1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
23〜33節の中で、偶像に献げた肉の問題について、二つの結論が語られている。
今回はその前半部分について研究を行っていく。
「すべてのことが許されている」とは、現在、コリント教会の自称賢い人々が良く使っていたスローガンなのだろうと考えるのが主流である。これについては、既に6章12節でも取り上げられている。
確かに、私たちにはキリスト者の自由が与えられており、最早律法の時代のように、数多くの禁忌を厳密に避けなければならない時代を終えている。
何故なら、私たちは既に神の御霊が与えられており、その御霊によって神の御心を知り、そしてキリストに、ひいては父なる神に出会ったことで、何が良い事であり、何が悪いことであるのかを、御霊によって判断することが出来るようにされているからである。
律法の時代には、訳も分からず、定められたルールに従って生きるしかなかったが、今の恵みの時代では神の御心、即ちキリストの心が与えられることによって、私たちは、全ての物事を判断し、各々が聖霊に従って行動することができている(2章14〜16節)。それ故に、私たちの行動には自由が許されている。
即ち、キリスト者の自由は、キリスト者が各々、御霊によって正しい判断を下す事が出来、かつ、その通りに行動するという前提によって担保されているのである。
しかし、実際にクリスチャンは、神の御心を判断することができても、それに従うことが出来ないという現実がある。私たちが、神の御心を無視し、私利私欲の為に好き放題振舞う時、私たちに与えられて居る「キリスト者の自由」は、決して本来の良い用いられ方をすることが無いだろう。
それ故、確かに私たちには全てのことは確かに許されているのであるが、それが良い結果につながることがなく、また、私たちの成長に役立つものでもない、という事態が起こるのである。私たちが神中心でなく、自分自信を神とする偶像崇拝によって、この事態が引き起こされるのである。最早それは悪霊の食卓に参加するのと同じ裁きを、自らの身に招く明確な罪である。逆に、もし、私たちが御霊によって主の御心に従い続ける限り、「すべてのことが許されている」状況は、どのように用いても、全て神の御名を褒め称え、キリストを証する結果へとつながる事であろう。
しかし具体的に、神中心の、神の御心に従う行動とは何を指すのであろうか。それこそ、「隣人を自分のように愛せよ」と言う、神もキリストも命じられた律法の鉄則を守ることだとパウロは別の手紙でも言っている(ガリラヤ人への手紙5章13〜14節)。私たちは、自分の為ではなく、他の人の利益を求め、隣人を愛しながら生活していかなければならないのである。
勿論、それは人を恐れるとか、神より人を優先するとかいう話ではない。パウロが32節でも言っている通り、「つまずきを与えない」ように極限まで配慮することが、「他の人の利益を求める」ということである。何故かと言えば、その人にとって、キリストの十字架によって救われ、福音の約束を受ける以上の利益はこの世に存在しないからである。その人が神と出会い、救われ、永遠の命を受ける以上に、その人の最善の利益は無いと、私たちクリスチャンは考える。それ故に、その人が救われるように、あらゆる妨げとなるものを私たちは排除すべきであるし、自らそれを創り出すなどという愚行を犯さないように気を付ける事こそ、私たちの行動原則の第一なのである。
このような一つ目の原則をコリント教会の人々に宣言した後、パウロの話題は市場に流通する肉に対しての話、即ち、私たちが取るべき行動の第二の原則について話し始める。それは、神から与えられる恵みについて、私たちが余計な詮索をせず、喜んで受け取るべきであるという原則である。
勿論これは、至高を放棄せよという話では無い。私たちは、社会に纏わるあらゆる罪について考え、それが無くなって行くように努力しなければならないが、それらの問題が、神が「良い」といって与えた物を喜んで受け取る妨げになってはならないのだという事を、言っているのである。神が聖別して与える恵みを、私たちが聖くないと言って拒絶することがあってはならないのである(使徒の働き10章15節)。
ではなぜ、神は、私たちに与える者について「良い」と言うことができるのであろうか。
例えば、鶏卵や鶏肉が生産されるために、生まれたひよこは選別され、オスはその場でミキサーに放り込まれ無残に殺される。その様子は、少し動画を検索すれば私たちも直ぐに見る事が出来る。このようなことが当たり前のように行われている中で、卵や肉は生産されている。ブロイラーの鳥が受ける箱詰めの仕打ちや、牛が受けるあらゆる劣悪な環境は、社会全体が豊かになる為の効率的な「必要悪」である。私たちがその恩恵にあずかっている以上、私たちもまたその社会的な罪に巻き込まれている。
宗教的な穢れがあろうがなかろうが、現代の目の前にあるあらゆる食べ物は罪に塗れている。しかし、神はそれを「聖い」といって私たちに与えるのである。
それこそが、パウロの言っている通り「地とそこに満ちるものは主のものである」という御言葉である。
既に、地とそこに満ちるあらゆるものは、主キリストが、自らを献げた十字架の血潮によって買い取られているのである。キリストは、私たちが個人的に犯した罪だけでなく、あらゆる社会的罪、私たちが連帯して追わなければならない、恐ろしい巨大な罪を贖う為にも十字架に架かって下さった。
それ故に私たちは、目の前に与えられた恵みに纏わるあらゆる罪についても、既に精算が終わり、罪の対価が支払われ、聖められたキリストの所有物として、受け取ることができるのである。
これらの考え方は、私たちの生活のあらゆるところで適用されるものである。
100均ショップで購入できる品物は、多くの貧しい人々に対する搾取の結果であるが、それらすらも用いて、神様は私たちの生活に必要な糧を与えて下さる。勿論、搾取の問題はいつかは解決せねばならない問題である。しかし、それはそれとして、私たちは、それを理由に、神からの恵みを受け取らず、不自由を強いられなくても良いのである。
社会的な罪に立ち向かうことと、私たちが日々の恵みを神から受ける事を、私たちは別の問題として考えることができるのである。
それ故、私たちは、自分の良心によって、目の前の与えられた神からの恵みを享受し、毎日を活き活きと過ごせばよいのである。その一方で、自分自身が社会的下層に居ようが、搾取される側であろうが、それに対して気にしてはならない。自分の置かれた所に留まるようにとは、既にパウロが教えたことであるから(7章24節)、このところは、既に与えられたその教えに合わせて、自分の生活の中で実践していくべき言葉である。
傲慢な考え方だと、信仰の無い人々は言うかもしれない。しかし、この世の人々が、「傲慢な考え方」だと評する理屈が成立するために、無限なる方の1/3という対価が支払われたという事実を、私たちは決して見逃してはならないのである。
○23-24節
「すべてのことが許されている(ギ:パンタ・エクセスィン)」は、直訳すると、「全ては合法である」となる。その言葉をもじって、「全ては利益ではない(ギ:ウー・パンタ・スムフェレイ)」と続いている。即ち「全ては合法である。しかし、全ては利益ではない」といった書き方を行っている。
同じように「全ては合法である、しかし、全てが構築に役立つものではない」と、後の言葉も続いている。
「パンタ・エクセスィン」は、恐らくコリント教会の人々が良く使っていたスローガンというか、口癖なのだろうと考えられる。確かに、全ての事は私たちにとって許されている物事であるが、しかし、私たちが注目して気を払うべきは「結果として現れる行動」ではなく、「その行動に至るまでの過程と心の在り処」であるということは、決して見落とすべきではない。
どのような結果になったとしても、それが神中心に行動し、自分の良心に咎めるところがない行動であるならば、私たちの行動は全て神によって許されたものとして扱われる。先週取り上げたナアマン将軍が、リンモンの神殿で偶像に頭を下げたとしても、それが職務の上で仕方なくであり、心が偶像礼拝ではなく、真の生ける神に向き続けているのならば、それは主が裁かれる罪とはみなされないのである。それは、預言者エリシャも、「安心して行きなさい」という言葉によって保証したことである。
それ故に、私たちは自分の結果的に表れる行動について躊躇せず、それが神の御心であり、神中心に動く結果必要になるというのならば、感謝し、ためらわずに行えばよいのである。それが遺族の慰めになるというのならば、出かけた先の葬式で線香に火をつけたらよいし、尋ねた先で未信者の人がもてなしにお酒を出してくれたのならば、その人を躓かせない為に飲めばよい。心が、目の前の人を悲しませず、躓かせない為であり、その人を神の前に導く為だというならば、その行動の結果を気にすることは無いのである(だからと言って、神の前に明らかに罪だと言われている所で踏み込んでいって良いわけではない。パウロも、全ての人の前で全ての人のようになったとはいったが、それは人を殺したり、盗んだり、だましたりするような罪ではなかった。あくまでこの話は「アディアフォラ(罪でも善でもどちらでもない)」の範疇での話である。)。
しかし、その一方で、ゲハジがナアマン将軍の贈り物を受け取った時、彼は、その邪な心の故に裁かれる者となった。贈り物を受け取ること自体は、罪でも何でも無いが、しかし、ゲハジは自分の私腹を肥やす為に、喜んで神のしもべとなった人から財産をだまし取ろうと考え、これを実行したのであるから、その心根は神によって裁かれるべき罪と見なされた。直ぐ様その心は神によって見破られ、預言者エリシャによって裁かれることなったのである。
○25-26節
「良心の問題を問う(アナクリノンテス・ディア・テン・スネイデスィン)」とは、直訳すると、「良心を理由とした詮索」という言葉になる。即ち、目の前の肉が、何かまずい過程を経て自分の為にやってきたのではないか、と、いちいち詮索することはやめよ、とパウロは言っているのである。
この考え方は、甚だしくユダヤ的でない考え方である。ユダヤ人は、このような「詮索」や「厳密さ」に徹底的にこだわって、口伝を含めた律法を全て守る事に命を懸けてきたからである。
現代も、服飾の規定に従って、服の繊維に混ざり物がないかどうかを専門的に調べるユダヤ人鑑定官は実際に存在する。
しかし、最早キリストによって新しくされた私たちは、そのような細やかな部分にこだわる必要はない。私たちの罪は全てキリストの十字架の血潮によって洗い流されているのだから、やはり、私たちが気にすべきことは、全て心の問題なのである。
良心によって詮索し、何事も疑い深く、神が与えた恵みすらも厳密に疑って「正しく」あろうとする生き方と、神の与えられた恵みを詮索せず、本当に喜んで受け取る生き方とならば、どちらの方が、神に喜ばれるであろうか。それは、神の霊、キリストの心を受けた者であるならば直ぐ様にでも判断が出来ることである。
しかし、神の霊をまだ受けていない人はそうではない。それ故に、古い時代の肉によるユダヤ人達は、その「厳密な正しさ」に拘らなければ、正しくあることが出来ないのである。しかし、最早キリストの弟子となった我々には、そのような厳密さは必要ない。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして私達の主である神を愛する事、そして、隣人を自分のように愛する事。この二つを原則に、神の霊によって、神の御心にそう行動を見出し、常に自分中心ではなく、神中心に選択を行うことを守っていれば、神は真実で正しい方であるので、過失を含め、私たちの行動を義として下さるのである(だからと言って独善的にならないように。その為に教会の兄弟姉妹達と一致することが大切なのである)。
「地に満ちるもの(ヘ・ゲ・カイ・ト・プレロマ・アウテス)」は、この地上に存在する全てのものである。とりわけこれは食物を指しているが、道具であれ、衣服であれ、私たちの生活を満たすものであるならば全て該当するであろう(当然ながら犯罪によるもの、賭博、違法な娯楽、薬物などはその中に入っていると考えるべきでないが…)。
私たちに与えられいるものは、私たちの主キリストが、恵みと一方的な善意によって私たちに与えられているものである。これら全ての物を、私たちは感謝して受けるのである。
2.詳細なアウトライン着情報
○二つの原則。
23a 全ては合法である。しかし、全てが有益ではない。
23b 全ては合法である。しかし、全てが(私たちを)建築するものにはならない。
24a 自分の為に要求する良いことではない。
24b それ(要求すること)は、他の人の為に行うべきである。
25a 市場で売っている全ての者は食べたら良い。
25b (食べ物についての)良心の故の詮索は無いようにしなければならない。
26a 地に満ちるものは、主(キリスト)からのものだからである。
着情報3.メッセージ
『地とそこに満ちるもの』
聖書箇所:Tコリント人への手紙10章23〜26節
中心聖句:『地とそこに満ちているものは、主のものだからです。』(Tコリント人への手紙10章26節)
2023年10月1日(日)主日伝道礼拝説教要旨
クリスチャンには、それが罪で無い限り、行動に多くの自由が与えられています。しかし、いくら自由があるといっても、複雑に入り組んだ人間社会の中では、自分の利益をどのように確保するか悩んだり、(それが罪でないにしても、)自分の行動について悩ましい選択を迫られる事も日常茶飯事です。時には、自分の下した決断の正悪についてすら、判断しかねる状況も少なくありません。その中で、私たちはどのように考え、信仰を保てば良いのでしょうか。
偶像に献げた肉の問題は、正にそのような決断を下しづらい問題の筆頭です。信仰に入ったばかりのクリスチャンが、他の宗教儀式に用いられた食物に近づきたくないと考えるのは当然のことです。しかし、その一方で安い肉を確保しなければ生活がままならないという現実もあります。このような「判断が下しづらい案件」は、練達したクリスチャンにとっても多く存在するものです。それ故にパウロは、判断材料の指針として、二つの行動原則を示したのです。
一つ目の原則は、自身ではなく、他の人の利益の為に判断を行動するというものです。例えば、仏壇から下げられた饅頭を差し出された時、それを食べても良いものかどうかは、クリスチャンにとって悩ましいところだと思います。大人になれば、社会的な付き合いもありますから、出かけた先で、お酒を勧められるような時もあることでしょう。そのような時には、自分がそれをどうしたいかではなく、誘ってくれる相手や、もてなそうとしてくれる相手を躓かせないように行動することが、他の人の利益の為に判断するということなのです。勿論これは、「人を恐れて行動せよ」と言う意味ではありません。やがてその人が神様と出会った時に、それまでの体験から躓かないように配慮することが、その人の利益になると私たちは考えるのです。躓きを与えないことで、他の人が妨げなく救われるように、私たちは行動するべきです。
二つ目の原則は、与えられた恵みについて、悩まず、余計な詮索をせずに、感謝して受け取るというものです。目の前で与えられた品について、それにまつわるどのような社会的罪があるのかなどは、恵みを受ける私たちが詮索すべき問題ではありません。何故なら、それは神様が、「良い」と言って与えて下さる恵みだからです。私たちには、その恵みをそれを喜んで受け取り、感謝して生活することが許されています。勿論、物品にまつわる社会的な罪を心に留め、解決に取り組むことは大切なことです。例えば、鶏肉や鶏卵が生産される為に何が行われているかを知れば、二度とそれを食べられないぐらいショックを受ける人もいることでしょうし、100円均一で売られている品が、いかに多くの人を搾取して造られているか考えれば、それを買うことにためらいを覚える人もいるかもしれません。しかし、そのような「地とそこに満ちるあらゆるもの」の社会的罪についてすらも、既にイエス様は、十字架の死によって贖って下さっています。それ故、私たちは目の前の品を詮索せず、感謝して受け取ることができるのです。これらの行動は、私たち自身が躓かない為に必要な、大切な原則でもあるのです。
私たちは、日々、神様の恵みの中で生きています。私たちに必要なものは、神様が用意して下さいますし、用意された「地とそこに満ちるあらゆるもの」についての罪も、既にイエス様が引き受け、精算して下さっています。だから私たちは、自分の利益についての全てを神様に委ね、得られる恵みを安心して受け取ることができますし、それ故に御心に適った生活、即ち、神様を愛し、隣人を愛する生き方に集中できるのです。私たちは、悩まず御言葉に従うことのできる日々を生活しています。神様に感謝しつつ、御心に適った生活を送りましょう。
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