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牧師の説教ノート(7月17日分)
聖書箇所:マルコの福音書16章1〜8節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 今回は伝道礼拝だが、連続講解の一環の中で語るので研究資料を載せる。
 イエスの埋葬が完全でなかった事について、何かをしたいと有志の女性達が立って墓へ向かうシーンである。
 彼女達はイエスに対して確かな信仰を持っていたが、この行動については、復活に基づく新しい信仰による行動を指し示すものではない。彼女達は、人間イエスに対しての敬愛のみで行動していた。
 その証拠に、御使いによるイエスの復活を聞いた際に、彼女達は動転した。彼女達もまた、復活の事について悟る為に必要な、証し主である聖霊をまだ受けて居なかったからである。

 しかし、彼女達が確かに見て、聞いたことは、墓へイエスが葬られた事の目撃証言と合わせて、キリスト復活の確かな証拠として後の世に伝えられた。 何故なら彼女達は、イエスの復活の事について、その神学的な出来事の意味と理由を予想するどころか理解すら出来ておらず(厳密には復活したという事実だけは理解して喜んでいたようだが)、それを聞いて恐れ、逃げ出したからである。その行動そのものが、後にキリストの復活を宣べ伝えるために創作されたプロバガンダ的な証言でない事をはっきりさせているのである。
 本文最後のガル(唐突に終わる本文)の問題については、次週の、所謂「長い補遺」の際に言及する事とする。


〇女性達
 マルコは、イエスの十字架から復活までの証人として、15章40節、47節、16章1節で三人の女性を挙げている。
 一人はマグダラのマリア、そしてヨセの母マリア、サロメの三人の女性である。
 ヨハネ福音書では、イエスの母とその姉妹なども追記されている。
 (クロパの母マリアは、おそらくヨセの母マリアと同一人物であろう)
 おそらくは、名前が挙げられているのは代表的な物であって、実際にはもう少し多くの女性達が居たのであろう。
 墓の葬りの時の女性のリスト(47節)からはサロメが除外されているが、概ね三人は友に行動していた。
 もしかしたらサロメは47節時点では、イエスに塗る為の香料を買い付けに行っていたのかもしれない。
 何にせよ、イエスの十字架の死から葬り、そして復活までの一連の出来事を目撃したのはこの女性達であった。
 弟子達はその証人として立てられる事は無かった。彼らは逃げ出していたからである。
 (ヨハネの福音書に於いては、ヨハネだけはその場に同席していたようであるが(ヨハネ19章26節)、マルコはその記述を除外している)


〇石
 墓の前にある石をどのように動かそうかと女性達が相談していたのは注目に値する事である。
 彼女達は、イエスが復活するという事柄について全く気を払っていなかったのであり、またそのことについての希望も持っていない事の証拠だからである。
 墓の前に石が転がされる理由はいくつかあるが、その大きな役割は、密閉性の確保と、盗難の防止の二つに分けられる。
 イスラエルは砂漠の国であるので、その遺体が腐敗するのも早かった。
 三〜四日も立てば臭いが酷くなるという言及、また防臭の為の密閉の為に石が置かれている件についての言及は、他の福音書で記載されている(ヨハネ11章39節)。

 もう一つは墓泥棒を防止する為に行われた事である。
 祭司長達、イスラエル指導者は、イエスの遺体を盗まれる事を恐れたが(マタイ28章13-15節)、墓泥棒は当時珍しいことではなかった。
 発掘調査によっても、当時の墓に墓泥棒への呪いの言葉がいくつも書かれたものが発見されている。
 それ故、そのような墓泥棒が墓の中に入れないように、大きな岩でふたをすることは重要な事であった。
 主に、その墓の蓋は円盤のような丸い形状のものが用いられ、墓の前にくぼみを作り、転がり落とすような形で封鎖が行われる。
 岩が坂を下るように封鎖される為、蓋をする時よりも、それを開封する時の方が何倍も労力を要する。
 (坂を下に転がす労力よりも、持ち上げる方に力を要する為)
 特に、イエスの遺体はその身柄の重要性から、アリマタヤのヨセフは特に東南を恐れたのだろう。
 当時、イスラエル式の墓を見慣れた人々からしても、「非常に大きかった」と強調されるほど、大きな岩で蓋をされていた(4節)。
 当然、その重量は数百キロクラスであり、細腕の女性三人で動かす事の出来る重さではない。
 彼女達に石を動かす術は無かったが、おそらく主がどうにかして下さると期待して出かけて行ったのだろう。
 そのような神に依り頼む彼女達にとって、石は既に転がされ、そして主の復活が告げられるという望外の事が起こった。
 マタイでは彼女達の目の前でそれが転がったかのような記述があるが(マタイ28章2節)、恐らくは岩が転がったのはイエスが出てくるのと同時であり、女性達が到着した頃には既に転がっていた。
 神の御業は、人間が心配している事などを軽く通り越して、予想だにしなかった次のステージへ私達を引き上げる。 伸び悩む宣教について悩み、危機感を覚えていた教会が、コロナ禍によって全く良そうだにしなかった新たなる問題のステージへ引き上げられ、その信仰を問われているように、私達の目の前の問題は、神にとっては問題とすらならないのである。
 神は、私達の悩みを取り除けられるが、その上で、新たな問題を訴求される。
 私達は常に、神の実手の業を信仰を持って見つめ、それに驚かず、真摯に対応しなければならない。


〇青年
 5節から登場する青年(ギ:ネアニスコス)は、若い男、若者、付き人といった意味のある言葉であり、御使い(ギ:アンゲロス)の意味合いはない。
 マルコは、この青年が何者であり、何に依るかは敢えて描写せず、読者の信仰の目によって理解することを求めている。
 その様子は、岩が転がされた(ギ:アポケクリアタイ)という受動態のギリシャ語単語にも表されている。
 岩は「何者かによって」転がされており、その墓の中には「故の判らぬ」光輝く青年が座っていた。
 この人が何者であるかは、信仰のある人だけがその目をもって確認することが出来るものである。
 信仰者は、皆彼を御使いであると見るが、それは妥当な判断である。
 彼が齎したメッセージは、明らかにこの物語の核心であり、福音書全体を理解する為に必要な事だからである。

 いずれにせよ、彼が告げた事は、イエスが復活した事、現在はこの墓が空になり無用になった事、そしてイエスがガリラヤで弟子達にお会いになられると言う手短なものであった。


〇弟子達とペテロに
 青年は自らのメッセージのあて名を、三人の女性ではなく、弟子とペテロへ当てて伝言を託した。
 マルコは、他の福音書では言及されている弟子達への赦しやイエスの言葉を一切記録していないが、このあて名によって、イエスを裏切り逃げ出した弟子達はペテロを、主イエスが赦されている事を表している。
 何故ならば、赦されていない者に対して復活の主イエスがお会いになる事など起こりうるはずは無く、また復活のイエスが証の為に現れたのは、全てイエスを信じる弟子達の前のみであったからである。


〇ガリラヤに行く
 この予告については、既に14章28節でイエスが、弟子達に対して予告していたことであった。
 最早エルサレムで為すべき事は全て終わり、イエスはこのエルサレムを立ち去り、ガリラヤに戻られるからである。
 それは、最早十字架を含め、神の都エルサレムでのイエスの働きは、その一切が完了した事の証左でもある。
 先の宛名の話と合わせ、この短い伝言の中には、失敗した弟子達への赦しと回復の約束、新たな招きと再出発の豊かな主の憐みが込められている。
 例え裏切り、逃げ出し、失敗をしても、主は弟子達を何度でも招かれる。
 その招きに応答し、悔い改めて、その招きに応じて集まるところに、主は常に再出発の為の道を備えて下さるのである。
 指定の場所がガリラヤであるという事については、弟子達とイエスの出身地であると言う事以外に特に深い意味は無いと考えられる。
 しいて言うならば、始まりの場所に再び招集することにより、新しく始めるという意味合いが協調されているのであろう。


〇気が動転していた
 女性達にとって、「青年」によって齎された告知は、余りにも偉大であり、唐突過ぎた。
 彼女達は気が動転して、期待されている反応を行う事は出来なかった。
 物語としてはお粗末な対応であるが、それ故にそれが物語で無い事を裏付けているともいえる。
 動転していた(ギ:トロモス・カイ・エクスタシイズ)は、直訳すると、「震え、そして驚いていた」という意味になる。
 特に、後半のエクスタシイズ(驚いた)には、我を忘れる、恍惚といった、積極的なニュアンスもある単語であり、女性達の反応が全て、ただの恐怖やネガティブに反応ばかりで無かったことを指し示している。
 しかし、それと同時に、女性達は自分達が見た物を恐れた(ギ:エポボウント、言語はフォボス(恐怖)派生のフォベオマイ)。これは純粋に恐怖を指し示すもので、彼女達は聞いたことを喜び嬉しく思いながらも、恐怖によって震えたのである。恐怖が勝る畏敬の念に満たされたと考えるのが、ニュアンスとしては妥当に思える。

 では、彼女達は我を忘れる程恍惚の状態にあったと言うのに、一体何を恐れたのだろうか。
 その点については、もう少し考察と推察を行う事は出来る。
 おそらく、彼女達は自分達が遭遇した出来事と、託された言葉そのものについては、震えて喜んだのだろう。
 彼女達が恐れたのは何か、それは語る事によって起こる、他の弟子達からの拒絶と否定であった。
 皆が、イエスの死に落胆している時にそれを話せばどのような反応が起こるかについては、11-12節に書かれている通りである。
 彼女達は恐らく、隣の人に伝えるこの世的な恐ろしさに囚われたのである。
 しかし、結果的に彼女達は全てを弟子達に伝えている (10節)。
 一時は恐怖に満たされて黙り込もうとしても、最早、福音を告げ知らせる良い知らせを、人間は抑え込む事ができない。
 全ては明るみに出され、告知され、それを信じる人々によって、イエスの復活の報せは世界中に響くのである。


〇唐突な終わり
 詳しい議論については次週に研究を行うが、マルコ福音書の本来の本文はこのところで終わっている。
 この事については様々な議論がなされてきたが、私達は「福音書が終わっていない」事を厳粛に受け止める事であろう。
 福音書は結論を書かず、その後に語られるべき事を読者の思考と考察に委ねている。
 女性達は恐れて、誰にもこの事を話す事は出来なかったが、読者はこの起こった出来事を信仰の目をもって洞察することが出来るのである。
 そして、このような手法を用いた文脈から、マルコの福音書が最も読者に対して期待する応答が見いだされる。
 それは「待望」であり、読者がこの福音書から見出した希望を信じ、それぞれがガリラヤに行かれた主と出会い、信仰によってその再臨を待ち望む事を期待しているのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇マグダラのマリア達、イエスの墓へ行く
1a さて、安息日が終わった。
1b マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメはイエスに油を塗りに行こうと思った。
1c その為に(三人は)香料を(あらかじめ)買っ(てい)た。
2  そして(香料を購入した後)、週の初めの日(日曜日)の早朝、日が昇った頃に墓に行った。
3a 彼女達は、話し合っていた。
3b 内容:だれが墓の入り口から、(私達が香油を塗る為に、あのような大きくて重い)石を転がしてくれるでしょうか。

〇墓が空になっている。
4a ところが、(墓についてみてから墓の方に)目を上げると、その石が転がされるのが見えた。
4b その石は(勝手に転がることが出来ない程に)非常に大きなものだった。
5a (三人が)墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、(墓の中の)右側に座っているのが見えた。
5b 彼女達(三人)は、(その青年を見て)非常に驚いた。

〇イエスの復活が告げられる
6a 青年は(彼女達に)言った。
6b 内容1:驚くことはありません。
6c 内容2:あなた方は、十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのでしょう?
6d 内容3:あの方は(既に)よみがえられました。
6e 内容4:(よみがえられたので、既に)ここにはおられません。
6f 内容5:御覧なさい。(私の今座っている空っぽの)ここが、あの方の納められていた場所です。
7a 内容6:さあ行って、弟子達とペテロに伝えなさい。
7b 内容7:「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われた通り(14章28節)、そこでお会いできます」と。

〇三人の女達、逃げ出す。
8a 彼女達(三人)は墓を出て、そこから逃げ去った。
8b 震えあがって、気も動転していたからである。
8c そしてだれにも何も言わなかった。
8d (何故なら)恐ろしかったからである。

着情報3.メッセージ

『望外の御業』
聖書箇所:マルコによる福音書16章1〜8節
中心聖句:『あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。』(マルコによる福音書16章6節)
 2022年7月17日(日) 主日伝道礼拝説教

 安息日の為にイエス様を丁寧に葬る事の出来なかった女性達は、週明けに埋葬を整える為、墓へと向かいました。彼女達は、墓の蓋が動かせない事で悩んでいましたが、その悩みは直ぐに解消され、全く予想もつかなかった新しい報せが与えられることになります。

 十字架に掛かられたイエス様の遺体を引き受けたアリマタヤのヨセフは、イエス様を岩の墓へと葬りました。当時は盗難防止と、臭い対策の為、岩をくりぬいた墓に香料を塗って亜麻布を巻いた遺体を安置し、丸い円盤状の岩を、墓の入り口に掘ったくぼみ目掛けて転げ落とす事で埋葬が完了していました。しかし、安息日直前で時間が無く、イエス様の遺体は亜麻布を巻く事しか出来なかったのです。そこで女性達は、イエス様を丁寧に葬り直す為に墓へ向かったのですが、墓の入り口は、とても大きな岩の蓋によって塞がれていました。この蓋は盗難防止にくぼみの中へ転げ落としているので、大の男でも持ち上げる事は出来ません。しかし、彼女達が実際に墓に行くと、もう墓の蓋は、神様の手によって開いていたのでした。

 計らずも神様の御業によって悩みの解決された彼女達でしたが、もっと恐ろしい事が起こります。それは、天からの御使いによって齎された、「イエス様が復活され、ガリラヤでお会いになられると、ペテロや弟子達に伝えなさい」と言う、厳かな命令が与えられた事でした。彼女達は、動転していた(ギ:トロモス・カイ・エクスタシイズ、直訳:恐怖し、そして喜びに震えた)という言葉の通り、その報せに喜びながらも、ペテロや弟子達に知らせる事を恐れました。何故なら、この報せは到底信じがたい話で、「気がくるって戯言を言っている」と笑われたり、怒った仲間に追い出されるかも知れない内容だったからです。同じように、私達も人生の中で、寂しいとか不安だとかの多くの問題に悩まされますが、このような問題は、教会の門を叩く時、墓の蓋のように、神様に実手の業によって全く解決されます。しかし、それと同時に神様は、罪の性質や悔い改め、永遠の命の約束など、耳新しい恵みの報せを私達に聞かせ、それを信じ、向き合うように求められるのです。神様の御手の業は、いつも私達の予想を上回って働かれます。私達は神様によって、全く新しいステージへと引き上げられるのです。

 女性達は、しばらく恐怖に震えて黙り込んでいましたが、結局はこの素晴らしい知らせを弟子達に告げずには居られませんでした(8節、10節)。予想だにしなかった望外の恵みは、確かに私達に一時の恐れを与えます。しかし、それ以上に大きな喜びを与え、私達を突き動かすのです。だから、福音を耳にするとき、それを信じてよいか不安に思うかもしれませんけれども、私達の罪の罰の身代わりとなって死んだイエス様の十字架によって、私達の罪が赦され、新しい身体、永遠の命、神の子としての身分が与えられるという福音の約束は、そのまま受け入れるに値するものです。恐れずに信じて、この新しい恵みの業に預かりましょう。



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