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牧師の説教ノート(8月13日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙10章7〜11節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 パウロは、10章に入ってから、岩なるキリストによって導かれながら、結局荒野で死に絶えたユダヤ人の祖先達を例にあげて、たとえ誰であっても、信仰の「失格者(ギ:アドキモス)」となって救いを取り逃がす可能性からは逃れられないということを言及し、コリント信徒へと警告した。

 「失格者(ギ:アドキモス)」とは、競技の失格者を指す言葉であり、競技前の検定で合格出来なかった選手を指すギリシャ語である。9章でパウロが扱うこの言葉は、第一義的には、キリストから称賛を受ける為のレースに参加する資格を失ったものを指している。
 即ち、キリストに喜ばれるというレースに参加すら出来なかった者を指す言葉なのであるが、それの参加資格を失うという事は、それは最早神に背を向けて、キリストに喜ばれるものではなくなったということでもある。即ち、この失格者という言葉には、少なからず福音の約束から漏れる者、罪の救いを投げ捨てて滅びる者というニュアンスが含まれるといっても間違いではないだろう。

 つまりパウロは、最悪自分も含めた全てのクリスチャンが「失格者」、即ち「滅びる者」になりかねないという危険性を1-6節で警告しているのであり、具体的にそのような危機が、何によって齎されるのかと言うことを、7-11節で語っているのである。

 私たちにとって、「失格」という言葉は非常に恐ろしく聞こえる言葉である。「実際に福音を信じているつもりでも、気が付けば救いを失っている」という可能性が、クリスチャンの信仰生活の中に僅かでも存在するならば、私たちの生活からはたちまち恵みが消え去り、緊張と悲壮、そして焦燥だけが支配するものへと豹変していくだろう。もし、信仰生活を恵みと安息の中で送っていきたいと考えているならば、私たちは「失格」という概念について、重々に学び、承知しておかなければならない(勿論、承知していても、様々な試練によって揺り動かされることは起こり得るが)。

 パウロは、滅びに至る条件は、いくつかの罪を犯すことによって整ってしまうことを、罪の列挙によって書き出している。


 一つ目は、「偶像礼拝の罪」である。「民は座っては食べたりのんだりし、立っては戯れた」とパウロは引用しているが、これは、出エジプト記32章6節からの引用である。モーセが神の律法を聞き取り、石板をもって降りてくるまでの間に、民が押し迫ってアロンに訴え、金の子牛を作らせた時に起こったことである。この子牛は、イスラエル神以外の神を指し示す「偶像」ではなく、イスラエルの神を敢えて形に表すならこのようになる、といった類のものであった。それ故に、実はこの出エジプト記で指し示されている箇所で聖書が告発している罪は、第一戒の偶像礼拝の罪ではなく、第二戒の神を模って形にする罪である(出エジプト20章1〜4節)。

 何故、神を模って形にすることは、偶像礼拝に繋がるのだろうか。それは、神を形に表してしまった時点で、神を「自身の知っているもの」に成り下がらせて、主なる神を恐れなくなるからである。
 コリント信徒の人々も同様に、自分達は既に完成していると思い上がって、御言葉に基づいた全ての言いつけと、キリストの訓戒を侮った。神のことを完全に理解していると考えて、自分達の「屁理屈」に基づいて、各々が正しいと思うことを好き放題行なっていたのである。

 パウロの引用した、「座っては飲み食いし、立っては戯れていた」人々も正にこれと同じ罪を犯していた。彼らは自分自身が正しいと理解し、このぐらいなら神も許して下さると勝手に思い上がって好き放題に放蕩していたのであるが、実際に彼らに降った判断は、激怒したモーセによる恐ろしい裁きであった。モーセの呼びかけに答えて集った人々により、この偶像礼拝に参加した者達は3000人殺されたのである。勿論、そのような事を働いた人々は、何十万人存在するイスラエルの陣営の中ではほんの一部に過ぎなかったかもしれないが、その一部によって神は大きな裁きを、陣営全体に齎されたのだということを、私たちは覚えて置いた方が良いかもしれない(ヨシュア7章25節)。
 「神を理解しつくした」と私たちが思い上がった時、人間は神を何かの形に模り、自分の理解の範疇におさめてコントロールしようとする。それは即ち、「神の座から神を退け、自身を神の位置に据える」偶像礼拝以外の何者でもない。神は常に、私たちの知恵では計り知れないことを、私たちは遜って受け入れ、認めて恐れなければならない。


 二つ目は、「淫らなことを避けよ」という警告である。引用されている民数記25章では、イスラエルと敵対するモアブが、娘達を使ってイスラエルの男達と淫らな事を行い始めた経緯を綴っている。最初、モアブの娘たちは、宿営の外にイスラエルの民を招いて共に食事をするだけであったが、段々モアブの神を拝む偶像礼拝に誘うようになり、みだらな事をすることに慣れさせ、それを日常化し、イスラエルの男達を、その不品行にのめり込ませて、「神の民である」という自らの本分を見失わせていったのである。

 その結果、シメオン部族のつかさであった筈のジムリは、宿営の中にまでモアブの女達を連れ込んで不品行を行うようになり、完全に自分自身の役割を見失うに至った。行動はどんどん大胆にエスカレートして、ジムリを始めとした不品行に溺れた男たちは、その判断能力と危機感を全て失って、神の怒りを買う者たちへと堕落したのである。

 この例によって私たちが悟らなければならないことは、性的な不品行に限らず、全ての「娯楽」が、私たちから救いを奪うものになりかねない危険なものであると認識しなければならないことである。 性風俗だけではない、ゲームでも賭け事でも、何でも、私たちがのめり込んで目を奪われるようになるなら、相対的に神は軽く扱われるようになり、やがて投げ捨てられる者へと変化していくのである。
 私たちは気づかない内に、神を退け、「娯楽に興じる自分」を信仰するようになり、自分を神とする偶像礼拝に励むようになるのである。それ故、不品行に限らずあらゆる娯楽は、偶像礼拝の入り口なのである。

 ……だからと言って全ての娯楽を投げ捨てて無味乾燥に生きる事を推奨するわけでもない。それは肥満を防止する為に餓死するまで断食せよと教えるようなものである。娯楽は、それが不品行に陥らない限り、私たちの生き生きとした人生を彩る神からの贈り物である。要は程度の問題なのだが、「ほどほど」でやめられないのもまた人間であることは覚えて置くべきかもしれない。


 三つめは、「キリストを試みることをするな」という警告である。パウロはここで火の蛇の出来事を引用しているが、これは、民数記21章4-9節に書かれているエピソードである。アロンが死んだ後、イスラエルの民 が、ホル山のエドム地方へ敗走している時に起こった出来事である。カナン人を恐れて、御心に従わず、約束の地に入ることを取りやめたイスラエルの民は、その不従順に加えて、神から与えられている恵みであるはずのマナを、「粗末な食べ物」と罵り、もっと良い食べ物を食べさせろと要求し、霊の岩である受肉前のキリストを試みて罪を重ねたのである。

 ここで、そもそも「神を試みる」という概念がどのようなものであるか、私たちは確認しておくべきかもしれない。それは、既に与えられている恵みに対して不満を持ち、更なる要求を通して、神の忍耐強さを試そうとする行為である。即ち「どのぐらいまでなら我儘が通るか」を、試そうとする行為が、「神を試みる」行為なのである。
 神を試みるとは、即ち神に法則性を見出し、コントロールしようとする取り組みに他ならない。神をコントロールして思い通りにしようとしている時点で、最早、その者は神を恐れていないのであり、神より自分自身を上に置いて、自分中心に物事を考え、自分を神として礼拝する偶像崇拝者なのである。だから、キリストを試みる罪もまた、自身を神とする偶像礼拝なのである。

 四つ目は、「不平を言ってはならない」という警告である。ここでパウロの言っている「死の使い」とは、厳密にいえば聖書の中にはそれだと言って登場するものはないが、恐らくは、食べた瞬間に大勢の民を葬った「うずらの疫病の事件(民数記11章全体)」か、「コラの粛清の事件(民数記16章全体)」のことだろうと思われる。
 若しくは、敢えて限定せず、これらの類似の物語を全て指しているのかもしれない。死の使いによって粛清されるという結末は、どのエピソードでも常に変わらないからである。

 しかし、コリント教会信徒の実情に合わせて類推するなら、コラへの粛清の事件を例に挙げるのが、最適であるように思える。何故なら、神が立てた指導者に反抗し、「神の選びは間違っている」と主張し、「自分こそ指導者に相応しい」と思い上がっているという点で、コリント信徒と、裁かれたコラ達は共通しているからである。
 「パウロにつく」「アポロにつく」と言い争っているコリント信徒は、神が建てられた教会の権威を、公然と批判しているに等しい。コラの犯した罪と同じものを、彼らもまた、犯していたのである。神のそれよりも自分の判断が正しいと考える思い上がりは、やはり自分を神の位置に置く偶像礼拝なのである。


 これらの事から、私たちはおぼろげながら、自分自身の手によって福音を投げ捨てる状況がどのような要因で発生しうるのかが見えてくるのではないだろうか。

 即ち、私たちに福音を投げ捨てさせるのは、「神よりも自分を高い」と考える思い上がりであり、神の前で自分自身を誇ろうとする驕り高ぶりである。勘違いしてはいけない。神の前に人間が誇れるものなど何もない。私たちは、ただ頭を伏して、謙遜に神を恐れなければならない。
 そうでなければ、人間は直ぐに思い上がって、神よりも自分を正しいものとし、最早神によって裁かれることそのものを否定し、拒否するようになるのである。

 神によって裁きを受けることそのものを受け入れないならば、当然その前提に則ったキリストの十字架そのものも、その者は受け入れる事が出来なくなる。その結果、神の権威を認めない偶像礼拝者は、自らの手で福音と救いの約束を投げ捨てるのである。これが、クリスチャンが滅びに至るプロセスである。だから私たちは、自身を滅びに至らせる罪から、少しでも遠ざからなければならないのである。
 同時に、パウロのように、自分自身がどこまでいっても、決して滅びに至る罪とは無縁ではないのだと言うことを自覚しなければならないし、今自分が歩いているのが神の前に立つ為の旅の途上にあることを自覚して、より大きな危機感と共に、信仰生活を送らなければならないのである。


〇7節
 「なってはいけません(ギ:メデ)」は強い否定の言葉である。偶像礼拝者になってはならないという警告は、私たちに対して強く行われているものである。後に語られる三つの罪も、最終的には自信を神とする偶像礼拝の罪に連なる為、同じメデが用いられて、そうならないように警告を行っている。

 「偶像礼拝者(ギ:エイドロラトライ))」とは、偶像を礼拝する人々である。偶像とは、この天地を創られた神以外に、神を名乗る全ての存在である。通常の宗教的な神に加え、神よりも優先されるあらゆるものが偶像になり得る。人は、そのような偶像に生き方を随分縛られて生きることを余儀なくされているが、これらのものが、天の父なる神という絶対的な存在と入れ替わるようなことは、絶対にあってはならない。

 「ある人達(ギ:ティネス・ウートン)」は、一部の人間を指す言葉であり、出エジプト記の記事の中で偶像礼拝を行なったのはイスラエル全体ではなく、ほんの一部の人々であったことを、改めてパウロが確認している部分である。コリント教会に限らず、教会の中に起こる罪は全員が全員それに陥っている訳ではなく、書かれている通りごく一部が陥るものである。コリント教会もその辺りは同じであったはずで、パウロが指摘している罪に陥っている人々は全体では無かったことだろう。しかし、例えそれが一部の人々の過ちであったとしても、共同体全体の罪として、教会は責任を取らされることになるのである。

 具体的に7節の罪については、神が下された罰則については書かれていない。しかし、彼らが偶像礼拝を行なったことで、与えられた律法の石板はモーセによって破棄されたのであるから、救いの約束が取り去られるだろうことは十分に予測できると思われる。


〇8節
 「淫らな事を行なう(ギ:ポルネウオウメン)」は、主に姦淫を指す言葉であるが、第一義的には買春、売春の両行為を指し示す言葉である。この淫行に関する2万人以上の人数の死亡については、先述の通り、民数記25章に纏わるモアブの娘とイスラエルの一部の人々の話ではあるが、それに対する裁きはとても大きなものであった。


〇9節
 「キリストを試みる(ギ:エクペイラゾウメン・トン・クリストン)」と書かれているこの言葉については、言葉の意味に加えて、その指し示すところを考えるべき単語である。何故神ではなく、敢えて「キリストを試みる」と書かれているのかについて、私たちは良く考察しなければならない。

 荒野の中で、イスラエルの民は度々神を試みるような事を行った(水を出せとか、肉を食わせろとか)。それらの神を試みる言葉とは、一体どのような心から生まれてくるのだろうか。それは、神の力を疑う心である。神の力を過小評価し、「神は自分達にこれは与えられないだろう」などと侮って、試みるようなことを呟くのである。

 神の約束を、その通り実現させるのは、「神のことば」たる、受肉前の子なる神キリストである。即ち、神の約束と、その実現する力を疑って侮ることは、神のことばである受肉前のキリストを侮ることなのである。
 これは、現代のクリスチャンの時代においても何も変わらない。神の約束を疑い、御言葉が実現する力を侮る事は、キリストを試みることなのであり、それは我らの主への冒涜なのである。そのような「冒涜」を続けることを良しとするならば、最早私たちは何も信じらなくなり、やがて罪の救いと福音の約束も、「戯言」であると切り捨て、投げ捨てるだろう。


〇10節
 「不平を言う(ギ:ゴンギュゾウ)」とは、呟く、不平を言うという以上の意味はない単語である。但し、ユダヤ教に於いては、何をもって「呟く」とカウントされるか、何に対して「不平を言う」と判断されるのかが、非常に重要であると考えられる。
 私たちが、自分の直面した不幸や、悲しみに対して、それを純粋に嘆いたり、悲嘆にくれたりする感情を口で言い表す事は、「呟きに」値するだろうか。多くのクリスチャンは、これも含めて「呟き」であると考えるが、実は罪ではない。

 根拠としてはヨブ記三章における、ヨブの言葉である。彼は自分の生まれてきた日を呪い、この様に苦しい思いをするぐらいならば、自分は生まれてこない方が幸いであったと、口に言い表しているが、彼が罪を犯したとは書かれておらず、ヨブ記が終わっても尚、ヨブは義人のままであった。

 「呟き」とは、自分の受けている状況に対するネガティブな発言を指し占めすものではなく、神様の為さる御業や、選びや、与える恵みに対して否定的な意見を言い、その判断が間違っていると非難する行為を指す。

 即ち、神の与える恵みが少ないとか、神の行動は間違っているとか、神の選んだアイツより自分の相応しいとか、それら全てが神に対する「呟き」の行為である。

 コリントの人々も多聞に漏れず、パウロやアポロ、ペテロなどを持ち上げて、他の教師を非難した。キリストを持ち上げた人々については、自分達の教師に相応しい物など一人も居ないとすら主張していたようであるのだから、彼らは、神の建てた権威に対して、思い上がって意見を口にし、「呟いた」、または「不平を言った」のである。


〇11節
 「戒め(ギ:トゥピクオス)」は、痕跡、様式、原型、見せしめ、予表といった意味のある単語であり、恐らく見せしめという意味合いで戒めと訳すことが可能である。勿論、見せしめと言う意味合いもあるだろうが、それ以上にこれは予表であり、将来、罪によって福音を投げ捨てる者がどのようなことになるのかを指し示す為の現われであろう。

 「教訓(ギ:ノウセシアン)」は、厳密に、忠告、訓告、警告といった意味を持つ単語であり、これらの事が、私たちが御力外れないように用意されたものであることを、はっきりと指示していると言うことが出来る。

 ある人々が、神に逆らって裁かれたと言うだけであるならば、それらの事は厳密に記録に残しておく必要があっただろうか。しかし、事実記録は残り、後の世に至るまで、予め裁かれた人々のことを私たちは知る事が出来る。神は、私たちが滅びの内に入る事を望んでおられない。それ故に、なんとかして、私たちが一人でもこの警告に気づき、世の終わりの時に本当の意味で滅びに投げ入れられる、「失格者」にならないようにと呼びかけているのである。私たちは、自分自身の意思で、神からの選びと、また救いと、福音の約束を投げ捨てる事が「出来てしまう」。だからこそ、私たちは自分自身を信用してはならない。自分の心の心変わりなど、誰も予想する事は出来ないのである。それ故に、私たちは、これらの訓戒を重々胸に刻み、少しでもリスクを回避して、罪に近づいてはならない。自身を神とし、神を退ける事が無いように。思い上がることなく、常に謙遜に神に仕えていくべきである。
 

2.詳細なアウトライン着情報

〇滅びに至る罪について
7a あなたがたたは、彼ら(イスラエル人の先祖たち)のうちのある(いちぶの)人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。
7b 聖書には、こう書いてあります。
7c 内容:「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」

8a また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。
8b 彼らはそれをして、一日に二万三千人が倒れて死にました。

9a また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。
9b 彼らは(火の)蛇によって滅んでいきました。

10a また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。
10b 彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。

11a これらのことが彼らに起こったのは、戒めの為です。
11b また、それが掛かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とする為なのです。


着情報3.メッセージ

『滅びに至る罪』
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章7〜11節
中心聖句:『これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。』(コリント人への手紙第一10章11節)
 2023年8月13日(日)主日礼拝説教完全原稿

 十字架の救いを信じ、洗礼を受けて置きながら、自分でその救いを投げ捨てるような結果になる時、私たちは「失格者」と呼ばれてしまいます。そのような結果を引き寄せるのが、私たちが避けるべき「滅びに至る罪」であることを、パウロは7~11節で、コリントの人々へ警告します。そのような事にならない為、私たちはどのような罪から離れるべきなのでしょうか。

 一つ目は、「偶像礼拝の罪」であると、パウロは教えています。「民は座っては食べたりのんだりし、立っては戯れた」と出エジプト記の32章6節で引用されている通り、民は、自分達の思うように神様の形を決めつけようとして、天地万物を創造された父なる神様を「見てわかりやすい」金の子牛の像で表し、貶めました。神様を、自分にとって分かりやすいものに作り替え、理解した気になって思い上がり、神様をコントロールしようとしたのです。それは神様を自分より下に置き、自分自身が神になろうとする偶像礼拝に他なりません。神様は、人間の知恵では理解することのできない偉大な方です。このことを遜って認めない限り、私たちはいつか、神様そのものを軽んじるようになります。そして、福音を自分の手で投げ捨てるのです。

 二つ目は、「淫らなことをおこなう罪」です。民数記25章全体では、モアブの娘たちの誘惑によって、淫らな娯楽にのめり込んだ人々が、神の陣営で白昼堂々不品行に励む程に堕落する様子が記されています。「淫らなこと」に限らず、私たちの心の内で、娯楽は大きな割合を占めるものです。これにのめり込めばのめり込む程、私たちは物事の区切りが付けられないようになり、弁えるべき場で、正しい行いが出来なくなっていきます。礼拝中にスマホを弄ったり、仕事中にやりかけの娯楽が気になって上の空になったりすることは珍しくありません。しかし、神様より娯楽が優先され、聖務が疎かになるならば、それは最早偶像礼拝です。私たちは神様に背を向け「娯楽に興じる自分」を礼拝し、自分の手で福音を投げ捨ててしまうのです。

 三つ目は、「キリストを試みる罪」です。ここでは、民数記21章4~9節の火の蛇の事件が引用されています。神様を試みるとは、「どのぐらいまでなら神様に我儘を言っても良いか確かめる」行為を指します。それは即ち、神様の約束を実現して下さるイエス様を、自分の思い通りに制御しようという試みに外なりません。神を自分の思い通りにしようという考えは、やはり神様を退けて、福音を投げ捨て、自分を神として礼拝する偶像崇拝に外ならないのです。

 四つ目は、「不平を言う罪」です。これは、民数記11章全体で、モーセとアロンを選ばれた神様に不平を言って裁かれた、レビ人コラ達の事件などを始めとして、聖書の多くの箇所で見られるイスラエルの常習の罪です。これらの罪の本質は、「自分の方が神より正しい」と、思い上がるところにあります。これもまた、自身を神として礼拝する、偶像礼拝なのです。

 結局のところ、私たちを失格者にする「滅びに至る罪」は、自分を神として礼拝する偶像礼拝によって引き起こされるものなのです。神様より自分を上に置く時、私たちは神様との良い関係を失い、自分で救いの約束を投げ捨ててしまいます。神様は、私たちより知恵ある方であり、常に最善を為して下さる方です。もし、私たちが思い上がらず、謙遜に御言葉に従って応答していくならば、神様は悪いことも、全て善いことに変えてくださり、私たちを導いてくださるのです。ですから、神様を恐れ、信頼することを忘れず、遜ってお仕えしていきましょう。





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