『平和を与える計画』
聖書箇所:エレミヤ書29章1〜14節
中心聖句:『それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ書29章11節) 2024年2月18日(日) 主日伝道礼拝説教要旨
私たちは、この世に生まれて、それぞれ自身の人生を歩み、身分や財産、生活を守る為に働いています。当然ながらそこに平等は無く、境遇や持ち物どころか、生まれ持った能力にすら格差が存在します。最近は「横」が良く見える時代ですから、それを垣間見ると、自分の人生に絶望してしまうかもしれません。私たちは、この事実にどう向き合うべきなのでしょうか。
紀元前597年に、バビロニアの王ネブカドネツァルによって、エルサレムから合計2万人近くの人々が連れ去られる、バビロン捕囚と呼ばれる事件が起こりました(列王記24章、エレミヤ書52章28〜30節)。その中には、ユダヤの王族や、祭司、預言者といった重要な人々を含む多くの人がいて、バビロニアまで連れ去られたのです。しかし、連れ去られた人々は、エルサレムの全員ではありませんでした。連れられて行く人々は、他でもない連れ去られなかった人々に、馬鹿にされ、罵られ、大いに辱められて、故郷を後にすることになったのです(イザヤ書53章)。捕囚された人々は、自分たちだけが連れ去られた理不尽に苦しみ、悲しんで、残った人々との格差を呪いました。彼らは、自身の境遇や現実に向き合うことができず、現状を無理に変更しようとして、人を惑わす占い師や偽預言者に騙されたり、自暴自棄に振舞ったりして、本来すべきである、バビロニアでの生活基盤の形成を大いにさまたげられたのです。
いつの時代でも、私たちの前には理不尽な格差が存在し、その格差が垣間見える度に、私たちは惑わされて冷静な行動を取る事ができなくなります。捕囚を受けた人々は、捕囚を受けなかった人々との間に理不尽な格差を感じたでしょうし、現代の私たちも、何かのはずみで大金を得たような人々や、裕福な家庭に生まれた人々との間に、決して埋める事のできない格差を感じてしまいます。それをどうにかしようと思うならば、無謀な挑戦や、犯罪まがいの行為、若しくは賭博や詐欺まがいの儲け話をものにするなどして、自分の現状を丸ごと変更しなければならないと世の多くの人が考えていることだと思われます。実際、そのようにしたり、騙されたりして、人生を棒に振っている人は、今この時にも続出していますし、それが嫌なら、自分の人生を諦めて絶望するしか無いと、極論を唱える人々も大勢存在します。しかし、この天地を創られた神様は、私たちにそうは言われていないというのを、私たちは知っているでしょうか。神様は、私たちが「どうしようもない」と考えている、今の私たちの現状の中にこそ、「平和を与える計画」があるのだと、聖書の御言葉によってはっきり宣言されています。現状変更でも絶望でもない第三の道が、私たちには用意されています。天地を創り、今も統べ治めている御自分を信じて、共に人生に向き合うならば、無理に現状変更したり、絶望しなくとも、平安に続く道へ必ず導いて下さると、他でもない神様が約束して下さっているのです。
私たちは、何によって平安を得られるでしょうか。この世の富か、高い身分か、それとも格差の上に立つことによってでしょうか。世界的に見れば、格差の下に居ると思っている私たちでも、大分上の場所に立っているはずです。しかし、そこに平安が無いので、今私たちは苦しんでいます。私たちの人生にとって大切なのは、現状を変更することでも、諦めて絶望することでもなく、自身の人生に、平安を手に入れることではないのでしょうか。神様は、それを私たちに与える為に、私たちが知らない間にも、御自身の大切な独り子を、私たちの罪の罰の身代わりに十字架にかけて、死なせてくださるなど、御自身の計画を着々と進めて下さっています。そして、私たちに対して、「私と共に行こう」と常に招き続けてくださっているのです。だから、今この時にこそ、神様を信じて、その招く声に耳を傾けてみては、如何でしょうか。
前ページ
次ページ
〒453-0063
愛知県名古屋市中村区東宿町2-102
TEL/FAX:052-411-5367
受付時間:午前11時から午後6時まで
(月・金休業、礼拝中は応対できません)
アクセス
地下鉄東山線「中村公園前駅」から徒歩20分
バス停「豊国神社前」から徒歩5分
バス停「東宿町」から徒歩2分
駐車場は5台分程用意があります。
隣接の立松接骨院駐車場もご使用頂けます。
(日曜日のみ)