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牧師の説教ノート(3月9日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙16章19〜24節

1.時代背景、舞台、文脈背景

 コリント人への手紙第一の、最後の締めくくりの文章である。
 そうであるのだが、最後の締めくくりの文章すらも、一つ前の項目と同じく波乱の内容が込められている。

 それは、この手紙の文章が呪いと祝福の両方を用いて閉じられているからである。三人の兄弟によって宥められたにも関わらず、これまである程度でも理性的に手紙を記してきたパウロが、最後に爆発したのであろうか?

 否、爆発した、というよりは、不忠実なコリント教会の信徒たちに対して、もう一度厳かに警告を重ねて行ったと考えるのが妥当であるかと考える。それほどまでに、コリント教会の信徒たちが悔い改めに至ることは難しいように思われたのかもしれない。

 手紙を読み終わっても、自分たちを神の人だといっているグループがすぐに瓦解するわけでもなければ、「イエスは呪われよ」と叫んでいる女たちの集団が綺麗に居なくなるわけでもないからである。しかし、パウロはそのような人々に対して、はっきりと「主を愛さない者は呪われるように」と、宣言し、不忠実な集団に対して決断を迫るのである。それは、しばしば、旧約聖書の契約の内容が、祝福か呪いのどちらを選ぶかという決断を迫るものであるように、手紙の警告を受け入れて悔い改めるか、それとも悔い改めずキリストの再臨に至るまで、世々限りなく呪いを受けるのかという二択を、パウロは不忠実な人々に迫るのである。

 もし、彼らが悔い改めて、本当の意味で悪意なく信仰の道に戻るのならば、聖なる挨拶を行うことが出来るようになるはずである。聖なる挨拶とは、邪な心なく、また、イスカリオテのユダのように欺く心なく行われる口づけ(挨拶)の儀式である。これは、何のわだかまりもなく、問題もない普通の教会の中であれば、至極当たり前に行われるものであるのだが、しかし、問題ばかりが積み重なっているコリント教会の中では、これの達成は、そのまま究極の課題になる程に難しい目標であった。

 私たちの教会にとって、互いに悪意なく、わだかまりなく挨拶が出来るということは、ある意味では何よりも簡単なことであり、またある意味では何よりも難しい究極の課題に思える。もし、そのような状態を達成できているのであれば、これ以上に素晴らしい神からの祝福はないだろう。もし、そのような祝福に預かっているのならば、私たちはこれを決して当たり前のことであると思ってはならない。それは、私たちが誠心誠意、全力をもって守っていくべき教会の宝であり、決して失ってはならない祝福だからである。

 もし、聖なる挨拶を誰もが行うことが出来ない状態になるのならば、教会は全員の一致をもって、それが達成できるように目標を立て、これが達成できるよう努力していかなければならない。もし、それに向かって努力していくことが出来ないのであれば、一人びとりが、まずは神を愛(フィレオウ)することから取り組んで行かなければならない。フィレオウとは親愛である。神に対し、親しみを込めた愛を保っているならば、私たちは神が喜ばれる方向へ向かうことに異存はないはずである。もし、キリストの十字架の恩恵にあずかり、罪を贖われ、救われておきながら、そのような父なる神への親愛すらも持ち合わせていない恩知らずがいるのなら、「そのような者は、主イエス・キリストの再臨に至るまで、世々限りなく呪われよ」と宣言されても仕方ないのである。


〇19節
 アジアの諸教会とは、現在小アジアと呼ばれている地域の西側1/3程度の広さの土地に存在する諸教会を指す。
 この教会がどれだけの数存在していたのかは定かではないものの、黙示録では七つ教会があることが確認されている(黙示録1〜3章)。
 また、これらアジア教会の中心地はエペソであったようである。

 「よろしく(ギ:アスパゾマイ)」は、親切に歓迎すること、抱擁することから転じて、安否を問うとか、挨拶を送ることを表すようになった単語である。

 アキラとプリスカは、男女の夫妻であり、クラウデオ帝がローマからユダヤ人を追放した際に、ポント出身のユダヤ人であったアキラも追放されて、コリントにやってきたようである。
 ローマに住んでいたころは、家の教会を開いており(ローマ人への手紙16章5節)、他の聖徒の為に働く愛の人であった。
 熱心な信徒献身者であり、パウロの為に命の危険を冒すこともためらわない程であった(ローマ人への手紙16章4節)。
 また、コリント教会開拓時期には、夫婦そろってパウロの助けになっている(使徒の働き18章1〜3節)。

 信仰的にも、パウロや他の兄弟姉妹からも強い信任を受けており、人々の指導も行っていた。
 特に、コリント教会信徒が慕ってやまないあのアポロですら、もとはと言えば、このアキラとプリスカの二人によって信仰の手ほどきを受けたのである(使徒の働き18章26節)。そういう意味(つまり、アポロの師に当たるという意味)で、この二人の挨拶は、他の教会以上に、コリント教会に対して思い入れのある挨拶であった。

 彼らは、コリント開拓伝道のあと(使徒の働き18章1〜3節)、エペソに移動し(同18〜19節)、アポロを教育し(26節)、家の教会を作りつつ伝道に励み、その後ローマへ戻って、ここでも家の教会を作り(ローマ人へお手紙16章3〜5節)、またエペソに戻ってきて伝道に携わった(Uテモテへの手紙4章19節)。このように、済む場所にすらこだわらず、自らの働きを夫婦そろって献身に献げたのがこの二人である。余談だが、プリスカは、ルカからは相性のプリスキラと呼ばれており、度々筆頭に名前が挙がる程には、積極的に伝道に身を尽くしている夫人であったようである(使徒の働き18章18節、26節、ローマ人への手紙16章3節、Uテモテ4章19節)。

 
 「心から(ギ:ポリュス)」は、多い、豊富、激しい、熱心に、しきりに、度々、といった意味のある言葉であり、もてる限りの心をもって、コリント教会二挨拶を行っている。これは単なる修辞的な挨拶ではなく、真心をもってコリント教会を心配している様を示していると言える。コリント教会は、決して褒められた教会ではなかったが、多くの人々によって、心から気にかけられるような教会でもあった。


〇20節
 「口づけ(ギ:フィレマティ)」は、現在の西欧よりも、古代世界に於いてはより広範囲に渡る挨拶の方法であった。
 「聖なる口づけ(ギ:フィレマティ・ハギオウ)」については、新約聖書全体で触れられている。
 (ローマ16章16節、Uコリント13章12節、Tテサロニケ5章26節、Tペテロ5章14節)
 このような暖かな挨拶が、当たり前のように行われているというのは、教会の中では実に当たり前の日常風景であった。

 即ち、古代世界では、人は目上の者の手に、胸に、ひざに、脚に、そして頬に口づけを行った。
 元々はペルシャ人の習慣として、唇を合わせる口づけがあったが、その習慣がユダヤ人に入ってきた可能性も指摘されている。
 新約聖書の時代に於いては、この口づけを、主人が招待客に行うことは、期待される歓迎の意の表明であった(ルカの福音書7章45節)。

 これらの口づけの慣習は、教会の中に於いては、男性同士、女性同士が、頬に行う形で簡易的に行われた。また、聖餐式の前、祈祷の後、長老から人々に用いられたことからも聖なる口づけと呼ばれたようである。
 ちなみに、唇などを濃厚に接触させる不必要な異性接触などは聖なる口づけとは呼ばれていなかったようである。
 特に、不品行に発展するような恥知らずで不適切な方法での口づけの用いられ方については、ローマのクレメンスなどが、「恥知らずな用法は・・みだらな気分を起こさせ、悪い評判を誘発する」と苦言を呈している。

 また、この口づけとは、完全に善意によって行われるものであり、この口づけが裏切りに用いられることは、私たちが考えている以上に忌み嫌われるべきことであった。イスカリオテのユダの裏切りの口づけなどはまさにこれである(ルカの福音書2章48節)。

 要するに、不必要以上の性的な接触を伴わない、真心をもって行い邪心を抱かない、相手を選んで忌避しないなど、これらの条件が全て伴ったものが聖なる(もしくはきよい)口づけとか、愛の口づけと呼ばれるようである。
 
 これらの挨拶は、普通に教会の聖徒達が集まる際に、心のこもった挨拶として行われていたのであり、親愛のしるしでもあった。
 ペテロの手紙5章14節では、愛の口づけとも書かれているが、意味合いは全く同じである。兄弟たちは、皆集まれば自然に口づけを行ってあいさつし、その間柄には何のわだかまりもないのが当たり前のことであった。

 しかし、不健全な状態の教会の中では、これは決して当たり前のことではなかった。
 聖なる口づけを交わして挨拶をせよ、という言葉は、普通の教会ならただの慣用句的な決まり文句の挨拶である。
 しかし、コリント教会については、この言葉は叱責になりえるものであった。



〇21〜23節
 パウロは、基本的に自身の手紙ついて、初期を付けて口頭筆記を行わせることが常であった。
 (ちなみに、ローマ人への手紙の代筆は、テルテオという働き人が行っている(ローマ人への手紙16章22節))
 しかし、手紙の最後など、本当に大事な部分については、直筆で書をしたためることもあった。この最後の挨拶は、間違いなくパウロからの手紙であるという署名の意味もあったと考えられる。
 パウロは、必ず自分の手紙には、自分の直筆で一文書き加えることを行っていたようである(Uテサロニケ人への手紙3章17節)
 自分の手紙が、必ずパウロのものであると認証するのは、パウロの習慣のようであった。
 というのも、当時のギリシャ世界には贋作の手紙などが出回っており、これがパウロの手紙であると証明する必要があったからである(Uテサロニケ2章2節)。
 しかし、何故、そのように贋作が疑われるような状況で代筆などを行ったかについては定かではない。恐らく、この手紙が会衆の前で朗読される性質を伴っていたので、口述筆記を行わせることによって、文語ではなく、口語で文書王を記す狙いがあったのかもしれない。


 「主を愛さない者は、誰でも呪われよ」という「呪い(ギ:アナセマ)」の言葉は、他にはテトスへの手紙3章15節でのみ登場する。
 また、直筆で挨拶を記した後に、このような激しい言葉を用いるのは、他にガラテヤ人への手紙だけである。
 三人の愛の人によって宥められながらも、感情を抑えきれないパウロの激情が伺える。

 ここでの愛は、キリストの愛であるアガペーではなく、親愛を表すフィレオウが用いられている。
 主なる神に対して、親愛的な感情を持ち、それを保つ為に行動することは、とても大切なことである。
 また、この言葉は、同手紙内で取り扱われた「イエスは呪われよ」と言っていた人々の言葉と同じである(12章3節)ことから、イエスを呪われよと叫んでいる人々に対しての激情が現れているようにも見える。
 キリスト愛さず、また呪いの言葉すら挙げるような人々は、世々の終わりに至るまで呪われて然るべきなのである。
 神を侮ることは決して許されない。

 愛は、全てのクリスチャンにとって、中心的で重要な要素である。 
 主に対して正しい態度、正しい姿勢で常にいることが、いかに重要であるかをパウロはここで確認している。
 愛を持つこと、互いに挨拶を交わすこと、人を貶めるのではなく、憐み寄り添うこと。これら、全ての態度は、神の前に私たちが歩むうえで、当然持っていなければならない態度そのものである。

 「主よ、来てください(ア:マラナ・タ)」は、ギリシャ語ではなくアラム語であり、初代教会の合言葉でもあった。
 伝統的に、教会の中ではこの言葉を呪いの言葉と受け取るような解釈がなされた時代もあったが、しかし、口語的にマーラナー・ターと読むのが正しいと考えられる。これは、再臨を願望する祈祷である。
 その言葉の発祥は、おそらく、本当に最初期の教会形成期にまでさかのぼるはずである。
 初代教会は、この再臨を常に待望していたのであり、その情熱は、「ハレルヤ」とか「アーメン」と並ぶ程、互いの挨拶の共通の合言葉となるほどであった。

 しかし、初代教父文章などを読めば、このマラナ・タは、「主が来られる時に至るまで」という慣用句的な表現にも用いられる場合があり、このコリント人への手紙も、その用法で用いられている可能性が高い。
 故に、「主を愛さない者は呪われよ。主が来られるその時に至るまで」と言う意味合いとして読むことも出来る。
 このマラナ・タを、ただの定型句として聞き流すようなことは決してしてはならない。
 主の審判がくるその時に至るまで、私たちは審判の時を思い起こしてこれを恐れ、心から悔い改めて、主を愛するものに変わるべきである。パウロは最後に、コリント教会への悔い改めを迫り、二度と、この手紙で指摘されたような過ちを繰り返してはならないと、厳かに言い含めているのである。


 
〇24節
 最後に、愛を持ってパウロは手紙を占める。パウロの敵も多く、きつく叱らねばならない人々もコリント教会に居たが、そのような人々もすべて含めて、キリストの愛の対象となる。
 パウロは、全てのコリント信徒たちを愛し、より分けを行うことをしなかった。
 兄弟姉妹たちの間に線引きを行い、一部の人間を切り捨てるような事を行わなかったのである。
 このような挨拶態度こそが、私たちの追い求めるべき教会の姿である。私たちは、決して、聖なる挨拶をもって人を迎える時、相手に既に致命的な問題(現在進行形で反社会的な犯罪行為を犯す危険性がある、心神喪失状態に見える、既に教会から除名されている、凶器や人を害する武器を所持している等の緊急的な問題)がある場合を除いて、独断と偏見によって相手を門前払いしたり、切り捨てたりするようなことをしてはならない。

 最後に余談であるが、呪われよ(ギ:アナセマ)という呪いの言葉と、祝福を願う言葉の両方を用いて契約を閉じることは、旧約聖書の律法などの契約の言葉が記されるときには、定例のことであった(申命記29章10節〜30章20節)。契約にこれから向き合う神の民は、呪いと祝福のどちらを取るのかは、しっかり決断して選ばなければならない。私たちもまた、キリストの民として、どのようにこれに向き合えるだろうか。

 パウロの激情も、コリント教会の背きも、それらを全て包括し、解決するのはキリスト・イエスのみである。
 故に、この手紙の最後が「キリスト・イエスにあって」というギリシャ語でくくられていることは必要なことなのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇聖なる挨拶

19a アジアの諸教会がよろしくと言っています。
19b アキラとプリスカ、また彼らの家に在る教会が、主に在って、心からあなたがたによろしくと言っています。
20a すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。
20b 聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。
21  私パウロが、自分の手であいさつを記します。
22a 主を愛さない者はみな、のろわれよ。
22b 主よ、来てください。
23  主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
24  私の愛が、キリスト・イエスにあって、あながたすべてとともにありますように。

着情報3.メッセージ

『聖なる挨拶』
聖書箇所:Tコリント人への手紙16章19〜24節
中心聖句:『聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。』(Tコリント人への手紙16章20節)
 2025年3月9(日) 主日礼拝説教要旨

 私たちは、毎週日曜日の礼拝に集って、礼拝が終わればお互いに安否を確認し合います。最近の出来事や、報告事項に加え、時には不安に思っていることや、解決すべき問題も共有して話し合うことが出来るはずです。これはとても素晴らしいことです。私たちにとって、そのように互いに挨拶を行い、心置きなく様々な相談をできる間柄が保たれていること、これは当たり前のことではありません。先週は、教会の宝についてお話しましたが、この事柄も同じぐらいに大切な教会の宝であり、私たちが是が非でも手放してはならない、神の民の要なのです。

 「口づけをもって聖なる挨拶を行いなさい」と言うパウロの命令ですが、私たち日本人は、口づけという文化に全く馴染みが無いので、とても奇妙に思えるかもしれません。しかし、当時の中東からギリシャ地域の文化では、同性同士が頬に軽く触れる形で口づけを行い、親愛の挨拶を交わすことは、至極一般的で好ましいことであるとされていました。当然性的な事柄を連想させるようなやり方での口づけや、あのイスカリオテのユダのように、相手をあざむく為に口づけを行って親愛を偽装することは、当時であっても現代以上に忌避される行為でした。故に、「教会の中で聖なる口づけをもって挨拶が行われている状態」とは、互いに何の悪意もなく、本心から相手の事を好ましく思った上で、互いの状況に心を配ることが出来る状態を意味するのです。挨拶に口づけが用いられているかどうかは、さほど重要ではありません。

 そう聞けば、「なんだそんな簡単なことか」と思う教会も多いかもしれません。しかし、これが実現出来ている状況は、実際には大変稀有なケースです。決して、当たり前のことだと軽んじられてはなりません。例えば、パウロがこれを厳しく言い含めたコリント教会にとって、「互いに悪意なく聖なる挨拶が交せる状況を作り出す」という目標は、最大にして究極の達成が難しい課題でした。何故なら、その状態を達成する為には、手紙の中でパウロに指摘されている諸問題について解決することは勿論、指摘されなかった細々としたトラブルに至るまで、全て適切に解決され、和解に導かれる必要があったからです。教会の中に揉め事やわだかまりが一切無く、皆が心を痛める分裂も無い状態を、決して当然のものと受け取ってはなりません。これが達成出来ている状況そのものが、神様からの偉大な祝福の御手の業だからです。
もし、これが達成できていないと教会全体が痛感するならば、悔い改めて、皆で一致して、聖なる挨拶が再び行えるように諸問題を解決していかなければなりません。もし、解決に向けての一致すら行えないような状態なら、まずは、教会に集う各々が、「主を愛(フィレオウ)する」努力から始めなければならないでしょう。フィレオウとは親愛を意味する言葉です。神様のことを、親しみと好ましさをもって愛しているならば、当然、その喜ばれる御心に沿い、協力したいと各々が思えるはずだからです。「もし、キリストの十字架によって贖われ、救われておきながら、父なる神に親愛すら持つことの出来ない恩知らずが存在するというのなら、主の再臨に至るまで、未来永劫呪われるが良い」と、パウロは宣言します。それ程までに、教会で聖なる挨拶が交わされる姿を、私たちは追い求め続けなければならないのです。

 この名古屋教会は、互いに聖なる挨拶を交わすことが出来る状態にあるでしょうか。パウロは「目を覚まし、その状態を保つことが出来ているか、互いに確認し合うように」と私たちに勧めています。もし、達成出来ているのなら、素晴らしい教会への祝福を、主に在って心から感謝しましょう。もし、出来ていないなら、主を愛し、皆で一致して問題の解決に取り組んで行きましょう。主を愛し、互いに愛し合って、聖なる挨拶を交わしていこうではありませんか。





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