『約束の地への帰郷』
聖書箇所:エレミヤ書31章1〜9節
中心聖句:『彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。』(エレミヤ書31章9節)
2024年2月25日(日) 主日礼拝説教要旨
私たちは、この世に生き続ける限り、次々に苦しみに向き合わねばなりません。この世の格差に苦しむこともあれば、神様に仕えているが故に、苦しまなければならないことも多く存在することでしょう。私たちは、種々訪れる多くの苦しみの前に、過去にどのような痛みを受けたかなど直ぐに忘れてしまいます。この忘れ去られた痛みは、一体どこへ行くのでしょうか。
今日の箇所で扱われているこの御言葉は、バビロン捕囚に先んじて起こった、北王国イスラエルのアッシリア捕囚を受けた民に対して当てられたものです。紀元前722年に起こった、アッシリアによる攻撃と捕囚によって、北王国イスラエルは滅び去りました。それから二百年ほど経って、こんどはバビロニア帝国によって南王国ユダが滅ぼされ、バビロン捕囚を受けることになるのです。そのバビロンによる侵略という新たな脅威の前には、過去に滅ぼされた北王国のことなど、ユダヤ人にとってはどうでも良い事であったに違いありません。最早その存在すらも、殆どのユダヤ人に忘れ去られている中で、神様は預言者エレミヤを通し、改めてこの忘れ去られた北王国の民に対して、再生を約束する御言葉を与えられたのであります。
日々無数に起こる困難と苦しみの前には、過去に起こったあらゆる痛みは忘れ去られてしまうものです。私たちも、神様を信じて歩む信仰生活の中で、多くの物を捧げ、無数の痛みに耐える経験をしてきたはずです。しかし、その一つ一つを忘れずに覚えていることは、不可能に近い事でありましょう。バビロンの脅威の前に、北王国の捕囚の民がすっかり忘れ去られてしまったように、目の前の困難に耐えようとする時、私たちは過去に受けた苦しみを忘れてしまうのです。それによって、前に進むことや、現状に耐えることができるので、確かに忘却も憐みと恵みによることではあるのですが、反面、受けた痛みや悲しみを忘れてしまうと、私たちは、神様が与えて下さる大きな報いと慰め、労いを矮小化して、それに希望を持たなくなってしまう危険性があるのです。希望を持たなくなると、私たちは神様を恐れず、侮るようになってしまいます。忍耐が練達に繋がり、練達が希望に繋がるのも、この天地を創られた神様による正しい評価と報いへの大きな希望が確信できるからです。しかし、その希望も、私たちが自身の受けた痛みを忘れ、次の痛みに備えることにばかり集中するようになってしまう時、惰性で痛みに耐えることに慣れた喜びの無い信仰生活の中で、すっかり失われてしまうのです。
天地を創られた神様には、不可能なことなど何もありません。だから私たちが、自分ですら忘れている全ての痛みを、些細なことに至るまで覚えて、労うことも当然できるのです。南王国への危機が差し迫る中で、北王国の民を忘れず帰郷の予告を行われたように、神様は、私たちが走るべき行程を全て走り終え、約束の地へ帰郷する時、各々のありとあらゆる献身に応じて、慰めと称賛の言葉を与え、それら全てを覚えていて下さったことを明かされるのであります。神様の御前に立つとき、私たちが与えて頂ける喜びの言葉がどれほど多いものになるか、想像した事があるでしょうか。そのように、ありとあらゆることを忘れない神様と共に歩むからこそ、私たちは、どのような苦しみにも希望をもって耐え忍ぶという選択を行うことが出来るのです。勿論、神様は私たちの不義や罪も全て覚えておられます。しかし、全てを覚えておられるこの方は既に、「イエス様の十字架の血潮によって、その罪と不義を全て忘れる」と宣言して下さっています。これの何と喜ばしいことでしょうか。神様の御前に頂ける喜びの言葉は、私たちが思う以上に膨大です。だから、神様を恐れることを怠り、侮ってはなりません。どのような苦しみも喜んで耐え忍び、希望をもって約束の時を待ち望もうではありませんか。
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