1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
既婚について言及している箇所である。
未婚の男女の婚約について言い表していると主張する人々もいるが、未婚の処女(おとめ)について触れられた後に、わざわざ未婚の話題を再度持ち出すのは文脈上おかしな話であるし、未婚の女性が、かりそめの婚約に一生縛られると考えるのも荒唐無稽である為、そのような読み方は排除してよいだろう。
語られている内容は、既婚女性の再婚についてである。これについても危急の際の話であって、緊急事態の中では現状維持に留まるのが良いと言う文脈の下で語られているのは確かである。実際、パウロの願う所は、危急の事態の中での無理な再婚によって、やもめたちが困惑しないことである為である。
勿論、未亡人は、当たり前ながら何の経験も無い乙女よりも結婚生活に慣れている為、相手がクリスチャン男性であるならば、危急の中でも問題なく、主に仕える体勢を整えられる可能性もないではない。しかし、それはあくまで可能性があるというだけの話なので、現状維持が最善であることについては、なんら変わりはないのである。
次に、パウロは再婚の是非以上に、再婚するにしても、それが主の御心であるかどうかを厳密に求めようとする。「ただし、主にある結婚に限る」という文句からそれを読み取る事が出来る。
例え、誰と結婚する自由が与えられているのだとしても、私たちはキリストによって買い取られた一人びとりなのであるから、その結婚も、主の御心であると、周囲が確信できるようなものであるべきである。その結婚が主の御心であるかどうかを判断するのは、本人ではなく周囲の敬虔な兄姉であるし、自身を律する目を周囲に置く事が大切だと言う話は、先週学んだ通りである。
主に在った結婚とは、主の御心に適う結婚の事である。だから、自身の結婚がそのように主の御心に適っているかどうかは、信頼できる周囲の兄姉に判断してもらうのが最善である。例え、全てに於いて自由が与えられて居るとしても、私たちは周囲の理解が得られる方法で、その自由を行使しなければならない(勿論、それが行き過ぎて人間を恐れるようになってもならないが)。
これは、一事が万事、クリスチャンの基本的な方針全てに適用される真理である。クリスチャンは、御霊による自由を、私欲の為に乱用してはならないし、その自由によって、自らの品位ある生活、また、ひたすらに主へ奉仕する生活を崩してはならない。もし、自由の乱用によってそのような堕落が起こるならば、そのような自由の用い方は戒められなければならないだろう。
神も、そのように私たちが堕落し、身を持ち崩して、品位ある生活を失わないように、常に気を払って、軌道を修正しようとして下さっている。
私たちの状態が、危ないものになっているならば、苦言と戒めを与える者を、御霊によって送って下さる。それは、周囲からの戒め、諫言、苦言となって私たちに対して向けられることになる。
だから私たちはそれを踏まえ、思い上がらずに周囲からの指導、及び勧告についてはよくよく耳を傾け、考えて、従う事を覚えなければならない。
神は、その御霊によってあらゆるところから私たちに、聖めの為の命令を与えられる。
その聖めを受ける為に、私たちは、自身に降りかかる多くの不快とも思われる理不尽な苦言ですら、真剣に耳を傾けなければならない。
全ての苦言、戒め、意見は、人間からではなく、その者を御霊を用いて、主から与えられたものだからである。その意識を、私たちはまず持つべきである。
コリント教会信徒の一部には、自身に御霊の賜物があると吹聴し、それ故に人間の言葉は聞き入れないと宣言している者が、一定数いたようである。
「パウロの言葉は人間のものだから従う必要はない」とは、一見信仰的な言葉に聞こえなくもないがが、実際の所は、自分の好きなように権利や自由を乱用するための口実である。
そのような人々に対しての牽制も兼ねて、パウロは自身に与えられた神のみたまについて取り出し、言及したようである。
危急の際の勧告、即ち25節から40節までのパウロのお勧めは、確かにキリストが直接言及したものではないが、それ故に、人間の言葉であると排除されてはならない。
パウロもまた、主の御霊を頂いており、その御霊を通して、神が言うように命じる事をパウロは言うのである。だから、その言葉は、神からの御言葉であると弁え、よく受け止めなければならない。神もまた、天の教会によってそれを追認し、このTコリントの手紙全体を、神の御言葉として聖書の中に入れられている。
パウロの言葉は、決して、自分勝手なエゴによる、人間からの言葉では無いのである。
〇39節
「結ばれている(ギ:デデータイ)」という言葉は強い結合を現わす言葉で、「縛っている」「強制する」といった意味合いが強い言葉である。
禁止や違法についての宣言などにも使われる言葉であり、夫が生きている限り、結婚の契約が解除されることは有り得ないという意味合いが改めて宣言されているように思える。
既に7章10節以降で触れられている通り、このように強い結合によって、人と人の結婚は神の前に結ばれているので、決してそれを人間がほどくことは出来ない。
即ち、11節に書かれている通り、主の前に離婚の宣言は認められないので、例えやむを得ず別れたとしても、互いのどちらかが死ぬまでは、独り身で居続ける必要がある。
次に、夫が死んだ後の未亡人の選択についてであるが、その選択について、「自由に(ギ:エレウセリア)」という言葉が使われている。
これは、自由、解放を意味する言葉であり、夫から解放された女性は誰と出会っても結婚する事が出来るという意味が再度宣言されている。キリスト者の自由同様、その選択を縛る掟は何もない。
しかし、そこにパウロは「主にある結婚のみ」という添え書きを行う。「のみ(ギ:モノン)」とは、「唯一の」「それだけのみ」などと言ったニュアンスの言葉であり、但し書きに用いられているこの単語は、「主の内(ギ:エン クリオ)」に掛かっている。
夫から解放された女性は再婚する事が可能であるが、「主にある」者とのみ、自由に結婚する事が出来るというのが、未亡人に対するパウロの指導の内容となる。
では、「主にある結婚」とは一体何なのであろうか。一見、平たく文だけ読むと、「相手がクリスチャン男性に限られる」と読むのが正解であるように思えるし、一番妥当にも思える。
しかし、実際の所はそうではないだろう。
「主に在る結婚」または、「主の内にあるもの」とは、要するに、主の御心に適った結婚という意味である。相手がクリスチャンか未信者あるかは関係なく、「神の御心に適っている」と判断できる結婚だけが、クリスチャン女性の再婚に認められるのである。
先週学んだ通り、それが「主の御心であるか」を判断し、それが品位ある生活を保つことが出来るかを判断するのは、自分自身ではなく兄姉達の目による。
即ち、主にある結婚とは、周囲の兄姉から認められ、祝福されるような結婚で無ければだめだと、パウロはそう言っているのである。
〇40節
「幸い(ギ:マカリオス)」は極限まで幸せな状態、至高といった意味合いのある単語であり、パウロは、主に在って結婚する女性よりも、更に良い状態を最後に提示する。
「そのまま(ギ:ウートス)」「留まる(ギ:メノウ)」はそのままの意味であるが、現状維持に努める女性は、結婚して状況を変更する女性よりも、これ以上ないぐらいに幸せになる事が出来る、とパウロは教えているようである。
主に在って、心に患いごと、心配ごとが無い状態で過ごす事が出来る時間は確かに至高である。それが、危急の時代で、世の中全体が慌てふためているような状態で手に入るならば尚の事であろう。
40節後半部分について、パウロがどこを括って、「これは私の意見ですが」(新改訳2017)と言っているかが非常にわかりづらい。どのようにとっても、文脈的に大差がないことは幸いである。
「判断(ギ:グノウメン)」は、対角女性系単数で書かれている単語であることから、恐らく直前の女性系で変化している「留まる(ギ:メイネ)」に掛かって描写されていると考えられる。
25節以下の、危急の際の全ての勧告に対して言っているとも考える事ができるが、それならば多分複数形及び中性、若しくは男性形で書かれているだろうから、40節内で完結していると考えて読んだ方が安全そうである。これは「私の意見ですが、もし、彼女が現状に留まる事が可能ならば、更に至高と言えることでしょう」と訳すのが妥当に思われる。
新改訳2017では、後の文と一つにしているが、多分これは途中で切るのが正解だと思われる。
「私も神の御霊を頂いていると思います」という最後の一文については、パウロの勧告を「人間からのものである」と退けようとする、一部の勢力に対するけん制の意味があると考えられる。
私「も」御霊を頂いていると思います(考えます)と、わざわざ言うからには、コリント教会の思い上がって「王様」になっている一部の信徒の中に、「私たちには御霊がある。パウロのような、神でもない、人間の言葉など聞く必要がない」などと、吹聴する人間がいただろうことは、パウロの態度を見ても想像に難くない。
この箇所で一連の話が終わるので、これらの言葉は25節からの「主の命令を受けてはいませんが」に付随して行われている宣言であると受け取るべきであるように見える。
当時、コリント教会の中では、自身が主の御霊によって預言者のごとく人に教えていた人が一定数居り、そのような人々が派閥争いを起こしていたことは容易に想像できる。
しかし、前述の通り、コリント信徒達へ苦言し、諫言し、奨励するパウロの言葉は、パウロの人間的な部分から出た者ではなく、神の御霊から出た、御霊による命令である。
パウロの意見が、全て主の御霊に導かれている事は、後にこの手紙が新約聖書の「神の言葉」の中に入れられ、天の教会から追認を受けたことからも明らかである。
だからこそ、安易に自分達に向けられた、主に在る戒めや諫める言葉を、私たちは安易に退けてはならないし、その戒めによって、私達を元の道に引き戻し、共に活き活きと歩みたいと願って下さっている主を、無碍にしてはならないのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇未亡人について
39a 妻なる人は、生きている間、彼女の夫に結び合わされています。
39b もし夫が死んだならば、主の内にある人に限って、彼女は誰とでも自由に結婚することができます。
〇更なる祝福
40a (しかし、)私の判断によるならば、彼女が、もしそのままの状態にとどまるならば、更に祝福されるでしょう。
40b 私もまた、神の御霊を頂いていると考えています。
着情報3.メッセージ
『御霊による命令』
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章39〜40節
中心聖句:『私も神の御霊をいただいていると思います。』(Tコリント人への手紙7章40節)
2023年5月14日(日) 母の日礼拝説教完全原稿
※詳しい聖書の解説を、ホームページに掲載しています。どうぞご覧ください。
7章最後になりました。危急の際に関するパウロの奨励も、今日の箇所で一区切りとなります。母の日とは関係ないかもしれませんが、7章最後の奨励は、既婚女性と、配偶者と死別した女性に対して向けられたものになっています。それに加えてこの箇所には、クリスチャンの生活全体に関わる大きな指針が秘められているので、今日はそのことを学びたいと思います。
今日の箇所の話題には、離婚した女性は登場しません。理由は、人間的な手続きの離婚が神様の前に受理されないからです。これは既に7章10節以降で取り扱われています。主の前に誓いを立てて結んだ結婚の関係は、配偶者の死以外によっては解かれる事がありません。これはイエス様が、私たちに語られた基本的な真理です(マタイ5章31-32節、マルコ10章4-9節)。ですから、例え止むを得ず離婚するしかなかったとしても、その後、互いのどちらかが死ぬまでは、再婚せず、主に誓った契約に従って、一人で生活するべきであります(7章11節)。
しかし、配偶者と死別したならば、その人は自由になります。その場合は、パウロも教える通り、誰とでも自由に結婚できるのですが、それは「主にある結婚」に限られます。これは、結婚相手はクリスチャン限定であるといった話ではなく、その結婚が「主の導きである」と、周囲の兄姉に支持されているかどうかという話です。主に在る結婚とは、神様の御心に適った結婚であるということなのですから、その判定は、先週学んだ通り、自分ではなく、周囲の目によって行って貰うべきことです。だから、「誰と結婚しようが私の勝手だろう。他人は関係ない」と言って、周囲の戒めを無視し、強引に結婚を進めるのは、クリスチャンのとるべき態度ではありません。取りやめるにせよ、理解を求めるにせよ、戒められたならば、一端立ち止まって良く考える時間を持つのが、クリスチャンとしての正しい姿勢ではないでしょうか。
これは結婚に限らず、一事が万事、私たちの行い全てに適用できる考え方です。私たちは、神様の御霊によって自由が与えられて居るので、罪を犯さない限りは、自由に振舞って良いのですが、だからと言って、何をしても良いという訳ではありません。世の中には、良くも悪くも無い、「どちらでもない事(ギ:アディアフォラ)」が沢山あります。漫画やゲーム、動画サイトなど、娯楽の多くはそれに含まれます。「別に犯罪でもないし、人に迷惑もかけてないし、私が何をしてたって関係ないじゃん」とは、年齢問わず良く聞く、戒めや指導への反論だと思います。しかし、私たちの自由は、自分の欲を満たす為ではなく、神様の御心に適った目的の為に使われるべきです。例え罪ではなく、合法であったとしても、自由の乱用によって品位ある生活が崩れてしまうならば、私たちは神様の御心から外れた生き方をしているのです。神様は、そうならないように善意によって、周囲の兄姉や、指導者、何よりお母さんやお父さんに与えた聖霊なる神様の御霊を通して、私たちを戒め、指導し、元の道に戻してくださるのです。
しかし、私たちは、そのように戒められたり、指導されたりするとき、それを「神様からの命令じゃないから」また、「人間の言うことだから」と言って、はねのけ、神様からの御霊を通した命令に逆らってしまいます。ここに人間の罪があるのです。私たちに与えられる、他の兄姉からの戒めや指導は、神様から与えられている、御霊の命令であると謙遜に受け止めて、己を正す為に用いるべきです。神様は、常に私たちが右にもそれず、左にも曲がらず、真っすぐ進むことを喜んでくださっています。神様の前に遜って、真っすぐお仕えしましょう。
前ページ
次ページ