1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
9章で、パウロは自身が持っている特権について十全に語り、それをなぜ自身が用いていなかったのかについて、コリント教会の人々に明らかにしようとした。
何故なら、パウロがコリント教会で、自分の持つ使徒の特権を一切用いなかったことは、内外問わず、様々な人々に知られている通りでがあったものの、何故、彼がそのような選択をとったのかは、誰にも明かされず、は謎のままであったからである。
ギリシャ人のコリント教会信徒が、この事について不審に思ったのは、当時の古代ギリシャでは、価値のある講義には金銭が伴うことが当然であったし、金銭を払わずに聞けるような話には価値がないという、一定の共通観念があったからである。
価値のある事を語りながら、何も受け取らない人間は、賢いものとは言えないと評価されたし(クセノフォーン「ソクラテースの思い出)1巻6etc..)、授業をしながら、授業料をとらない人間は、何か裏があると怪しまれても仕方のない状況だったからである。
そのような疑いを受けて、パウロは、コリント教会の信徒達も周知の事実であった「宮仕えの特権」について触れて、自分の宣べ伝える者が決して無価値なもので無かったことをはっきり主張する。
宮仕え、即ち神殿で働いている人間が、神殿の収入から生活の糧を受けていることは、キリスト教徒に限らず、異教の人々にとっても常識のことであったし、祭壇で生贄の儀式を執行する司祭が、その祭壇に捧げられた肉の一部を受け取る事も、当たり前の共通見解であった。
そもそも、「偶像に捧げられた肉」の問題は、そのように祭壇の生贄を受け取った司祭が払い下げた肉によって起こった問題だったし、そういった権利を宮仕えのものが持っていなかったなら、コリント信徒達が、この安い肉を買うことの出来る機会に預かることも出来なかったのである。
ならば、このような異教の司祭と同じように、「本物の神」も、福音を宣べ伝える者が、教会から生活の糧を得るように定めておられるはずであるし、実際に定められていると、パウロははっきりと宣言して確認しているのである。神に仕えて働いた者が、それにまつわるところから報酬を受けることは当たり前の権利であるというのは、コリント信徒達にとっては、ぐうの音も出ない「正論」であっただろう。
しかし、問題は、「ならばパウロは何故、そのように、受けて当たり前の特権を、敢えて用いようとしなかったのか」というところにある。実は、異邦人であるコリントの人々は知らない、報酬を受けない方が良いもう一つの理由があったのである。
パウロは、この理由について、12節で「福音の妨げにならないように」と、簡単に説明している。では、この「福音の妨げ」とは、一体何なのであろうか。
実は当時、ユダヤ教のシナゴーグで、人々に律法の授業を行っていた教師、即ち「ラビ」は、その授業によって授業料を取るのは良くないことだと考える人が多くを占め、主流派となっていた。一部のラビたちは、授業料を受ける事を当然の権利だと主張することもあったが(「ミシュナー」アボース三章五、四章五)、大多数のラビたちは、「生活費を得る為の本業は別に持つべきであって、律法に纏わることで授業料をとり生活費とすることは良くない」という共通見解を持っていたのである(「ミシュナー」アボース二章二、四章五、六章四,九)。
それ故に、最近までは「ユダヤ教のラビとして、無償で授業で行っていたはずのパウロが、キリスト教に転向してからは、教会から金銭を受け取っているらしい」ことが、コリントにあるシナゴーグのユダヤ人やラビ達に知られれば(コリントの街にもユダヤ人コミュニティは少なからず存在した)、「パウロは、破廉恥にも、金銭目的でキリスト教に宗旨替えしたのである」と考えて批判されることは、容易に想像できる事態だったのである。事実、コリント第二の手紙に出てくる「自称大使徒」達も、その方向でパウロを批判し、コリント教会の人々を惑わして、支持を得ようとしたのである(Uコリント11章1-13節、12章16節)。
また、パウロが自身の福音を宣べ伝える対価として、生活の糧を要求するなら、それは人々の興味のありそうなことをある事ない事言いふらして(真理に混ぜ物をして)、続きが聞きたければ金を払えと要求する、ギリシャで多数見られた辻説法師と何ら変わらないと、コリントの街の人々に判断される可能性もあった。
金目当てに、あることないこと言いふらしていると道行く人々に判断されるなら、もはや福音に耳を傾ける人々もいなくなってしまう。これもまた、福音宣教にとって大きな妨げとなることであり、受け入れられるものでは無かった。
そのような理由から、パウロとバルナバは、使徒としての特権を放棄し、福音を宣べ伝えることに一切対価を要求せず、人々の気を引くための無駄話も一切行わないようにすることを決意したのである(Uコリント2章1〜2節、17節)。
そのような決意から、パウロはコリント教会から生活の糧を得る権利の一切を放棄して、自身でテントを作り生活費を稼いだのである。コリントの人々にも金銭を求めず、ただ、エルサレム教会への義援金のみを、コリント教会で集め、送らせることにした。これによって、コリント教会の信徒達にも、主の前に献げものを行う義務を果たさせ、自分達は何も受けないことを、パウロとバルナバは徹底したのである(16章1-3節)。
さて、このような事情から、パウロやバルナバは、コリント教会から報酬を受ける権利が「正しく存在した」が、「主に在って受けない方が良い」ことを鑑みて、これを「敢えて受けない」という選択肢を取ったのである。
ここから、パウロは話の本題に入る。即ち、「この権利を用いないことは、自分にとって損失ではない」ことを、コリント信徒達に伝えようとするのである。それは即ち、自身の権利を放棄する事が、寧ろ自分にとって有益に働くことを、自分の実例をもって、コリント信徒達に伝えようと試みたのである。
パウロは結論として、自分の報い(報酬)は、「福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです」とコリント教会の人々に宣言した。
何故、無報酬で損をすることが報酬であり、自分の権利を用いない事が、自分への報いになるのかと、この手紙を読んだ時、コリント信徒達は理解に苦しんだかもしれない。現代の私たちとて、「損をすることが嬉しい」などとパウロが言えば、そこには何か信仰的な深い神秘があるのではないかと、勘ぐってしまうはずである。
一般的に考えれば、「損をすることが嬉しい人間など、この世には居ない」はずだからである。もしそのような人間がいるとすれば、私たちの理解の外にいる聖人君子の類や、人智を越えた天才、もしくは宇宙人のような理知外の存在だけであろう。実際、多くの注解書も、このパウロの言動については、「パウロは聖人もしくは変人なので、この様に言っているのだ」と結論付けたり、「この特異な聖人の領域に到達するまで、私たちは信仰を鍛えなければならない」という奨励に落ち着いているように見える。
しかし、実の所、パウロはそのように難しい事を言っているわけではなさそうである。何故なら、これは一般人に宛てた手紙であり、パウロも一般人が理解できるレベル、即ち「霊の乳」レベルで言論を展開するように心がけているからである(Tコリント3章1〜2節)。ならば、今までの「神から評価されることが、私たちにとっての唯一の目標である」という文脈や、現代社会人の「会社勤め」常識に照らし合わせて、私たちがこれを理解することは、大して難しいものとはならないだろう。
これまでの言説や、このあとの文脈を鑑みれば、パウロが、このことについて、単純に主の為に損失する機会を、「手柄をあげるためのチャンス」だと言っていることが判る。
社会人になり、会社勤めとなり、出世したいと考える人間は、その為に、常に手柄を挙げるチャンスを虎視眈々と狙わないだろうか。
会社の中で大きなトラブルが起こり、それを見事に解決してみせたならば、自分の評価はうなぎのぼりになるだろうことは、誰でも弁えていることである。しかし、だからといって、自分でトラブルを起こすわけにもいかないので、偶然そのような事態になる機会を、出世を目指す人間は常に待ち望んでいるのである。そして、もしそのような機会が目の前に転がっているのを見つけたならば、その場では損をしたとしても、その人は出世の為にチャンスをものにしようとはしないだろうか。
サービス残業で、プライベートの時間を奪われ、時には自腹を切って出費をしてでも、最終的に手柄になると考えるならば、出世の為にその損失を全て飲み込む決意を、その人はするはずである。
同じように、パウロの目の前に転がるこの状況も、報酬を受け取らないことが図らずも妥当な状態であり、「教会内で使徒の権利を用いないことが、福音に良い影響与える」と、評価されるものであった。これは、パウロが、神に対して、自分の評価を高める「手柄」を挙げる為のチャンスであって、ペテロや、他の使徒、指導者達に先立って、一番評価されるキリストの弟子になる為の絶好の機会だったのである。
その為であるなら、報酬を受け取らず生活費を自分で稼ぐことも、それによって苦しい生活になることも、パウロにとっては何ら弊害とはならなかったのである。彼は、「全ての弟子の中で一番キリストに評価される人間になる」ことを、本気で追い求めていたので、スポーツの競技者のように、神から評価を受ける為のチャンスを、貪欲に追い求めていたのである。
それ故に、パウロは、この手柄を「私の誇り」と呼び、このチャンスを「私の報酬」と呼んだ。そして、このチャンスを取り上げられるぐらいであるならば、死んだ方がマシだ、とまで言い切ったのである。
私たちもまた、世の終わりの日に、主なるキリストから「忠実なしもべよ、よくやった」と褒められたいものだと、多少なりとも感じながら生きているはずである。主から終わりの日に評価を受け、声をかけて頂くというのは、私たちキリスト者にとっての悲願ではないだろうか。
そのような気持ちに少しでも同意できるならば、即ち、自分もイエス様に褒めて頂きたいと少しでも思える兄姉であるならば、主の為の損失を、「報酬」と呼んだパウロの気持ちも、少しは理解できるのではないかと思うのである。
〇13節
「宮(ギ:イエロス)」は、神聖な、聖なる、聖別されたという意味を持つ言葉であって、神殿の催事を指す言葉としても用いられた。解りやすく宮と訳されているが、後の、「奉仕(ギ:エルガゾメノイ)」と併せて、聖務に預かると訳することができる。
二つ目の「宮(ギ:イエロン)」は、そのまま神殿を指す言葉である。
直訳すると、「聖務に携わる者が、神殿の食事に預かることを貴方は知らないのですか」となる。
「祭壇(ギ:スシアステリオウ)」は、犠牲を捧げる祭壇の意味であり、「仕える(ギ:パレドレウオンテース)」は、傍らに座っている、または勤勉に従事するという意味合いがあり、祭壇で行われる儀式の司式者を指していると思われる。
更に、「あずかる(ギ:スウメーリゾンタイ)」は、参加する、分け合う、という意味合いがある。
聖務に携わっている人間は、神殿から出される食事を食べるし、祭壇の儀式を取り仕切る者は、祭壇の犠牲を、献げた者と分け合うという当たり前の常識を、パウロはコリント信徒と共有し、確認している。
〇14節
「定めておられる(ギ:ディエタゼン)」は、命ずる、規定する、定めるの意味を持つ単語であり、直接法、能動相、アオリストでこれを書かれている。更には、「それらの人々に(ギ:トイス)」の単語が用いられているので、福音に従事する者が、教会から糧をえるようになるべきだということを、神御自身が、教会に対して課された義務である事が判る。
つまり、働き人が教会から報酬を得ることは、いくつかの翻訳で採用されているような「そうするようにと、神が働き人に指示を与えられている」という文脈ではなく、「そのような基盤を作るようにと、教会に対して、神が命じておられる」という文脈で読むべきである。
〇15節
「死んだ方がましだ(ギ:カロン・ガル・モイ・マロン・アポサネイン)」は、パウロが、自身の権利を用いる事を心底嫌がる様子が良く判る表現である。
パウロも自分で、「権利を用いたくないし(ギ:ウー・ケクレマイ・オウデニ・トウトウン)」、「その為に書いているのでもはない(ギ:ウーク・エグラサ・デ)」と宣言している通り、自身が使徒としての権利を受ける事を本気で嫌がっていることがわかる。
そこに謙遜や、我慢と言った様子は見受けられず、その事が、見る人によっては不可解なように映るかもしれない。
しかし、その不可解さを理解する時、私たちの信仰は大きく成長する。パウロは、決して不思議な事は言っていない。それを悟るように促されているのは、今後の話題からも良く解る事である。
「空しい(ギ:ケノセイ)」は、無効、からっぽ、空しいものにする、という意味があり、また、「誇り(ギ:カウケーマ)」は、自慢、栄光といった意味合いのある言葉である。
誰も、私の自慢を無効に出来ない。即ち、パウロにとって、権利を用いない、恩恵にあずからないことが自慢なのであり、それをとても良いものであると、本気で思っている様子が伺える。
ちなみに、自慢とはいっても、自分の苦労や、費やした損害そのものを自慢している訳ではない。苦労することによって、神から評価を受ける機会が幸運にも与えられ、しかも、そのチャンスを逃がさずに上げた「手柄」に対して、パウロは自慢しているのである。その手柄を得るまでの過程で、どのような苦労をしたのかについて、パウロは語っている訳ではない。
〇16-17節
「誇り(ギ:カウケーマ)」は、15節でパウロが用いている自慢と同じ単語が用いられている。福音宣教に従事し、自身に与えられた仕事に携わる事そのものは、決して自慢する要素にはならないという大前提を、彼は確認しているようだ。
福音宣教そのものは、パウロにとっての「通常業務」であり、決して手柄とはならないのである。
会社勤めでも、普段の勤務に真面目に取り組むことは美徳となるだろうが、しかし、真面目な勤務態度そのものが他を大きく突き放すような評価にはなりえない。勿論、そのような通常業務で、自身をアピールする方法もあるが、それは、自発的に仕事に自らを投げ入れた者だけである。
「わざわい(ギ:ウーアイ)」は、災いだ!とか、悲惨だ!といった、感嘆詞である。福音を宣べ伝えないことが自分にとってのペナルティになるとは考えていても、宣べ伝えたからといって、神から受ける自身の評価にはつながらないとパウロは考えて居る。
17節での、「報い(ギ:ミッソン)」は、報酬やご褒美を表す単語である。パウロは、神から受ける報酬を目指して、全ての物事に取り組んでいることが判る。
喜んで、元々キリストに従っていたのならばともかく、元をただせば迫害者であり、後から、キリストに召されて福音宣教に参加することになったパウロは、ただ福音宣教に従事するだけでは、決して自身のアドバンテージを稼げるものではない。即ち、他の使徒と並んで評価される際、少なくとも自分が一位になる事は無いと考えて居ることが、16節の口ぶりから伺うことができるのである。
つまり、パウロは、ペテロや、他の十二弟子、主の兄弟ヤコブ、それらの指導者と並び立った上で、神から一番評価を受ける者になりたいと本気で考え、行動しているのである。パウロは、他の働き人に比べて大きな負い目がある。自身の評価がそれでも一番になることを本気で目指すなら、確かに、唯福音宣教に従事しているだけでは達成できないものだったのかもしれない。少なくとも、本人は「そう」考えて居たのである。
〇18節
「報い(ギ:ミアソス)」は、17節で用いられているのと同じ単語である。貪欲に神からの一番の評価を追い求めるパウロにとっての「報酬」は、書かれている通り、無報酬で福音を提供する機会、そして、使徒としての権利を用いない機会そのものにある。何故なら、無報酬で福音を提供することは、パウロにとって主の前に手柄を挙げるチャンスであり、福音宣教によって得る自分の権利を、「周囲から妥当であると評価される形で」用いないでいられる状況は、「主からの評価を常に受け続ける」報酬そのものであった。
主の前に手柄を挙げ、他の使徒達よりも、神様の前で株を挙げるチャンスを心から尊ぶというパウロの姿勢は、神を愛するものであるのならば、私たちも少なからず見習わなければならないものではないだろうか。
2.詳細なアウトライン着情報
〇宮に仕える者の特権
13a あなたがたは知らないのですか?
13b 何を?:宮に奉仕をしている者が、宮から下がるものを食べるということ。
13c 何を?:祭壇に仕える者が、祭壇のささげ物にあずかること。
14a 同じように主も、これを定めておられます。
14b 何を?:福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えるを得ることを。
〇特権の不使用
15a しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。
15b また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。
15c それを用いるよりは、死んだ方がましです。
15d 私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできないのです。
〇パウロの誇り
16a 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。
16b (なぜなら)そうせずにはいられないからです。
16c 福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
17a (もし)私が自発的にそれ(福音宣教のこと)をしているなら、報いがあります。
17b 自発的にするのでないにとしても、それは私に、務めとして委ねられているのです。
18a では、私にどんな報いがあるのでしょう。
18b それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供する事。
18c (そして)福音宣教によって得る、自分の権利を用いないことです。。
着情報3.メッセージ
『チャンスという報酬』
聖書箇所:コリント人への手紙第一9章13〜18節
中心聖句:『私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。』(コリント人への手紙第一9章18節)
2023年7月9日(日)主日聖餐礼拝説教完全原稿
パウロは、使徒でありながらコリント教会で、その特権を全く用いる事がありませんでした。それは、コリントの街や教会の現状を鑑みて、特権を返上することが最善であると判断したからです。誰が見ても損をしているようにしか見えないこの状況ですが、パウロは何故かそれを本気で喜こびながら、これが私の誇りであると宣言し、また自分にとっての報酬であるとも言い切りました。一体、パウロは、どのような価値観によってこれを語ったのでしょうか。
まず大前提として使徒の特権は、神様が定められた正当な働き人の権利であって、それに預かることは悪いことではありません。当時の時代は、偶像に仕える異教の司祭ですら、神殿からの食事に預かり、献げものの分け前に預かっていたのですから、生ける神に仕える働き人、とりわけ使徒がこれに預かるのは当然でありました。しかし、時と場合によっては、これを返上したほうが良い状況も訪れます。パウロが、コリント伝道を行った時も正にそれで、彼が、教会から金銭を受け取ることで、大きなトラブルが発生する可能性が否めない状況が、そこにあったのです。イエス様の時代、ユダヤ教では「教師(ラビ)が、生徒から授業料を取るのは良くないこと」だと考える人が主流派でした。パウロもまた、元々はユダヤ教のラビでしたから、彼が教会から報酬を受けとっていることが知られれば、コリントの街のユダヤ人達から、「パウロは金目当てでキリスト教師に鞍替えした」と批判される可能性がありました。そうなれば教会に混乱が起こり、宣教どころではなくなってしまいます。それ故に、パウロとバルナバは、使徒の権利を返上して、金銭を受け取らず、自分で働いて稼ぐことを決断したのです。
要するに、パウロが使徒の特権を用いなかったのは、「状況がそれを許さなかったから」なのですが、それは彼にとって、マイナスにしかならなかったはずです。だと言うのに、パウロ自身は、何故かこの損失を大いに喜んでおり、「この機会を取り上げられるぐらいなら死んだ方がマシだ」とすら宣言しています。これは一体、どういうことなのでしょうか。パウロは、浮世離れした聖人なので、苦難を喜べる強靭な精神をもっていたということなのでしょうか。そうではありません。パウロは、浮世離れした聖人ではなく、ただ「全てのキリストの弟子の中で、終わりの日に一番評価を受ける人になる」ことを、本気で目指しているだけの人でした。
彼は、ペテロや他の使徒、指導者達と比べても、一番神様から称賛される人になることを、それこそ競技選手のように、本気で追い求めていたのです。そのような彼にとって、「図らずも」福音宣教の為に自分の特権を返上し、損失を飲み込まなければならない状況は、神様の前に評価されて一番になる機会、即ち手柄を挙げる為の絶好の機会(チャンス)だったのです。
私たちの信仰生活にも、イエス様の為に自分の損失を飲み込まねばならない機会は、しばしば訪れます。これは、普通なら唯の不運で悲しい出来事にしか見えないかもしれません。しかし、私たちが、この機会をイエス様の為に耐え忍んで受け入れる時、それに対して与えられる天からの評価は非常に大きなものとなり、その信仰に対する報いもまた大きいのです。私たちは、世の終わりにイエス様から褒めて頂く為に、日々の信仰生活を歩んでいます。もし、私たちもパウロのように、イエス様から「忠実なしもべよ、よくやった」と褒められたいと願うのならば、主の為の損失を「報酬」と呼ぶ彼の気持ちも、少しは理解できるのではないでしょうか。イエス様は常に、私たちが福音の為に何を献げているのかを見ておられ、それを喜んで評価し報いてくださいます。恐れずに、自身の全てをイエス様に献げ、お仕えして参りましょう。
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