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牧師の説教ノート(9月10日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙2章1〜5節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 1章までで、パウロが「十字架のことばは神の力である」事についての証を行い、コリントの人々の召しにも照らし合わせて、神の知恵について解き明かすことを行った。そして二章に入ってからは、神の力が成し遂げた功績を人々に提示し、そして霊によって働き続ける力へと目を向けるように、信徒たちに訴えかけようとする。
 特に今回の話題は、1章17節で先んじて取り扱っていた、「福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした」というテーマに回帰している。
 パウロはそれまでのマケドニアでの伝道の失敗(使徒17章16-34節etc..)から、コリントでの伝道も失敗が前提であるかのように感じて弱気になっており、それまでの自身の神学知識や様々な言葉の巧みさが通用しない事も痛感していて、最早余計な力を入れず、悪く言えば最低限の伝道しか行うことをしなかった。
 ある意味、その時は伝道への熱意が消えかかっていたのかもしれないが、依り頼んでいた自身の力が全て打ち砕かれた事によって余計な装飾は全てはがれ落ち、寧ろキリストの十字架のことばだけが、シンプルに露出する事となった。その効果が驚くべきものであったことを、パウロは人々に対して力強く証するのである。
 パウロの宣教の中で、この出来事はある意味ターニングポイントであったかもしれない。コリント人への手紙の彼の口ぶりから察するに、それ以降、パウロは自身の言葉によってではなく、如何に十字架のことばだけを露出させるかを念頭に置いて話を進める宣教を取り続けたようである。パウロがコリントに来る前からも、この奥義については開眼していたと考える解説書もあるが、コリントにやってきた時のパウロの恐れぶりやマケドニアでの失敗から、恐らくそれは無かっただろうと考えられる。


〇私も
 強調の言葉として、私も(ギ:ガオ)が使われている。個人形容詞の一人称主格を持つ言葉である。
 パウロは、人々に対して、あなた方が説得によって救われた訳ではないだろうことを説いた後、この強調語を用いることで、実際に自分の方も、説得する気力を全く持っていなかったことを告白する。話す側も説得する気は無く、聞く側も説得された覚えははない。しかし、結果としては話す側の意図の通りに、皆が信じて信仰に入るという不思議な事が起こったのである。
 それは営業した訳ではないのになぜか商品が売れる結果になったという不思議な事であり、理屈が好きなギリシャ文化にある人々にとっては、看過できない矛盾であったと考えられる。
 その矛盾に注目させつつ、その矛盾を解決する鍵こそが神の知恵なのであると、パウロは霊による知恵の話に次段落以降つないでいこうとする。


〇優れた言葉や知恵
 英語のNIV聖書は、優れた(ギ:ヒューペローケン)という表現を、「言葉」にだけかけていたが、接続詞「エ」が「知恵(ギ:ソピアス)」にも掛かっているため、新改訳聖書は優れたことばや知恵という表現で訳されている。ヒューペローチェは、優越、卓越、権威と言うニュアンスを持つ単語である。「卓越した言葉と知恵」というのは、高学歴を納めるパウロの最も得意とする分野であっただろうことは想像に難くない。
 しかし、これらの全ては、既にマケドニア地方の宣教で完膚なきまでに敗北していた。どのような敗北かと言えば、例えば使徒17章18節で、「このおしゃべり」と評されているが、これは「先人の受け売りばかりでお前が何を言いたいのかわからない」と馬鹿にされている描写である。福音をギリシャ哲学を交えて脚色して話そうとして大失敗した例である。また、同箇所でパウロは卓越した知識による説教を行おうとし、事実それは完璧であったが、福音の内容が愚か(ギリシャ人は肉体が悪いものであると考え、死は魂の解放であると考えていたのに対し、パウロが肉体が新しくなり死者が肉体をもって復活すると言ったので)であった為に、鼻で笑われてその宣教はほぼ失敗に終わった(32節)。パウロは自身の寄り頼んでいたこれらの二つが完膚なきまでに打ち崩された事によって、寧ろ宣教の力の本質を見い出したのである。


〇神の奥義
 神の奥義を宣べ伝えると新改訳2017で訳されている言葉は、ギリシャ語では、「カタネゲロン(宣言する) ヒュミン (あなたへ)トゥ マルトゥリオン(証しする) トウ セウー(神の)」と書かれており、直訳すると「神の証をあなたへ宣言する為に」となる。神の奥義、それは即ち神についての証そのものである。

 奥義(ギ:ムステーリオン)は、本来、証しとは違う単語ではあり異本訳とされていたが、この二つの単語は非常に良く似ており、フランシスコ会訳、共同訳など、日本語聖書でも奥義の読みが本来のギリシャ語本文であると言う立場を取るものが多くなった。新改訳2017も、これを奥義と読む立場をとっているようである。
 では、神の証(奥義)とは何か。

 それは即ち、この世界を創造された神が居られる事。しかし、私達に罪があるので、この神と交わる事が出来ず、やがて自分の罪の責任をとって滅びなければならないこと。誰一人、この滅びから逃げる事が出来ない事。それを憂いて、神がその独り子であるキリストをこの世に人間として遣わして下さり、私達の罪の罰の身代わりとして十字架の上で死なせて下さったこと。そしてキリストが三日目に死人の内から復活された事によって、私達の罪が全て精算された証明と、福音の保証となって下さったことである。この事を相手に伝え、そしてキリストと共に生きたいと願うならば、自分が罪びとである事を認め、悔い改めて(回心して)、キリストの十字架を受け入れると口で信仰を言い表し、洗礼を受けて、水と霊によって新しく生まれなければならないことである。これによって私達は、神の前に完全に罪のないものとして扱われ、福音の約束、即ち、永遠の命、新しい身体、神の子としての身分を与えられ、最後の裁きの後に新しくされる世界で永遠に生きる者とされるのである。

 これが十字架のことばであり、この世から見れば愚かな戯言であり、そしてキリストに生きる私達にとっては、自分達を救いに至らせた神の力なのである。これを語る時、私達は特に卓越した知識が必要な訳ではなく、それが「説教」である必要はない。本当に、ただ自分が聞いて信じた事を、自分が見た体験を交えてそのまま伝える時に人が救われるのである。これこそが神の奥義であり、そのまま伝えるだけで相手が救いに入る神の力なのである。


〇キリストの十字架以外にはなにもしるまい
 パウロは、このような神の奥義に纏わる以外の、一切装飾を排除してコリントの人々に伝道を行った。
 それは説教から取り去ったというだけの話では無い。パウロは「何も知るまいと決めた(ギ:ウー ガル エクリナ ティ イーディナイ」と語っている。即ち、自身の知識について、それらの事を知っていることすら忘れたと言っているのである。知っていれば話したくなる、覚えていれば伝えたくなるというのは、人間の自然な欲求であり、当然の行動である。しかし、パウロは敢えてそれらの一切を封じる為に、知っていて、覚えていることすらも放棄した。完全に、「十字架のことば以外の一切を知らない人間」に自分を仕立て上げたうえで伝道したのである。

 十字架こそ福音の中心であることは疑うべくもないが、それ以外の装飾、説明、補足の一切を「むしろ有害な事」として切り捨てる勇気を私達は中々持
つことが出来ない。しかし、それらが達成されたとき、私達は混じりけなしの十字架の言葉に直面することとなり、その働きの効果はコリント教会に大勢の人々が集う事になった結果をもって、目に見える形で証明されているのである。


〇弱くおののいていた
 パウロは、説教の内容のみではなく、それを語る人間についても言及している。コリント教会で項垂れながら、力なくおびえたように十字架の言葉を口にしている自分自身を思い出し、パウロは自分の容姿や声の力強さ、雰囲気の全てに、何ら見る者が無かったことを人々に確認させている。実際に、立ち止まって話を聞く価値が無いと感じる程にその雰囲気は弱々しかったに違いないだろうと考えられる。

 弱く(ギ:アステネイア)は、力の欠乏、弱さ、病気、苦しみ、災難といったニュアンスを含む言葉である。他の箇所でも純粋に弱さ、弱点、衰弱などを現わす単語として用いられており(Uコリント12章全体、ガラテヤ4章13節、ヘブル4章15節)、パウロが精神的にも肉体的にも参っていたというニュアンスでこれを言っていると考えるのはおそらく正しいだろう。

 また、パウロは1節と3節で、あなた方の所にいった時という同じ言葉を用いているが、表現が両者で少し違う。前者(1節)では、行く(ギ:エルトォン)というアオリスト能動分詞を用いているのに対して、後者(3節)では、共に居る(ギ:プロス)という前置詞を用いている。つまり、1節ではあなた方の所へ到着した時、3節では、あなた方と共に過ごすようになった時、とニュアンス的に訳し変える事も出来る。パウロは、コリント教会の人々への宣教になぜか成功して、共に居るようになった時でも、尚彼らの前で弱り、彼らを恐れていたのである。

 しかし、事実、パウロはそのような弱い姿のままで、装飾もせずにキリストの十字架のことばだけを語った。その結果、彼が力強く、あらゆる知識を駆使して明朗に福音を宣べ伝えたどの町よりも、キリストの宣教に大きな霊の実の収穫があったのである。それ故に、この世的に見るならば、大切であると思われる修飾や雄弁さ、説得力といった要素の一切が、キリストの十字架のことばの前では否定されるのである。内容の愚かさ→語り口の単純さ→見た目のみすぼらしさ、という三つの要素をもって、誰もが信じないはずの(愚かな)福音の宣教がここに完成するわけであるが、そのマイナス要素に反し、それでも人は救われる。人間の知恵やセオリーは、キリストの十字架にはなんら関係がないのだという事が、パウロの愚かな福音宣教によって救われた一人びとりが、自分の体験を通して理解されるのである。


〇御霊と御力の現われであった
 パウロは1〜3節までの内容を総括して、これらの矛盾を説明する鍵こそが、神の御霊と御力によるのである事を明確に宣言する。誰も信じないはずの愚かな十字架の言葉を、何の装飾もせず、みすぼらしい男が語っているのに、事実その収穫は大きいという現象は、神の御霊と御力無くしては実現しない事である。この世ならざる力が働いたとでも言われない限り、この現象の説明はつかないあらである。
 事実、その御霊と御力はコリント教会の人々に対して働いており、この手紙を読んでいる人々はその力を体験したのであるから、その霊と力の存在を否定することは出来ない。そして、この霊と力こそが福音の要であり、他に無駄な装飾が一切必要ない事をパウロは訴えるのである。


〇神の力によるもの
 何故、神は福音宣教の際に、卓越した知恵やことばを排除し、空しいものにするという回りくどいことをされるのか。 良いものは全て用いるべきではないのか。その狙いと意図について、最後にパウロが宣べる。
 それは、神の霊と力を受けて救われた人々の信仰もまた、神の霊と力以外のなにものにも依らないものへと成長することが必要なのであるという、神からのメッセージである。
 賢い理論や知恵によって関連付けられた信仰、また、人間の言葉や権利に頼って形作る信仰は、より卓越した理論の前に打ち負かされる事になる。しかし、神の霊と力によって形成されている信仰は、如何に卓越した人間の知恵によっても崩される余地はないのである。
 だからこそ、十字架のことばには、言い訳も弁解も補足も飾り立ても必要ない。酷く耳障りの悪い十字架のことばを、そのまま相手に伝える事に、パウロは信仰をもってこだわったのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇神の霊と力
1a 兄弟たち、私があなたがたのところに行ったとき、私は神の奥義を次の事では宣べ伝えませんでした。
1b 何によって?:すぐれた言葉や知恵を用いては。
2a なぜなら私は、あなた方の間で、次の事を決心していたからです。
2b 何を?:イエス・キリスト、とりあわけ十字架につけられたキリストのほかには何も知るまいと。
3a あなたがたのところに行ったときの私は、(今までのマケドニアでの伝道の失敗から)弱く(なっており)、(コリントでの伝道の戦いに対して)恐れおののいていました。
4a そして、(だからこそ)私のことばと私の宣教(があなたたちに対して成功し、実を結んだ事は)は、説得力のある知恵のことばによるものではありませんでした。
4b それは、(全て神の)御霊と御力の現われによって行われたのです。
5a (だから、私が恐れながらコリントにやってきたのも、知恵や言葉に依らず宣教を行ったのも)それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。


着情報3.メッセージ

『神の力による信仰』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 2章1〜5節
中心聖句:『それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。』(Tコリント人への手紙2章5節) 2022年9月4日(日) 主日礼拝説教

 パウロは、自身の豊富な知識と知恵によって巧みな宣教を行っていましたが、マケドニア伝道ではそれが全く通じず(使徒17章16-34節)、コリントでは、恐れながら十字架を単純に語る事だけしか出来ませんでした。しかし、その中にこそ神の力の奥義が隠されていました。

 コリントにやってきたパウロは、自信も無く、見た目も弱々しいみすぼらしい姿で伝道を始めました。自身の人間的な知恵も、知識も、マケドニア伝道で打ち砕かれたパウロにとって、最早寄る辺はキリストの十字架のことばのみになっていました。そこで彼は、コリント伝道の際には、手短に勿体ぶらず、十字架のことばのみを語る事にしたのです。パウロの手には、最早それしか残されていなかったからです。見た目も悪く、説得力も無く、かつ語る内容すら愚かに聞こえるパウロの十字架宣教になど、一体誰が耳を傾けるというのでしょうか。しかし、不思議な事に、パウロは、その方法によって、マケドニア地方における最大の伝道の成果を得たのです。これはギリシャ人にとって正に不条理で、理屈に合わない出来事でした。しかし、この不条理の中にこそ、神の力による宣教の奥義が隠されているとパウロは言います。

 確かにパウロの説教からは、知識や知恵による巧みな装飾は全て削ぎ落されてしまいましたが、その一方で、それによって隠されていた十字架のことばは、より露骨に伝道の中でむき出しになり、力を発揮しました。パウロが、十字架のことばは神の力である(1章18節)と言った理由はここにあります。「十字架のことばは、神の力そのものなので、むしろ人間の知恵や知識による装飾は蛇足であり、その力を妨げてしまいすらする」という奥義に、パウロはコリント伝道の中で目が開かれたのです。キリストの十字架のことばを伝える際には、卓越した言葉遣いや、知恵や知識などは必要ありません。それが例え、誰かからの受け売りであったとしても、聞いた通りにキリストの十字架に纏わる事、即ち、父なる神の存在、私達の罪、終わりの日の裁き、神の御子の誕生、罪の罰の身代わりの十字架、復活と永遠の命の希望という一連の福音を、ただ相手に伝達すれば、あとは神の力が働いて、招かれている人を救いの中に押し入れるのです。それは、「説教」である必要すらありません。ここに神の御霊による叡智があります。私達は、その御力を信じて単純に証するだけで良いのです。

 伝道に於ける、十字架のことばのこのシンプルさは、それを信じる信仰もまた、十字架のことばを、ただそのまま受け入れるだけで良いシンプルなものであることを、神様が私達に教える為に表されたものです。理屈や説得に依り頼む信仰は、やがてより巧みなこの世の知恵によって打ち砕かれてしまうからです。だからこそ、この世のいかなる知恵や知識にも惑わされないように、私達は、十字架のことばそのものに依り頼まなければなりません。キリストの十字架のことばだけを信じて神様に従う時、その信仰は揺るぎないものとなるのです。だから、恐れずに十字架のことばを受け入れて、神様とイエス様を信じて福音を握りましょう。




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