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牧師の説教ノート(5月21日分)
聖書箇所:ルカの福音書11章1〜4節

1.時代背景、舞台、文脈背景

1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
 ルカの福音書の主の祈りについての箇所である。本来ならば、伝道説教の箇所では、研究ノートを公開することをしないが、今回は主の祈りについてのことなので、特別に研究資料を公開する。

 この聖書の箇所に出てくる「主の祈り」は、マタイの福音書6章6〜13節の内容を簡略化したものであるように見える。
 ある神学者グループは、主の祈りについてイエスが教えたのは一度のみであり、このルカの福音書の中に出てくる主の祈りこそ、完全なる原型であって、マタイの福音書の主の祈りは後に装飾されたものであると考えているようである。しかし、主の祈りは、イエスの教えの基幹に関わるものであり、恐らく幾度も弟子達に繰り返し重ねて教えたものであろうと考えられるから、イエスが普段から教えている祈りを、用途に合わせ意図的に一部を抜粋して教えたものであるとして読んだ方が妥当であるように思える。

 それ故、マタイの主の祈りが完全なものであると仮定し、ここでイエスの教えている主の祈りは、弟子達にある特定の真理を悟らせる為、意図的に他の部分を省略しているという前提のもとで、研究を行うこととする。


 当時、弟子達も「ヨハネが教えた通り」と言っているように、ある有名な教師が、自身の学徒にむけて祈りを教える事は、一般的に行われている事であった。このような祈りの、ある種の式分のようなものを用いて祈る時、自身がその教師の弟子である事を、周囲に対して誇示する事が出来たのである。

 イエスの弟子達も、いわば、弟子としての「箔」をつけるために、祈りの式分、あるいはそれらを用いた全般的な運用を求めて、イエスに質問したのだろう。

 それに対してイエスは祈りを教えたのであるが、その教えた祈祷文は、敢えて一部が省略されたものであった。このことを通して、イエスは弟子達に「聞く耳のあるものは聞くように」と語っているように思える。

 イエスの教えた「簡略した主の祈り」は、以下の内容で構成されている。

 ・神の御名が聖なるものとされ、その支配が行き届く事を願うもの。
 ・日ごとの糧を求め。
 ・自身の罪の赦しの求め
 ・試みからの逃れの求め

 罪の赦しの求めでは、罪を犯すときに。自分も、自分に「負い目」のあるものを赦すことを、堅く宣言する。これは、自身への罪の赦しとの交換条件ではない。

 これらの一連の祈りを総括し、共通点を探すとき、私たちは、自分自身が「持っていると思っているもの」が、「実はもっていないもの」であることに気づかされる。

 日ごとの糧は、私たちの食べるものであり、余程貧しい人でもない限りは、今日食べる宛ては、きっと誰にでもあることだろう。現代の飽食の時代ならばなおさらである。しかし、それを食べて楽しむことを許し続けてくださるのは神御自身である。もし、それが許され無くなれば、私たちは病気や災害、その他、死などによって、それらは全て取り上げられる事になる。私たちは、何かを所有しているかもしれないが、それらは全て神からの借り物であって、本質的には何も持っていない事を思わされる。

 罪の赦しの祈りの中で、私たちは、神の前に誇る事の出来る「貸し」など、自分が何も持っていない事に気づくよう示される。
 私たちは、自分自身の負い目よりも、人に対しての「貸し」の方が多いと考えるので、傲慢になることができる。しかし、私たちの罪の負債は、そんな「貸し」とは比べ物にならないぐらい大きいものである。
 私たちがどれだけの大きな負債を神から赦されているかを考えれば、少なくとも神の前で自身が他人にもっている貸しを誇る事など出来ないであろう。
 だからこそ、私たちがそれを忘れ、神の前に傲慢に振舞うことのないように、私たちも自分の持っている「貸し」を忘れ、手放すことを、祈りの中で約束するのである。

 試みから逃れることを願う祈りの中で、私たちは、自分自身が誘惑に対し、何の力も持っていない事を気づかされる。
 私たちは、様々な誘惑を自分の精神力で跳ねのけることが出来ると信じている。何故なら、実際に誘惑らしきものに打ち勝った経験は、人間であるならばいくつかは持っている筈だからである。
 しかし、私たちが心得なければならない事は、「耐える事の出来る誘惑は、誘惑ではない」という事実である。金の誘惑に転ばない人は、金に興味がないからであり、食欲の誘惑を自制出来る人は、食が急所ではないからである。
 それまで完璧に自制しきって、自分の人生をくみ上げてきた人間が、ある日、女に転んで一瞬で人生を台無しにする事がある。
 人によって急所は異なる。その急所を的確についてくるのが「誘惑」であり「試み」であるのだから、私たちはやはりその時には耐えられないということを知らなければならない。

 イエスは、誘惑に耐えうるようにではなく、誘惑に遭遇しないように祈れと弟子達に教えられた。また、マタイの方では、誘惑に敗北する前提で、陥った悪から私たちを救いだしてくださるように祈れとも教えている。

 私たちの手の内には徹頭徹尾何もない。それを私たちはまず自覚しなければならない。
 しかし、神は真実で正しい方であり、私たちを愛してくださっているから、私たちが自分の手の中に何もない事を認めるならば、その手の中に、罪の赦し、永遠の命、新しい身体、神の子としての身分を置いて、あらゆる天の富を持たせて下さるのである。

 私たちの両手は、本質的に空手であるが、私たちはそれを恐れる必要は何もない。神の支配をただ求めれば、全てのものは添えて与えられるのである。

 
〇1節
 弟子達の一人(十二弟子かどうかは判らないが)が、イエスに対して、「主よ(ギ:キリエ)」と呼びかけて、祈りを教えてくれるように頼んでいる。一般的に教師を指す「ラビ」ではなく、「キリエ」と呼んでいるのは特徴的である。
 おそらくは、イエスを「主」と呼ぶ信仰を持っている者(恐らくはペテロ)が、質問したのかもしれないが、それについては明かされていない。

 ここで、バプテスマのヨハネが出てくる。バプテスマのヨハネは、教師として、弟子達に祈り方の指導をしていたようである。
 バプテスマのヨハネの弟子と、イエスの弟子は時折反目しあうようなこともあったようであるから、十二弟子達も、対抗して、イエスに祈りを教えて欲しいと考えるのも当然であったかもしれない。

 しかし、その祈りを求める動機は、純粋に祈り方を知りたいという敬虔なものではなく、ヨハネの弟子達に勝ちたいという私欲のものであった。これについてイエスは弟子達に思う所があり、変則的に抜粋した主の祈りを改めて教えたのだと考えられる。


〇2節
 「あなた方は祈りなさい(ギ:プロセウケッセ)」は、現在形、不定、中動相で書かれている動詞であり、「いつでもあなた方はこう祈るとよい」といった意味合いで教えられた祈りである。ここで言われている「あなた方」は二人称複数ではあるが、山上の説教の時のように不特定多数の人々に普遍的に語ったものではなく、その場で祈りを求めた弟子達に対して語ったものだと考えられる。
 マタイ6章9節における、主の祈りが、イエスが「こう祈りなさい」と命令系でお命じになられたのとは違い、こう祈ると良い、という奨励の形であることにも、注目しなければならない。

 「父(ギ:パテール)」は、アラム語の「アッバ」に相当する、父を親しく呼ぶときに用いる言葉である。主の祈りと同じように、イエスは私たちにも、万物をつかさどるイスラエルの神である「主」を、自らの父と呼ぶことをお許しになられた。
 それは、キリスト信じる者が、福音の約束として神の子としての身分を頂くが故である。まだその約束は果たされていないが、私たちは確かに「主なる神」の子どもとして認定されており、私たちはいつでも、主に「父よ」と呼びかける事が出来る。

 「天国(ギ:ウーラノイス)」は、天国を指す名詞の一つである。所謂、神の国を表す為の単語である。これと前項を合わせて、「天国に居られます、私たちの父よ」という祈りになる。

 「聖なるもの(ギ:ハギアステオ)」は、聖なるものとして扱う、そのように取り扱うという単語であり、アオリスト、命令形、受動相、三人称単数で書かれている。「神の御名を聖なるものとして取り扱えと全ての人が命令されますように」という訳し方が原文に近いのではないかと思われる。
 神がそう命じられるのは、その支配下にはいっている者に対してのみであり、この祈りは一つ前の「み国が来ますように」という祈りと連動するものだと思われる。

 「王国(ギ:バシレイア)」という言葉が用いられ、「あなたの王国が到来しますように」という祈りが与えられてる。

 「みこころ(ギ:ジェネセトゥ)」という言葉が現れ、貴方の御心が天の中にあるように、地の上にもまた起こりますようにとなる。

総括すると次のようになる。

「天に居られる私たちの父よ。その御名を聖なるものとして扱えと、全ての人が命令されるようになりますように。貴方の王国が到来しますように。みこころが天の内にあるように、地の上にも起こりますように」


〇3節
 「糧(ギ:アートン)」は、パン、食料などに訳される言葉である。「日ごと(ギ:エピオウスィオン)」と、合わせて、「日ごとのパンを、今日も私たちにそれぞれお与え下さいとなる。」

 この祈りについては、様々に見解がある。例えば、自分の食料の有無にかかわらず、「全ての兄姉が日ごとのパンに預かれるように」というクリスチャン全体に対しての祈りであるという考え方である。おそらくこの考え方は、「私たち(ギ:ヘミン)」というギリシャ語が用いられている事からも正しいだろう。

 しかし、この箇所に限っては、その解釈よりも、もう一つの意味の方を提案したい。それは、「私たちが持っていると思っている糧(パン)は、主に許されているから食られるものである」という考え方である。

 私たちは自分自身の財産を色々ともっているが、それは主によって、所有し、用いる事が許されているが故に、私たちの手の中にあるのであって、本質的には主からの借り物である。それ故、私たちは、自分自身の財産について、いつでも好きに楽しむことが出来るわけではない。
 もし、どれだけの備蓄が目の前にあろうが、主が「与えない」と言われれば、私たちはすぐさま、病気、災害、死などによって、備蓄を失ったり、備蓄を食べる為の手段を失ったりすることになるのである。この考え方は、同福音書でも、直ぐ後にイエスによって譬え話として語られる(ルカ12章16-21節)。

 それ故に、私たちは、毎日主から頂いたパンを食べ、楽しむことが出来るように、今日も主が日々の糧を得る事を許し続けて下さるように、真剣に祈らなければならない。そうでなければ、私たちは、今すぐにでも、自らの持っている「糧」を失うことにもなるからである。


〇4節
 前置詞「ギ:カイ」で、前の糧の祈りに接続されている。この罪の赦しは、日々の糧を求める祈りと連動した祈りである。
 「許す(ギ:アペス)」は、手放す、赦す、解放するといった意味合いのある単語であり、罪から私たちを解放してください、私たちの罪を赦して下さい、といった文面に訳す事が出来る。

 「負い目(ギ:インデブテッド)」は、借りがあるという単語であり、自身に対する誰かの負債を表す言葉である。私たちは、生きている限り、他人に対しての「貸し」は、必ず作る事になるだろう。それによって、私たちは自分自身が立派な人間であると確信を持つことができるからである。しかし、それはこの世的な考え方である。私たちが受けた、神からの負債にくらべれば、自身が他人に対して持っている「貸し」の如何に微々たることであろうか。
 それを忘れるから、私たちは神の前であっても傲慢に振舞い、気が大きくなるのである。その事を努々忘れないようにする為にも、私たちは主の祈りの中で、そのような自分が手に持つ微々たる人への「貸し」を放棄しなければならない。

 「誘惑(ギ:ペイラスモン)」は、私たちを罪に誘う誘惑そのものであり、それは時に人であったり、状況であったりする。これらの誘惑に共通することは、必ず私たちの「急所」を的確についてくると言うことである。「誘惑」は、私たちの耐えうるものについては誘ってはこない。私たちが耐えられる「興味のないもの」は誘惑たりえない。

 私たちは、そこを突かれれば必ず身を持ち崩してしまう急所が必ず一つはある。それは、♀であったり、酒であったり、賭け事であったり、また何かの趣味であったりする。私たちの理性を奪う「急所」は、私たちに致命的な影響を与える。それ故に、私たちは「誘惑」に打ち勝つことが出来ない。それも、1,2度ではなく、何度でも、である。

 それ故に、イエスは弟子達に誘惑に遭遇しないように祈れと教えた。ここでは悪からの救出の祈りについては教えていないが、誘惑に遭遇すれば私たちは必ず敗北して、悪に囚われ、陥ってしまうのであるから、そこからの救出すらも、先に祈り、求めていくのも重要なことなのである。

 総括して、私たちは、自身の所有物となる「糧」も、他人から回収する権利のある「貸し」も、誘惑に打ち勝つ「心の強さ」すらも、自身の掌には何も持ち合わせていないのである。

 もし、その事に気づき、十分に弁える事が出来るならば、私たちは自身が何も持たない空手であったとしても、主に頼り、導かれて、常に先へ進むという、「神の国の価値観」が手に入れられる筈である。


2.詳細なアウトライン着情報

〇主の祈りの教え
1a さて、イエスはある場所で祈っておられた。
1b 祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。
1c 「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい。」
2a そこでイエスは彼らに言われた。
2b 「祈る時には、こういいなさい。
2c 『父よ、御名が聖なるものとされますように。
2d  御国が来ますように。
3   私たちの日ごとの糧を、毎日お与え下さい。
4a  私たちの罪をお許しください。
4b  私たちも私たちに負い目のある者をみな許します。
4e  私達を試みにあわせないでください。』」

着情報3.メッセージ

『空の手を見る』
聖書箇所:ルカの福音書11章1〜4節
中心聖句:『そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。』(ルカの福音書11章2節)
 2023年5月21日(日)主日伝道礼拝説教完全原稿
 ※詳しい聖書の解説を、ホームページに掲載しています。どうぞご覧ください。

 本日は、伝道礼拝です。家族や友人に誘われて教会にこられた方の中には、初めて「主の祈り」を聞く方もいるのではないでしょうか。この「主の祈り」は、教会の中で最も大切にされている祈祷文で、古来より全てのクリスチャンが、この主の祈りによって祈祷を捧げてきました。この祈りの中には、それほどまでに大切な、信仰の根幹となる教えが内包されています。

 この祈りは、「神様への賛美」、「日ごとの糧を求める祈り」、「罪の赦しを求める祈り」、「誘惑から逃れるための祈り」という、心と体の両方の必要をシンプルに求める内容で無駄なく構成されています。祈るのに長い時間を必要としない、素晴らしい祈祷文です。しかし、この短くシンプルな祈りの中にこそ、本当に大切な教えが込められています。私たちは、この主の祈りを通して、「神様の前に、私たちは何も持っていないこと」を学ばなければなりません。

 例えば、「私たちに、日ごとの糧を今日も与えて下さい」と祈りますが、実際に今日の食事にすら困る人は希です。だから、私たちは大抵、「既に食料は持っている」と思いながら、この祈りを行うのです。しかしその食料は、本当にいつでも自由に食べられて当たり前のものでしょうか(伝道者の書5章10-12節、ルカ12章20-21節)。もし神様がそれをお許しにならなければ、私たちは病気で点滴の生活を送ったり、火事で全てを失ったり、時には死んだりもして、食料を食べる機会をあっという間に失ってしまいます。私たちは、多くを所有しているようにみえて、本質的には何も持ちあわせていないのです。だからこそ謙遜に、手にした物で楽しむことを、今日も神様が許し続けて下さるように、真剣に祈り求める必要があるのです。

 また、私たちは罪を犯して生き続けていますから、その赦しを神様に求めて祈ります。神様は、一方的な愛と善意によって、私たちの罪の罰の身代わりに、独り子であるイエス様を十字架にかけ、私たちが、罪を認め、悔い改めて、御子を信じるならば、全ての罪が赦されるようにして下さいました。この時、神様に赦して頂いた罪の負債は、計り知れません。それに比べ、他の人が私たちに持つ「負債」のなんと軽いことでしょうか。少なくとも神様の前で、それを誇ることは出来ないはずです。だから私たちは、他の人の自分への負債を赦し、祈るのです。

 心の強さについてもそうです。私たちは、人生の中で出会う誘惑を、自らの精神力で跳ね返せると信じています。だから、失敗した時には、誘惑に抗えなかった自分を責めてしまいます。しかし、イエス様は、「誘惑に抗えるように祈れ」とは教えられませんでした。むしろ、「負けてしまうから出会わないように祈れ」と教え、それどころか、「誘惑に負けることを前提に、陥った後に、悪から救い出して下さるように祈れ」とまで教えられました。私たちは、それほどまでに弱い存在です。そのような最低限の強さすらも、実は持ち合わせてはいないのです。

 この様に、私たちは、主の祈りを通して、自らの手の内が空であることを悟ります。しかし、神様は、私たちのことを愛し、その手の中に、「罪の赦し」や「新しい身体」、「永遠の命」、そして「神の子としての身分」という素晴らしい贈り物を与えて下さいます。そして、神様と共に生きる、活き活きとした新しい人生の中へと、招いて下さるのです。この世界をお創りになられた神様は、私たちの心と体に必要なものを、いつも与えてくださいます。だから、自身の手に何もない事を恐れず、神様と共に歩む新しい人生へ、踏み出そうではありませんか。



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