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牧師の説教ノート(8月27日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙10章12〜13節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 「失格」について語るパウロの言葉も、今回の12〜13節で結論に至る。パウロは、実践的な観点から、自分が救いに入って揺るぎないと安心している人々に対して「倒れないように気をつけなさい」と警告する。私たちは、キリストの十字架によって罪が赦され、洗礼を受けて救いの中に入れられている。しかし、私たちはそのような揺るぎない救いと同時に、危うい「失格」の危険もはらんだ信仰生活を歩んでいるのである。

 これまで幾度も学んできたが、私たちは、何をもって「失格者」となるのか、十分に把握した上で、倒れないように気を付けなくてはならない。この「失格」について正しく把握していなければ、私たちの信仰生活は空回りする可能性もあるのである。

 私たちが、与えられた救いを失いうる可能性については、カルヴィニズムと、アルミニアンの両者が主張している「聖徒の堅忍」と、「救いを選ばない意志」の対立の問題である。
 平たく言えば、カルヴィニズム側の「神に選ばれて招かれた人々が救いを失うことは有り得ない」という意見と、アルミニアン側の「私たちは自分の意思によって、神の選びを拒絶する事ができる」という意見の対立であるのだが、どちらの論を取るにしても、「失格は起こり得ないか、自分で拒絶した場合にのみ起こり得る」という結論になり、自分の知らない内に失格になっているという事象は起こり得ないとされている。

 「実際に、洗礼を受けながらそれを投げ捨てている人々もいるではないか」という意見に対しては、「信仰を捨てて滅んだ人々は、本当は再生(救われて)していなかったのだ」という定番の返答があるが、これを採用すると、結局死ぬ時まで、誰が救われているのかは判らないという反論をされる可能性もある。

 何にせよ、「失格」とは、自分の意思で「救いを要らない」と決断した結果起こる現象であり、そのような状態に陥ってしまった人々のことを「失格者」と呼ぶという所に変わりはない。少なくとも、「私は救いを失いたくない」と心を痛めている限りは、私たちの心の内の救いは健在である。

 そう聞けば「ならば、私たちが救いを自分の意思で投げ捨てるということは絶対に有り得ないのだから、私たちが何をしても、どのような罪を積極的に犯しても救いから漏れる事は無いのだから好き放題すればよいではないか」と、考える輩も出てくるかもしれない。
 しかし、私たちが弁えなければならないのは、「そのような考えが心の内にある時点で」、その者は神を恐れる者ではありえないということである。人間は、潜在的に神に成り代わって、自分が神になりたいという欲求を心の内に抱えている。創世記のイヴも、その欲求を蛇に付け込まれて知恵の実を食べたのである。

 結局、私たちは色々と理由をつけて、神の為ではなく、自分の為に好き放題する方法を模索しているのである。私たちの心の内に、「神ごときが、この私の行動に意見をするなどありえない」という思いがあるからである。
 「神ごときが、私に指図するなどありえない」「神ごときが、私の予定を狂わせることなどあってはならない」「神ごときが、私の持ち物をもっていくことなどありえない」「神ごときが、私を裁くなど生意気である」と、結局私たちは何と言おうがそう思って、神の御言葉を受け入れないのである。

 「私はそんな大それたことを考えてなどいない」と、ある人は言うかもしれないが、しかし、神に従わないとは結局そういうことなのであって、その想いに囚われて支配されたとき、私たちは失格者となるのである。自分にはそのような危うさがあり、そのようなことになることを真に恐れる時、私たちは本当の意味で謙遜になることができる。万が一にも、自分のそのような部分が表に出る事が無いように、思い上がる事が無いように、パウロも常に自分の肉体を打ち叩いて服従させていたのである。


 しかし、感謝な事に、そのような思いが表に出そうになる時、常に共に歩んでいる神御自身が、私たちを助けて下さる。私たちは折々で多くの試練を与えられるが、神は真実で正しい方なので、私たちが耐えられない試練に合わせることはないと、パウロが証言している通りである。

 事実、この世の中には私たちの心境を変化させる「誘惑」や「試み」「試練」が非常に多い。それによって私たちは常に「心境の変化」に迫られ、「自分自身を神に祭り上げる」誘惑に晒されながら生きている。私たちが、この世界の中で神の前に正しく生きる事など不可能であるかのように思われる程である。

 しかし、事実、神は私たちがどの程度の試練に耐える事が出来るかどうかを把握されている。何故だろうか。それは、神御自身が、常に私たちと共に行動して下さっているからである。
 神は常に、私たちの隣に居られ、共に歩き、時には立ちふさがり、私たちがくじけた時にはおぶって歩いて下さる方である。だからこそ、私たちがどのぐらいの試練にならば耐えられるかを、当事者のようによく知っておられるのである。

 また、そのような神であるからこそ、私たちには脱出の道も用意されている。脱出の道とは何だろうか。それは、隣に居られる神御自身である。私たちは試練の時、それに耐えられないと感じる時、隣に共に居られる神に助けを求めることができる。神は真実で正しい方であるから、私たちが助けを求めた時、必ず助け出して下さる。私たちの心が変わらないように固く立たせ、また、信仰の火が消えないように守って下さるのである。

 先週は詩編88篇を学んだが、その88篇の中でも詩人がマスキールとして刻んでいたように、神は天に向かって両手を差し伸べて求めるものではない。勿論天におわす方ではあるが、しかし、神は遍在される方であり、私たちの隣にも居られる方なのである。
 「神は、上ではなく隣にいる」。これが私たちクリスチャンが弁えるべき信仰の奥義である。
 もし、その奥義をしっかりと弁え、神が共に居る事を心から信じ、また、自分自身がその方を蔑ろにして神に成り代わろうとしかねない危ういものであるということを恐れ、本当の意味で謙遜に神に従おうとする時、神は私たちを喜んで受け入れて下さり、永遠の命に至る道を開いて下さり、私たちを「合格者」にしてくださるのである。


〇12節
 「立っている(ギ:イステナル)」とは、立つ、確定する、という意味があり、救いが確定していると思い込んでいる人々に対しての言葉である事が判る。人生はまだ長く、神の前に立つ日までの時間がどれほど続くかわからないにも関わらず「立っていると思っている」人々は、既に自分の救いが完成して、主の日を迎えてしまったかのように勘違いしているのである。
 もし、そうであるならば、彼らは、今後、自分が救いを失いかねない状況に陥る可能性をまるで考慮していない。それ故に、他人を平気で躓かせたり、平気で罪の中に踏み込んだりと、好き放題行うことが出来るのである。
 しかし、それが大きな勘違いであることは明らかである。もし、その事に対して注意を払わないならば、彼らが失格者に陥る日はそう遠くないだろう。

〇13節
 「経験した(ギ:エイレフェン)」は、取る、握る、受け取る身に着ける、という意味の単語であり、手に持って見たことがあるといったニュアンスを持つ。「人の知らないもの(ギ:メ・アンスロウピノス)」は、否定の「メ」と、人間属するものという意味の「アンスローピノス」が組み合わさったものであり、私たちの知らない、分を越えた誘惑や試練が与えられる事は無いといった意味の表現を読み取る事が出来る。

 地震や災害といった、人間の手でどうにもならないものもあるではないか、という反論も予想出来るが、「対処できるかできないか」であって、「コントロールできるかどうか」では無い事に注目しなければならない。現状、どのような災害や病害が起こっても、人間はそれに対して対応し、復興する事が出来ている。そういう意味で、13節の試練に関するパウロの言動は、2023年現在に於いても、未だ正しさを保っていることが判るのである。
 

2.詳細なアウトライン着情報

〇立っていると思っている者は気をつけなさい
12  ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

〇私たちの受ける試練について
13a あなた方が経験した試練はみな、人の知らないものではありません。
13b 神は真実な方です。
13c あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
13d むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。


着情報3.メッセージ

『耐えられる試練』
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章12〜13節
中心聖句:『神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。』(コリント人への手紙第一10章13節)  
 2023年8月27日(日)主日礼拝説教完全原稿

 パウロは長らく、「失格者」についての話題を取り上げ、11節までで解説を行ってきました。私たちは、自分意志で福音を投げ捨てる時、せっかく手に入れた永遠の命を失って「失格者」となります。そう聞けば「自分に限って、そんなことなど有り得ない」と思う人は大勢居られるかもしれません。しかしパウロは、そのような人こそ気を付けるように警告するのです。

 私たちを失格者へと追い詰める滅びに至る罪は、「自分を神とする」偶像礼拝によって引き起こされると、既に7~11節で学びました。私たちは誰でも潜在的に、この天地を創られた父なる神様を退けて、自分が神になりたいと言う欲求を抱えながら生きています。最初の人のアダムとイヴですら、その欲求に負けて知恵の実を食べ、罪を犯しました。私たちは、誰もが神中心ではなく、自分中心の本性を心の内に抱えているので、根本的に神様の御言葉に従うことが出来ないのです。私たちは、「神ごときが、私の楽しみを邪魔するなどありえない」「神ごときに、私のお金を与えるのは勿体ない」「神ごときが、私の予定を狂わせるなどあってはならない」「神ごときの為に、何故私が働かねばならないのか」などという恐ろしい思いを内側に抱え、その形の表れとして神様へのあらゆる奉仕を怠ってしまいます。「いや、私はそんな恐ろしいことなど考えて居ない」と反論したくなるかもしれませんが、事実、私たちの不服従はそのような恐ろしい思いに根差しているのです。その恐ろしい思いは、最終的に「神ごときが、私を裁くなどありえない」という考えに至り、神様に背を向け、その交わりを拒絶して、手に入れた救いすらも投げ捨てて、自分自身を神にする元の信仰へと戻っていってしまうのです。

 だからこそ、私たちは一歩間違えば、自分自身を神とする思いに支配されてしまうことに恐怖し、努々注意を怠ってはならないのです。使徒パウロですら、自身が例外でないことを知っていました。それ故、肉体を打ち叩いてでも服従させ、その恐ろしい思いが自分を支配しないように警戒していたのです。パウロのように、自分自身の本性を真に恐れる必要に気づいた時、私たちは神様の前で、本当の意味で謙遜になることが出来ます。しかし、いくら気を付けたところで、この思いは誘惑に駆られた時に再燃し、私たちの心を何度でも支配しようとします。私たちはこの恐ろしい思いから、どうやって逃れる事が出来るのでしょうか。その方法こそ、他でもない神様御自身に助けて頂くことなのです。神様は、私たちがどの程度まで試練に耐えうることができるか正確に把握しておられます。何故なら、常に隣で、私たちの人生の当事者として共に歩んでくださっているからです。神様はいつも、天の上の遥か彼方ではなく、私たちの直ぐ隣に居られます。ある時には並んで歩き、時に立ちふさがり、私たちが立てなくなると、おぶって歩いて下さいます。「神様は上ではなく、隣にいる」という大切な奥義に気づいた時、私たちは試練の脱出の道が、常に隣に居られる神様御自身であることに気付くことが出来るのです。神様は真実で正しい方ですから、私たちが助けを求めれば、常に脱出への道しるべとなって下さいます。私たちはどこまでも、この神様と共に歩んでいるのです。

 私たちは誰でも生まれた時から、人生を、私たちのことを私たち以上に知っておられる神様と共に歩んでいます。だからこそ、この方を拒絶し、自分自身が神になろうとしてしまう思いから、私たちは離れ続けなければなりません。自分自身の思いを十分に恐れて注意しているならば、誰も自分が「既に立っている」などと言い切ることは出来ない筈です。私たちは、どうでしょうか。恐れて思い上がらず、本当の意味で謙遜に歩み、日々神様にお仕えしましょう。






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