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牧師の説教ノート(3月2日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙16章12〜18節

1.時代背景、舞台、文脈背景

 コリント人への第一の手紙も、その内容が殆ど話し終えられ、あとは挨拶だけとなった。
 しかし、そのような中に在って、パウロは挨拶の前に、どうしてもコリント信徒の一人びとりに対して、訓戒し、警告しなければならないことがあった。
 それこそが、パウロに質問書を携え訪問し、コリント教会の現状を報告した、三人の働き人の扱いについてである。

 彼らは、ステファナ、ポルトナト、アカイコという三人の働き人であったが、コリントに送る手紙を持たせ、帰らせた際、コリント教会の性格を考えればトラブルが怒るだろうことは、パウロの視点から見れば大いに予見されることであった。この三人が大いに槍玉にあげられ、糾弾される可能性について、決して見過ごせないとパウロは考えたのである。。

 コリント人への第一の手紙の中で指摘された数々の問題は、コリント教会の中でも特に恥ずべき事柄であり、彼らは当然ながら悔い改めなければならないものであった。八つ当たりなど許されるはずもないのであるが、しかし、この教会の人々がパウロからの手紙を読んで第一に抱く感想は、やはり「余計な事を報告してくれた」「何故パウロに告げ口をしたのか」という八つ当たりであろうことは、容易に予測できた。

 しかし実際には、この三人が居たからこそ、パウロは冷静かつ愛をもって、コリント教会の人々に対し訓戒を行うことができたのである。この三人がパウロの怒りの矢面に立ち、涙ながらにとりなしたおかげで、パウロとコリント教会の間にあった緊張が和らぎ、パウロもまた安らぐことが出来たのである。

 というのは、そもそもこの三人がコリント教会の一部の人々が言うような「余計な事」や「告げ口」を行うまでもなく、「クロエの家の人間」や他の教会の人々から、パウロは既にコリント教会の惨状について効いていたのであり、しかも、それに大して激怒していたのである。パウロは、三人が到着する前に既に怒って居たのであって、誰もとりなさないならば、この後に届けられるコリント教会からの傲慢な「質問状」によって、その怒りは頂点に達していたことであろう。

 しかし、この三人がパウロに対して適切にとりなし、コリント信徒全体が傲慢に陥り堕落したわけではないこと。少ないながらも、教会の為に憂いている正しい人が存在することを伝え、かつ、質問状の内容についても説明の限りを尽くしたおかげで、パウロの心は怒りに支配されず、怒りに身を任せて鞭を持って訪問をするという過ちからも解放されたので、「安らいだ」のである。

 この三人は、余計なことをしたのでも、告げ口をしたのでもない。むしろコリント教会の一人びとりを、身を砕いて守った愛の人であった。彼らのおかげで、コリント教会の、一部の真っ当な信徒たちも、安らぐことが出来たのである。

 特に、この三人の信徒たちの中でも、ステファナという働き人は、自らを献身の役割に当てはめて、聖徒達の為に身を粉にして、くたくたになるまで労苦する人であったようである(後述)。

 このように、教会の為、他の聖徒の為、何より神の為に、神の民の責務を、自らの意思によって追い、労苦を尽くして働くような人々こそが愛の人なのであり、教会の中で最も注目され、重んじられるべき人々なのである。

 そして、教会全体も、このような人々こそを大切にし、重用すべきであると、パウロは訴える。何故なら、彼らのような神に喜ばれる働き人こそが、神にとっても宝となる人々であり、彼らを喜ばれるが故に、神もまた、彼らの労に報いて教会全体を祝福されるからである。何故、彼らの労に報いて、神は教会全体を祝福するのだろうか。他でもない、彼ら一人びとりが、常に教会全体の祝福を願い、祈り続けていることを神ご自身が知っておられるからである。このような人々こそ、教会の中で尊ばれ、手本とされるべきであり、他の人も、彼らを倣って同じように奉仕に携わっていかなければならないのである。

 しかし、コリント教会は、この後の第二の手紙からも判るように、いくらそれらを言い含められても、霊によって物を見ることをせず、神の国の価値観ではなく、この世の価値観によって物事に対応し続けた。
 パウロより遥か先の、クレメンスですら、その手紙で、教会の為に身を粉にして働いた、何の非の無い長老たちを、気に入らない、口うるさいというくだらない理由で理不尽に罷免し追い出したことについての非難を行っている程である(ローマのクレメンス前掲書44章5-6節)。
 コリント教会は、何処まで行ってもこのような愛の人に価値を見出すことがなかった。このような醜態を繰り返すことは、教会全体の神の前での恥ずべき不名誉な事柄であり、絶対に行われてはならないことなのである。

 しかし、しばしば、教会の歴史の中では、現代に於いてもこのような愚行が繰り返される。
 教会の行く末を憂い、身を粉にして働いているような目立たない人々を、教会が理解せず、また評価もねぎらいもせずに追い出し、それによって主の怒りを買い、教会全体から一切の祝福が失われて、遠からず滅びの道を辿る。そのような愚行を繰り返し、消えていった教会が一体どれだけ存在することだろうか。



〇13〜14節
 「目を覚ましていなさい(ギ:グレゴレイテ)」は、元々軍務で番兵への覚醒と警戒を命じる命令文に用いられた軍用単語である。故に、目を覚ます以外にも、注意深く警戒するという意味のある言葉であり、教会の中では終末に向けてのクリスチャンの態度としてキリスト自身も用いられた(マルコ13章37節etc..)。故に、気を抜かずに警戒しているようにという命令文と取って読むべきである。
 また、この動詞は、命令形、現在時制で書かれており、以後の13〜14節の動詞も全て現在と現在進行の時制で書かれている。
 それは即ち、今だけの特定の動作でなく、これからは常にそうし続けているようにという継続の命令であることがわかる。

 「堅く立つ(ギ:ステケーテ)」も、軍用用語であり、軍列に参加するという意味合いがある。また、安定して立つという意味でもあり、信仰が常に安定し続けるように努力するように、という命令と取ることができる。コリント教会の人々にとって、この信仰の安定性こそが大きな課題であった。良い思いが一時与えられても、それを保てず安定しないようでは、堅い信仰に立っているとは、到底言うことが出来ない。

 「雄々しく(ギ:アノリゼステ)」は、男らしくという意味であるが、勇敢という意味もある単語である。何かに立ち向かう時に、この単語が用いられることもある。それは即ち、15章までの中で取り扱われた、コリント教会内の信仰的な諸問題に対し力強く立ち向かい続けるようにという、パウロからの命令なのである。つまり、「駄目なことは駄目である」と言い切ることが出来る勇気が求められている。このような信仰の戦いは常に「今」起こっているものであり、今後も継続していくのである。

 そして、警戒していることも、信仰を安定させることも、諸問題に立ち向かうことも、全ては「愛(ギ:アガペー)」をベースにして行わなければならない。私たちは常に、全てが愛に寄らなければ何の意味もない、ということは既に13章で学んだ通りである。全ては、十字架に掛かってくださったキリストの愛に倣うやり方で行われなければならない。それを体現しているのは、15節以降に登場する、3人の働き人なのである。


〇15〜16節
 ステファナ一家を指す、「アカイアの初穂(ギ:アパルケ・テス・アカイアス)」という言葉は、アカイアでの最初の収穫という意味である。
 実は、アカイアにはアテネも含まれており、ステファナの一家よりも既に前に受洗者は居たのであるが(使徒17章34節)、それらの人々に先立って、このステファナの一家が「初穂」と呼ばれる理由はどこにあるのだろうか。
 その理由として、パウロは、聖徒達の為に、熱心に「奉仕(ギ:タッソウ)」してくれたと記している。

 この「奉仕(ギ:タッソウ)」とは、割り当てる、決めてしまうという意味がある単語であって、奉仕という意味合いはない。元々は、自身を軍列に置くという、兵が志願する軍隊用語であることから、「聖徒達の為になる」という役割に、自分たちを割り当ててしまった。決めてしまった。という意味であるととるのが正しく、これは転じて、私たちがいう所の「献身」への意思表明に他ならない。

 以前、初穂としてのキリストの項目でも解説したように、「初穂」とは、最初の収穫のことである。また初穂は、続く収穫の二束目、三束目に対しての「最初の収穫」を呼ぶ言葉であり、単発の収穫については初穂とは呼ばない。あくまで、二束目以降の連鎖する収穫の先頭だけが初穂と呼ばれるのである。
 ステファナの一家は、自分たちが聖徒達の為に労苦することを、一家で取り決め、そして、恐らくはアカイアで初めて「家の教会」を開き、その主催となったと考えられている。このような献身的な一家の働きによって、次々に、続く魂の収穫を獲得され、それ故に、ステファナの一家は、先んじて救われた「だけ」の人々とは一線を隔して、続くアカイアでの魂の収穫に先駆けとして、初穂と呼ばれたのである。

 このように「働き(ギ:スネルゴウンティ)」、「労苦する(ギ:コピオンティ)」人々に、「従う(ギ:ヒュポタッセーセ)」ようにパウロは進める。この「ヒュポタッセーセ」は、先述の「奉仕/割り当てる(ギ:タッソウ)」の集合体である。
 全てのクリスチャンは、ただ、「働く」だけでなく、「労苦」している人々に従い、これに倣わなければならない。
 労苦するとは、くたくたになるまで働くということである。教会の中でただ奉仕に預かるだけでなく、それに出来得る限りの労力を注ぎ、「労苦」している人々こそを、私たちは尊んで規範にせねばならず、各々、少しでもそのような姿に近づいて行かなければならない。
 キリストによって救われた以上、いつまでも「労苦」を「受ける」側のままであってはならないのである。

 「愛する」とは、長らくユダヤ教に於いては相手に対して義務を果たすことであると定義づけられてきた。
 勿論他にも様々な意味はあるのであるが、神を愛するとは、神に対しての自身の義務を自ら進んで果たすことであり、神に対する義務とは、十字架の贖いを受けたしもべ、即ち奴隷として、身を粉にして仕えると言うことである。
 故に、神から与えられた聖務の為に、私たちは労を惜しんではならないし、労を惜しまずに尽力し、次の収穫を得てくる人々こそが、貴ばれるべき「愛の人」なのである。


〇17〜18節
 「いない分(ギ:ヒュステレーマ)」は、物事や人についての欠陥や欠乏、また貧困を意味する言葉であり、「埋めてくれた(ギ:アネプレローサン)」は、満たす、補うといった意味がある。
 これらの意味合いとしては、様々なものが複合しているように思われる。
 例えば、コリントと離れていて寂しく思っていた分を、コリント教会からの質問書を携えてパウロのもとにやってきたステファナ、ポルトナト、アカイコの三人が埋めたのかもしれない。

 しかし、どちらかと言うと、パウロが、コリント教会の様子がわからなかった部分を、彼らが丁寧に報告し、かつ心を砕いてとりなしたおかげで、パウロ自身も報告を露骨に受け取らず、かつ必要以上に怒らずに冷静に対応することが出来たことを指していると考えるのが自然である。

 パウロは、彼ら三人の到着と尽力によって、コリント教会に感じていた「欠乏」、即ち、コリント教会がパウロを怒らせたあらゆる「負い目」を十分に補うことができたと考えたのであり、それ故に「喜んで(ギ:カイロウ)」いるのである。

 「安らがせてくれた(ギ:アネパウサン)」は、安息する、落ち着く、という意味があり、あの有名な「重荷を負うて〜」というイエスの教えの中の、「あなた方を休ませてあげよう」の「休ませる」にも同じ単語が用いられている。
 
 安らいだものついて、パウロは二つのものを挙げている。
 パウロ自身と、コリント信徒たちの「魂(ギ:プニューマ)」である。

 特に、安らいだ「魂」とは一体何であろうか。
 
 普通に考えれば、コリント信徒がパウロに伝えたかった質問状をパウロが読んだことで、自分たちの要望が通ったが故に、コリント信徒たちの魂が安らいだ、ととらえるのが表向きの意味にとれる。
 しかし、前述の「欠乏」などの文脈を合わせると、もう少し意味は深まってくるだろう。それはつまり、パウロの怒りが安らぎ、その怒りによって安息を失う筈であった、真っ当な信仰を持った一部のコリント信徒たちの魂が安らいだということである。

 もし、15章までに取り扱われた様々な事柄や、コリント信徒たちが送った「質問」などが、弁明もなくダイレクトに、既にクロエの家の人々からの報告によって「怒っていた」パウロに伝わればどうなっていただろうか。その場合、パウロの手紙はもっと激しい怒りの感情に任せた文面になっていただろうと思われるし、下手をすれば、鞭を持って即座にコリントを「訪問」する事になっていたかもしれない。
 それでは、ただでさえ自身の教会の現状を憂いて嘆き、心を痛めていた一部の真っ当なコリント信徒たちは、より悲しみに暮れてパウロにすら躓き、その手紙の内容に悲しみ混乱し、魂が安息するどころか、失われるような事態にすらなったかもしれない。

 しかし、質問を携えてやってきた三人が、その質問の内容についてその意図を説明し、また、教会の現状の中でも、悲しみ戦っている正しい人々も居ることなど、様々なことについて、パウロの怒りの矢面に立ちながらも懸命とりなし宥めたが故に、パウロは落ち着きを取り戻し、コリント教会の一人びとりが、受け入れられる形で、このコリント人への第一の手紙を、理性的に著すことができたのである。

 そのようなとりなしによって、パウロはコリントの現状を心穏やかに受け入れることが出来、また怒りや感情に任せずに指導することができた。これは、パウロが犯しかねなかった過ちも回避できたということであり、パウロはそれをかみしめて、この三人について心から喜んだのである。

 「尊ぶ(ギ:エピギノスケテ)」は、認識する、注意を向ける、知覚をするという単語の命令形である。パウロの言う通り、このように、神の為に身を粉にして働き、他の兄姉について心優しくとりなし、皆が安らげるように取り計らって労クスする人々こそ、「愛の人」と呼ばれるべきである。また、このような人々がいるからこそ、神も彼らを喜ばれ、彼らへの喜びと報いの故に、教会全体が祝福を受けるのである。このような人々は、必ず教会の中で注目されなければならない。神の国で一番偉いのは、自らの頭を低くして、謙遜に尽力する人々なのである。

 しかし、コリント教会は、終生、尊ぶべき愛の働き人を尊ばずに排斥し続けた教会である。それ故に、パウロはコリント人への手紙の内容を鑑みて、「余計なことをパウロに報告してくれた」と三人を責め立てるコリント信徒が出ることを当たり前のように予測できたのである。それ故に、パウロは、厳重にこの三人こそが尊ばれるべき教会の宝であると教え、警告したのであった。

 しかし、コリント教会の人々は、第二の手紙でも明らかなように、そこまで教えられても、偉大なる愛の働き人に対しいつまでも敬意を払わなかったし、彼らによって教会全体に注がれている霊的な祝福についても、大きな価値を見出すことをしなかったようである。教会の中で誰を尊ぶべきであるかを、霊的な視点で判断することが出来ず、まして外部から指摘されて苦言を言われるようなことは、教会にとって何よりも避けるべき、神の前に恥ずべき事態なのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇愛の訓示

13a 目を覚まして(警戒して)いなさい。
13b 堅く信仰に立ちなさい。
13c 雄々しく、強くありなさい。
14  (そして)一切のことを、愛をもって行いなさい。

〇規範となる人々

15a 兄弟たちよ、あなた方に勧めます。
15b ご存じの通り、ステファナの一家は、アカイア(地方)の初穂です。
15c (この一家は、)聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。

16a あなたがたも、このような人たちに従いなさい。
16b また、ともに働き、(くたくたになるまで)労苦しているすべての人たちに従いなさい。

17a ステファナと、ポルトナトと、アカイコが(私のところに)来たので、私は喜んでいます。
17b あなたがたがいない分(即ち、あなた方の様子を知ることが出来ずに安心出来なかった部分)を、彼らが埋めてくれたからです。
18a 彼らは、私の心を安らがせてくれました。
18c (また)あなた方の心を安らがせてくれました。
18d このような人たちを尊びなさい。

着情報3.メッセージ

『愛の人を尊ぶ』
聖書箇所:Tコリント人への手紙16章13〜18節
中心聖句:『彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。』(Tコリント人への手紙16章18節) 2025年3月3(日) 主日聖餐礼拝説教要旨

 会堂に、大きなモニターが献げられ、映像が見易くなって一ヶ月経とうとしています。私たちの教会にとって、これらの設備は喜ばしい宝物です。大きなモニターも、立派な礼拝堂も、かけがえのない宝物と言えるでしょう。しかし、それよりも更に重要で、大切な宝物が存在します。それこそが、礼拝に集う各々の魂であり、その中でとりわけ重要なのが、教会の中に居る「愛の人」なのです。このような人々は、神様の宝物であって、誰より尊ばれるべきであるとパウロは教えます。では、神様の宝物である愛の人とは、どのような人を指すのでしょうか。

 パウロは、この手紙を挨拶によって結ぶ前に、コリント教会に対し、どうしても行わなければならないと考える警告を行いました。それは、これからパウロの手紙を受け取りコリントへ帰還する、三人の教会信徒たちへの扱いについてです。この人々は、ステファナ、ポルトナト、アカイコという三人のコリント信徒でありましたが、彼らが手紙を受け取ってコリント教会へ帰った後のことが危ぶまれました。何故なら、これからパウロよりコリントに送られる手紙の内容が、戒めと訓戒ばかりの「お叱りの手紙」だったからです。これを読めば、「余計な報告をしてくれた」「どうしてこのような告げ口をしたのか」と、三人が槍玉にあげられてしまうとパウロは考えました。普通ならば、叱責に対し各々が心を痛めて悔い改める応答が起こるはずなのですが、コリント信徒の思い上がった姿や態度を考えると、反省するどころか、手紙を持ち帰った三人に対し、皆が八つ当たりするだろうことは目に見えました。それ故、パウロはこの三人の働き人によって、コリント教会が救われたということを教えようとしたのです。

 コリント教会が、この三人によって救われたとはどういうことでしょうか。それは、パウロの心が安らいで、コリント教会に鞭をもって出かけていく事態が回避されたからです。パウロは、この三人に報告されるまでもなく、「クロエの家の者」(1章11節)や、他の教会の人々からコリント教会の「惨状」を聞かされて知っており、既に怒っていました。そこへ、とりなす人々も居ない状態で、コリント教会からの傲慢な質問状が届けば、パウロの怒りは爆発していたことでしょう。そのようなパウロに対して、その怒りの矢面に立ち、涙ながらにこれをとりなして宥めたのがコリントへやってきた三人の働き人だったのです。コリント信徒全体が、傲慢に陥り堕落しているのではないことを、パウロはこの三人を通して知り、安らぎました。それ故、パウロはある程度でも冷静になって、理性的にコリント教会への手紙を執筆することが出来たのです。そうでなければ、手紙の内容はもっと酷いことになったはずでした。
特に、この三人の中のステファナは「アカイアの初穂」と呼ばれ、一家揃って心を砕き、伝道に身を捧げた信徒献身者でした。その働きは目立つことはありませんでしたが、他の聖徒の為、そして何より神様の為に、一家揃ってくたくたになるまで教会の奉仕に殉じたのです。このような人が「愛の人」であり、注目されるべき宝なのであると、パウロは教えました。彼らのような人こそが神様に喜ばれ、その働きへの報いによって教会全体が祝福されるからです。

 もし私たちが、神様から「貴方は教会の宝だ」と喜ばれたいなら、この一家に倣って、他の聖徒の為、神様の為に身を砕いて奉仕に携わるべきです。何故なら、神様は、私たちの働きを決して軽んじることなく、献げた労を全て覚えて、喜んで受け入れて大切に扱って下さるからです。私たちは、神様によって救われ、神様の子供になりました。ならば、次は、神様の宝物になる為に、愛の人を目指すべきです。私たちの名古屋教会の中で、愛の人と呼ばれるにふさわしい人は居るでしょうか。自分こそがそう呼ばれる為に、御互い励もうではありませんか。




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