1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
9章後半に入り、19節からは、18節までで語られた「主キリストの評価を得るために、自身の特権を放棄する」ことから更に踏み込んで、パウロ自身が実践している積極的な「権利放棄」について述べられている。
キリスト者ならば、誰にでもしばしば起こり得る、「自身の権利を放棄しなければならない事態」は、神からの大きな評価を受けることのできる絶好のチャンスである……ということは、既に18節までで語られた通りであるが、これはあくまで受動的に訪れる機会であって、自分から狙って得られる機会ではない。
となると、私たちは、、主キリストから評価を受ける為に権利放棄を行う機会を積極的に欲しいと望んだとしても、いつ起こるか判らない機会を待ちぼうけするしか手立てがない事になるが、パウロは受動的な権利放棄だけでなく、積極的な権利放棄の道もある事を、コリント信徒達に伝えようとする。それは即ち、伝道を行い、福音宣教に携わる際に、獲得する魂に可能な限り合わせ、自身の持っている権利を抑圧するという方法である。
そのように言うと難しく聞こえるかもしれないが、普段の信仰生活の中で、他の人が一人でも多く救われるように、出会う人それぞれに合わせて、その人が躓かないように配慮しつつ交流を行うということは、善良なクリスチャンであるならば、誰でも、意識無意識問わずに行っている事ではないだろうか。
そもそも、この話題は「偶像に献げた肉を食べることが、合法であるか否かを問う人々に対しての回答」という文脈の中で語られており、そのような質問を行う人々に対してパウロが感じている問題点は、「自身の権利を優先して、他の人々に合わせない」という狭量さである。その狭量さの解消の為に、パウロはこのような積極的な文脈で、日々の小さな自身の権利を放棄していく大切さを解こうとしているのである。
これらの小さな権利の放棄は、私たちが折々の節目で求められるような大きな権利の放棄ほどの規模ではない為、受動的に訪れる転機の際に比べれば、チャンスも相応に小さなものになるかもしれない。しかし、そのような日々の積み重ねを、信仰によって、主の御心の為に実践している人間には、神からの相応の祝福と評価が与えられるのである。
私たちが、主から与えられた権利や恵みを取り逃したとしても、取り逃さずに享受したとしても、それは神の前の評価につながる事は無い。しかし、それらの権利を、神の御心の為に積極的に放棄していく時、それは「どちらでもよいもの(アディアフォラ)」から、「私の誇り」へと変わっていくのである。
しかし、この箇所の中心となる本題はそれでは終わらない。パウロは、自分自身の粉骨砕身とも言える献身の内容を敢えて明かす事について、コリント信徒達に、魂の救いについて大切な指針を示す。それは、「魂を獲得することは、父なる神の御前まで到達して初めて成し遂げられる」という事実である。
パウロは、新しい魂を獲得する為に、ユダヤ人、律法学者、異邦人と、様々な人に合わせて伝道を行ったが、それと同じぐらい、「教会の中の弱い人達」に対しても、自身のこだわりの一切を捨てて、しもべとして仕えることにも熱量を注いだ。
それは、せっかく獲得した魂も、この世の終わりの日までその信仰が保たれなければ、一切無意味になってしまうからである。新しい人間に洗礼を授ければそれで終わりではない。その人々を、終わりの日に、主イエスと、父なる神の御前に共に連れて行って、初めて獲得となるのである。
そう考えた時、私たちの重要な働きは、新規来会者と受洗者の獲得だけでなく、牧会による落伍者の防止にもあることがわかる。私たちは、新規来会者の獲得や、個人伝道、受洗者にのみ、過剰な熱意を注ぎがちであるが、それと同じぐらいに、教会の中で悩んでいる兄姉を慰め、つまずかないように配慮し、牧会することも大きな手柄となる。
もし、私たちの配慮によって、弱い兄姉が一人でも躓かずに済むようになるのならば、主キリストは終わりの日に、その兄姉に対して、魂を獲得した功労者としての惜しみない称賛を与えて下さるであろう。
教会の中で、陰に日向に、他の兄姉を励ましている忠実な人々によっても、魂の獲得は行われているのである。
〇19節
「全ての人(ギ:パントーン)」に対して、私の、「行う事(ギ:オン-エイミィの現在能動分子)」は、「自由(ギ:エレウセロス)」です、と書かれている。オンのエイミィ動詞(英語のBe動詞に相当)が、現在能動分子で書かれているので、今現在、何をするのも自由であると宣言を行っている。
「奴隷にした(ギ:エドウローサ)」は、「奴隷にする(ギ:ドウロウ)」のアオリスト直接法能動相で書かれている単語である。これに、「自分自信を(ギ:エマウトン)」が合わさる事で、「自分自身を奴隷にしました」と訳する事が出来る。新改訳2017では、「奴隷になりました」と訳されているが、意味合いは大きく変わらない。
パウロは、目的をもって、自身を奴隷にしたと言っているが、それは比喩表現であり、本当に奴隷になったわけではない。しかし、奴隷になるのと同じぐらい、自分の権利を返上して、可能な限り全て相手に対して合わせたということを、言っているのである。
〇20節〜21節
「〜のように(ギ:ホス)」という副詞、「ユダヤ人のようだ(ギ:ロウダイオス)」という形容詞を合わせて、ユダヤ人のようになったと書かれている。
また、「獲得(ギ:ケルデソウ)」は、獲得する、勝利する、損失を避ける、という意味がある。
この際に、「ユダヤ人を獲得する」とはどのような意味合いの言葉であるかが問われるのであるが、内容については、パウロはこれまで、自身の宣教に纏わる話をしてきたのであるから、その文脈の延長の話であると考えるのが妥当だと思われる。
即ち、この「獲得」は、魂の獲得のことであり、パウロの福音宣教によって、キリストを信じる人々が増えることを、「獲得」と呼んでいるのである。
これについては、続く「律法の下にある人たち(ギ:ノモン)」や、「律法を持たない人たち(ギ:アノモス)」においても同じであり、彼らの魂を獲得する為に、パウロが自身のあらゆる面を譲り、彼らに譲歩できるところまで合わせた様子を指している。
譲歩できるところまで、であって、完全にそうではないのは、パウロは相手と一緒になって罪を犯すようなことはしなかったということである。当たり前のことであるが、相手の土俵に立って何をするにしても、不正をする部分まで相手に合わせる必要はない。
ユダヤ人に対してはその慣習に合わせ、律法の下にある人の前では、律法を守って行動し、律法を持たない外国の人々については、律法を推奨するような真似はせず、相手の文化様式に合わせて行動したのである。
そのように声を上げると、「パウロは、やはり律法主義者なのか」とか、「では、パウロは律法を守らずに罪を犯したのか?」という批判が出る事は予期されたので、パウロは「私は、律法の下は居ませんが(ギ:ウポ・ノモン・メ)」という添え書きに加えて、「私は、神の律法を持たない者ではなく(ギ:メ・オン・アノモス・セウー)」と「キリストの律法の内にいる(ギ:エンノモス・クリストゥ)」という補足を加えて、自身が罪に陥った訳でない事をはっきりと宣言している。
「律法の下にあるもの(ギ:ノモン)」は、律法主義、即ち旧約聖書の律法規定を厳密に守って過ごしている人のことである。
「律法を持たない者(ギ:アノモス)」は、ユダヤ教そのものを良く知らない、ユダヤ人が異邦人と呼ぶ人々のことである。私たち日本人も、このアノモスの中に含まれるだろう。
「キリストの律法の内にある者(ギ:エンノモス・クリストゥ)」は、旧約聖書の律法主義ではなく、福音の時代のキリストの教えに従う人々のことである。但し、ノモンのように、厳密にキリストの言葉をリスト化してその字義通りに生きる、という意味ではない。もしそうであるなら、「ノモン・クリストゥ」と書かれている筈である。
エンノモスとは、基本原則を理解して、心の内に律法があるかのように、自然とその動きを体現するという意味合いを持つ単語である。即ち、キリストの教えを本質的に理解し、御心に従って行動している様子を指す。
即ち、パウロがどのように相手に合わせ、同じ土俵に立ったとしても、その行動の基本原理は、「エンノモス」であるので、パウロは生活形式をどのように相手に譲歩しても、キリストの教えた基本原則(即ち、全身全霊を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛せよという教え)から外れる事は無かったのである。
〇22節
22節の、「弱い人たち(ギ:アスセネースィン)」は、20〜21節の、未信者の人々と違い、既に洗礼を受けている人々の事で、彼らの「獲得」は、多少意味合いが異なってくる。
ここで用いられている単語も、同じ「獲得(ギ:ケルデソウ)」が用いられているが、この単語には、獲得するという以外にも、損失を免れる、回避するという意味合いもあり、これに照らし合わせると、弱い人々が躓き、信仰を失うことを回避しようとするために、弱い人々に仕えるパウロの姿が垣間見える。
弱い人々のようになる、とは一体何であるか。それは、弱い人々の基準に合わせて彼らと接したという意味である。即ち、偶像を献げた肉の問題で言い表されているように、肉を食べる人に恐れを抱く人がいるならば、自分は肉を食べる事ができても、その人に合わせて肉を食べないという選択肢を取るなどして、寄り添って励ましたのである。
この用法と併せて考えると、「全ての人(ギ:パンタ)」とは、信者と未信者両方を含む「全ての人」であることがわかる。パウロは、未信者にだけ良い顔をするのではなく、未信者の人々が救われるように熱心に福音宣教を行い、また、既に信者に成った人々に対しては、彼らが進行を失わないように心を砕いて牧会をしたのである。「全ての事をしている(ギ:パンタ・デ・ポイオウ・ディア)」とパウロが語っている通りである。
その理由は何か。福音の恵みを共に受ける者となるためであると、パウロは語っている。
……のだが、実は、「福音の恵みを共に受けるものになる」という文言は原文には存在しない。
書かれている事は、「共同者、共有者(ギ:スンコイノウノ)」と、「共に(ギ:アウトゥ)」、「生ずる(ギ:ゲノウマイ)」という単語であり、直訳すると「それは、(神の国を受け継ぐ)共有者達と共に、私もそこへ到達する為である」という言葉になる。
「生ずる(ギ:ゲノウマイ)」は、生まれる、生ずる、約束どおりの報酬に預かる、叶えられる、来る、到達する、加わるなどといった意味合いのある単語であり、解釈や訳も色々あるのだが、その結論自体は変わらない。「キリストの福音を共に受ける人々と共に、私もそこに行く為である」という文脈で語られていることは間違いないだろう。
私も共にそこに行く為に、とパウロが言うのは、要するに福音仲間と共に、神の御前に行くという意味合いだと思われる。競技をする人の話を、パウロはこの直後に話し始めるので、恐らく18節から、一貫して、「キリストによって称賛を受ける者の中で一位になる為に」、全ての事を行っているパウロの行動について語られていると考えられるので、「キリストの御前に、自分と共に救われた人々を連れて行く為である」という受け取り方をするのが、正しい解釈のように見える。
即ち、パウロによって福音を得た人々を神のみ前に連れていく時、その称賛は非常に大きなものになるだろうと、そういう意味合いではないだろうか。
この時、パウロの考え方についても、少し私たちは見習う所があるようにも思われる。未信者が救われて洗礼を受けるだけでは、魂の「獲得」とならないということである。
彼らを「とりこぼさず」最後まで保たれた魂を、「神のみ前に連れていく時」、初めて自分の手柄となることをパウロは重々心得ている。
即ち、救うだけ救って洗礼を授けても、その後で魂を取りこぼしてしまう時、私たちはその魂を「獲得した」とは言えないのではないだろうか。このような失敗は、私たちの教団に於いても踏んできた失敗である。
既に獲得された魂が失われないように慰め、引き留める事も、私たちの「魂の獲得」の働きの一つなのである。
何にせよ、私たちは、終わりの日に神のみ前に評価されるものとなる為に、信仰生活を行っているのだから、終わりの日に、主から評価される為に、儲けたタラントをもって主人の前に進み出たしもべ達のように、自身の手柄をもって、主の御前に向かうことを、私たちも目指していきたい。
2.詳細なアウトライン着情報
〇特権の放棄
19a 私はだれに対しても自由です。
19b しかし、すべての人の奴隷になりました。
19c 何故:より多くの人を、(キリストの救いの中に)獲得するためです。
〇なりふり構わない宣教
20a ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。
20b 何故:ユダヤ人をを獲得するためです。
20c 律法の下にある人達には、律法の下にある者のようになりました。
20d 補足:――私自身は、(もう既に)律法の下にはいませんが――
20e 何故:律法の下にある人たちを、(キリストの救いの中に)獲得する為です。
21a 律法を持たない人たちには、律法を持たない者のようになりました。
21b 補足:――私自身は、神の律法を持たないものではなく、キリストの律法を守る者ですが――
21c 何故:律法を持たない人たちを獲得するためです。
22a 弱い人たち(進行の弱い受洗者達)には、弱い者(その立場を理解する者)のようになりました。
22b 何故:弱い人たちを獲得する(即ち、信仰者として確立させ、躓かせないようにする)ためです。
22b (信者未信者問わず)すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
〇何故なりふり構わないのか
23a 私は福音のためにあらゆることをしています。
23b 何故:私も福音の恵みを共に受ける者となるためです。
着情報3.メッセージ
『魂の獲得』
聖書箇所:コリント人への手紙第一9章19〜23節
中心聖句:『私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。』(コリント人への手紙第一9章23節) 2023年7月.23日(日)主日礼拝説教完全原稿
私たちにとって、最も大切な事は、イエス様から称賛を受ける者となることです。その為に、パウロは自分の権利や利益を投げうってでも、自分の建てるべき手柄を追い求めて行動し続けました。それはパウロが、何をもって主から称賛されるかを十分に弁えていたからです。イエス様から忠実なしもべとして称賛される為に、私たちは何をすれば良いのでしょうか。
イエス様が私たちに求める働きは非常に明確です。それは、「魂を獲得する」ことです。イエス様は、天に昇られる際、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」と、自らの弟子たちに対して命じられました(マタイ28章19〜20節)。所謂、この大宣教命令を受けて、パウロを含め、全てのキリストの弟子たちは、これを忠実に守り、自らの命すらも投げうって、魂の獲得に努めたのです。パウロも、勿論その為に粉骨砕身労しました。ユダヤ人だけではない、ありとあらゆる人々が救われるように、全ての人々の「しもべ」として福音を宣べ伝えることで、魂を獲得しようとしたのです。
魂の獲得の為にパウロは具体的に何をしたのでしょうか。彼は、ユダヤ人や、律法に従う人に対しては、その方法を尊重し、そうでない人に対しては、外国の文化に合わせて福音を宣べ伝えました。自分自身の主義主張を全て返上し、相手に合わせ、罪を犯さないぎりぎりまで譲歩して伝道を行ったのです。肉を食べる権利があるとか、ないとかで騒いでいるコリント信徒の人々に比べ、パウロは徹底的に自身を殺して献身しました。それもこれも、全てはパウロ自身が語っている通り、新しく獲得した魂と共に、イエス様から福音の恵みを受ける為でした。
しかし、その一方で、パウロは「弱い人たち」に対しても、しもべのようになって仕えました。この人々は、「ユダヤ人」や「律法の下にある人」、「律法を持たない人」のような、未信者の人々ではなく、既に信じて教会の中にいる人たちです。その人々に対してもパウロは、新しい魂を獲得するのと、同じぐらいの熱量で寄り添い、彼らの信仰が失われないように努めたのです。何故パウロは、全ての力を新しい魂の獲得に費やさず、牧会的働きに対して労力を割いたのでしょうか。パウロの言う「獲得(ギ:ケルデソウ)」という言葉は、新規に獲得するという意味以外に、損失を回避するという意味も持つ言葉です。その言葉の意味のごとく、魂はたとえ一時獲得しても、簡単に失われてしまうものなのです。例え福音を聞いて信じ、洗礼を受けたとしても、この世の終わりの日に、父なる神様の御許に到達できないのであれば、その魂は「獲得された」ことにはなりません。それを知っているからこそ、パウロは、獲得した魂を一つも取りこぼさないように、弱い人々に寄り添うことにも全力であったのです。
私たちは、宣教し、新規来会者と受洗者を得ることだけが、「魂の獲得」であると、しばしば勘違いしてしまうように思います。しかし実際には、兄姉を励まし、慰めながら、自分よりも信仰の弱い人々が、福音の内に留まることが出来るように労することも、立派な「魂の獲得」なのです。受洗に関わる働きをしていなければ、その人は称賛されないのでしょうか。そんなことはありません。魂を失わずに主の御許に到達した時、損失を防いだ兄姉は、イエス様から喜んで、「忠実なしもべよ、よくやった」と称賛の声を与えて頂けるのです。新規来会者と受洗者を増やす事だけが、イエス様の求められる働きではありません。互いに励まし合いながら、獲得された魂を取りこぼさずに、共に父なる神様の御前に到達しようではありませんか。
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