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牧師の説教ノート(4月23日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章25〜36節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 7章は、全体を通して結婚について取り扱っているのであるが、パウロは一度結婚の問題を語り終えて、割礼の問題、また奴隷制の問題についての言及を行い始める。

 注解書のいくつかには、これは手紙なので脱線することも珍しくなく、パウロは意味も無く話題を良く脱線するなどということを書いて説明しているものがあるが、まず前提として、パウロは結婚の問題については語り終わっており、脱線はしていない。

 後述の、独身者に対する勧告やおとめの結婚に関する問題は、コリント信徒各位の結婚観を取り扱う問題とは全く別のものであり、危急の際の心構えの案件であって、悟るべき真理もまた違うものであるので、一連の結婚問題として繋げて考えることは危険である。

 また、話題自体も切り替わるが、パウロが文脈を通してコリント信徒に悟らせようとしている真理は常に同じものである。それは即ち、「置かれた自分自身の現状に恵みを見出し、よろこんで現状に留まる」ことの大切さをコリント信徒に説こうとし、また彼らが悟る事を願っているのである。

 パウロがここで取り扱っている割礼の問題と、奴隷制の問題についてもおおむね同じであるが、この箇所からパウロがコリント信徒へ悟って欲しいと願っているのは、この世の価値観から脱却し、神の御許で生きるクリスチャンとしての価値観を見出すことである。

 即ち、能力も、才能も、地位の差も、貧富の差も、その全ては取るに足らないものであるということを教え、教会の中にある貧富の差、身分の差などの差異は、決して神による不公平ではないことを悟らせようとしているのである。

 このような価値観を身に着け、よく理解して自分の物にしない限り、私たちは何故、教会の中で助け合わなければならないのか、初代教会が全ての持ち物を共有し、貧しいものを扶養していたのかなどの、根本的な理由を理解することができない。

 私たちは、自分自身に与えられている、全ての者が、神の計画の中で与えられた役割、即ち「召された所」で活躍する為に与えられて居る装い、即ち「分」に過ぎない事を覚えなければならない。
 私たちは自分自身に与えられた、最も輝き活躍できる場で、私たちが最高の働きが出来るように、神によってその装いを整えられているのである。

 私たちは、神の御心によって、勧められる救済史の物語、即ち神の物語の中で、それぞれ最高の役割を与えられて生きている。私たちは、神によってこの世界の外側に連れ出された特別な存在であり、かつ、神の所有物、即ち神の奴隷として、この世界の中に派遣されている一人びとりなのである。

 私たちは、キリストによってこの世の外側から派遣されており、与えられた全ては、その役柄に応じて与えられて居る劇衣装に過ぎない。だからこそ、私たちは、どこまでも神の御許で生きる平等な存在なのであり、私たちは神の前に等しく価値がなく、それ故に、誰もが等しく、神によって特別にされた存在なのである。

 私たちは、神の御心によって買い取られ、そして役柄を与えられて、この世の外側から、この世界に派遣されているのである。それ故に、私たちは便宜上この世のあらゆる立場を「纏う」が、それに心が縛られてはならない。
 纏っている役柄の故に、卑屈になる必要はなく、また、放蕩して身を持ち崩すことは許されない。

 私たちは神によって解放されたこの世からの自由人であり、また同時に、神から派遣されている奴隷なのである。
 それ故、導きでもないのに、私たちは自分の思いで現状変更を試みるべきではない。寧ろ、現状の中に神様が与えて下さっている、あらゆる恵みと愛の御心を喜んで、それを楽しみながら生きていく事が求められるのである。

 そのような生き方こそがパウロの望むところであり、そのように神様と共に活き活きと歩むところに、永遠の命が存在するのである。


〇17節
 17節の「ただ(ギ:エイメ)」が、どの文章に掛かっているかで大分解釈が難しい場所である。
 もしもという意味のエイと、否定のメが重なっている。
 恐らくは、16節の、配偶者を救えるかどうかどうしてわかるのかという分に掛かっている接続詞であると思われる為、新改訳2017や口語訳の解釈の通りに、無理に配偶者を救おうと食い下がらずに、それぞれ主から頂いた分に応じて、現状変更の為に食い下がってはならない、といった趣旨の話をしているようにも思われるが、ここで段落分けされている通り、話題が切り替わっていると考えたほうが良いだろう。

 また、ここからは、それぞれ(ギ:ヘカスト)という単語が繰り返し用いられている。これは、個々人とか、各々とか、各自に対しての呼びかけとして用いられる単語である。即ち、神の御心や、それに伴ったクリスチャン達の「置かれるべき環境」は、人によって千差万別であることを、パウロは言い表しているのである。

 また、主から頂いた「分(ギ:エメリーセン)」は、割り当てや支給を意味し、主からの「召し(ギ:ケクレケン)」は、呼びかけとか、招集を意味する単語である。
 別段特別な意味合いを持つ単語ではない。単純に、主に「割り当て(支給品)」と、主から「呼び出された環境」に応じて歩くようにと、パウロは命令している。

 つまり直訳すると、「それぞれが主から、それぞれの神からの呼び出された役割(即ち辞令)を、自分に与えられた割り当てを用いて歩みなさい」である。
 また重ねて、これらは全ての教会に対して、自分が普遍的に「命じている(ギ:ディアタッソマイ)」ことだと、パウロは宣言している。

 それぞれ召された仕事に対して、それにふさわしい割り当てが主から出ているという考えは、信仰生活の中では基本となる。常に神様の恵みは私たちに対して十分である。神様が割り当てられる仕事には、十分にそれをこなすに相応しい、持ち物、能力、才能、環境の全てが「割り当て」として与えられるのである。


〇18-20節
 「割礼(ギ:ペリテメノウ)」について言及されている。割礼とは、ユダヤ人が神の民であるために、古くはアブラハムに対して神御自身が求めたしるしであり(創世記17章10-27節)、シナイ契約によってモーセの律法でも、神が命じた命令である(レビ記12章3節)
 これは、モーセの律法よりも古い命令であり、始祖アブラハムの祝福を受けた血筋の末裔である象徴だった。

 具体的には赤子の内に、陰茎の包皮を切断する儀式である。現代では、医学的な包茎手術が一番それに近い内容であるが、勿論包茎対策で行われる物ではないし、イスラエルではいまだにこの慣習は続いている。

 ユダヤ人達は、この割礼を神の民として特別なしるしであると思っていたし、この割礼が無ければ、決して神の民足りえないと確信をもって教えていた。無割礼の民という言葉も、聖書のあちこちで登場する(Tサムエル記34章4節etc..)

 しかし、当時のギリシャ文化、とりわけヘレニズム地域の中では、割礼は未開の恥ずべき蛮族の証として軽蔑の対象とされていた。それ故に、元々ユダヤの出身でギリシャ社会に出て行った者の中には、自らの割礼の跡を恥じて、外科手術によってこれを消そうとする人々も多かったようである。

 現代では考えられないことであるが、当時はスポーツ競技に出る際には、全裸で出場することが当たり前であったし、ローマの公衆浴場は当たり前ながら混浴であった。

 当時は現代よりも、明らかに陰茎を他人に対して露出する社会的な場面は多くあり、その度に割礼がヘレニズム文化の人々に対して露出することは、ギリシャ文化にかぶれたユダヤ人にとっては恥であった。
 また、割礼の跡を消そうと努力している男性は、ヘレニズム社会では「啓蒙されている感心な人物」として扱われたこともあり、自分の「恥」を濯ぐために、無割礼に戻る手術を受ける者はおおかったのである。

 逆に、救われた後にユダヤ人にあこがれて(あるいは偽使徒やユダヤ主義的及び律法主義者の異端教師にそそのかされて)、割礼を求める無割礼の人も居たのであるから、割礼をめぐっての混乱は教会の中でも大きかったのである。

 しかし、パウロはそれについては、割礼そのものが、取るに足らないものであることを宣べる。即ち、割礼は、良いとか悪いとか、思い悩むようなものではなく、重要な事はもっと別に在るのである。

 パウロ自身も、テトスには割礼を施さなかったし(ガラテヤ2章3節)、便宜的に他の地方で宣教する際に誤解を招かない為に、テモテには自ら割礼を施したりもした(使徒行伝16章3節)。
 つまるところ、状況に合わせて神が良しとされるならば「どちらでもよい」些細な、取るに足らない事なのである。

 ならば、「どちらでもよいことは、自分の好きにしてよいのか」と問われれば決してそうではない。
 パウロが最後に、「大事なのは、ただ神の戒めをまもること」、また「自分が召された時の状態にとどまっていなさい」と言われている通りである。

 何をするにしても、私たちは神の御心に従うのであって、それ以外の事については拘らないのである。
 即ち、神の御心によって必要ならば、現状に対して変更を加えることも辞さないが、そうでないならば、神の御心によって変えろと言われない限り、全ては「現状維持である」ことが、クリスチャンの正しい基本的な態度なのである。

 そして、なにより大切なのは、パウロの言う通りに、神の命令に従う事である、と語られている通りであるが、これは律法や宗教儀式を守るという話では無く、「分(割り当て)に応じて」、「召されたままの状態」で自らの役割に殉じることのほうが大切であることを云わんとしていると考えるべきであろう。


〇21節
 では、ユダヤ人にとって最も大切な割礼ですらも取るにたらないならば、私たちにとってもっとも重要なものは一体何なのであろうか。それこそが、私たちが、それぞれ与えられた任務の中で活躍することである。
 それをパウロは21節から奴隷制の例を用いて解説しようとする。

 「奴隷(ギ:ドウロス)」は、ヘレニズム文化の中で存在していた奴隷制度による奴隷である。
 借金のカタで奴隷に落ちた者もいるし、戦争に負けて奴隷とされた人々もいただろうが、その身分については大差ない。
 奴隷は、無償で主人の為に働く事を強いられた。
 とはいえ、この時代の奴隷は非常に高価であったため、所謂アメリカ開拓時に於けるサトウキビ農園のような人道無視の奴隷制度とは毛色が違うものであった。

 また、パウロが言及している通り、奴隷は任期を終えたり、身代金を支払ったりすることで、自分の自由な身分を買い戻すことも出来た。奴隷の持ち主が、奴隷が自分の身分を買い戻すことが出来るように契約し、やる気を出させる手法を取ることもあった(働きに応じて自信を買い戻す為の賃金を与えるなど)。

 奴隷と言っても、24時間、馬車馬のように働かされている訳ではなく、ある程度の自由も保証されていた。だから、奴隷も自分の決断に応じて信仰を持つことが出来たし、また、それに応じて教会に集う自由も主人から与えられていた。

 奴隷が、教会へやってきて礼拝と聖餐に預かる事は可能であった。

 しかし、それ故に、教会は身分を問わず兄弟姉妹が交わる場所であるから、奴隷も、奴隷の主人の身分の人々も入り混じって存在しており、奴隷の身分で救われた者は肩身が狭かったかもしれない。

 そのような奴隷のクリスチャンに対して態度を変える人々が一定数居たことは、ヤコブの手紙でも言及されている通りであり(ここでは貧しいものとして括られているが、奴隷も当然同じ扱いである)、そのことによって惨めな思いをする奴隷のクリスチャンもいただろうことは、容易に想像できる。(ヤコブ2章1-4節)

 だからこそ、「神の前に人は平等なのだから」と、暴力的に現状変更を試みようとする奴隷のクリスチャンが出ることも、なんら不思議なことではなかった。

 だからこそ、パウロはそのような強引な現状変更を試みたり、また自身の境遇について嘆く必要が無い事を宣言し、奴隷のクリスチャンに対しては優しくたしなめているのである。

 また、パウロは、奴隷のクリスチャンに対して、現状変更を無理に試みるべきではないというのであるが、だからと言って、自由になれるのに、奴隷で無理に居続ける必要は無いということも宣言している。

 21節後半部のギリシャ語解釈は、いくつか意味を読み取れるものであり、自由になれるとしても奴隷のままでいるようにとパウロが言っているのか、自由になれるならその機会を用いよとパウロが言っているのか、意見が分かれてきた。
 特に、前置詞「エイ・カイ」は、「もし〜なら」とも、「たとえ〜だとしても」と両方に訳す事が出来、後者の方が訳し方としては一般的である。

 文脈に従って直訳するならば、「しかし、もし、貴方が自由になる力をもっているのならば、むしろ利用しなさい」であるのだが、ギリシャ語慣例に従って訳すと、「しかし、例え貴方が自由になる力をもっているのだとしても、それを利用しなさい」となる。
 これによって、奴隷から解放される機会を寧ろ用いて自由になれといっているのか、解放される力があっても、奴隷の身分にとどまってその機会、即ち立場を用いなさいといっているかで意見が分かれるのである。
 前者は従来のプロテスタント聖書(口語訳や新改訳2017)、新しいカトリックのフランシスコ会聖書研究所訳などがとる立場であり、後者は従来のカトリック聖書(ラゲ訳、バロバロ訳)や、また最近のプロテスタント聖書(即ち共同訳や佐竹訳)がとる立場である。

 しかし、この「エイ・カイ」は、必ず熟語として用いる必要がある並びというわけでもない。単純に、「エイ(if)」と、「カイ(also)」を分解して読むことも出来る筈である(第二コリント7章12節、ピリピ3章12節etc..)。
 即ち、エイはそのまま「もし」と訳し、カイは後の文章と併せる事で「あなたに自由になる力があるならば、やはりその機会を用いるべきである」と訳す事が出来る。
 エイ・カイの熟語に囚われる必要はない。

 また、パウロは一つの原則を宣べる際には、必ず例外、反証についても言及する癖があることは、7章の文章を見ているだけでも明らかであり(Tコリント7章5節、15節)、しかし(ギ:アッラ)という、強い否定の接続詞が21節後半に用いられている以上、21節後半は、21節前半の例外と取らなければ文脈的に意味が通らないように見える。したがって、21節後半は、「奴隷のままでいることは問題ない」という意味と真逆の事を言っていると考えるべきである。
 さらに、最後の「用いなさい(ギ:ケレサイ)」は、アオリスト、命令形、中動相で書かれているので、文脈的にも自然に読むなら、やはり、この命令形の文章は、奴隷から解放される機会を用いる事をポジティブにとらえていると考えるべきであるし、その機会を積極的に用いるよう命じていると読むほうが正しいだろう。従って、21節後半部分は、口語訳や新改訳が指示している文章の文脈で読むべきである。

 また、文脈的な理解としても、「神が与えたものに、人間が意見を言わない」という、17節で確認されたパウロの全ての教会に対する指導の基本姿勢に合致するものであるから、奴隷から解放される機会を神が与えたのであるから、その御心を素直に受け入れて解放されるべきである、という言い分は、信仰的にも、パウロのこれまでの文脈的な理解としても正しいといえるはずである。


〇22節
 主に属する自由人、キリストに属する奴隷、と二つの言葉が出てくるが、どちらも大体の意味は同じであるのだが、そこには相反する戒めを悟るように願うパウロの知恵が垣間見える。

 キリストの十字架の血潮によって買い取られた私たちは、神の許で生きる為に、この世から連れ出された「(この世からの)自由人」であり、その一方で、確かに神の所有物である「(神に於ける)奴隷」なのである。
 この二つの事柄を正しくわきまえる事は、私たちにとって重要である。

 クリスチャンは、外的な隷属に囚われる事は無い。何故なら、私たちは一端この世界から切り離され、キリストに隷属するものだからである。
 これは「気の持ち方の違い」程度の精神論ではない。私たちはこの仕組みを正しく理解しなければならない。

 私たちは、キリストによって買い取られた。何から買い取られたのか。それはこの世から買い取られたのである。そして、神の御許で生きる為に、神によって持ち帰られた「商品」である。
 誰でも買い物をすれば、対価を支払って購入したものを自分の家へともってかえる。それぐらいは誰にでもわかることであろう。

 同じように、私たちもキリストの十字架の血潮で買い取られ、神の御許に持ち替えられたのである。その上で、神は私たちに、御心によって進められている偉大な計画の一部を担わせ、再度御許からこの世へと派遣されているのである。

 この世から連れ出され、その上で任務を与えてこの世に出向しているのである。

 また、神は、そのように私たちに出向させる際、自らが遣わす場所や任務に応じて、最適な持ち物、身体、才能、環境、身分などを与えられる。これらは私たちの「装い」として着せられるものであって、私たちの本質を変化させるものではない。

 このような、神の許で生きる私たちの立場は、劇役者に共通するものが多い。役者は、それぞれの物語に用意された台本の役を演じるが、その「役」が、役者に影響を齎すものではない。役者が貧乏人の役をやったからといって、役者の資金がなくなる事は無いし、役者が役の中で犯罪者になったからといって、現実にその役者が処刑される訳でもない。
 しかし、その一方で、役者はその役に全身全霊で取り組み、役作りをする。その役者が良い演技が出来るように、スタッフはその役者に最善の劇衣装を用意するのである。

 同じように、私たちはこの世でどのような「役」を与えられても、それが私たちの本質に影響する事は無い。私たちが奴隷になっても、ここまで卑屈になる必要はないし、逆に金持ちになったからといって、調子に乗って放蕩の限りを尽くして良いわけでもない。私たちはどこまでいっても、役を与えられ、劇衣装を着せられているだけの役者として、この世界に遣わされている。そして、そのように遣わされているキリストの奴隷は、どこまでも神の前に平等で、対等なのである。

 このように神は、富裕層の所へ遣わすものには、富裕層に必要な賜物を、病人の所へ遣わすものには医師の賜物を、奴隷の中に遣わすものには奴隷としての身分を用意し、王に訴える者には、王に関わる運命を与えられる。。

 だから私たちにとって、身分も、持ち物も、立場も、その他全ての者は、この様に遣わす場所に応じて、神から与えられる「劇衣装」に過ぎないのであり。それ故に、私たちにとって、この世のあらゆることは、割礼ですらも「取るに足らない」出来事なのである。


〇23節
 そのような、22節の文脈に従うならば、23節はどのように解釈するべきであろうかも見えてくるはずである。自分に与えられた「役」こそが、自分にとっての全てにならないようにと戒めているのである。最早キリストの奴隷としてこの世界の外側に連れ出された特別な存在であるはずなのに、再度この世に取り込まれて、心までこの世の人になってはならない。私たちはあくまで、主から派遣されている「役者」のようなものであるという自覚は持つべきである。

 さて、ここから悟るべき心理はそれであるが、その一方で、「実際に自分を奴隷として売って現状変更することも良くない」と言う、パウロの戒めもまた、込められている。

 当時、ギリシャ社会のクリスチャンの中で「好き好んで奴隷になる者」はいた。それは即ち、自分を奴隷として売り渡して、その対価で貧しい人間に施すことを美徳とするクリスチャンが一定数居たという事実を、私たちは踏まえて考えなければならない。

 それは、一見「殉教」の考え方に似ているため、美しい献身であるかに勘違いされてしまうかもしれないが、当然それは非なるものであり、クリスチャンとして正しい態度ではない。必要に迫られている訳でもないのに、自分を奴隷にして、その対価で施しを行うなどと言う行為は、神から与えられた任務を放棄し、全てを台無しにする、もっとも避けるべき行為である。


〇24節
 パウロは、ここで改めて、コリント信徒達へ命令を行う。
 私たちは、神によって外に連れ出された「この世からの自由人」であり、キリストの十字架によって買い取られた、「神の奴隷」である。それ故に、私たちは自分の思いで現状変更する事は許されない。

 神は私たちに最善のものを用意して下さっているのに、私たちはそれを退け、自分の思いで勝手に自分の現状を変更しようとする。ここに人間の罪がある。

 だから、おのおの、自分に与えられた環境の中で、与えられた任務を喜んで受け取り、神が用意して下さった、自分の舞台の上で、私たちは存分に活躍すべきなのである。


2.詳細なアウトライン着情報

〇7章全体の文脈についての確認
17a ただ、それぞれ主からの割り当ての場所を歩きなさい。
17b また、それぞれ神が呼び出して下さった場所を歩きなさい。
17c 私は、すべての教会にそのように命じています。

〇割礼について思い悩んでいるクリスチャン達に対して
18a 召された時に割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。
18b また、召されたときに割礼を受けていなかったのなら、割礼を(新たに)受けてはなりません。
19a 割礼はとるに足りない事です。
19b また、無割礼も取るに足りない事です。
19c 重要なのは、神の命令を守ることです。
20a (だから)それぞれ、自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。

〇奴隷のクリスチャン達に対して
21a あなたが奴隷の状態で召されたのなら、その事を気にしてはいけません。
21b しかし、もし自由の身になれるのなら、その機会をもちいたらよいでしょう。
22a 主に在って召された奴隷は、主に属する自由人です。
22b また、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷です。
23a あなたがたは対価を払って買い取られたのです。
23b (だから)人間の奴隷となってはなりません。
24a 兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前に居なさい。

着情報3.メッセージ

『神の許で生きる』
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章17〜24節
中心聖句:『主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。』(Tコリント人への手紙7章22節)  2023年4月23日(日) 主日礼拝説教完全原稿

 久しぶりに、コリント人への手紙第一の学びへと戻ります。パウロは、6章最後から、7章前半にかけて、結婚と独身の問題を通して、「自身に与えられた神様からの賜物を喜んで受け取る」ことの大切さと、「与えられた賜物をありのままに受け入れて、神様の御心に仕える大切さ」を、コリント教会の人々に対して語ってきました。
 神様は、私たちそれぞれの個性に応じて、最善のものを与え、常によく考えて、各々に最も良いものを、賜物や恵みとして与えてくださるのです。

 「しかし、そうは言うけれども、この世の中には歴然と不公平が存在し、それは現代の教会の中ですら是正されていないではないか」と、考える人もいるかもしれません。事実、コリント人の手紙が書かれた当初も、教会の中には貧富の差どころか、自由人や奴隷という身分の差すらも存在している有様でした。
 それを神様の不平等、また、神様からの恵みや賜物の格差だと考える人もいますが、それはこの世の価値観でものを見た場合に起こる大きな誤解なのです。パウロは、神の許で生きる私たちにとって大切な物は、この世での身分の違い、立場の違い、貧富の差などではなく、御心によって与えられている役割の違いである事を、結婚と独身の問題から話題を切り替え、今日の箇所を通して、コリント教会の人々にはっきりと教えようとするのです。

 17節でパウロは、「ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。」と話し、私たちの身分、持ち物、周囲の環境は、全て神様から与えられている「分」であり、神様から「召された」仕事に纏わるものである事をはっきり宣言しています。
 私たちは、神様の御心によって進められる物語の中で、各々重要な役割を与えられ、その任務の中へ召されます。そして神様は、私たちがその任務を達成し、活き活きと活躍できるように、その任務に応じた最善のものを、私たちに用意して下さるのです。

 このことについて、解りやすく説明するために、パウロは18節から20節で、「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。」と、割礼の問題を一例として取り上げています。

 割礼とは、創世記の時代に、父なる神様が、選び出したアブラハムに求めた、神の民の目印で(創世記17章10-27節)、旧約聖書の時代のユダヤ人にとっては、何よりも重要なものであると考えられていました。しかし、そのような割礼ですらも、パウロに言わせれば19〜20節で、「割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」という言葉の通り、それぞれの役割や状況に応じて便宜的に施すか施さないかを決めてすら良い程に、最早重要なものではないのです(使徒行伝16章3節、ガラテヤ2章3節)。

 では、キリストによって召され、神の御許で生きるようになったクリスチャンにとって、この世のあらゆる立場や持ち物よりも、更に重要なものとは一体何なのでしょうか。

 身分や立場で、神様の前での私たちの優劣が決まる事は無い、と言われれば確かにその通りでしょう。「しかし、そうは言っても、教会の中にある身分の格差や、貧富の格差は不公平では無いか。むしろ、神が本当に存在するならば、教会の中でぐらいは、そのような身分や立場、貧富の差は解消されていてしかるべきでは無いか、理不尽ではないか」と考える人も当然存在するのではないでしょうか。

 しかし、それはこの世的な価値観で物事を見る為に起こる大きな誤解です。それについてパウロは、更に奴隷制の問題に言及することで、コリント信徒に悟らせようとします。

 21-22節で「あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」と語られている通り、神の御許で生きるクリスチャン全員が、キリストの十字架の血潮によって買い取られた奴隷です。
 神様の御許で、私たちは全員が等しくキリストの所有物であり、存在の重要性には一切優劣がありません。
 キリストは、自らの十字架の血潮によって私たちを買い取ったのですから、買い取られた私たちに格差が出来ること自体が、理屈に合わないことだからです。

 では、私たちの間に確かに存在する、この差は一体何なのでしょうか。それこそが、神様がえがかれる救済の物語の中で、私たちに与えられる役柄の違いなのです。この世界は、神様に背を向ける人々が、罪によって作り上げた格差によって動いています。この世に属する人々も、その格差の中の上にいたり、下にいたりしながら過ごしています。
 神様は、そのような格差の中で、罪に苦しむ私たちを救い出す為に、御子キリストを遣わして十字架に掛けて下さいました。そして、そのような一人びとりが悔い改めて救われるように、その御心によって救済の御計画を立てて下さっているのです。
 この救済の御計画こそが、神の物語です。その物語にそって、神様が進められている歴史そのものを、神学では救済史と呼びます。

 私たちは、そのようないびつな構造をしている、格差に塗れたこの世の中で、各々が最も活躍し輝ける場所へと派遣されます。神様はその為に、私たちにそれぞれ役柄を与え、それに必要な最善の、身分、持ち物、才能や能力を与えて、そこへと遣わして下さるのです。

 だから、神の許で生きる私たちにとって、身分や持ち物の差は、与えられた役柄に応じて用意された「装い」の差異に過ぎません。それが私たちの価値を決めるものではないのです。

 それは、あたかも演劇に似ています。演者は、それぞれに与えられた「役」に応じて、劇衣装を身にまとい、その役柄を演じようとします。しかし、どのような役をして、どのような衣装を身にまとったからと言って、演者そのものに影響が出ることはありません。演者が貧しい人の役をしたら、演者のお金は無くなってしまうでしょうか。そんなことはないはずです。
 だからこそ、私たちは、自分達が与えられている、立場や能力、身分、その他全てのものが、用意された役割に応じて与えられて居る「劇衣装」に過ぎない事を知らなければなりません。
 だからこそ、「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」と、パウロが言うように、奴隷の役柄になったからといって絶望して卑屈になる必要は一切無く、逆に自由な立場になったからといって、調子に乗って放蕩してはならないのです。
 もし、その事を忘れて、この世で与えられた「劇衣装」こそが、自分の全てであると思い違えるならば、私たちはこの世にあっという間に取り込まれて、神の許で生きるものではなくなってしまいます。22節で、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。」と、パウロが忠告している通りです。私たちはあくまで、この世の外側の存在です。だからこそ、どのような役柄を与えられていても、私たちクリスチャンの兄弟姉妹はひたすらに平等なのです。

 私たちは神様によって、それぞれが最善の役柄を与えられ、その任務に召され、必要な全ての賜物を与えられています。そうであるにも関わらず、その任務に逆らい、導きによってではなく、自分の思いによって現状を変更しようとしてしまいます。ここに人間の罪があるのです。だからこそ、私たちには24節で、「兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」という御言葉が必要なのです。

 私たちは、最早この世界の外側に連れ出され、外側からこの世界に関わる特別な存在とされています。神様がそのように、私たちを特別な存在にして下さったのですから、私たちもそれに応じて、この世界での自らの役柄に一喜一憂することがあってはなりません。
 むしろ、神様から与えられた役柄を喜びをもってうけとり、与えられた任務を楽しみながら仕えていく。そのような信仰生活を、各々が全うしようではありませんか。


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