『一つの身体』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章12〜20節
中心聖句:『ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』(Tコリント人への手紙12章12節) 2024年3月10日(日) 主日礼拝説教要旨
自分の奉仕を賜物を用いて達成するところに、神様からの評価と報いがあると先週は学びました。しかし、教会の中を見れば明らかに自分より活躍している人々が大勢おり、神様に対する貢献度も各々で違うようにも感じます。自分が貢献できていないと感じる時、私たちは悲しくなるかもしれません。貢献出来ない私たちは、神の群れに不要な存在なのでしょうか。
今日の箇所でパウロは、教会と言う組織について、身体全体と、肢体の二つに例えて、コリント教会の人々に教えようとしました。教会内の兄姉には、それぞれ役割も、与えられる賜物にも多様性があるように見えますが、それらは、神様のみこころに従って聖霊が采配され、統制されていることを、パウロは伝えたのです。目が物を見て、足が身体を歩かせるように、得意とする賜物によって、私たちは神の群れに肢体となって貢献します。それぞれが与えられた聖霊によって、このことが私たちの上に実現するのです。水によって洗礼式を受ける時、私たちは、聖霊による洗礼をも授かります。誰一人例外なく、神の霊である聖霊を「飲んで」、教会という身体の肢体に変えられるのです。「飲んだ(ギ:ポティゾウ)」とは、原語では身体に浸透したという意味も持ちます。自覚の有無によらず、私たちには既に聖霊様を飲み、身体の隅々まで浸透され、各々が教会の肢体という切り離せぬ存在に変えられているのです。
私たちはそのように、全体の身体の一部となる肢体となって、神様の為に働きます。肢体が自分勝手にではなく、身体全体のために動くように、私たちも教会という全体の益となる為に自らの奉仕に当たっていくことが求められるのです。一つの運動をする為に、身体全体が連携して動くように、私たちも各々の役割を果たすことによって連携し、父なる神様の御計画が成就されるように働きに対して取り組むのです。しかし、その過程で他の人が、自分に似た働きを、より上手にこなしているのを見ると、どうしてもそれを気にして羨ましく思ってしまうようなことも起こるでしょう。情報収集に於いては、目が耳より役立つことが多いので、耳が目を羨んでしまうこともあれば、自分の指を器用に動かせない足が、器用に指で作業をこなす手を羨ましく思うようなこともあるでしょう。また、働きが似て居なくとも、眉毛が目や鼻、耳、口を羨むように、周りが皆、立派に貢献している者ばかりだと、自分がその集団の中で存在していいのか、不安に思ってしまうようなこともあるかもしれません。しかし、どうでしょうか。神様の御計画は、精密に組まれた時計のようなものです。時計は、大きなパーツだけで動いているものではありません。時には見落としてしまうような小さな歯車こそが、全体に一番必要なパーツになることもあります。人間の目には貢献度の大小があるように見えても、私たちには、自分の働きが、神様の御計画にどれほど重要なのか、推し量ることが出来ないのです。
神様の叡智によって創造されたものに無駄は無く、存在価値が無い部分など一つもありません。実際、身体に不要な部分が一つもないことは、私たち自身が良く知っていることではないでしょうか。身体も、教会も、同じ神様が創造されたものです。ならば、神様の御手によってそこに置かれている私たち一人びとりにも、決して無駄にそこに置かれている者は存在しないのです。しかし、私たちは自身の基準で物を見て、自分や他人を不要な存在と決めつけて、悲観したり、排斥したりしてしまうことがあります。そこに人間の罪があるのです。教会に対する貢献度の差異があろうが、全ての働きは、神様が計画された大切な部品です。そこに無駄な奉仕や働きなど存在しないことを、私たちは十分に弁えるべきです。だから悲観したり、不安に思ったりせず、自分の奉仕を、神様の為に喜んで行っていくようにしていきましょう。
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