごとに教会から受けるものも、給与・給料ではなく、謝義と言われるのもその為である。牧師は、稼業としてその職務を遂行している訳ではない。むしろ、牧師が何の心配も無く、自らの使命を遂行できるように、教会は十分に牧師の生活を養う為の謝義を支払うのである。

 パウロは、そのような特権を用いず、手ずから生活を稼ぐために働いていた。彼は、昼はテントを作って暮らし、もっぱら夜に使徒として伝道していたのである。


〇7節
 「兵役(ギ:ストラテオマイ)」は、兵士として奉仕することや、従軍することを指す単語である。兵士は、国家や領主、権力者に雇用されている立場の自由人であり、雇用主との契約によって縛られているが、奴隷の身分ではない。特に、その雇用の契約に在る場合、兵役に従事している兵士の、衣・食・住、及び戦う為の装備品は、雇用している国や領主が全て用意しなければならない。そうしなければ、兵士が自分の食事を現地調達することになり、作戦行動を取る事が出来なくなる。
 また、装備品にばらつきがあるならば、軍を適切に運用することも出来なくなる。それらのデメリットは、雇用している国家や領主にとっても大きなものとなる(戦国時代などを見れば、そうだったようであるが、少なくともローマ帝国軍は制式な装備も食料も支給されていたし、近代的な軍隊はそれが基本となっている)。
 従軍する以上、自身の生活周りの全てを保証されることは、徴兵された兵士にとっての当然の権利であった。

 「葡萄畑(ギ:ヒューテウェイ・アムペロウマ)」は、名詞ではなく、直接法、能動相、現在、三人称の動詞と、ブドウと言う主語で構成されており、即ち「葡萄畑を作っている」と訳す事ができる。
 この場合、畑を「作らされている」ではなく、「作っている」と能動的に書かれているので、その畑は少なくとも作っている人の所有物なのであることが判る。
 いわば、自営業、農家の人々がこれに当たる。彼らが、自身の畑で葡萄をつくるのは、当然出来上がった葡萄を食べる為である。自分で食べる為に、何かを作るのである。労働の対価に作物が手に入るからこそ、農業や自営業は成り立つ。畑の収穫物を全て自由にする特権を、彼らは当たり前のように持っているし、そうでなければならない。
 働くだけ働いて、得られる作物に所有権を持つことが出来ないような人は、本来居ない(だからこそ、税などでこれをかすめ取ろうとする権力者は、古来より批判の対象に成っているのである)。

 「羊を飼う(ギ:ポイマイネイ)」も、直接法、能動相、現在で書かれている単語であり、これもまた能動的に書かれているので、自分の羊を畜産している人々の事を指す。ただし、羊飼いに関しては、自身の羊ではなく、他人の羊を飼う事で対価を得ている人も多かったので、兵士や、自営農家とは少し事情が違い、委託業者、若しくは奴隷である人が大多数だった。羊の持ち主は、羊飼いに世話を任せて、自身は他の商売を行うのも通例であったし、ベツレヘムで救い主誕生の報せを受けた羊飼い達も、そのように雇われの羊飼いであった。
 いずれにせよ、大切なのは、委託された人、また、奴隷のような存在であったとしても、羊を飼う途中で得られる副産物、即ち羊の乳にあずかるところである。彼らは、途中で得られる羊の乳を、自分の物として飲んで良かった。現代で言う所の賄いのようなものである。例え雇われや奴隷であったとしても、そのような職務上の役得や特権は、約束されていたのである。

 このように、労働をしている人間には、なにがしかの権利や特権が発生してしかるべきであること、パウロは、一般的な「社会通念」として、当たり前のことである主張しているのである。一般社会のどこで働く人々であっても、これについて同意しない人はいないであろう。では、何故、パウロにだけはそれが無いというのだろうか。大きな矛盾になってしまう。だからパウロにも、同じように使徒の特権は与えられて居るのである。ただ、パウロ自身がそれを敢えて用いないことを選択したので、これらの特権は行使されなかったのである。
 その「敢えて用いなかった理由」にこそ、この箇所の趣旨、及び主題が秘められているのである。


〇8節
 「人間による(ギ:カタ・アンスローポン)」に、否定の「ギ:メ」が加わることによって、「人間から来るものではありません」という言葉になる。
 人間による、というのは、パウロが自分で組み立てている根拠のない理屈という意味合いのことであろう。決してそうではなく、律法でも同じことを言っており、聖書の言葉に裏付けされたものであることをパウロは主張している。

 「律法(ギ:ノモス)」は、習慣や法律、法一般をさす言葉であるが、新約聖書では、特に旧約聖書、モーセの律法という意味合いで用いられていることが多い。一般的にはモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に限定されて用いられる言葉であり、この場合には、「モーセの律法(ギ:モーゼズ・ノモウ)」と表現される事もある。時折、旧約聖書全般を含んでこれをノモスと呼ぶこともある。

 
〇9〜11節
 「口籠(ギ:ケモウセイス)」は、口に嵌める拘束器具の事で、勝手にえさを食べたり、またかみついたりしないように、家畜に嵌める農機具の一つである。麦を収穫したあとは、牛に踏ませることにより脱穀を行い、それを鋤で持ち上げて空中に放り投げると、軽いもみ殻だけが飛んでいき、中の実は下に落ちる。これによって収穫した麦を、もみ殻と実により分ける作業は、イスラエルに限らず、ギリシャ地域においても見慣れた日常風景であった。

 そのような作業を行っている牛が、自分が脱穀している麦を食べることを阻害するような真似は、律法によって禁じられていたのである。問題は、その律法の定めが書かれている申命記25章4節が、人間について取り扱う律法の羅列の中で、脈絡も無く登場することであり、これを読む人は、本当に牛の為に定められた律法であるかどうか、疑問に思ったのである。 ちなみに直前では、罪人に定められた囚われの人を40以上鞭で打ってはならないという取り決めが為されており、その後にはレビラート婚等、権利が抑制された人々に対する取り決めの律法が並んでいる。

 律法を教えるラビたちも、この並びに目を向け、この規定が単純に牛の権利を保証するものではないことを、霊的に解釈して読み取っていた。即ち、ラビたちも霊的解釈によって、この規定が「権利の抑制された働き人に対しての憐みの取り決め」であると読んでいたのである。パウロ自身も、そのように読む伝統にのっとって聖書を解釈するラビの一人であったので、パウロは伝統的解釈に基づいて、この牛の口籠の規定を紹介し、使徒の特権の妥当性についての聖書的な裏付けをも主張したのである。

 いずれにせよ、旧約聖書の中でも、権利が抑圧された人々の為に、その分け前を取り上げてはならないと言う憐みの取り決めがあったことは、類推するに難しくないし、神の御心の面で考えても、決して不自然ではなく、その文脈に矛盾しているものではない。

 同じように、パウロも、自分が建て上げた教会から、物質的な恩恵を受け取る権利は十分にあった。
 種を実際に私は蒔いたのだから、収穫する権利も私にあると主張することは、正当なことである。

 「行き過ぎた(ギ:メガ)」と、訳されている単語は、大きい、巨大な、という意味であるが、過分なとも訳す事が出来る。素晴らしい、また驚くべき、といった意味合いもある。「刈り取る(ギ:セリスオウメン)」と併せて用いられているので、刈り取るのは過分な事であろうか、と訳す事が出来る。新改訳2017でもその訳し方が採用されている。

 刈り取る事は、素晴らしいことは思わないだろうか、とか、驚くに値することだろうか、と訳す事も可能かと思われるが、文脈的には意味が全く変わらないので、どの訳し方を採用しても結果は変わらない為、過分な要求と訳しておくのが無難だろう。

 12節の「妨げ(ギ:エグコペー)」は珍しい単語であり、新約聖書では、ここでしか使われていない。
 切断、破損、妨害、中断といった意味合いのある単語であり、パウロが福音宣教の中断が起こらないように、自らの使徒としての権利を行使していなかったことが明らかにされる。
 即ち、パウロは、自身の使徒としての権利を用いることによって、コリント信徒に躓きが起こったり、また大きな反対が起こって、福音宣教の働きが中断されかねない何かを見出していたのである。
 これは普遍的な危惧や予防というよりは、恐らく何か根拠や確信があったが故のことであったことは容易に予想出来る。

 もし、パウロが、自身の使徒としての権利を言い出せば、反対してこれ見よがしに場を混乱指せようとする人々が、少なからずコリント教会には居たのだろうし、教会そのものが、使徒が利益を受けることを赦さない雰囲気を持っていたのかもしれない。
 別にこれは珍しい事ではない、現代の今この時であっても、牧師が週に二日休めば大波乱が起こるような教会はいくつかは存在するはずである。

 牧師が、労働基準法に則って、週に二日休むことは行き過ぎた行為であろうか? しかし、もしそれで教会に混乱が起きて、宣教の働きが止まってしまうぐらいならばと、そのような教会で、牧師や休みを返上して働いているのである。
 それらも全ては、人間を恐れてのことではなく、神の栄光が現れ、その御心が表される為のことであるのだが、それを当然であるとする教会そのものの風潮にも問題はあるし、実際にコリント教会は、このパウロに権利の行使を赦さない風潮を悔い改め、変えていく必要があったのである。
 (変わったとしてもパウロは受け取らなかったかもしれないが)

2.詳細なアウトライン着情報

〇パウロの使徒性
1a 私には、(義務から)自由(にされる権利)がないのでしょうか?
1b 私は、使徒ではないのでしょうか?
1c 私は、私たちの主、イエスを見たことが無い(し、今もそうな)のでしょうか。
1d あなた方は、主に在って私の働きの実ではないのでしょうか。
2a たとえ、私が、他の人々に対しては使徒でなかったとしても、少なくともあなた方に対しては使徒なのです。
2b あなたがたは、私が主に在って使徒であることの証印です。
3a (これが)私たちを裁く人たちに対しての、私の弁明です。

〇使徒としての権利の確認
4  私たちには、(教会の食べ物を)食べたり飲んだりする権利がないのですか?(そうではないでしょう?)
5  私たちには、他の使徒たち、即ち、主の兄弟たち(のヤコブやユダなど)や、ケファ(ペテロ)のように、信者である妻を(教会の経費によって、伝道旅行などに)連れて歩く権利がないのですか。(そうではないでしょう?)
6  あるいは、私と、バルナバだけには、(生活費を賄うために)働かなくても良いという権利がないのでしょうか。(そうではないでしょう?)

〇働き人は、その仕事から賄いを得るという聖書の原則の確認
7a はたして、自分の費用で兵役に服する人がいるでしょうか。(いないでしょう?)
7b 自分で葡萄園を作りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。(いないでしょう?)
7c 羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。(多くは奴隷の身分であるの羊飼いですらそうしているではありませんか。)

〇働き人が、自分の仕事から賄いを得ることが出来る聖書的な根拠
8a 私がこのようなこと(即ち、働き人はその働きから賄いを得る権利があるという話)を言うのは、人間の考えによるのはありません。
8b 律法の中でも同じことです。
9a モーセの律法には、「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。
9b はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。(この律法は人間の規定の中で書かれているものであることを思い出して下さい)
10a 私たちの為に言っておられるのではありませんか。
10b そうです。私たちの為に書かれているのです。
10c なぜなら、耕す者が(分け前を得られるという)望みをもって耕し、脱穀する者が、分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。

〇しかし、パウロはこのような権利を用いなかった
11a 私たちは、あなた方に御霊のものを巻きました。
11b ならば、あなた方から物質的なものを刈り取ることは、過分な要求でしょうか?
12a (アポロや他の教師が)ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、(創始者である)私たちは、なおさら「そう(その権利があるはず)」ではありませんか。
12b それなのに、私たち(パウロも、バルナバも)はこの権利を用いませんでした。
12c むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいるのです。



着情報3.メッセージ

『価値あるものを献げる』
聖書箇所:コリント人への手紙第一9章1〜12節
中心聖句:『それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。』(コリント人への手紙第一9章12節) 
 2023年7月2日(日)主日聖餐礼拝説教完全原稿

 9章からパウロは、自身が使徒の特権を行使していない件について話し始めます。何故なら、そのことを疑問に思ってパウロを批判する人々が、コリント教会の中に少なからず居たからです。当時のギリシャでは、価値のある講義には、相応の対価が支払われるべきであると考えられていましたから、「福音の対価をパウロが受け取らないのは、福音の話に価値が無かったからか、もしくは彼が、本物の使徒ではないので、対価を受け取るのが後ろ暗いかのどちらかであろう」と、一部の人々は考え、パウロを批判したのです。彼は何故、使徒の特権を用いなかったのでしょうか。パウロは使徒ではなく、伝えた福音にも価値がなかったのでしょうか。

 まず、「福音に価値が無い」などという可能性は、キリストに在って救われた人なら、誰でも真っ先に排除するはずです。そうでなければ、罪からの解放にも、救いにも、福音の約束にも、一切の価値がなくなってしまうからです。福音に価値があるからこそ、宣教に従事する人々、特に使徒には、大きな特権が与えられていたのです。使徒には、その生活を教会によって賄われるだけでなく、伝道旅行の費用も、伴って出かける家族の分も含めて、全て教会から援助を受ける特権がありました。しかし、そのような特権が与えられるのは、教会以外の場所でも当たり前のことのはずです。徴兵された兵隊は、衣食住や装備弾薬が保証され、羊飼いのような雇われの人間にも、羊の乳のように賄いが出されます。自分の土地で農業を営む人々には、作物の全てを所有する特権があります。働く人々が、それに専念できるように、各々特権が与えられていることは、社会通念上当たり前のことなのです。聖書ですら、申命記25章4節で、その事を規定しています。「牛の口籠」の規定は、パウロが教える通り、人間について定めた律法の中に出てくるものです。全ての働き人には、仕事の中での特権があるのです。

 ならば、パウロがその特権を敢えて用いなかったのは、彼が、使徒ではなかったからでしょうか。それもありえません。何故なら、コリント教会の人々は、皆パウロの宣教の働きによって、救われたからです。パウロが使徒でなかったなら、教会全体の救いが全て偽物になってしまいます。少なくともコリント教会信徒にとって、パウロは紛れも無く使徒でした。ならば、使徒パウロが特権を用いなかったのは、その特権が彼にとって使う程の価値も無いものだったからでしょうか。それも違います。パウロが使徒の特権を用いなかったのは、コリントの街の文化や事情、そして、コリント教会の現状を鑑みて、使徒の権利を返上し、無償で働くことが、「主の御心に適うことである」と判断したからです。だから、「キリストの福音に対し、何の妨げにもならないように」と、パウロは全ての特権を返上しました。彼は、この特権に価値を見出さないどころか、むしろその価値が大きいものであると評価したが故に、「これを献げた時、神様から得られる評価はとても大きい物になる」と、望みをもってこれを献げたのです。

 価値あるものを献げる時、神様はこれを大いに評価してくださいます。私たちもまた、神様からの評価を追い求めるが故に、これまで自分の為に用いることが出来たはずの貴重な時間や金銭を献げ続けてきたはずです。私たちの献げた奉仕や献金は、無償で行われるのが「当たり前」程度の、価値の無いものだったでしょうか。そうではないはずです。私たちは、自身が今まで献げ、これからも献げていく供えものの価値を、十分認めなければなりません。価値があると認めて献げる時、神様もこれを喜ばれ、それ以上の恵みをもって報いてくださいます。だからためらうことなく神様の前に、自身の価値あるものを献げていこうではありませんか。




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