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牧師の説教ノート(5月7日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章37〜38節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 一連の、「神から与えられた役割に応じて、各人が美しく生きていくべきである」というパウロの主張の最後の部分である。もう既に、パウロはこの38節に至るまでに、それぞれの神学に基づいた基本方針は十分に示しているように思える。普通ならばもうなにも学ぶべきことは無いかとも思われるこの問題について、何故、わざわざパウロは、再度結婚の問題に立ち戻ってまで再度確認しようとしているのだろうか。勿論、そこに学び、警告すべき大きな課題があるからである。

 パウロは、まず、今日の箇所を通して、指導する側と指導される側の、両方の「独善」について指摘し、釘を刺した上で、自身の知識を誇って、指導者の指導や他の兄弟姉妹からの諫言を受け入れようとしない、思い上がった人々に対しての忠告を、この話題と同時に行っているようである。


 ところで、今回は、新改訳2017の本文ではなく、注釈に書かれた別訳を本文として採用することとした。詳しい説明は後述するとして、聖書本文ですら採用をどのようにするか悩むほどに、今週の当該箇所は、非常に解釈が難解であることを、まず最初に確認しておきたい。古来より、神学者たちは様々なギリシャ語の読み方を、この箇所を通して行ってきた。
 伝統的な見解(文語訳、バルバロ訳、ラゲ訳等。新改訳2017では補足となっている)では、この箇所は自身の娘に対して監督権を持つ父親に対して語っていると解釈して翻訳を行っている。
 他には、婚約者について語っていると考える(新改訳2017主文、口語訳、フランシスコ会聖書研究所訳etc..)訳文聖書や、霊的結婚説(新鋭訳聖書、モファット英訳)を主張する訳文も存在する。

 伝統的見解は、当時の時代背景の中で、自身の娘についての結婚の決定権を持つのが、父親や後見人であったことに加えて、例え花婿当人であったとしても、花嫁の父親を無視して結婚を取り決める事が出来ないと言う事情があったことを鑑みれば、妥当な見解だと判断できる。更に「結婚をさせるように」とパウロが勧めている事も受ければ、ほぼ間違いなく、これは未婚の娘を指導する立場にある父親への勧告であると見て取るのが最適であり、今回の説教でもこの立場を採用した。

 この立場を採用することた正しいと考える根拠としては、

 第一に文法的な話で、外圧的に当事者を結婚させるという意味合いを持つ「嫁がせる(ギ:ガミゾー)」という単語が、38節で用いられている点が挙げられる。
 「娶る(ギ:ガメオウ)」と、「嫁がせる(ギ:ガミゾー)」は、似たような単語ではあるが、明らかに別の意味合いを持って使い分けられている単語であり、特に後者の「嫁がせる(ギ:ガミゾー)」については、強制的にこれを行わせるという、強い権限を伴った言葉である。「娶る」と「嫁がせる」については、マタイ24章38節で、ガメオウ、ガミゾーの二つの単語が意図的に使い分けられて並列している。

 第二に、伝統的見解の立場に立って、「あくまで主体は、娘を嫁がせる決定権を持つ父親について語られている」という部分はそのままに、三人称男性形単数(即ち彼)の中に、恐らく、父親本人と、娘の婚約者男性の両方を指し示すものが混在していると仮定して読むと、文脈的に非常に通りの良い文章になるという点がある。

 36節では、彼の望むままに「娶らせて(ギ:ガメオウ)」やるように、という命令が下されている。この「彼」が娘の相手の婚約者男性ある事は、「ギ:ガメオウ(娶る)」が意図的に使われていることから明らかだと思われる。「相手の男性も結婚を求めているのに、変に結婚を差し止めるせいで、自分の娘が品位ある生活を送る事が出来ていないと考えるならば、罪を犯しているわけでもあるまいし、意固地にならず、花婿の望むままに娶らせてやるのが、指導者である父親としての責務では無いか」と、こういっていると考えられるのである。

 第三に、この話が、婚約している男性に対して宛てられていると考える婚約者説(新改訳2017本文)では、結婚の決定権が花婿には存在しなかった当時の社会的背景にそぐわず文脈に矛盾が発生するため到底受け入れ難く、また、そこから派生した霊的結婚説(結婚を周囲から迫られないように、結婚した後、示し合わせて互いに別々に独身者として過ごすという偽装結婚のことを指しているとする説)は、まことの夫婦になるように勧める聖書の教えや、パウロの意見や基本理念からも外れているものであり、かつそのようなことが教会内にあったことが確認できる文献も、三世紀ごろからしかないことなどを考えると、支持できないという理由がある。

 聖書は文脈的に読むものであると思われる為、一番文脈的にも、文章の意味的にも通りの良い、伝統解釈を採用するのは最適に思われる。また、議論が分かれるならば、余程根拠がない限りは、まずは伝統解釈に沿って読み進めるのも、聖書の読み方としては適切であろうと考える。


 そういうわけで、今回は伝統的見解に立って読んでいく。
 新改訳2017聖書では、この伝統見解に基づいてなぜか翻訳されていないが、注釈に別訳としてこの立場も添えて書かれている為、聖書本文ではなく、この別訳を本文として採用することにした。
 聖書は神の霊感を受けて書かれた間違いのない言葉であるが、テキストの採用の仕方や、訳し方、読み方によって、全く意味の異なったものとなってしまうことがある。常に、聖書原文に基づいて、適切な読み方を選択し、可能な限りオリジナルの聖書が言わんとしている事をくみ取るようにするために、聖書の勉強は欠かせないものである。

 今日の箇所で、パウロがコリント信徒である父親達に教えようとしている事は、いくつか挙げられる。

 まず一つ目に、指導者は、指導内容の正しさだけでなく、指導対象の「品位ある生活or名誉ある生活(ギ:ユスケメオン)」が守られているかどうかにも気を払わなければならないと言う点である。また、指導者は、自身の指導内容によって、「品位ある生活or名誉ある生活(ギ:ユスケメオン)」が破壊されていると判断するならば、それが罪にならない限りは、その指導内容を取り下げ、(理想的ではなかったとしても)次善の手段を考える必要があると言うことを、学ばなければならない。
 今回の場合は、花婿と花嫁が結婚することは、苦労こそ招くが、罪となるわけではないので、それが最善でないと判っていたとしても、「品位ある生活or名誉ある生活(ギ:ユスケメオン)」を崩さない事を優先し、結婚させるようにと指導が行われているのである。

 二つ目に、私たちが「品位ある生活or名誉ある生活(ギ:ユスケメオン)」を送れているか、それとも、「品位のない生活(ギ:アスケモネン)」に陥っているかを決めるのは、自分自身ではなく、指導者であるという点である。指導される側は、自分自身で、自分自身に「合格」を出す権威は、神から与えられて居ない。指導される側の信仰生活が、「品位ある生活(ギ:ユスケメオン)」であるかどうかは、指導者が判断して、神から委ねられた権威によって合格と判定するのである。

 私達がいくら自己完結し、独善的に自らを自己査定しようが、周囲の指導者達から理解が得られず、また、評価されない生活は、「品位ある生活(ギ:ユスケメオン)」と呼ぶことは出来ないという事である。

 勿論、この論理は、指導する側が正しく機能し、神によって「合格」を当たられている場合に限るという前提に基づく話である。イエスの時代は、指導する立場である、律法学者やファリサイ人達すら、独善と偽善に陥って完全に腐りきっていた。それ故、指導する立場と権威が与えられて居た彼らは、その権威を与えていた神、即ち神の御子であるキリストによって「失格」の採点を与えられたのである。

 私たちは、自分を判断し、律する為の「目」を、自分の外側にこそ置かなければならない。
 私たちを導く、家族、指導者、教師、牧師、その他もろもろの人々から「評判」を勝ち取ってこそ、私たちは自身の信仰が正しい状態にある事を確認できるからである。

 独りよがりや、独善に陥る事を、私たちは何より恐れなければならない。もし、それに囚われれば、私達の信仰は、あっという間に律法学者やファリサイ人と同じような、頑なに神の御言葉を受け入れず、かつ自分の事を棚に上げて人の事ばかりを裁く「偽善者」へと転がり落ちることになるであろう。

 私たちはどんな時であったとしても、自分だけで自分を判断せず、神が与えて下さる指導者(メンター)の助けを借りて、自分自身を律し、かつ油断せずに、神の前に仕えていくべきなのである。


〇36-37節
 今回の聖書箇所では、新改訳2017本分ではなく、注釈に書かれた別訳を採用しているわけであるが、再度その理由の説明を行う。


 まず最初に、前述の通り、この箇所が、自分の娘を指導する立場にある父親への奨励と考える読み方は、古来からの伝統的な解釈である(文語訳、バルバロ訳、ラゲ訳等。新改訳2017注釈別訳)ことが一つ。

 二つ目に、ギリシャ語本文を読むに、それが一番訳文として文脈の通るものでもあると考えるので、今回の別訳を採用した。
 文脈が通ると考える理由については、この一文に、娘の父親である「ある人」と、かつ、娘と結婚する「婚約相手」と別々の人を現わす「彼」という言葉が、説明も無く混在しいるせいで、父親か婚約者のどちらかだけに限定して読むと、意味が通らなくなるということがある。また、二つの人物を指す「彼」が混在している前提で読みとく場合、非常に解りやすい文章になるという点も根拠の一つとして挙げられる。

 即ち、『もしある人が、自分の娘に対して、「彼女(娘)」が結婚適齢期を過ぎていて、私(パウロ)の教えた事に対して見栄えの悪い振る舞いをしていると「彼(父親)」が推測するならば、「彼(父親or娘の婚約者)は」罪を犯すわけではないのだから、「彼(娘の婚約者)」が望んで行動するままに、二人を結婚させてやりなさい』となる。

 それ故、訳を試みる際、「ギ:ホ」を始めとする男性系の前置詞、即ち「彼」が登場しており、その「彼」が誰を指すかによって、意味合いが色々変わってくるために、この文の意味を特定することは非常に困難なのである。
 もし、最後の「望むままに行動する彼」が父親を現わすと言うなら、結婚について意識的に「ギ:ガメオウ(娶る)」が用いられているのはおかしいことである。「娶る」といってるのだからこの「彼」は花婿のことであると考えるべきではないだろうか。

 しかし、全部の「彼」を婚約者であり、父親は一切登場しないという読み方の説は、花婿が時代背景的にも結婚を自分で全て取り決める権限をもっておらず、花婿の一存で結婚を差し止めたり、強制的に結婚をせまったりすることは出来ないにも拘わらず、自分で全て決断するようにとパウロが命令しているように見えてしまうという矛盾点がある。

 古来より、日本だってつい50年程前までは、結婚について花婿に全て決定権がある訳では無かった。花婿がいくら望もうが、花嫁の父親が認めなければ、それは花婿花嫁両家合意の上での結婚とはならない。
 「娘さんをどうか僕に下さい」と花婿が、花嫁の父親に頭を下げる伝統的な通過儀礼は、これを良く表していると言える。

 だからこそ、父親と花婿の両方が、「彼」としてあらわされている読むのが適切であると今回は判断したのである。新改訳2017の注釈別訳はその立場に立っていうようであり、その訳文も適切に思われる。


〇38節
 38節全体で、「ギ:ガメゾー(嫁がせる)」という文字が意識的に用いられている。「ギ:ガメオウ(娶る)」とは、聖書の中では明確に使い分けられており、代表例としては、前述の通り、イエス様が「娶ったり、嫁いだりしていた」と言われている箇所で分かりやすく用いられている(マタイ24章38節)。
 意識的に、嫁がせるのか、嫁がせないのかという単語が用いられているので、この奨励の主体は「花嫁側」であり、かつ、男性系で書かれているのだから、女性である花嫁自身ではない。
 結婚の決定権を持ち、かつ花嫁側であり、男性であるのは、花嫁側の父親以外に該当者はいないので、少なくとも38節は、父親を対象に奨励を行っていると考えるべきである。


〇まとめ
 このように、訳文の選択さえ終わってしまえば、パウロの語っている事は書いてある通りであり、特に解釈が難しい部分は何もない文章となる。「父親として、娘の品位ある生活に悪影響があると思うならば嫁がせればいいし、逆に堅く決意して、娘の品位ある生活を指導しきってみせると決意するならば、それは更に良い事だ。どちらも非難されるべきではない」と、至って真っ当な文章となるのである。

 指導する側にある人間が、常に念頭に置くべきなのは、指導する相手が「品位ある生活を送り、ひたすら主に仕える」生活を送る事ができるかどうかである。これがおろそかになる、または破壊される、躓くような結果になるならば、その指導内容が正しかろうが、指導としては間違っている事になる。

 また、指導される側に人間も、自分自身について判定するのは、自分ではないと、聖書が語っていることを重く受け止めるべきである。イエス様も、「自分の目の中の丸太に気づかず、人の目のおがくずを気にしている」と指摘されたこともあるように、人間は自分自身について正しい、客観的な評価を下す事が出来ない。
 私たちが「ちゃんとしているか」は、私たちではなく、周りの指導者達が決めることである。だからこそ、私たちは周囲からどのように見られるのかについても、よく考えたうえで振舞わなければならない。(勿論、人間の目ばかりを気にして、人間をを恐れるようになるのは、善い事ではないし、指導者もまた、適切な信仰を持っていると言うことが前提になるが)

 大切なのは、私たちを客観的に判断し、戒めてくれる良い霊的な信仰の先達、即ちメンターを作り、それを頼ることである。
 誰にも頼らずに自分だけで物事を判断したり、他人の意見や忠告を受け入れずに、一人で突き進むようなことを私たちは行うべきではない。
 私たちは、自分で自分に評価を下してはならない。
 よくよく弁えて、周囲から「評判の良い」クリスチャンを目指し続ける必要があるのである。


2.詳細なアウトライン着情報

〇自身の娘の結婚について
36a もしある人が、自分の娘に対して、(彼女が)結婚適齢期を過ぎていて、私の教えた事に対して見栄えの悪い振る舞いをしていると推測するならば、
36c 彼(娘の婚約者)が望んで行動するままに結婚させてやりなさい。彼(相手の婚約者)は罪を犯している訳ではないのですから。

37a しかし、彼(即ちその父親であるある人)が自分の心の中で堅く立ち、必要も無く、自分の意思について権利があり、自分の処女(である実娘)を守っておくことを心の中で決めているならば、
37b 彼の行う事は良いことです。

38a だから、彼自身の処女(である実娘)を嫁がせる人は、良い事をしているのです。
38b (そして)嫁がせない人は、更に良い事をしているのです。

着情報3.メッセージ

『自信を律する目』
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章36〜38節
中心聖句:『ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしており、結婚させない人はもっと良いことをしているのです。』(Tコリント人への手紙7章38節)  2023年5月7日(日) 主日聖餐礼拝説教完全原稿
 ※詳しい聖書の解説や、別訳選定の理由については、ホームページに掲載しています。どうぞご覧ください。

 本日の聖書の箇所は、新改訳2017の聖書本文ではなく、注釈に書かれた別訳に基づいて読み進めていきます。今日の箇所は、父親が自分の娘の結婚について、危急の際に差し止め続ける事が正しいか否かについてが問題にされています。聖書が書かれた当時の時代、結婚の決定権、主導権を持つのは、花婿でも花嫁でもなく、花嫁の父親でありました。だからこそ、花嫁の父親は、自身の娘が、正しい信仰生活と、結婚生活を送る事が出来るように指導し、管理する大きな責任があったのです。危急の事態の中では、先週申し上げた通りに、可能な限り現状を変更せず、平常に与えられた賜物を大切にしながら、苦難を耐え忍ぶことが求められます。
 指導する義務がある父親にとって、自身の娘を結婚させないと判断することは、苦渋の決断であったと思われます。そして、「一度決めた以上は、その判断を覆すまい」と意固地になる父親が、パウロへの質問として挙げられるぐらいには、どうやら多かったようであります。

 しかし、いくら「危急の際の現状維持」が正しい事であったとしても、無理を続ければ、どこかに必ず歪みが生じてきます。花婿と花嫁が、親の目を盗んで逢引したり、婚前交渉を行なったり、時には駆け落ちしたりなど、結婚したがる二人を無理に引き離せばそのような事態が起こることは、簡単に予想できることです。そうでなくても、父親への反発から、生活態度が悪くなったり、以前のような「品位ある生活」が送れなくなるのは避けられないことでしょう。
 それ故、パウロは、「自身の娘たちの品位ある生活が崩れるぐらいならば、決断を覆して娘を結婚させたところで、罪となるわけではないのだから、若い二人の望むままに結婚させてやるように」と、頑なになっている父親達に対して、諭すように助言したのです。

 指導する立場にある人は、その指導が正しいかどうかだけではなく(勿論、正しければ最高です。問題なく結婚させずに指導しきれるなれば、それは最善でしょう)、指導する相手の「品位ある生活」と「主への奉仕」が、保たれているかどうかについても、注意を払わなければなりません。指導によって躓きが起こるならば、それは本末転倒ですし、そのような指導を行っていれば、指導者に権威を与えられた神様の御名をも、穢すことになってしまうからです。

 また、指導される立場にある人も、自身の「品位ある生活」が正しく保たれているかどうかについて、決して自分自身で判断をしてはなりません。自分の信仰生活が守られているかどうかを判断するのは、自分ではなく、周囲の人々であり、また指導する立場にある人だからです。
 もし、それを履き違えて「自分はちゃんと出来ているから大丈夫」と思い上がれば、私達の信仰は、途端に独善に陥ってしまいます。その結果、間違いを指摘されても頑なに受け入れず、責任転嫁して他人を裁く偽善的な信仰へと、私たちは転がり落ちていくのです。それは、イエス様の厭われるファリサイ人や律法学者達の、偽善的な信仰そのものではないでしょうか。

 神様は、そうならないようにと、私たちにキリストの身体である教会を与え、信仰の先輩や指導者、また教師を遣わして、私たちの信仰が歪まないようにと、常に注意を払い指導して下さっています。しかし、そのような指導を受け入れずにはねのけ、思い上がり、自分の判断を優先させてしまうところに、人間の罪があるのです。私達自身を律する目は、自分の外側にこそ用意しなければなりません。私たちの身の回りの頼もしい信仰の先輩たちを良く頼り、相談し、祈り、考えながら、正しく道を選びとって、神様にお仕えしていこうではありませんか。



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