1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
パウロがコリント信徒達の「賢さ」に対して挑戦するような物言いを行う場面である。
自分達の賢さによって判断するよう呼びかける15節言葉は、一見痛烈な皮肉であるように聞こえるが、14〜22節までの一連の言葉は、本当の意味で「賢く」聞かなければ理解することの出来ない難しい文脈で奥義が語られているのである。この奥義は、よく理解出来れば小学生の子供でも納得できる簡単なものであるが、しかし、うまく咀嚼できなければ、逆に混乱して信仰の躓きになるようなものでもある。これを聞いたコリント信徒達が、真の意味で「賢い」人々であったならば、この段落のパウロの勧めは大きな知恵と悟りを齎すものになったはずである(コリント第二の問題見ている限りそうではなかったようだが)。
パウロは、この奥義を説明するために、まずクリスチャンの聖餐式と、律法の和解や交わりの供え物の例を挙げ、食卓というものがそれを司る存在との強い結びつきを作り出す事を説明している。「関わっただけ」の食料や食卓そのものには何の意味も無いが、「その食卓に着くと決断することには意味がある」と、パウロは説明しようとしているのである。
偶像に捧げた肉、とは、異教の儀式に用いられた際に余った肉であり、これを食べて良いかどうかが、これまでの話題の争点であった。しかし、この問題は、実は単純な一つの話題ではなく、いくつかの話題が混在しているややこしいものである。
一つ目の話題は、市場などに売られている偶像に捧げられた肉単体のついての問題である。「宗教儀式に使われた肉は、それそのものに、宗教的な汚れだとか、何か不思議な力があるのだろうか?」という疑問について、「それは無い」とパウロははっきり答える。どんな儀式に使われようが食べ物はただの食べ物である。物理的に汚れたりしたらお腹はこわすだろうが、食物そのものが私たちを霊的に穢す事は有り得ない。これについては、既に主イエスがはっきり教えられている通りである(マルコ7章18-19節)。
二つ目の話題は、異教の神々、その他宗教的意味合いを持つ「食卓」に招かれて出かける場合ことについての是非である(8章10節)。当時、ギリシャ文化で、「〜神の食卓」と題して、夕食等食事会に招かれる機会は非常に多かった。それらが、その異教の神(すなわち偶像)に纏わる宮で行われることも多く、そこへ出かけて行って食事をするときに、自分自身が穢れるのではないかという不安が、常に信徒に付きまとったのである。現代でも、神社の縁日に子供をでかけさせるかどうかについては、クリスチャン同士で意見が分かれるものである。偶像の宮に遊びに行くという行為自体が背信であると堅く信じる親も居れば、偶像礼拝が目的でなく、縁日の屋台で買い物をしたいだけなのだから良いでは無いかと考える人もいるのである。
結論から言えば、パウロは、偶像の宮で食事をするという行為自体には「何の問題も無い」と考え、かつ、権利であるとすら語っている(8章9〜10節)。しかし、その一方で、そのような食卓に交わることは、悪霊の食卓に参加することであり、神を妬ませる行為であるとも警告しているのである。「偶像に献げた食べ物」「偶像の宮での食事行為」、この二つに問題がないのに、何故そこから帰ってきた時に、悪霊に食卓に参加したと言って戒められる事になるのだろうか。ここに、賢く判断しなければならない知恵を問われる問題がある。
まず、食卓に参加することそのものが、私たちに何か妙な穢れを齎すわけではない。キリスト教文化でない場所に住む限り、例えクリスチャンであっても、偶像に纏わる食事や祝祭の場に招かれる事は多く、そこへの賛歌を避けられないことは多い。無理に断る事も一度や二度ならできるかもしれないが、それを続けるならば、私たちは「この世から出て行く」決断を迫られることになる(5章10節)。それ故に、クリスチャンは偶像に纏わる交わりに参加することもあるのである。しかし、やむを得ず出かけて行き、その場で食事をしたからといって、クリスチャンの身体が何か宗教的に汚れることは起こり得ない。
同じく、その場で出された食事そのものが人を汚すのではない。お神酒とか呼ばれている酒を口にしたところで、私たちの霊になんらかの影響など起こり得ない。私たちの霊を汚すものは、入ってくるものではなく出て行くものであるのだから(マルコ7章18-20節)、私たちは何ら気にせず、そこにあるものを飲み食いすることが出来るのである。逆に、そこに疑いをもってはならない。キリストの到来によって、この世の全ての食物は神によって「聖い」とされたのであるから、神が聖めたものを、私たちが聖くないと言ってはならないのである(使徒10章15節)。
やはり、偶像による食物も、偶像による食卓に参加することにも問題は無いのに、何故、悪霊の食卓で交わったとパウロが戒めるような問題が起こるのであろうか。それは、前述の通り、「偶像の食卓に着くと、喜んで決断することには問題がある」ということである。偶像の食卓に招かれ、それを楽しむために出かけていき、異教の神の食卓を好ましいものとして受け入れ、その食卓の一員になる事を自分の意思で「良し」と考えた時、私たちは偶像とその背後にいる悪霊と交わり、偶像礼拝を行なうという罪に陥ることになる。この場合、「偶像など存在しないのだから、問題ない」という言い訳は通用しない。何故なら、例え偶像が存在しようが、しまいが、そこで「神と言われている存在」を、私たちは「受け入れ」、「その交わりに参加する事を良しと決断した」時点で、私たちは偶像を礼拝したと、神の御前で判断されるからである。
そして、偶像そのものは架空の創作物であったとしても、その偶像に力を与える悪霊は健在である。偶像に捧げられた肉は、悪霊に対して捧げられている。「それを食べることに意味を見出し、楽しもうとする」私たちの心の動きに、キリストへの背信と裏切りの罪が数えられるのである。
それ故、やむを得ず参加し、偶像の神の名の食卓にやむを得ず参加しただけの場合、私たちの霊が汚されることはない。悪霊の食卓に意味をもって参加する事を決断したわけではないし、形だけ食事に付き合って食べ物を食べたところで、キリストへの背信にはならないからである。
しかし、その食卓に参加する事を楽しみ、積極的にその交わりに入って返ってきた者と、やむを得ず出かけて形だけ参加して帰ってきた者と、どうやって見分けることが出来るだろうか。ここに「賢く聞かなければならない」奥義がある。それを判断することが出来る人間は、当たり前ながら存在しない。預言者サムエルですら、人間の心の中は見通せなかったのであるから、余程の根拠がない限り、私たちがその差を見分ける術など存在しないのである(Tサムエル16章6-7節)。
それ故、私たちは他人を裁く権利を、神から与えられていない(マタイ7章1〜4節)。その人が、どのような心でその行動をおこなっているかなど、その本人と、心を見通す神にしかわからないからである。それ故に、自分の心について判断できるのは、自分自身と、心を見通される神だけである。どこまでいっても、私たちは神と一対一で信仰を守っていかなければならない部分が確かに存在するのである。私たちは人を裁いてもいけないし、人から裁かれることを期待してもならないのである。
異教の神の食卓に喜んで参加することが、キリストを裏切る行為につながることを、本当に知らずにいたならば、その人はパウロの勧めている通り、ただ悔い改めて、今後そのように喜んで参加する事を避ければ良い。神は真実で正しい方であるから、悔い改めて祈るならば、それまでの行為も許されるだろう。
しかし、キリストを裏切る行為になると判っていてそれらのことを行っていた者についてはその限りでは無い。それは最早、神を嫉妬させて「遊んでいる」と言っても過言ではないのだから、その者への裁きはより大きなものになるだろう。誰かの妬みを引き起こさせて平気で居られる者は、妬むものよりの上位の存在のみである。私たちは、神を妬ませて遊ぶとき、神を下に見て、自分自身が神以上の存在となっていることを、またその事についての深刻さと罪深さを自覚して、恐れなければならない。神を妬ませても問題ないと思っているのならば、それは恐ろしいほど大変な思い上がりなのである。
そもそも、私たちは神の霊によって救われ、神の霊を受け、神の御心を知る事ができる恵みを与えられて居るのだから、何を神が厭われ、何を神が憐れんでくださるかは直ぐにわかるはずである。やむを得ず、職務として偶像礼拝に参加する事を強いられるナアマン将軍がその事を告白した時、迷わずエリシャは「安心して行け」と命じたし(U列王5章18〜19節)、アナニアとサッピラが献げものについて神と教会を欺いた時、聖なる霊はペテロを通して激しく咎め、その命さえ奪ったことを私たちは知っているはずである(使徒5章1-6節)
だと言うならば、私たちは、神の厭われる行為、まして、妬まれるような行為を「知らずにやりました」ということは、信仰に歩む限り、余程の過失がない限りおこりえないことである。私たちは、殆どの場合、「判っていて」神を妬ませてしまうのである。この、神中心ではなく、自己中心で物事を判断してしまう所に人間の罪がある。私たちは、ともすればあっという間にそのような所へ陥ってしまうことを潔く認め、自分に対して戒めなければならない。この偶像礼拝から、パウロは「避けよ(逃げ続けよ)」と、14節で厳かに命じているのである。
○14節
「避けなさい(ギ:フェウゲテ)」は、逃げる、逃亡する、避ける、免れるといった意味をもつ単語である。更に、現在形、能動相、命令で書かれている事から、今現在も尚、そうあり続けるようにという警告として語られている。
「偶像礼拝(ギ:エイドウロラトリアス)」から逃げ続ける、免れ続けるようにパウロは、命令と共に警告を行っている。この偶像礼拝とは、勿論、人間の創作した神を礼拝することを第一義的には指し示しているのだろうが、その言葉が真に指し示しているのは、「私たち自身を神とする自己中心的の心」であろうと思われる。
私たちには、罪から逃れ続けるのではなく、罪を克服することに対して、何か意味を見出したくなる欲求が少なからずあるように思われる。しかし、聖書は常に、「罪(こころみや誘惑)は克服するものではなく、逃げ続けるものである」と私たちに主張し続けている。どのぐらいまでなら近づいても大丈夫なのか限界を探ったり、また、それによって罪をコントロールしようとする考えそのものが、既に自分中心に罪を楽しもうとする偶像礼拝そのものなのである。
このように私たちは、いともたやすく神を退け、自分中心に物事を考えようとする特性がある。これを忘れてはならない。これをどうにかせよと言っているのではない。知って、弁え、恐れていることが大切なのである。私たちが真に「逃げ続けなければならない」のは、何かの事象や物事ではなく、自分中心に物事を考えようとする、私たち自身への偶像礼拝そのものなのである。
○賛美の杯
ギリシャ語文法的に釈義の必要がある場所では無いが、16節では、杯が先、パンが後という順番で描写されており、本来の聖餐の順序と逆に描写されている。
これは文脈的に21節の杯が主題になるという説明に加え、単純に「食事の交わりの象徴」が、料理そのものよりも杯にあるからパウロが前後を逆にしたのであろうと思われる(和やかな食事の始まりは、杯による乾杯から始まる)。
また、当時、食卓の最後に食卓の主によって賛美が行われ、杯が掲げられ食事の挨拶が行われることがあった。それ故、賛美の杯とは「音頭を取る」という意味で用いられてる言葉であり、杯に意味があって、パンに意味が無いといった話をしているわけでないことは確認しておかなければならない。
○肉によるイスラエル、祭壇の交わり
クリスチャンではなく、アブラハムの子孫としてユダヤ人と呼ばれている人々の事である。即ち、キリストが来る前の律法の掟の事を文学的に表現している。律法によって備えられた和解の捧げものや、交わりの捧げものと言われる者は、捧げた後に、神との交わりの象徴として、献げた一家が取り分けて食べるものであった(レビ7章11〜16節)。その食事の様子は、例えばサムエル記冒頭のハンナの祈りの記事等で描写されている(Tサムエル記1章4-9節)。
○主より強い
「強い(ギ:イスクローテロイ)」は、強い、偉大など、力関係の強大さを表す形容詞である。
自分よりも強大な存在からの妬みを引き起こした者は、妬ませた存在から当たり前のように制裁を受ける。
それ故に、主人に仕える使用人は、主人を妬ませないように、手を尽くして誠実に行動するのが普通であろう。
誰かを妬ませても問題ないのは、妬ませたものより上位の存在のみである。
同格の存在ですら危うい。いつどこでその妬みへの報復を受けるかは誰にもわからないからである。
つまり、そのつもりがあろうがなかろうが、天地を創造された神が妬むと判っていて、敢えてそれを行う者は、その神を自分よりも下の存在として見て、扱っているのである。ここに果てしない、傲慢の罪がある。
また、それは即ち、自分自信を神とする偶像礼拝にも繋がる罪がある。
私たちは、意識的にであろうが、無意識的にであろうが、いつの間にか、自分への偶像礼拝を行なってしまいかねない存在なのである。それ故、私たちは「肉体を打ち叩いてでも」そのようなことが起ここらないように、常に恐怖して己を戒め、可能な限り、その可能性を排除し続けなければならないのである。
2.詳細なアウトライン着情報
○偶像と悪霊のかかわりについて
14 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。
15a 私は賢い人たちに話すように話します。
15b 私の言うことを(あなた方自身が正しく)判断して(聞いて)下さい。
16a 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。
16b 私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
17a パンは一つですから、私たちは大勢いても一つのからだなのです。
17b 皆がともに一つのパンを食べるのですから(そうなのです)。
18a 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。
18b 捧げものを食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか?
19a 私は(このことを通して)何を言おうとしているの(かわかる)でしょうか。
19b 偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
20a むしろ、彼らが(偶像に)献げる物は、(偶像に献げているのではなく、すべからく)悪霊に捧げられている、と言っているのです。
20b 私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
○悪霊と交わってはならない
21a あなたがたは、主の盃を飲みながら、悪霊の盃を飲むことはできません。
21b (同じように)主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。
22a それとも、私たちは(悪霊と敢えて交わる事によって)主のねたみを引き起こすつもりなの(でしょう)か。
22b (そのような不遜な事を考えられる程に、)私たちは主よりも強い(神なる)者なのですか?
着情報3.メッセージ
『悪霊の食卓』
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章14〜22節
中心聖句:『あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。』(コリント人への手紙第一10章21節)
2023年9月10日(日)主日礼拝説教完全原稿
10章も後半に入り、パウロはいよいよ「偶像に献げた肉」関連の問題について、核心部分を語ります。偶像への供え物を食べたところで問題なく、また、偶像の宮で食事をしても問題が無いと語っておきながら、何故、そこへ参加することが「悪霊の食卓」で悪霊と交わることになってしまうのか、パウロは賢く判断するようにと、コリント信徒へと迫るのです。
15節からパウロは、自身を「賢い」と考えて居るコリント教会の人々に対して、「賢い人に話す」と宣言し、大切な奥義を語り始めます。「私の言うことを判断してください」とは、非常に挑発的で皮肉な言い方であるように聞こえますが、実際、この話題は、本当に良くかみ砕いて賢く理解する必要のある「堅い食物」、即ち難しい奥義の話題なのです (3章1〜2節)。
パウロはまず、クリスチャンの受ける聖餐式と、ユダヤ人(即ちアブラハムの子孫、肉によるイスラエル)が、律法の規定によって捧げる「交わりの供え物(レビ記7章11〜18節)」の二つの儀式を取り上げ、これらはどちらも、天地を創造された父なる神様と交わり、一つになる為の食卓であることを確認します。そして、それと同じように、偶像の神の名前を冠して行われる食事もまた、悪霊と交わる為の食卓、即ち儀式であると定義づけるのです。当時のギリシャでは、例えば「月の女神アルテミス神の食卓」などと題して、宗教的な晩餐会を行い、神殿や自宅へ親しい人を招き、社交することが一般的でありました。現代の名古屋でも、太閤秀吉祭りなど、神社仏閣の「御神体」に纏わるイベントは脈々と行われています。これらに参加することへの葛藤(即ち縁日に出かける事が罪に繋がるか等の悩み)は私たちを苦しめますが、この事について考える基準を、パウロはコリント教会の人々に知らせようとしているのです。
まずパウロは、偶像に関わった食物や、偶像の名前による食事会に参加するという事実そのものには、何の意味も無いことを確認しています(8章8節、10節)。その一方で、偶像の宮で積極的に食事をし、帰ってくる人々について、彼らは悪霊の食卓に参加し、天地を創られた父なる神様を妬ませていると、戒めてもいます。一見矛盾するように見えるこの言い分ですが、一体何をもって罪であると、パウロは線引いているのでしょうか。それは、自ら進んで、即ち喜んでそこに参加しているかどうかで決まります。社会的な立場上、止むを得なくそこに立ち会わなければならない場合と、自ら喜んでそこに参加する場合とでは、神様の御前で全く意味合いが異なってくるのです。私たちが、偶像との交わりを楽しみにし、積極的にそこへ出かけていく時、神様は悲しまれないでしょうか。それを判っていて尚、そこへ出かけていくというならば、私たちはキリストの交わりを裏切って、悪霊の交わりに参加していることになるのです。私たちは自分の決断と意志によって、神様からその責任を問われることになります。
私たちは、キリストの交わりに入り、神の霊を受けたのですから、天の父なる神様が何を好まれ、何を厭われるかを、聖霊様を通して知ることが出来る素晴らしい恵みに預かっているのです。それにも関わらず、私たちが自分の楽しみの為に、神様の厭われることを行い続けているならば、それは最早神様ではなく、自分を中心に行動していることにならないでしょうか。このように私たちは、いとも簡単に、神様を退けて自分中心の楽しみを優先し、自分を神に祭り上げる偶像礼拝を行なってしまうのです。ここに人間の罪があります。私たちは、キリストの心が与えられ、神の霊を受けているのですから、神様を妬ませるようなことを行ってはなりません。そのことを十分に弁えて、悪霊ではなく、神様の食卓の中で生活していきましょう。
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