『キリストのまなざし』
聖書箇所:ルカの福音書22章54〜62節
中心聖句:『主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。』(ルカの福音書22章61節)
2024年3月17日(日) 主日礼拝説教要旨
次週はいよいよ受難週となります。私たちの罪の罰の身代わりとして、十字架にかかってくださったイエス様の苦しみに目を向け、静かに時を過ごしましょう。私たちは、生まれてから多かれ少なかれ、罪を犯して生き続けています。普段は、目を逸らしていても、いつかはこれに、嫌でも向き合わなければなりません。何故なら私たちは、自分では自身の罪を精算することも、償うこともできないからです。聖書もまた、私たちがいつか、必ず神様の御前に立ち、全ての罪を裁かれる時が必ず来ると、はっきり予告しています(黙示録20章12-15節)。しかし、私たちは自分の罪を正面から受け止められるほど、強くはないのではないでしょうか。
今日の箇所に登場するペテロは、イエス様の一番弟子であり、十二弟子のリーダーでもありました。しかし、そのような立場でありながら、彼は、イエス様を三度も知らないと発言してしまったのです。例えそれが保身の為、とっさにとってしまった行動であったのだとしても、ペテロにとって、それは余りにも大きな失敗でありました。ペテロは、自分が、その過ちを犯すと予告されていたことを思い出し、イエス様のまなざしにとても耐えられなくなって、いたたまれない気持ちで広場から逃げ出し、その外で激しく泣いたのです。
もし私たちであったらどうでしょうか。イエス様に見つめられたとしても、その視線に難なく耐えることが出来るのでしょうか。恐らくそうはなりません。何故なら、私たちの心の内側にある罪そのものが、私たちを告発し、責めたてるからです。全く良心が存在しない人か、神を畏れない不遜な人か、いずれにせよ、犯した罪からの告発と、心の呵責に耐え得ることができる人間などごく僅かです。故に私たちは、神様からの視線を恐れ、顔を合わせることが出来ず。自ら光から薄闇の中に逃れて、そこに隠れてしまうのです。ここに人間の罪があります。
しかし、イエス様は、正に神様と顔と顔を合わせることが出来ず、庭の外で泣いているペテロや、私たちを救い出す為にこそ、この中庭にいてくださいました。生まれてから今までに私たちが犯し、そしてこれからも犯してしまうであろう全ての罪を精算する為、十字架に向かわれている最中であったのです。イエス様は、元よりペテロを裁くつもりで視線を向けられた訳ではありません。イエス様はペテロが裏切ることを予め知られた上で尚、彼の為に祈り、立ち直ったら他の仲間を励ましてやるようにと励まされておられました。イエス様のまなざしは憐みのまなざしであり、ペテロが早く立ち直れるようにと、純粋に励ます為のまなざしであったのです。神様は真実で正しい方で、私たちを愛しておられるのですから、その視線が優しいものであるのは、当たり前のことの筈です。しかし、私たちの心の内にある罪が、その視線に恐怖を覚えさせ、神様やイエス様から分断し、近づくことが出来ないようにするのです。これこそが罪の棘であり、その本質なのです。イエス様は、それを全て解決する為に、私たちが神様を見上げることが出来る為に、十字架による贖いを全うして下さったのです。
神様と、向き合えるよう変えられた時、私たちは、罪が裁かれることを恐れずにいることができるので、そのまなざしが裁きではなく、慈しみであることを知ることが出来ます。これは、実際に罪が赦され、神様を見上げた人間だけが知ることの出来る、最高の恵みなのです。もし私たちが、自らが罪びとであることを認め、悔い改めて、イエス様と、その十字架による贖いを信じて受け入れるならば、今日からでも私たちは、神様を見上げて生きることが出来るように変えられます。恐れずにイエス様を信じて、新しい人生へと踏み出そうではありませんか。
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