1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
パウロは、教会の中に古いパン種、即ち悪意や古くからの慣習からくる罪などが一切入ってはならないことを主張した後、これに関連するコリント信徒たちによる、もう一つの大きな「勘違い」を是正しようと試みる。
それは、彼らが身内を裁かずに、教会外の人々を裁こうと試みる歪んだ行動と、パウロの命令の曲解についてであった。
これらの言及についての具体的な背景は、手紙の中にしか記されていないので推察するしかない。しかし、パウロの口ぶりなどから、その状況はある程度推測できる。恐らくは「我々にはどんな破廉恥な行為も許されている」と喧伝している一方で、教会の外の人々の犯す罪については、手厳しいまでに追及し、「あのような人々と付き合ってはならない」とでも教会の信徒たちに言い聞かせていたのではないだろうか。
所謂、「身内に甘く、他人に厳しい」状態が続いていたのであれば、これはパウロが1節から取り扱っている「誇っている、思い上がっている」という話題に関連することであるし、続けて口述されている内容とも、文脈的に自然と接続される。
とはいえ、実際のところどうであったのかは、資料が存在しないので類推するしかない。しかし、何にせよ、パウロが態々このような事を書いて怒っているのであるから、教会の「戒規」の目が、教会の内側にではなく、何故か外側に向いていたのだろうことは想像に難くない。
何故このような事が起こったのかについても類推するしかないが、恐らくは純粋に間違えたのではなく、自分達の思い通りに事を運ぶためにわざと曲解したのだろうと考えるのが自然に思える。例えこの件について追及されても、それは「パウロが書き送った事を守っているだけだ」と言い訳して責任逃れが出来るからである。
その件も含めて考えるのだとすれば、パウロが改めて、手紙の内容についてはっきりと宣言することは、決して不自然な事ではない。
〇前の手紙
新約聖書の中に編纂されているパウロの手紙は、後の聖徒達の良い学びの糧になると考えられて、教会の中で保管されていたものである。その書簡が、神の霊感とその御霊によって選び出され、天の教会で追認される形で、御言葉であるとみとめられたのが、新約聖書の書簡なのである。
当たり前の事であるが、パウロの手紙は、新約聖書に編纂されているものの他にもたくさん存在するだろうし、コリント人への手紙の第一、第二以外にも、コリント教会へ送られた書簡も、当然ながら多く存在していたはずなのである。
ここで語られている「前の手紙」は、コリント人への手紙第一が送られる前に送られた失われた手紙の一つであることに疑いはないが、実は、「前の」という単語がギリシャ語には無く、手紙については定冠詞がついて「あの手紙」としか書かれていないので、手紙がいつものだから判らないという問題がある。
それ故、この手紙が「どの手紙」であり「いつの手紙」であるのかが特定しづらいのであるが、「書いた(ギ:エグラファ)」の動詞が、アオリスト(過去形)、直接法、能動相で書かれているのと、わざわざ手紙に定冠詞をつけて「あの手紙」と書いているので、「以前書いたあの手紙」と言えば、コリント教会の人々にも良く解ったのだろうと解釈するのが、文法的には正しいとの見方が現在主流のようである。
〇付き合う/世から出て行く
付き合わないように(ギ:スナナミグヌスサイ)という単語は、10節では登場していない。9節との関連の中で用いられている動詞である。
9-10節を直訳するなら、「淫らな行いをする者たちとは付き合わないようにと書いたが、それは世の淫らな者、貪欲な者、詐欺師、偶像崇拝者ら全体についてのことではない」となる。
この動詞は、「一緒に(ギ:スン)」、「連続して(ギ:アナ)」「交じり合う(ギ:ミグヌミ、ミクソー)」の複合動詞であり、他の箇所ではUテサロニケ3章14節で用いられているのみである。
直訳するなら「混ぜ合わせる」という意味となり、自分達と相手との密接な交際を意味する言葉となる。
生活の中で、キリスト者は、この世の様々な人と付き合っていかなければならない。
そうでなければ、生活がまず成立しないし、宗教的信条や互いの職業はさておいても、友好的な関係を築く事は、周囲との争いを避ける上で、とても重要なことである。
もし、そのような生活を拒絶するならば、それこそ中世の修道院のような生活をしなければならないだろうが、そのような修道院ですら、結局は世で稼ぐ人々の支援が必要不可欠であったのだから、やはり、「クリスチャンが世の中から出て行く」ことは不可能なのである。
更に、私たちには宣教の命令も下されているのであるから、教会の外の人々との接触を断とうとするのは、この命令に反することでもある。
私たちは、世の人々と付き合い、平和を保ち、かつその中で福音を宣べ伝えて、救われる人を獲得しなければならないのであるから、パウロが世の人々と付き合うなと命令を下すことは有り得ない。
実際、パウロ自身も、そのような人々と関わり続け、何とか魂が一つでも救われるように奮闘しているのである(Tコリント9章20-23節)。
〇私がいま書いたのは
しかし今(ギ:ヌン・デ)で始まる11節である。直訳すると、「しかし今、私はあなたがたに書くのであるが」となる。
新改訳2017でも、注釈に別訳としてこれが記されている。
10節までで誤解の内容について示した後、訂正するように改めてパウロが内容を筆記する事を示している。
〇兄弟と呼ばれる者
誰でも(ギ:エアン・ティス)、兄弟(ギ:アベルフォス)と呼ばれている者/指定されている者(ギ:オノマゾメノス)と指名され、この人々の中で、様々な違反を行っている人々が、付き合ってはならない対象であることをパウロは定義している。
これは勿論洗礼を受けて、そのように指定される立場にいる者のこと全員のことであるので、「姉妹」即ち女性はこれに含まれないと言っているわけでは勿論ない。
男女関わらず、洗礼を受けてクリスチャンとなった人々の中で、様々な違反を犯すものとは、一切付き合ってはならないと、パウロは厳密に宣言を行っているのである。
〇人をそしる者、酒に溺れる者
人をそしる者(ギ:ロイドロス)は、言葉による虐待者、荒らし屋、罵り屋など、様々な意味がある。近年でも「ロジハラ」などという言葉が問題になっているが、論理や正論、また詭弁などを巧みに用いて相手を追い詰めるような行為を指すのだろうと思われる。罵詈雑言で悪口を言うだけではなく、そのような言葉による暴力、また虐待などが横行していたというのは、理屈好きなコリントの街ならではのようにも思える。
酒に溺れる者は、即ち酔っ払い、前後不覚になった人間のことである。
聖書の中には、酒を飲んではならないと酒を禁じる御言葉は書かれていない者の、泥酔し、自分を見失うようになる者については、教会の交わりに入れてはならないと言われるほどに厳しく追及されている。
「聖書は酒を禁じていない」と言う言葉を盾に、酒に逃げる者は聖職者にすら大勢存在するが、自分がいつ酒の量を見誤って「酒に溺れる者」になるか判らない以上、必要以上に酒に近づく事は決して賢明なクリスチャンの選択であるとは言えないだろう。
食前酒や、食事の共に少しだけ、程度にとどめておくのが賢明である。
ちなみに、日本イエス・キリスト教団は、イギリス国教会ロウチャーチの伝統を汲む教団である為、酒やたばこの習慣的な常用、常飲を、教職者にも信徒にも禁じている。
〇食事をしてもいけない
食事をしてはならない(メデ・スネスシエイン)は、大分踏み込んだ表現である。
これは聖餐式のことではなく、日常的な食事を指す単語である。
即ち、共に食事に招いたり、招かれたりするような親しい付き合いすらも禁じるという意味である。
しかし、「除名された者は、この世の人になるのであるから、そういう意味では付き合ってよいのではないのか?」と考える者もあらわれるかもしれない。それはある意味正しいが、やはり親密な付き合いの言い訳になるものではない。
同じ町で生活する以上、どうしても関係が発生する可能は避けられないが、しかしそれは、親しく交わるのではない最低限の関係にとどめるべきである(偶々宿泊する宿が同じになった、買い物をする売り主と買い主の間柄になった。仕事の同僚になった、大家と借主の間柄になったetc..)。
今日の教会は、恵みの部分については良く語る一方で、戒規という面については、余りよく向き合わずにいる面も少なからずあるように思われる。しかし、私たちは戒規から決して目を逸らしてはならないという原則は、今も昔も決して変わる事がない。
〇外部の人、内部の人
外部の人(ギ:エクソウ)は、勿論教会の外部の人、未信者の人々の事を指す言葉である。
例え酔っ払い相手でも、外部の人であるならば、クリスチャンはその人に親切にすべきであるし、相手が自分を騙していると判っていても、親切にすることをやめてはならない(勿論言われるままに被害に遭えという話では無い)。
彼らの行っている事を裁いたり、追及したりすることは、クリスチャンの仕事ではない。
これは権威の話であって、私たちクリスチャンには、サタンの領域にある外部の人々を裁く権威は、神様から与えられていないと言う事である。
神の国の権威に服していない人々は、現状サタンの支配下にあり、神様がそれを許しておられるのであるから、私たちはこれについてなにがし追及し、自分勝手に裁いたりしようとすると、神様の主権に反逆することになる。
この世人々、即ちサタンの支配下にある人々は、終わりの日に、その定めに従って、サタンと共に主の手によって裁かれることが既に定められている(黙示録20章10節)。
したがって、世の人々の行っている事を裁く権威は、使徒であるパウロにすら与えられて居ない。
例えそうでなかったにしても、私たちは外ではなく内側にこそ、点検の目を向けるべきであろうことは疑うまでもない。
イエスもまた、私たちに人を裁く前に自らを点検せよと命令しておられるのだから(マタイ7章3-5節)。自分自身や身内の罪に対して目を向けず、外部の人々を裁こうとするものは、すべからく神から「偽善者」と呼ばれることになる(マタイ7章5節)。
だから、「内部の人」の中から、違反者を出すのは、彼らを自分達ではなく、主の裁きの手に委ねるのだという意味合いを持つことも、私たちは良く覚えて置かなければならない。
〇あなたがたの中からその悪いものをとりのぞきなさい
これは申命記17章7節の引用である。
ちなみに、申命記のとりのぞきなさいは、「(殺して)取り除け(ギ:ウビラータ)」という男性系二人称単数で書かれている。
即ち、「あなたが殺して取り除きなさい」というヘブル語で書かれているが、パウロのこの引用では、恐らく意図的に、二人称複数で、「(追放して)取り除け(ギ:エグザラーテ)」と書かれている。即ち、「あなた方が、追放して取り除きなさい」と、より、教会の集団に対しての適切な命令に修正して引用されている。
これは、あくまで戒規される兄弟姉妹が悔い改めることを目的としているという趣旨に合致している。
つまり、例え戒規で「除名」することになったとしても、それは、除名される兄弟姉妹から悔い改めの余地を奪い、滅びを確定させる「止め」とはならない。
申命記17章7節を引用しているからといって、「悔い改めの機会を奪い、教会の中の罪びとは全て殺して取り除くべき」という、過激な主張は一切退けられる。
何にせよ、主の陣営から悪しき者を取り除く行為は、神様の手ではなく、神の民である私たちが行わなければならない仕事である。
「悪い者が居るなら主が取り除かれるだろう」ではなく、「我々が一致して実行せねばならない」のである。
戒規については、この原則によって、皆で心を一つにして行うべきである。
私たちはこの命令について、忠実に実行しなければならない。
2.詳細なアウトライン着情報
〇前の手紙の誤解を訂正する
9a 私は前(に送った)の手紙でこう書きました。
9b 内容:淫らな行いをする者たちと付き合わないように。
10a (この手紙についてですが)それは、この世(教会外の)の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、一切付き合わないようにという意味で(書いたので)はありません。
10b (もし、前の手紙の内容の趣旨が)そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。
11a 私が今書いたのは(しかし、私は今かきますが)、こうです。
11b 「兄弟」と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、
11c そのような者とは付き合ってはいけません。
11d 一緒に食事をしてもいけません、ということです。
〇教会の内外について
12a 外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。
12b あなたがたが裁くべき(権威が与えられて居る)者は、内部の人たちではありませんか。
13a 外部の人たちは神がお裁きになります。
13b 「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。
着情報3.メッセージ
『教会の聖め』
聖書箇所:コリント人への手紙第一5章9〜13節
中心聖句:『「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」』(コリント人への手紙第一5章13節) 2023年2月5日(日) 主日礼拝説教
教会の中から罪を取り除く重要性と、「教会の中に罪が在ってはならない」という原則の大切さを説いた後、パウロはコリント信徒に対して、教会の内部にこそ目を向けるように促します。キリストによって救われた新しい神の民には、神の宮の聖性を守る義務があるからです。
9節から、パウロが訂正しているのは、このコリント人への手紙第一が書かれる前に送られた、現在では失われた書簡の内容についてです。聖書の書簡は、御言葉として聖徒を養うのにふさわしいと、天の教会と神の霊によって追認され、選び出された一部のものであり、教会内の全ての書簡が聖書に収められている訳ではありません。コリント教会へも、パウロは多くの手紙を出していたようですが、その中の一つの書簡に書かれた「淫らな行いをする者たちとは付き合ってはならない」と言う命令を、コリント教会の人々は曲解して受け取っていたようでした。「それは〜いっさい付き合わないように」というパウロの口ぶりから推察するに、どうやらコリント教会では内側に存在する恥ずべき不品行は褒め称え喧伝しておきながら、外部の人々の罪については厳しく取り締まり、彼らと付き合わないようにと薦めていたようです。外部と隔絶し、内部の風紀を混乱させる行為は、代表的なカルト的手法ですが、当たり前ながらこれのような歪んだ行動は、パウロの意図した命令ではありませんでした。
11節でパウロが宣言している通り、教会の戒規は教会内部の人々に向かなければなりません。即ち、クリスチャンとして洗礼を受けて置きながら、「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」となった人々を、徹底的に群れの中から取り除き、交流しないようにすることこそが、パウロの意図した命令なのでした。何故なら、教会は聖なる神の宮であって(Tコリント3章16節)、その内部の聖さを保つようにと、神様が、私たちへ命令されているからです。13節でパウロも、申命記17章7節を、一部単語を置き換えて引用し(「あなたが」殺して取り除け→「あなたがたが」追放して取り除け)、そのことが神様からの直接的な命令である事を強調しています。「取り除け(ギ:エグザラーテ)」が、「あなたがたが取り除け」という、神様から私たちへの厳かな命令である以上、神の宮から罪を取り除く事は、神様ご自身の仕事ではなく、その命令を受けた我々の仕事なのです。「教会の中に罪があるが、そのうち何とかなるだろう」、とか、「神様がどうにかしてくださる」ではなく、私たち自身が、そのような教会内部の罪については対応しなければならないのです。
神様は、そのような裁きの裁量を、通り一辺倒なルールではなく、私たち教会の手に委ねて下さっています (マタイ16章18-19節)。私たちは、罪に対して毅然と対応しながらも、それと同時に、皆がそろって永遠の命と天国の栄冠を受ける事が出来るように、憐みの中でその裁きの権威を用いていくことができるのです。神様は常に私たちに憐みによって向き合って下さっています、神様の宮の聖性を保てるように、しっかりと神様にお仕えしていきましょう。
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