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牧師の説教ノート(7月24日分)
聖書箇所:マルコの福音書16章9〜20節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 所謂長い末尾などと呼ばれているマルコ福音書の最期に追加された文章である。
 この8節後半、及び9節以降については、多くの写本や、エウセビオス、またヒエロニムスと言った初期の権威に偽作として拒否されている。文体、及び文脈の構成についても、明らかにマルコ本人が書いた福音書部分と異なっており、福音書本来の部分で無い事は確実である。また、9節の部分と1-8節の内容がかぶっている事や、他の福音書の寄せ集め的な文章でまとめようとしている事からも、マルコ本来の原文で無い事がわかる。
 また、マルコ福音書は他の共観福音書、及びヨハネの福音書を含めて、一番初めに掛かれた福音書であるにも関わらず、長い末尾は、他の三福音書の内容を引用しているからである。(ヨハネ20章1-8節、ルカ24章13-35節、マタイ28章18-20節)
 おそらくは、全ての福音書が既に認知されていた一世紀終盤の頃に、他の福音書を加味して、末尾をきちんと整えようとした初期の試みであると考えられる。

 では、本来の9節以降はどうなったのか、そもそもそんなものは存在したのかについては、現代でも議論が絶えない。しかし、文脈から類推するに、8節で終わる事は決して矛盾ではなく、マルコ独自の作風ともそれほど外れているわけではない。何故なら、マルコは聞いて、読んで、考えて悟ることを、常に福音書を通して読者へ訴え続けてきたからである。

 従って、今回の箇所は正典として扱うべきではなく、福音書の御言葉として取り次ぐ事は適切ではない。しかし、内容そのものは他の福音書から引用されているものであって適切であり、他の外典や偽典と同じように扱う事は全く間違っている。つまり、正典として扱うべきではないが、その内容はそのものは真正なのである。

 この補遺が必要であるか、不要であるかを議論するなら、明らかにこれは有用であろう。何故ならば、本来の末尾によって書いた筆者(マルコ)がそれを読んだ読者に対して期待した応答は、「続きを聴くために教会へ出かける事」であった筈だからである。
 「福音書の続きはどうなったのか」と問いに来る新規来会者に対して、質問を受けたキリスト者達は明らかに他の福音書を根拠にして「福音書の末尾の続き」を説明したはずである。それが何度も繰り返された結果、「読者の応答への応答」が教会の中で類型化(テンプレート化)されたのだとすれば、この長い補遺は、そのような初期の「名も無き証者達」による、「マルコの末尾を呼んだ人々の行った応答に対する、キリスト者達の応答のテンプレート」を、そのまま追記した可能性が非常に高いのではないだろうか。


〇マグダラのマリアと二人の弟子の目撃
 この二人の目撃については、ヨハネ20章1-8節とルカ24章13-35節の中で詳しく知る事が出来る。
 細かい説明は省くが、二人とも、確かに復活したイエスを目撃した。その上で、復活したイエスと出会った出来事を、十二弟子を含む他の仲間に伝えたのである。
 しかし、十二弟子を含め、他の弟子達はそのことを信じなかった。彼らの心は頑なにされていたからである。
 主の御業が露骨に表されている時、信じる者の目にはそれは見えすぎる程に見えてくるが、信じない者には、その見えすぎる真実は、それ以上の頑なさによって見えないものへと変えられる。
 このような事は、主の裁きや審判が近づいている時に特に起こりやすいようである(例として、ヨシュアとカレブの嗣業の地制圧の呼びかけに対するイスラエルの応答や、エレミヤ書の出来事等がある)。
 イエスの処刑に立ち会い、十字架を真に見上げていた人々は、正にイエスの復活を信じたが、イエスを見捨てて逃げ出した人々はこれを信じる事がなかったのである。(※尚、ヨハネ福音書には、弟子達がイエスの空の墓を確かめに行って信じた箇所があるが(ヨハネ20章1-9節)、あれはあくまで墓からイエスの遺体が無くなった事実を確認して信じただけであり、イエスの復活を信じた訳では無かった(ヨハネ20章9節、18-19節))


〇頑なな心をお責めになる
 その後に、イエスは確かにやってきて、弟子達の前にその姿を現され、信じなかった弟子達を責められた。神様の御計画にとっての重要な事柄が近づく時、本来なら目の開いていなければならない人々から、その目は閉ざされていく。
 その例にもれず、末端の弟子や女性達ではなく、正にイエスに従う集団の長であった十二弟子達の目と耳は閉ざされ、その心が頑なにされた。
 現代でもこの現象は明らかに教会の中に蔓延している。大患難の時代、最初に振るわれて狂い、心が頑なにされて裁かれるのは、教会の中心である牧会者達である。
 サタンは末端を狙うような非効率的な事は行わない。正に、復活についてそれを率先して否定したのは、最も初めに信じなければならない、イエスのグループの十二弟子達であった。
 このような事は、想像以上に教会の中で頻繁に発生する。神は立場ではなく、その信仰によって人を評価されるからである。いくら牧師であろうが、指導者であろうが、神よりも人を恐れる者から、その信仰を取り上げられるのである。
 神を畏れる事は知恵の始めであり(箴言1章7節)、この原則から外れる者は、持っているものまでも取り上げられる(マルコ4章25節)。
 但し、この時の弟子達は、まだ信仰が一時的に失われ、頑なになる程度で済んだ。それは来るべき終わりの時代の人々へ、彼らがその身の失敗をもって警告する為である。その為に、全ての福音書で、弟子達がイエスの復活を信じずに嘲笑した大きな失敗が、隠される事も無く記録される事となった。
 だから、そのような警告がしっかりと為された今の時代に於いては、即ち終わりの時代の終わりの時に生きる、再臨が近づき、大患難時代を生きる私達の場合には、しっかりとその警告通りのリスクが適用されるのである。
 神を畏れない人々からは、まず信仰が取り去られ、次に信仰が回復する機会が取り去られる。そして、神を侮って畏れない者からは、信仰を得る機会、救いを得る機会そのものが取り去られるのである。
 昔ならば、何かのきっかけがあれば自分自身を見直し、自分自身に向き合う機会がその都度与えられていた。その為に教会に出かける人々も、その結果救われる人も多かった。しかし、今の時代は、余りにも発達した様々な情報の氾濫によって、自身の行いを振り返る機会も、悔い改める機会も、人生を見つめ直す機会も全て閉ざされている。溢れる情報を追うのに時間が足りず、自身の事について真剣に考えることを冷笑する情報で、全ての媒体があふれているからである。
 したがって、「昔ならば救われていた筈の人」も、この終わりが近づいた現代では救われる事が無いのである。
 しかし、逆説的に、それは神からの救いに恵みに預かる機会の稀有さ、その力の現れ方が、非常に大きくなっているとも言える。この、誰も救われないような患難の時代の中でも尚、神を畏れて救いを求める人に、神は過去の何倍もの力をもって、救いへ導く御業を起して下さるのである。そのような意味で、私達は今、過去よりもよほど大きな恵みに預かる事のできる時代に生きているのである。


〇本来の末尾についての考察
 おそらく、マルコが8節で急に物語を途切れさせた事によって期待した事は、「続き」を知っている人々の居る教会へと脚を運ぶ行動をとる事であった。
 イエスが復活し、その事を女性達が完全に黙って誰にも言わないのであったならば、そもそも福音書は書かれず、読者の所へもその情報は伝わっていないはずである。
 即ち、この話には女性達は結局黙っている事が出来ず、福音書の後に何らかの出来事が起こって、秘匿された情報が露わになり、読者の所までその情報が届くようになったはずなのである。その謎は、勤勉な読者の好奇心と探求心を刺激するには十分すぎる効果があったことであろう。
 特に、この福音書の読者として想定されているのは、思慮深く勤勉なローマ人であった為、彼らはその謎をそのままにしておくことはできない。そのようなローマ人の特性に、文才あるマルコが意図的につけ込んだ可能性は非常に高いのではないだろうか。彼らは皆、教会へ出かけて行って、この続きにどうなったのか、証し人であるキリスト者達に尋ねたはずである。
 その際に、もしキリスト者達が、他の福音書を根拠として(キリスト者の証言だけでは権威不足であっただろうから)、長い補遺である9-20節までのように語っていたのだとすれば、長い補遺は、読者への応答への応答がどのように語られていたのかを探りうる手掛かりになる。
 また、キリスト者達が毎回、その福音書の続きをローマ人達に伝えており、しかも、余りにも何度もその機会が訪れたのならば、その説明の手間を省くために、長い補遺を、本来の福音書の末尾に挿入して「第二版」とした可能性は高いだろう。
 それは即ち、キリスト者達が8節までを読んだ読者の質問に答える為のテンプレートであり、所謂Q&Aの「よくある質問」への回答としてあらかじめ付与したものだと考えれば、この長い末尾には神学的な意味も確かにあるのである。
 また、マルコ自身も、イエスが一体何者であるかについて、読者に一つの答えを示している。それは、マルコ1章1節に掛かれた、書のタイトル「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉である。
 こうして唐突によみがえり、女達を恐れさせたイエスとは一体何者なのであるか。考察しようと読者がもう一度この福音書を読み返そうとしたとき、イエスは神の子であり、キリスト(救い主)であるという、余りにも確かな宣言が、賢明な読者の目に飛び込んでくるのである。マルコは、その唐突な終わり方によって、読者にタイトルを「二度見」するように誘導し、そのタイトルを見て「悟った」読者に、福音書の再読と、教会への出席を促すのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇長い補遺1:イエス。マグダラのマリアに会う
9a さて、週の初めの日の朝早くのことである。
9b よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を表された。
9c 補足:(このマグダラのマリアと言う)彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。

〇長い補遺1:弟子達、イエスの復活を信じない
10a マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いている所に行った。
10b (彼女はその人々に)イエスがそのこと(イエスがよみがえって自分に会われた事)を知らせた。
11a (しかし)彼ら(イエスの弟子達の集まり)は、そのことを聞いても信じなかった。
11b 内容:イエスが生きていて、彼女にご自分を現わされたこと。
12  それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていた時、イエスは別の姿でご自分を現わされた。
13a その二人も、ほかのひとたち(弟子達)の所へ行って知らせた。
13b (しかし、)彼らはその話も信じなかった。

〇長い補遺2:イエス、弟子達を責められる
14a その後、イエスは、十一人(ユダの欠けた十二弟子)が食卓に着いている所に現れた。
14b (現れた後、)彼ら(十二弟子)の不信仰と頑なな心をお責めになった。
14c 蘇られたイエスを見た人たちのいう事を、彼らが信じなかったからである。

〇長い補遺2:イエス、宣教命令を出す。
15a それから、イエスは彼らに言われた。
15b 内容1:全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
16a 内容2:信じてバプテスマを受ける者は救われます。
16b 内容3:しかし、信じない者は罪に定められます。

〇長い補遺2:全ての人に起こるしるし
17a 信じる人々には、次のようなしるしが伴います。
17b 内容1:即ち、わたしの名によって悪霊を追い出す事。
17c 内容2:新しいことばで語る事。
18a 内容3:その手で蛇をつかみ、毒を飲んでも決して害を受けないこと。
18b 内容4:病人に手を置けば癒される事。

〇長い補遺3:イエス、天に上り、宣教が始まる
19a 主イエスは彼らに語った後、天にあげられた。
19b (そして、)神の右の座に着かれた。
20a 弟子達は出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。
20b 主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。

着情報3.メッセージ

『福音のはじめ』
聖書箇所:マルコによる福音書16章9〜20節
中心聖句:『神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。』(マルコによる福音書1章1節) 
2022年7月24日(日) 主日礼拝説教

 マルコ福音書の本文は8節半ばで終わり、8節後半から20節までには「長い末尾」と呼ばれる補遺の文章が挿入されています。この文章は、マルコ福音書本来の文章ではありません。しかし、この部分にも大きな価値があり、その中に大切な学びが込められています。

 マルコ福音書は、本来8節で終わっています。何故このような唐突で歯切れの悪い終わり方をしているのでしょうか。それは、このマルコ福音書の書かれた趣旨が、「読んだ人がイエス様と福音を信じて救われる為」というものだからです。福音とは「学んで納得するもの」ではなく、「信じて従うもの」です。だから、例え読んで納得しても、その読者が信仰をもって、教会の交わりに入らなければ意味が無いのです。筆者のマルコも、読者が、自ら教会へ足を運んで末尾の続きを知る事を期待したのだと思われます。その為の仕掛けは、この福音書のタイトルにも込められています。不思議に思ってタイトルに戻った時、1章1節には、「蘇ったというイエスとは、何者であるかという問いの答えが、はっきりと書かれているからです。そして、福音書の続きを知る為に教会へ実際に足を運んだ人には、既に信じた人々が、他の福音書に基づいて証を行います。長い末尾とは、その証の為に大いに役立つ文章なのです。

 この長い末尾の中で特に強調されているのは、イエス様の復活とその証を弟子達が信じなかった事を、イエス様が叱られた部分(14節)です。マグダラのマリアによる証言を得ても、弟子達はイエス様の復活を信じず寧ろ嘲りました(ルカ24章11節)し、二人の弟子の証言も信じませんでした。ここに、イエス様に出会った人々と弟子達の信仰の差異があります。マグダラのマリアや、二人の弟子達は、弱い信仰ながらも、確かに受難の際にイエス様の十字架を見上げていましたが(ルカ24章20節、マルコ15章40節)、弟子達はイエス様を信じずに裏切り、逃げ出して十字架を見上げる事はしませんでした。その結果、神様は十字架を見上げた人々には、復活のイエス様に出会わせ、その信仰を更に強められましたが、イエス様を信じなかった弟子達は、「持っているものまで取り上げられる(マルコ4章25節)」状態に陥らせ、復活を信じない、頑なな状態へ落とされる事を体験させられたのです。

 私達の生きる現代は、正に終わりの時代です。福音の時代のはじめの時には、弟子達の不信仰も赦され、その失敗や過ちも、ペンテコステの御業によって力を取り戻すことも赦されました。しかし、それらの全てが既に伝えられ終わっている、今の私達の時代では、そのように悠長な事は言っていられないかもしれません。今の終わりの時に、サタンは最後の道連れを得るために世界中を跋扈しています。神様を畏れない、その存在を本気で信じていない人は、サタンによって救われる機会すら奪われ、永遠の滅びに定められてしまいます。そのような時代の中で、イエス様を信じて永遠の命に預かれる事が、如何に起こりがたい恵みか解るでしょうか。いつでも信じる事は出来るなどと侮らず、今決断してイエス様を信じましょう。




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 (日曜日のみ)