1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
パウロは、神の前に称賛を受ける者になる為に、自分自身があらゆる努力を行っていることをこれまで語ってきた。それに倣って、手紙を読む読者自身も、優勝を目指す競技者のように、自身も神からの称賛を受ける者になるようにと、パウロは奨励する。
協議とは、ギリシアのペロポネソス半島の西岸オリンピアで、四年ごとに開かれたオリンピック・ゲームなどが有名で、その「賞」は、月桂冠である。パウロが手紙を宛てたコリントの街でも、それに類似した競技が行われていて、コリント地峡イストモスで、三年に一度協議会が開かれていた。
商品は、松で作られた冠であり、途中で野生のセロリやパセリでつくられたものに変わる事もあったが、最終的には松で作られたものに変わり、競技の優勝者に与えられた。
競技に参加する者は、生粋のギリシア人で、犯罪歴が無く、ギリシャの神々を信心深く恐れる者でなければならず、協議前に、十ヶ月の強化訓練に耐え抜いたうえで、その後、一ヶ月の選手合宿と検査に合格した場合、初めて協議に参加できるものである。
ギリシャ人は、二元論思想によって、肉体を汚らわしいものと考えて居たので、肉体を内なる霊に従わせるために、少しでも鍛えて美しいものにすることを美徳にするという独特の価値観を持っていたと考えると、肉体改造の極致でもある「競技会」は、彼らの心をつかむイベントに違いなかったことは、想像に難くない。
パウロは、手紙の中で「苦闘」という言葉を度々用いたり(ガラテヤ2章2節、ピリピ1章30節、コロサイ1章27節etc..)、信仰の事を競技の例えを用いて言い表したりするが(Uテモテ2章5節)、これらの表現はパウロ自身がスポーツファンだったからではなく、ギリシャ人に対して、ギリシャ人のように語る為に行った努力の一端であると考えられる。
いずれにせよ、パウロは、ギリシャで行われた競技大会になぞらえて、主から受ける称賛が如何に大切であるかを人々に説こうとした。ギリシャ人男性であるならば、「競技は見るだけで十分」とは考えず、自分自身も出場する為に多かれ少なかれ努力をしていたのだろう風潮を、パウロ自身も知っていたのかもしれない。「自分は天国に入れるだけで充分」と考える事は、クリスチャンの考えに相応しくない。クリスチャンであるならば、主の栄光をあらわすことが出来るように、あらゆる努力を惜しんではならないのである。即ち、自分中心ではなく、神中心に物事を考えなければならない。
例にもれず、パウロもまた、本気で神からの栄光を受ける第一人者として賞を受けるべく、あらゆる手段を尽くして福音宣教に従事していた。他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにと、必死に自分自身の肉体をコントロールして、これを行ったのである。
ここで言う「失格」とは、ギリシャ語のアドキモスの訳で、「試練に堪え得なかったもの」の意味である。即ち、十ヶ月の強化期間、及び一ヶ月の検査合宿で合格出来なかったもので、転じて失格者という意味を持つ単語になっているのであるが、その指し示すところは単純明快で「競技へ参加する資格を失う」ことである。
競技への参加資格を失ったところで、死ぬわけでも、ギリシャ人としての資格をはく奪されるわけでもないように、「失格者」という言葉は、救いの喪失や、滅びを意味するものではおそらくないと思われるが、その危険性もある程度加味して考えるべきことであるのは、10章の話題に於いて、その「失格」が、下手をすれば自らの滅びにまで及び兼ねない可能性をパウロは示唆していることからも伺いしれる。
競技を侮った選手が、競技中の事故で命を落としかねないように、神からの称賛を受ける為のレースに参加する各々も、下手をすれば失格どころか、救いそのものを失いかねない危うさがあるということは、私たちが重々に承知しなければならない注意事項であろう。キリスト者でありながら罪に溺れるのを良しとするとき、私たちは常にその危険性に付きまとわれるのである。
「宣べ伝える(ギ:ケーリュクス)」とは、ギリシャ語のケーリュクスという名詞的用法の呼称でもあり、主に競技大会では選手を集めてルールを説明する重要な役割を担う呼び出し人を意味した。時に、この呼び出し人も、その役目を終えた後には、優勝を目指す一選手として、共に競技に参加した上で優勝することもあった。有名なネロ皇帝などは、オリンピックの馬車競技で、十頭の馬を操って優勝している。
同じく、パウロも、人々を呼び集めて福音を宣べ伝えたからには、このケーリュクスの役割を担う立場にある。そして、同時に主からの称賛を受ける競技者としても、そのレースに参加しているのである。ここで大切な事は、使徒や人々に教える者が、何かその賞レースに於いて優遇されるものではないということである。牧師だから、教師だからといって、無条件に神からの称賛を受ける立場にはないのである。その証拠に、主イエスに従った人々の中に、ユダヤ教の教師や知識層の人々は殆ど存在しなかった事を、私たちは心に留めなければならない。
しかし、呼びかけ人の立場を担うからには、その立場に当然責任が伴う事も弁えるべきである。皆を呼び集めてその説明を担っておきながら、主から称賛を受ける資格を失うということは、大きな恥であるとパウロは考えて発言している。失格した自分を、情けないと泣くような羽目にならないように、パウロは自分自身の肉体を打ちたたいて、使徒として主に仕えていたのである。
大切な事は、そのような面持ちで主の前に尽くすならば、罪を避けることは勿論のこと、「神から称賛を受ける」という一点に於いて、邪魔になる一切の物を排除するようにはならないだろうか、ということである。
嗜好品をたしなんだところで罪にならないし、飲んだところで誰からも文句は言われないが、体重管理に厳密なスポーツ選手は、必要時以外は、そのようなものを口にすることはないだろう。全ては賞を取る為である。
同じように、私たちもまた、神から喜ばれることを何よりの目標とするべきであるし、私たちの存在によって、神に栄光が帰されるようになるように、神の視点に立って努力しなければならないのである。
自分が救われて永遠の命がもらえ、助かるなら後はどうでもよいなどと考える自分中心のクリスチャンにならないように、よくよく自分自身を戒めて行きたい。
〇24節
競技場(ギ:スタディオウ)と、走る(ギ:トレコンテス)を合わせて、走る競技場を指す。
競技場で走る者は、走るには走るが、賞が得られる者は一人だけである。
二位や三位についての冠などは無かったのだろうことは、パウロの口ぶりからもあきらかであるように思えるが、神からの称賛を受ける者が一人だけだと彼が言っている訳でないことは覚えて置くべきである。
競技者が、参加するからには一番を手に入れる(ギ:カタラベテ)ことを目指して自分のベストを尽くすように、私たちもベストを尽くすべきであることをパウロは言っているのである。
〇25節
節制は、原文では、努力(ギ:アゴウニゾメノス)と、自制(ギ:エンクラテウエタイ)の二つの単語を用いて表現されている。努力(ギ:アゴウニゾメノス)は、他の箇所では「労苦」という訳で用いられており、苦闘(ギ:コピアオウ)と同じような使い方をされている。目的の為に、自らに受けるリスクを承知の上で取り組む様を示すもので、それらの労力の全ては、目的を達成する為に用いられている。
その手段が、自制、即ちセリフコントロール(ギ:エンクラテウエタイ)であるとパウロは言っているのであるが、これは、自制することがクリスチャンにとっての美徳であると言っているのではなく(勿論そういったニュアンスはあるが)、目的の為に耐え忍ぶべきリスクが、自制であるならば、スポーツ選手がそうしているように、私たちも迷わずにそうするべきであるという文脈で語っていると思われる。
結果的に大差ないように見えるが、私たちが神から称賛を受ける為に耐え忍ぶべき要素は、時と場合によって様々に変化するし、とりあえず節制だけ頑張っていればクリスチャンとして正しい、というわけでないことは、よくよく弁えておくべきではなかろうか。
〇26節
「目標がはっきりしないような(ギ:アデロウス)」は、不確かなという意味の単語であり、そのような走り方はしないとパウロは語っている。見定める目標は「魂の獲得」であり、それ以外のことについては一切を排除して目的に専念するのである。
「拳闘(ギ:プクテウオウ)」は、そのまま拳闘以外の意味はない。ボクシングではなく、徒手での戦闘を指すもので、当時の競技大会の種目の一つであったと考えられる。
空を打つような、と言われると、シャドーボクシングを連想する者もいるかもしれないが、目標を定めずに拳を振り回している様子を指しているものであり、目標を定めたイメージトレーニングとはまた別のものであるので勘違いしないようにしたい。
〇27節
「打ちたたいて(ギ:フポウピアゾウ)」は、そのまま殴りつけるという意味であるが、目の下に青たんが出来るぐらい、ぼこぼこに殴りつけるという意味があり、その激しさが単語に表されている。
「従わせる(ギ:ドウラゴウゲオウ)」は、連れ歩く奴隷、従者といった意味であり、屈服して連れ歩いて自分の好きなようにできるまで、自分の肉体と戦い続けている様を表す。
「宣べ伝えて」と、「失格」については、前述した通りである。これらは、キリストの福音を失って、救いを取り逃すという意味ではなく、キリストから称賛を受ける為の、競技に参加する資格を失うという文脈で語られている。
救いを失うかもしれない、という覚えのような感情は、神と歩む命の道にはふさわしくない。学生の成績争いで、自分自身の生命維持まで考慮して課題を覚える者が居ないように、私たちは、「救われる」という事象の上に当たり前のように立った上で、尚且つ、キリストに認められ、称賛される為の働きに対して、全力で尽くすのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇競技者のように
24a あなたがたはしらないでしょうか。
24b 何を?:競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを
24c ですから、あなた方も賞を得られるように走りなさい。
25a 競技をする人は、あらゆることについて節制します。
25b 彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのです。
25c しかし、私たちは朽ちない桓武を受ける為にそうします。
〇自分もそうしている
26a ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。
26b 空を打つような拳闘もしません。
27a むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。
27b ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。
着情報3.メッセージ
『神の賞を受ける』
聖書箇所:コリント人への手紙第一9章24〜27節
中心聖句:『ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。』(コリント人への手紙第一9章24節)
2023年7月30日(日)主日礼拝説教完全原稿
9章の終わりになって、パウロは、各々が与えられた仕事に対し、神様からの賞を得られるぐらいに真剣に取り組むことが必要であることを語ろうとします。その為に、賞を目指して厳しい節制の生活を送るスポーツ選手のように、私たちも罪から遠ざかる生活を心掛けないといけないことを、パウロはコリント信徒の人々に伝えようとするのです。
オリンピックを始めとして、2000年前の当時の時代から、ギリシャ地方では数多くの大会が開かれていました。コリントの街でも、三年に一度競技会が開かれており、そこで賞を取る事は、町の住民にとってとても名誉な事でした。競技に参加しようとする人は、競技の一年前から訓練期間に入り、辛い鍛錬を経て、一か月前の参加検定キャンプに臨みます。そこで様々な検定を受けて見事に合格した犯罪歴の無いギリシャ人だけが、競技大会に参加する事が許されたのです。しかし、そのような労苦に耐えて参加しても、賞をとって、松の冠を手に出来る選手はたった一人です。それ故に選手は皆、出場するからには一番を本気で勝ち取る為に、真剣に訓練に挑んだのです。私たちも同じように、罪の赦しと、永遠の命を受ける為に、洗礼を受けて救われたからには、全力で自らの仕事に取り組む必要があります。何故なら、十字架の血潮を対価に買い取られ、イエス様中心、神様中心に生きることを、私たちが自分で選び取ったからです。「神からの賞賛など必要ない。救いだけ貰えればそれで充分」と考えることは、自分中心な考え方であり、神様中心の、神の国の価値観には相応しくありません。私たちは、自分自身ではなく、神様中心に物を考えなければならないのです。「どうせ給料は同じだから」と仕事を不当にさぼる社員に対し、雇い主の会社はどのような処分が下すしょうか。同じように私たちも、神様の支配に入ったからには、誠心誠意己の職務を全うする必要があるのです。
そこまで語ってから、パウロは、自分自身もまた、一人の競技者として賞を目指し走っていることをコリント信徒の人々に告げます。パウロは、決して自分を「特別枠」だとは考えていませんでした。人々に教える教師、牧師、役員だからといって、無条件に賞を受ける事が出来る人など誰も居ません。むしろ、そのような油断から、重要な地位にある人々の方が救いを取り逃してしまうこともあり得るのです。事実、イエス様を救い主と信じて救われた人々は、ユダヤ教の教師達や律法学者よりも、一般の人々の方が圧倒的に多かったのです。パウロも自身も、「宣べ伝えておきながら(ギ:ケーリュクス)」と言う言葉を用いて、その危惧を口にします。ケーリュクスとは、競技会でルール説明をする為に、選手を呼び集める呼びかけ人の事を指します。ギリシャ競技では、この呼びかけ人(ケーリュクス)も、仕事を終えた後に、競技に一選手として参加する事がありました。ローマのネロ皇帝も、この呼びかけ人を務めた後、戦車競技で優勝したという記録が残っています。しかし、選手を呼び集めてルールを説明し、その上で競技にに参加するからには、呼びかけ人には無様な負けは許されません。もし、「失格者」にでもなろうものなら、受ける嘲笑は他の幾倍にも及び、その恥はとても大きいのです。
少し油断すれば、誰でもそうなりかねないと、パウロはコリント信徒の人々に警告します。罪に対し鈍感であり続けるならば、私たちは思わぬところで躓いて、自ら永遠の命を投げ捨てる結果を招いてしまうのです。パウロはそうならない為に、自らの肉体を打ち叩くとさえ言いました。罪に安全圏は無いのです。しかし感謝な事に、注意深く罪を避けて祈って歩むならば、他でもない神様御自身が、危険な道から私たちを遠ざけて下さいます。だから恐れずに良く祈って、終わりの時に賞を得られるよう、懸命に自分自身の人生を走り続けていきましょう。
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