1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
パウロは、10章に入って、神の前に手柄を立てるという積極的な恵みについての話から、堕落による滅びについての話に切り替えてコリント信徒達に語ろうとする。
神の前に積極的に関わろうとし、神から称賛を受ける為に節制し、努力する人々が居る一方で、神の前に救いを受けて置きながら、悪を貪って滅びの中に投げ入れられる者も出るのだと言う警告をパウロは行う。
私たちが、賞を目指し、主イエスからの称賛を求めて努力しているうちは、私たちの前に滅びの恐れが訪れる事は無い。私たちは神に守られるし、その信仰も祈り続ける限りは保たれるからである。
しかし、神に背を向け、その交わりと関係に興味を失い、神からの称賛ではなく、寧ろ自分が受ける欲を尊んで悪へと走るならば、私たちは立ちどころに福音の約束を自らの手で投げ捨て、神の前に滅びる者へと堕ちてしまうのである。
私たちは、この事について十分に注意深く考えなければならない。即ち、私たちの福音は、私たちの決意無しに失われるものであるか、ということについて、私たちは良く考える必要がある。
結論から言えば、私たちが福音の約束を手放したくないと思い続けているかぎり、私たちの知らない内に福音の約束が消失し、私たちが「失格者」であると断罪されることは無い。自分は、父なる神と主イエスを信じているつもりだが、実はいつの間にか失格者にされているのではないだろうか、と心配する必要は無いのである。
しかし、そうであるにも関わらず、パウロ自身、自分が少しの油断で失格者になる可能性を危惧し、かつ、荒野で多くのユダヤ人が滅んだように、悪を貪る人々が滅ぶという警告をパウロは行っている。
これは、知らない内に福音を奪われるのではなく、他ならない私たちの心が、自分の意思で福音を投げ捨てる事を良しとする心境に陥ってしまうという危険性のことを、パウロは言っているのである。
そもそも、人の心は移ろいやすく、何かに熱を上げていても、ある日突然その熱が冷めることもある。昨日までは命よりも大事にしていた者が、ある日突然どうでも良いものへ変化するというのは、往々にして人間の心には訪れるものである。同じように、信仰についても、どれだけ熱心に守ろうと決意したところで、少しの油断でその熱が冷め、ある日突然、「自分は正気に戻った」と声をあげて、元信仰者はいとも簡単にこの福音の約束を投げ捨て、教会を去るのである。
諸説あるが、10人洗礼を受ければ、7人はその後、三年続かずに教会を去ると言われている。
例えば、当日本イエス・キリスト教団では、1990年に40周年記念誌が発行され、教団40周年の際に礼拝出席者人数が5000人を超えたことが報じられた(実際には1990年の礼拝出席者は5,149名)。
礼拝者出席者数とは、1年間の礼拝に出席した人の数の平均値である。そして同記念誌内で、「21世紀宣教プロジェクト」と題して、2000年までに礼拝出席者を倍の10,000名に増やす計画が発表されている。
その発表から、現在の2023年現在、既に30年以上が経過していることになるが、礼拝人数推移は以下の通りである。
〇礼拝出席者数
1980年 教団全体礼拝出席者数:3785名
1990年 教団全体礼拝出席者数:5,149名
2000年 教団全体礼拝出席者数:5,597名
2010年 教団全体礼拝出席者数:5,463名
(参考文献:日本イエス・キリスト教団教勢内部資料(教団事務所より提供))
〇受洗者数
1981〜1990年 教団全体受洗者数:3,690名
1991〜2000年 教団全体受洗者数:3,117名
2001〜2010年 教団全体受洗者数:2,288名
(参考文献:日本イエス・キリスト教団教勢内部資料(教団事務所より提供))
1990年まで、日本イエス・キリスト教団は5400名の受洗者を得たが、礼拝出席者数はせいぜい300人が増えた程度である。高齢者の召天など、ほそぼそとした理由は考えられる者の、極論を言えば、「5400人救われて、5100人居なくなった」のである。
このようなデータから見てもわかる通り、例え信仰に至って洗礼を受けたとしても、かなりの割合の人々が、20年続かずに教会を去っているのである。
どのような理由で、人々が教会から去るのかについては、各人事情があるのであるが、一つだけいえる事があるとすれば、多くの人々が、モーセによってエジプトから助け出されながら、その後に、殆どの人々が死に絶えたのと同じように、この福音の時代に於いても、多くの人々が洗礼を受けながら(洗礼を受ける人々だって、全体から見ればごくわずかであるが)、その受洗者の内の殆どの人々が、世の終わりが来る前に福音の約束を自らの意思で投げ捨てるのである。
大勢がそうであっても、自分はそうではないと、他人事と断じることは簡単であるが、明日の自分自身すら信じる事が出来ないのが人間である。現在の精神状態を十年前の自分に話したなら、十年前の自分は絶対に信じないだろうと言う人も多いのではないだろうか?(例えば結婚しないって思ってたのに、今では子煩悩の父親になっているとか)
だから、私たちは、可能な限りそのような可能性をつぶさなくてはならない。主イエスとの交わりの中にとどまり続けなければならない。一歩間違えれば、私たちは、他人に福音宣教をしておきながら、自分は気が変わって教会に来なくなるかもしれない。そのような脅威を、常に胸の内に感じて置かなければならないのである。
〇1節
「知らずに居てほしくない(ギ:アグノエイン)」は、知らない、無知である、認めない、過ちを犯す、というニュアンスのある単語であり、時には意図的に無知であることも指す単語である。即ち、「私たちの福音は、失われかねないものである」という知識を、クリスチャンは皆知っておかなければならないのである。
もう既に罪が赦されている、また、悔い改めれば全て赦されると言うなら、好き放題に罪を犯しても問題ないなどと考えることは間違いである。何故ならば、そのような考えに至る時点で、その者は神を軽んじているからである。そのように神を侮り、軽んじる人間は、神に対しての興味を直ぐに失ってしまうであろう。
神を恐れる事が知恵のはじまりなのである。神との関係性も、神を重んじ、恐れるところから始まる。その前提を無視して、自分自身の知恵に頼って生きようとする時点で、その人間の心は神から離れ、失格者となってしまっている。自分自身で福音を手放す日も遠くないだろう。
「雲の下(ギ:ヒポ・テン・ノゲーレン)」、「海を渡る(サラッセス・ディエルソン)」は、出エジプト記に登場する雲と火の柱(出エジプト13章)と、有名なモーセの海割り(出エジプト14章)を指していると考えられる。砂漠の中を、雲の柱によって日差しに焼かれずに済み、海の中を、それが風によって割れたことで、ユダヤ人の先祖たち、死の荒れ野を無事に渡って、約束の地に辿り着いたのである。
それらの業は、到底人間に行うことができるものではなく、神の力によって成し遂げられたことは明らかであった。
〇2節
「モーセにつくバプテスマ(エイス・トン・モウセン・エバプティサント)」は、モーセの内にバプテスマを、という意味のギリシャ語であり、即ち、モーセによって導き出され、特別な民とされた、という意味である。バプテスマは、元々ユダヤ民族の中に入る為の特別な儀式であり、水を通ることで一度死に、ユダヤ人として生まれ変わる事を意味した。
即ち、エジプトから導き出されたアブラハムの子孫たちは、モーセの導きによって荒野と海を渡り、その過程でシナイ山に到達し、神に選ばれた特別な民、即ちイスラエル人となったのである(出エジプト19章以降)。
〇3〜4節
「霊的な食べ物(ギ:プネウマティコン)」とは、即ち、神が荒野で民に与えた特別なパン、即ちマナの事であり(出エジプト16章)、「霊的な水(ギ:ネウマティコン・ポーマ))」は、ホレブなどで代表されるように、岩から出て人々に与えられた飲料水の事である(出エジプト17章)。
パウロは、これら全てがキリストであったと言った。難解ではあるが、恐らく、使徒ヨハネが証している通り(ヨハネ1章1〜4節)に、神の言葉として、実際に出ないところから水を与え、降らないところからパンを降らせたのは、人としてこの世に来られる前の子なる神、即ちキリストであったということを言いたいのだと思われる。
ここで言いたいことは、ユダヤ人、即ち、パウロ達の先祖が、他の民族から神の御心によって、意図的に選び出された上に、印まで与えられた人々であったと言うことである。
そのように、神によって選び出され、特別により分けられた人々であったならば、何時までもその立場が安泰であったのかと言えば、そうでは無かったのである。
〇5節
「神の御心に適わない(ギ:エウドケセン・ホ・セオス)」は、直訳すると神を満足させることが出来なかったという意味の言葉であり、被造物を見て良しとされた、創世記の始めの部分にかけて言われているのかもしれない。シナイ契約は、端的に言えば、彼らが神に従う事を誓う対価に、神がその民族の行く末に責任を持つという契約であった。
そのような契約関係を、一方的に破棄したのはユダヤ人側である。彼らは神の指示に従わず、また信頼せずに自分達で勝手に物事を決めて、従わなかった。その上、神を愛すると誓っておきながら、神に対して興味を抱かずに偶像礼拝に走り、神が与えると約束したものを真実に受け取らず、神を裏切って荒野に敗走したのである。
同じようなことが、私たちの上にも起きていないだろうかと、パウロはコリント教会に問いかける。
〇6節
「実例(ギ:ツポイ)」は、見本、見せしめ、原型、予型といった意味のある言葉あり、強い否定の「ギ:メ」、「悪を貪る(ギ:エピスメタス・カーコウン)」という、悪を希望するとい直訳できる言葉と、「ようにするためです(ギ:エペスメサン。望ましいの意味)」と併せて、「悪を希望することを良しとしない為の、見せしめ」と訳す事が出来る。
既に同じ失敗をした人々を、予め後の世の人々が受けるものと同じ刑罰によって罰し、かつそれを記録させることで、福音の時代に生きる私たちが、同じ失敗を犯して福音を自ら投げ捨て、失格者となり、神の怒りと刑罰を受けることを望まないようにするための物であったと、パウロは説明するのである。
これらのことは、本来ならば必要のないことであった。契約に反する、または不履行すれば、その約束が失われる事など、人間の間ですら常識の事柄である。福音も、「自分が罪びとであることを認め、回心し、キリストの十字架の救いを信じる」ことが、これを受ける条件となる。
回心とは、神と向き合い、顔と顔を合わせて生きていくことである。神を蔑ろにし、背を向けた時点で、その福音の約束がそのものにとって有効でない事は、少し考えればわかる事である。
私たちは、悪を望ましいと思うことで、いとも簡単に、そのように回心の姿勢を失ってしまう。だからこそ、自らを打ちたたいてでもそこから逃げたいと望むパウロの気持ちに、私たちも多少なりとも、同調すべきではないだろうか。
2.詳細なアウトライン着情報
〇私たちの先祖について
1a 兄弟たち。あなたがたには知らずにいて欲しくありません。
1b 何を?1:私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
2 何を?2:そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受けました。
3 何を?3:みな、同じ霊的な食べ物を食べました。
4a 何を?4:みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。
4b →どこから?:彼らについてきた霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
〇しかし、彼らは滅ぼされた
5a しかし、彼らの大部分は神のみこころに適いませんでした。
5b そして、荒野で滅ぼされました。
6a 何故?1:これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。
6b 何故?2:彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
着情報3.メッセージ
『私たちを戒める実例』
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章1〜6節
中心聖句:『これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。』(コリント人への手紙第一10章6節) 2023年8月6日(日)主日聖餐礼拝説教完全原稿
10章に入り、パウロは、救いの喪失について語り始めます。コリント教会の一部の人々は、教会で洗礼を受けたことによって「自分が完成した」と安心しきり、何をしても自分が滅ぶことなどありえない思い上がっていました。しかしパウロは、出エジプト記を引用し、同じく神に選ばれたイスラエル人の先祖たちが、殆ど荒野で滅ぶ嵌めなった実例を提示し、決して油断してはならないと戒めます。私たちが、救いの約束に預かる旅の途上にあるからです。
出エジプト記には、天の父なる神様に遣わされたモーセによって、イスラエルの人々がエジプトから救い出され、約束の地であるカナンへ旅する内容が記されています。この時に、エジプトから連れ出されたイスラエルの人々は、父なる神様によって特別に選び出され、約束の地を相続するはずの人々でありました。彼らは、死の荒野の中を、昼は雲の柱によって灼熱から、夜は火の柱によって極寒から守られ、約束の地を目指したのです。それだけではなく、水も、食べ物も無い荒野の中で、マナという特別なパンを与えられ、また、叩かれた岩から出た水を飲み、旅をしました。これらの全ては、「必ず約束の地へ導く」という、神の言によって実現していたのです。そのような神様の約束を成就させることは、神の言であり、子なる神である受肉前のイエス様の仕事でした。このイエス様に導かれて、モーセを始め、イスラエルの人々は、現代のクリスチャンが受けるのと変わらない、神の護りと導きを受けて、荒野を渡ることが出来たのです。しかし、そのように護られ、導かれていたにも関わらず、モーセに連れられたイスラエルの人々は、ヨシュアとカレブという二人の例外を覗いて、ほぼ全員が約束の地に入る事が出来ず、荒野を死ぬまでさまよい歩くことになりました。約束の地に入るように命じる父なる神様の言葉を、自分の意思で拒絶し、約束の地の入り口から逃げ去ったからです。
父なる神様の約束によって、受肉される前の子なる神であるイエス様の護りを受け、約束の地へ確実に入ることができたにも関わらず(実際に入ろうとしたヨシュアとカレブは後から入れました)、イスラエルの人々の殆どが、自分の意思で約束の地に入ることを拒絶し、滅んだという実例を、私たちは注意深く見て、良く考えるべきです。イスラエルの人々とて、カナンの直前まで約束の地へ入ることを望んで、モーセに従って旅路を歩んでいたのです。しかし、最後の最後になって、屈強なカナンの先住民を見て恐れ、心変わりし、自分達が殺されてしまうと勝手に思い込んで、彼らは約束の地に入る事を拒みました。神様の言葉を信じず、そのような決断を行ったのです。同じように、私たちもまた、福音の約束を信じて洗礼を受け、父なる神様から特別な地位を与えられたからといって、最後の時まで堅く立っていられるとは限りません。約束の地に入る直前で神様に背を向けた人々のように、将来自分の心境がどうなっているかかなど、誰にも判らないのです。十二弟子のリーダーのペテロですら、イエス様を裏切りました。自分がそのような危険な旅路の途上にあることと、神様の前に立つその日まで、旅は続くのだということを、果たして私たちは十分に自覚することが出来ているでしょうか。
私たちが受けた救いは、自分で手放したいと願わない限り、決して無くなることのない確かな約束です。しかし、私たちの心の方が、何かのきっかけで、簡単にそれを投げ出してしまう状態に変わりやすいのです。だからこそ私たちは、十分に注意しなければなりません。感謝な事に、ヨシュアやカレブがそうであったように、私たちもまた、神様を信じて縋り続ける限りは、必ず救いの約束の成就に至ることが出来るという保証を受けています。恐れずに、神様の約束と、神の言であるイエス様の上に堅く立って、救いに預かる一人びとりとなりましょう。
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