1.時代背景、舞台、文脈背景
〇コリント人への手紙の背景
コリントは、コリント湾とサロニク湾に挟まれた細い首状の場所に位置する、その立地的な優位性から、交易による商業の発展の恩恵を受けた土地である。貿易商人や船乗りが、目的地へ移動する中継地点として利用した土地でもあり、その交易の豊かな恩恵にあずかった土地でもある。コリント教会はそのような中で形成された、所謂「大都会の教会」であるが、それ故に、現代の都会の教会でもしばしば問題になる、風紀の乱れや金銭的なトラブルの問題が良く起こる集まりでもあった。
コリントは、かねてから「風紀の乱れた低俗な土地」として名高く、「コリントと聞けば哲学と売春婦を思い浮かべる」と、当時のローマ人に言わしめる程に(古典アリストパネス作「福の神」の149-151行、プラトン作「国家」3巻etc..)、品の無い街としてのイメージを持たれていた。「コリント化」という言葉も流行っていたようで、その言葉は「身を持ち崩す」事と同義であった。しかし、それを補って余りある程に、コリントの街はとにかく人口が多く、金銭的に豊かであった。
また、この土地は一度ローマとの戦争に敗れ、その後に100程かけて再興したローマ帝国植民地でもあり、ギリシャ社会の価値観や文化が深く根付いた土地でもある。ローマで過ごす人々と、その感覚は(いささか低俗な方向に振れるが)殆ど変わらなかったと言っても良いかもしれない。それ故に、パウロは彼らに訴えかける際、ギリシャ哲学の思考法や論法を背景に訴えかける手法を用いている。
とにかく、このコリントは国際的な重要都市であったので(古典のホメロス作「イーリアス」でも「富んで豊かなコリントス」と描写されるほどに古代から有名であった)、パウロは、その居住者である「あらゆる欲に進んで浸る、自他ともに認める快楽主義の探求者」達相手に宣教を行ったのである。このコリントの状況は、現代の日本社会ともよく似ており、コリントの手紙の中で取り扱われる問題は、現代の日本社会にも当てはめて適用できるものが多い。
手紙の筆者のパウロは、「小さい」という意味を持つラテン語の名前であり、ローマ市民権を持つ親の子供として生まれた、生まれながらにしてのローマ市民である(使徒9章11節)。彼は熱心なユダヤ教徒であり、主に仲間内ではローマ名で「サウロ」と呼ばれ、パリサイ派の有力なラビ(学者)であるガマリエルの下で学ぶ筆頭生徒であった。ガマリエルは、弟子の能力に応じて、そのクラスをわけ、その最上級のクラスを「魚のクラス」とし、僅か上位数名程をこのクラスで養い、徹底的に神学を教えた。パウロはこの「魚のクラス」の筆頭であり、最高学府の首席として周囲からの信頼も厚かった。また、彼は情熱的な信仰も持ち、当初は熱心なユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害していたが、その半ばで、主イエスに出会い、180度回心して、使徒のひとりとして伝道を始める事になる(使徒9章1-9節。この時から、彼は自分の主な名前を、ローマ名のサウロから、ヘブル名のパウロへ変更している)。
このように優秀なパウロであったが、世界宣教を行う為に、ユダヤ地方からマケドニア地方へ移動してからは散々な目に遭っていた。
このコリントへくる直前に、ピリピやテサロニケでの外国人宣教活動を、現地のユダヤ人達の激しい妨害行為によって道半ばで失敗してしまい、アテネでも同じように失敗し、そこを去った後に、非常に落胆してコリントにやってきた(使徒18章1節)。しかも、同行者であったシラスとテモテは、マケドニア地方の後処理に忙殺されて同行することが出来ておらず、パウロは助け手も居ない状態でコリントに入ったのである。
そのような落胆した状況の孤独なパウロにとって、この欲望の街ともいえるコリントで宣教活動を成功させる事は、決して容易には感じなかった筈である。パウロは、独白している通りに、コリントで恐れながら伝道を行ったのである(Tコリント2章3節)。
しかし、そのようなパウロに、現地人のアクラとプリスキラのユダヤ人夫妻が協力し、コリントでの伝道は成功をおさめる。パウロと同じく天幕づくりを生業とする二人は、クラウデオ帝のユダヤ人退去命令によって、ローマから追われた夫妻であった。
この二人の助けと、後に合流したシラスとテモテと力を合わせて(使徒18章5節)、パウロはコリント教会が立ち上がる程に宣教を進め、テテオ・ユストやクリスポ一家といった救われた人々を起した(使徒18章8節)。そしてコリントを去って地方に出かけた後にも、パウロは「あの欲望の街で教会は存続し、神に召された兄弟姉妹たちは硬く信仰に立ち続けている」という喜びの報せを聞いたのである。失望の直後に、神の力によって宣教が進むことを見たパウロは、如何に励まされただろうか。
パウロが去った後、アポロと呼ばれるアレクサンドリア生まれのユダヤ人がコリント教会にやってきて、多くの雄弁な説教を行った。この時にアポロはコリント教会にとって、有力な指導者の一人に数えられた(使徒18章24-28節)。
パウロはこの後、既に失われている手紙をコリントに一通送り(Tコリント5章9節)、「不品行な者達と交際しないように」との警告をコリント教会へ行った。しかし、この手紙は、その内容によって誤解を招き、その手紙の本当の意味について、パウロが後の手紙で訂正を行ったため(Tコリント5章9-10節)、二通の内、最初の手紙より優れた後の手紙(コリント人への手紙第一)が最終的に保管され、現代に至るのである。
今回のコリントの手紙は、その「失われた前者の手紙」を送った後に、教会の中で分裂が起こったことを、クロエの家の者がパウロに知らせた事から、その筆が取られたようである(Tコリント1章11節)。コリントの状況の報せや、パウロへの質問をステパナ、ポルトナト、アカイコの三人が届け、それに対してもパウロは回答を手紙の中にしたためた(Tコリント16章17節)。この手紙の内容から、コリント教会の信仰の一致があまり上手く行っていない事を私達は伺う事が出来る。事の問題は深刻で、この手紙の前や後に、パウロの弟子であるテモテが何度か教会へ派遣されたが、第二の手紙を見る限りではあまり大したことが出来なかったようである。
結果、パウロの権威はコリント教会で明らかに疑われ、パウロはそれまでの仕事を全て取りやめて、コリント教会へ憤りをもって訪問しなければならず、この訪問によってコリント教会には大きな悲しみが齎される事となった(Uコリント2章1節etc..)。パウロはこの事について、後から「失敗ではないが、好ましい結果にはならなかった」と苦々しく思っており、憤りをもった訪問を行う事は二度としないと約束している(同1節)。
こうして、パウロに対する質問状に加え、少数の有志によって寄せられたコリント教会の凄惨な現状の伝聞を憂慮して、共同声明人であるソステネ(恐らくは、使徒18章17節でユダヤ人達に捕らえられて暴行を受けた会堂司のソステネと同一人物であり、パウロと共同声明を出すほどにコリント教会で権威を持った有力者である)とパウロで、このコリント人への手紙第一は執筆される事になった。
パウロの目下の悩みは教会の内部分裂であり、それぞれにパウロ党、アポロ党などの党派が結成され、互いに争っていた事であった。これは明らかに深刻な現状であり、パウロは手紙で真っ先にこの事への対応を行った。また、近親相姦の問題など、多くの不品行を禁ずる戒めへの違反者が出ているにも関わらず、教会はその問題を見て見ぬふりをしていた。欲望を神聖な物と考えるコリント人の元来の倫理観や哲学が、明らかにパウロの教え、キリストの福音の妨げになっている状況をパウロは突きつけられたのである。挙句の果てには、教会員同士で裁判を行い、互いに訴え合うという状況もパウロには知らされた。パウロはこれらの諸問題について、絶対に正す必要があると感じたようである。不純異性交遊についてもパウロは取り上げている。コリントは、その街の豊かさや都会の特性だけでなく、そこに根付く精神性な伝統に基づいても欲望に忠実であったが、その欲望に忠実な「伝統」はキリストの福音とは相いれなかった。これらの罪は継続されてはならなかったが、パウロはこの問題について、ただ切り捨てるだけでは解決することは出来なかった。それほどに「文化」は根深く、パウロはコリント信徒の抱える「人間の弱さと欲望を愛する心の罪の問題」と、長らく向き合わなければならなかったのである。
また、これらの重要な問題に伴って、結婚と独身の問題や偶像に備えられた肉の問題、また公的礼拝と霊の賜物の問題など、様々なケースへの(語弊はあるが)Q&Aを行っている。これらの実質的な問題は、俗悪な無駄話として退けられてしまいそうにも思えるが、信仰に寄り添う為には大切な問題である。何故なら信仰とは俗世や日常生活と切り離されたものではなく、正に俗世と日常生活に寄り添い、その中で適用される為に学ばなければならないものだからである。
明らかに、コリント教会の人々は、その文化性の故に、無秩序の問題と、それに伴う罪について侮り、軽く見る傾向があった。パウロはその価値観に対して真っ向から否定した。キリスト者として過ごすには、それまでの中で当たり前に馴染んできた文化や、ものの考え方、常識に対しての挑戦を受けなければならない。そして、パウロは最後に復活について宣べる事について、何故そのような挑戦を受けるのか、何の為に耐え忍ぶのか、何に応答する為にそれに立ち向かうのかについて力強く述べる。厳しい物言いも辞さないパウロの高い倫理観による戒めも、それにとって齎される悲しみも、また肉体を打ちたたく苦しみも、全ては私達を愛して十字架に掛かって下さった、主イエス・キリストの愛に対して応答する為に行われるのである。
〇概要
今回の箇所は、以上のような背景に伴って、パウロがコリント教会へ挨拶する所から開始される。パウロはところどころ、歯に衣着せぬ物言いをするものの、その趣旨はコリント教会の人々を憎んだり、怒りを下す為ではなく、寧ろ欲望の街の中で信仰を保っている奇跡的な教会の状況に感謝し、その健闘を称えながら執筆している事を挨拶の中でも述べている。
彼らが得ている素晴らしい恵み、またその状況は明らかに、人間の功績ではなく、神の恵みの御業によるものである。この欲望の街の中で、正しい信仰に召されたことも、またそこにとどまり続けている事も、神の恵みによるものであって、私達はこの恵みに留まり続ける事によって、欲望の街どころか、この世のあらゆる欲望、罪、それに伴う裁きからすらも守られて、救い主イエスによって、永遠の命に至るのである。
〇いたるところで〜召された方々へ。
パウロは、まず初めに「いたるところ(ギ:パンチトロ)」という言葉を用いて、コリント教会の戦いが孤立した単独の戦いではない事を強調する。礼拝の為される全ての場所に集う人々と共に、常にコリント教会の一人一人は立っているのである。
その根拠を、世界中どの教会で礼拝に立っている兄弟姉妹達も、一人の方によって召されたが故に同一なのであるという所にパウロは集約している。
コリントの教会で、自分の力で救われてそこに集まったのであれば、彼らは、コリントの中に発生したただの一単位である。
パウロは、ただの教会(ギ:エクレーシア)ではなく、「神の」教会と強調して宛名を書いている。エクレシアは、直訳すると本来「市議会」という意味であり、神の教会は、神による市議会という意味にもなる。市議会は、その長によって招集されて行われる。即ち、神によって招集された権威ある一人一人として、パウロはコリントの人々に接しているのである。
また、私達は神の教会に、自分の意思でやってきて参加しているのではない事も読み取る事が出来る。議会は、招集されたので、それに応答してはせ参じる場所である。来たいと願ってやってくる場所ではないし、呼ばれていない者は、そもそも願ってもそこへやってくることはできない。これは現実の教会に集う人々にも同じことが言える。教会へ参加したいと、自発的に思う事が出来る人は居ない。全て、神の憐みと恵みによって引き寄せられるように、教会へ足を向ける気を起されるのである。それ故、説得や理詰めによって、クリスチャンを増やす試みは成功しない。全てが召されるところから話が始まるからである。
つまるところ、教会とは建物や場所ではなく、人が神によって召されて集まっている所に発生する。即ち、物や場所ではなく、人そのものが教会なのである。それは、何も教会だけでなく、全ての委員会や民会などの集団に同じことが言えるはずである。国会議事堂でなくとも、国会議員が集まり開催されればそこが国会となる。当たり前の事のように見えて、これを解っているかどうかは非常に大きな事なのである。
〇神の恵みの故に
パウロは、また、それぞれに保っている聖めや一致、その他の賜物について、その出所を神の恵みに集約している。パウロは感謝する先を、コリント信徒の行いや成功、財力等の人間の手の業で得られるものではなく、神の恵みによって得られた霊的な賜物に限定して、コリント教会の人々に挨拶している。勿論、自身の使徒としての権威も、また特別な指導的地位についている事も、全て神の恵みにその出所を限定している。彼が指導者に立っているのすら、彼の功績や能力によるのではないのである。
私達もまた、救い主イエスによって、救いの中に呼んでいただいて、恵みによってその交わりの中に入る事が出来ている。また、至る所でイエスの恵みに応答して、何かの奉仕を行う事が出来ているのも、救い主イエスの恵みによる。
この恵みについての言及の肝は、全ての良い事は神のおかげ、という部分ではなく、そのように私達に良い影響を齎す恵みが、昔も今も、そしてこれからも私達の上に途切れることなく注がれ続けているということである。それ故、パウロは今後の展望についても言及し、これからも賜物に掛ける事がない事、キリストの再臨を待ち望むことが出来るようになる事、そして、最後まで信仰を保つ助けとなり、永遠の命に至るまでの道を導いてくれることなど、ありとあらゆる恵みは、私達の上に注がれ続けている。
そして何より、この恵み(ギ:カリス)は、「贈り物、祝福、恩恵、感謝、優しさ、御好意」という意味がある。神の恵みは、義務感や消極的な感情、また嫌々与えられて居るものではなく、積極的な感情による神の好意と善意によって与えられて居るものであり、私達はそれらの物を与えたいという神様の愛による積極的な意思によってこの恵みを注がれているのである。
〇霊の賜物
注がれ続ける恵みによって、コリント教会の人々は霊の賜物に欠ける事が無かった。霊的賜物とは、「言葉」は預言の賜物、また啓示や教えの賜物等を差し、「知識(ギ:グノーシス)」とは、聖書に関する知識にとどまらず、様々な博学さに付随する賜物である。特にコリント教会の人々は、その知識について、自分達は造詣が深いと、その全員が自負していた。コリント教会の人々は、皆ギリシャ的な学識は豊富にあったのである(Tコリント8章1節)。この賜物の感謝の事を、パウロは皮肉ではなく、本当に善意と喜びをもって言及しているようである。何故ならば、この賜物の恵みは、キリストについての証によって与えられたものであるとパウロ自身が言及しているからである(6節)。もし、キリストの証を持ち出してまで皮肉を言うのだとすれば、それは使徒として行うべき品位や誠実さを逸脱する行為である。皮肉のダシにキリストの証を使い、聖霊の働きを冒涜するような事をパウロは決して行わない。だとするならば、コリントの人々はパウロが率直に評価する通りに、霊の賜物については欠けて居なかったのである。慎む霊も、自分を律する霊も、愛の配慮の霊も、献身の霊も彼らには存在する。驚くべきことに、このような霊の賜物が完全に彼らに表されている上で、現在の教会の問題は引き起こされているのである。
私達は、霊の賜物が欠けているから、戦う為の力を養えていないから、教会の中には問題や争いごとが絶えないと考えがちである。また、何か問題や苦しみが起こった時に、自身の足りなさや、恵みの不足によって問題や苦難が起こっていると私達は考え、それが満たされるように祈る。しかし、恵みを注ぎ続ける神の賜物は私達の中に十分現わされている。神の御手の業が不完全で、それによって不具合が起こるということはあまり考えられない。私達はこの時、霊の賜物は完全でも、それでも尚私達に問題を引き起こす、霊の賜物に反逆する様々な力がある事を思い知らされる。
(決して自分は完璧なので落ち度が無いという傲慢さを助長する為の言及ではないが、)私達は賜物が完璧であるにも関わらず、自らの育ってきた文化や背景、思想、考え方、また新たに出現する価値観など、様々な物が重なり合って、問題や苦難に悩まされ、それと戦い続けなければならないのである。特に、コリントの教会は、賜物はあれども、それを秩序だって捕らえ、互いに賜物を活かしあう術を持たなかった。賜物が全て揃っていても、それらが十全に発揮されるとも限らないのは興味深い事である。
思えば、主イエスも、全ての於いて完璧であった神の御子でさえも、疲れ、苦しみ、悶え、様々な攻撃に晒されて、最後は十字架に掛けられた。私達も「賜物さえ整って完璧であるならば、自分には問題など起こらない筈である」という幻想を捨て、今一度、自身の直面している問題についての認識を改めなければならない。
また、パウロが意識的に、賜物について、言葉を先に出し、知識を後に置いている事にも注目しなければならない。私達がキリストを証しする為に出す「言葉」は、「知識」に根差して与えられるものではない。私達は、例え知識に及ばずとも、例えば聖書に造詣が深い神学者や牧師でない一信徒であったとしても、恐れずにキリストを証しする「言葉」を口に出来るのである。まず、キリストを証しする言葉が神によって与えられ、それに伴う知識や知恵は、後から私達についてくる。だから、自分は神学に疎いから、また牧師のように聖書に詳しくないから、イエス・キリストについて人に伝える事が出来ない等と、尻込みする必要は一切ないのである。
〇キリストについての証
キリストについての証が、私達の中で確かなものとなった、という発言について、私達は実際に自分の内側に与えられて居る神の賜物によって確認し、担保することが出来る。私達は、自分自身を振り返った時、以前には自分にはなかった賜物が与えられ、自身が実力ではなく、霊的な導きによって成長し、以前の自分には出来なかったことが出来るようになっているのを確認する時、私達の心の内側に、キリストの証が成り立っていることを、私達は自分自身で良く認識し、確かめる事が出来るのである。
そして、その賜物が与えられる結果、私達はますます、キリストの再臨を待ち望むようになる。イエスを知らず、またその賜物や証も知らない人程、キリストの再臨についての待望を軽視し、侮るが、それは賜物も、キリストについての証を経験することもないのだから当たり前の事である。キリストの再臨が確実であり、そのまま信じるに値するという事は、正に、霊によって賜物が与えられ、自身の中にキリストの証が立ったという「実感」を伴って初めて起こる事なのである。実感も何もなく、信じて従うことが出来る程、人間は賢明ではない。聞いた話ではなく、自身が体験した感覚に基づいてこそ、敬虔にキリストの再臨を待望する信仰は確率するのである。
〇神は真実です。
私達は、真実な神によって召されており、この神は私達に対して完全なる善意によって向き合って下さっていることを確認しなければならない。それは、私達に対して、不品行を禁ずることも、快楽に対して否定的な意見を行う事も、決して悪意によるのではなく、寧ろ必要であるからこそ行われていることであることを私達は確認しなければならないし、この全宇宙を統べ治められ、私達より想像も出来ない程に広い視点を持たれている方が「恐ろしい」と評価される程の出来事が私達に起こるという事も弁えておくべきである。イエス・キリストの日に私達に対して本来起こるべき「責め」を私達は勝手な想像で矮小化して、侮ってはならない。それは私達が予想するあらゆる「最悪」をせせら笑うかのように塗り替える程の「最悪」なものとなるからである。それを知った上で、父なる神は、私達をそれに出会わせるぐらいならば、自身の大切な独り子を死に至らせる方が「ましである」と判断してくださったのはなんと幸いな事だろうか。神が私達を愛して下さっているという事柄について、私達は一切の疑念を差しはさむ余地は無い。何故なら、それほどに恐ろしい事が起こる「終わりの日」は、いまやイエス・キリストの十字架によって、「待望すべき、全ての約束が確立される日」に置き換わったからである。神は正に「真実」な方なのである。
そのような真実な神が、私達を永遠の命を得られる交わりの中へ、呼び出して、引き込んでくださったのである。即ち、パウロが手紙の最初から宣言している通りに、私達を「教会の中へ呼び出し」「信仰を持たせ」「賜物を与え」「キリストの証を確認し」「再臨の待望に至らせ」「イエス・キリストの終わりの日まで、約束を握り続ける事を堅く守って下さる」という、キリスト者が通るべき全ての信仰の過程が、神の真実さによって担保されていることを、私達は十分に自覚しなければならない。徹頭徹尾、全てが神の実手の業によって私達に与えられるのである。
私達は、この素晴らしい御手の業を、今も前味として知る事が出来ている。即ち、これら一連の事が私達に起こり、与えられて居る事が、「召し出された」私達に対する、神様の恵み(即ち御好意)の前持った体験なのである。私達は、この福音の前味によって全てを確信し、神の真実さを体験し、その約束を信じて難く立ち続ける。私達は希望をもって、最後の時まで、イエス・キリストとの交わりの中にとどまり続けるのである。
〇ポイントの整理
1.自身の考えや能力によって党派を競い合っている信徒達へパウロはこの手紙を当てた。
2.その中で、コリントの教会だけではない、全地あまねく全ての教会で使えるキリスト者達に与えられて居る全ての賜物は、神からの贈り物である事をパウロは訴えている。
3.全ての賜物という贈り物、即ち、導き出されたことも、養われる事も、救われる事も、堅く立つことも神の善意によって与えられて居る。
4.そのような善意によって養われている私達は、神の御業を体験し、神の恵みによるキリストの証をその身に受け続けることによって、神が真実である事をしり、その再臨を待望するほどに難く立てられるのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇挨拶
1a 送り主1:神の御心により、キリスト・イエス(救い主イエスの意)の使途として召されたパウロと、
1b 送り主2:兄弟(教会の構成員の男性呼称)ソステネから、
2a 宛名:コリントにある神の教会へ。
2b 宛名詳細1:すなわち、いたるところで私達の主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた人。
2c 宛名詳細2:また、聖徒(キリスト者)として召された方々へ。
2d 主(イエス)は、(宛名に書いた)全ての人の主であり、また私達(パウロとソステネ)の主で(でもありま)す。
3a 私達の父なる神と、主イエス・キリストから(父なる神とイエスを同列としてその名を併記)
3b 恵みと平安があなた方にありますように。
〇コリント教会に現わされた神の恵み
4a 私(パウロ)は、あなたがた(コリント教会の人々)の事を、いつも私の神(父なる神)に感謝しています。
4a 理由:キリスト・イエスに在って、あなた方に与えられた恵みの故に。
5 恵みとは何か1:(何故なら)あなた方は全ての点で、(すなわち)あらゆる言葉とあらゆる知識において、キリストに在って豊かな者とされているからです。
6 恵みとは何か2:(それは)キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったから(与えられたものなの)です。
7a その(恵みが現れた)結果、あなたがたはどんな賜物にも欠ける事がありませんし、
7b (その欠けのない賜物によって)熱心に私達の主イエス・キリストの現われを待ち望むようになっています。
8a 主は(又は「神様も」)あなた方を(それらの恵みによって)最後まで堅く保って(永遠の命を得られるようにして)下さいますし、
8b 私達の主、イエス・キリストの(再臨の)日(の最期の審判の時)に責められる事が無い者としてくださるでしょう。
〇主の真実さ
9a 神は真実です。
9b その(真実な)神に召されて、あなた方は神の御子、私達の主イエス・キリストとの交わりに(自分で入ったのではなく、神によって)入れられたのです。
着情報3.メッセージ
『召された人々』
聖書箇所:コリント人への手紙 第一 1章1〜9節
中心聖句:『神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。』(Tコリント人への手紙1章9節)
2022年7月31日(日) 主日礼拝説教
コリント人への手紙は、能力や功績、知恵を互いに競って、党派争いを続けていたコリント教会の信徒に対し書かれた書簡です。筆者のパウロは、手紙の挨拶部分を通して、与えられた全ての恵みは、私達の功績によらない、神様からの贈りものである事を知らせます。
パウロは挨拶の中で、始めに「世界中の福音を信じる全ての人々は、イエス様によって召されたので救われている事」を確認しています。何故なら、自身の能力や努力によって救われることの出来る人などこの世に一人も居ないからこそ、イエス様が私達の罪の罰の身代わりに十字架に掛って死なれなければならなかったからです。このイエス様と十字架の救いは、知恵や知識によっては信じることができません。知恵と知識のある人の目には、イエス様の十字架と福音は愚かなものに映ってしまうからです。この「霊的な成果は能力や努力によって獲得出来ない」という原則は、信仰的な全ての事柄に適用されます。私達は、信仰による全ての歩みを終始、神様の御手の業に依存しているのです。それ故にパウロは、「霊的な全ての賜物は、努力によらず神の恵みの業による」と信徒達に語っているのです(4-8節)。
では、イエス様に在って与えられた神の恵み(4節、ギ:カリス)とは一体どのようなものなのでしょうか。ギリシャ語のカリスには、祝福、贈り物、恩恵、感謝、優しさ、好意という意味があります。神様からの恵みは、義務や機械的な平等によってではなく、私達を愛する好意によって、積極的に与えられている贈りものなのです。そして、この贈りものは、私達の生きる今日この時にも惜しみなく注がれ続けています。私達は、神様からのこの贈りものによって、教会に関わるきっかけを頂き、救われて洗礼を受け、十字架を0信じて信仰生活を送る事が出来るのです。これらの恵みは全て、私達が「この世の終わりに自身の罪によって、恐ろしい裁きを受けて滅ぶ事が無いように」と言う、神様からの善意によって与えられています。父なる神様は、私達が、各々の罪によって恐ろしい滅びへ投げ入れられるぐらいならば、御自身が痛みを受け、大切な独り子を十字架に掛ける方がマシであると考えられた程に、私達の事を愛して下さいました。そのような神様からの愛情と恵みは、私達が日々受ける霊的な成長や、様々な良い事が証しとなって、現代のこの時もしっかりと確認する事が出来るのです。
私達は今、この場でイエス様の十字架と福音の約束を耳にしています。これは当たり前の事ではなく、この事を聴くきっかけすらもが、神様から与えられた贈りものなのです。半信半疑でも構いません。今、自分が神様に召し出されているという事を信じて、イエス様を信じてみて下さい。神様はそこから、私達の生活に驚くべき御業を引き起こして、その決断が正しかった事を、良い証しによって確認させてくださいます。だから、恐れずにイエス様を信じましょう。そして、終わりの時まで、神様の恵みによって成長し続けて行こうではありませんか。
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