1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
パウロが、偶像に献げた肉の問題について、判断の難しい「アディアフォラ(罪でも良い事でもないどちらでも良いこと)」に対する、クリスチャンの行動原則を二つ示したことは、24節までで確認することができた。
一つ目の原則は、他の人の利益の為に行動することである。私たちにとっての最大の利益とは、他の人が皆、キリストに出会う事なのであるから、他の人の救いの為に行動することが、第一の原則であると考えて良い。また、それと同時に、他の人の救いを阻害しないことも大切であるから、他の人の躓きにならないように行動するのも大切なことであろう。
二つ目の行動原則は、与えられた恵みについて詮索せず、喜んで受けると言うものである。これは即ち、自分自身が躓かないようにする為の行動原則である。私たちが、日々神から受ける恵みについては、それを享受して良いものかどうか、判断が難しいものも多く存在する。しかし、それらの全てを疑って、それを受け取って良いものかどうか悩んでいれば、私たちはいずれ躓いてしまうことになるだろう。
それ故に、生ける神である「主」は、キリストの十字架によって、私たちが受ける恵みに纏わる、あらゆる社会的な罪についても贖いを行って下さった。
これによって、私たちは目の前の物品に纏わる、様々な社会的な悪に対し、詮索をせず、喜んでこれを受け取る事ができるようにされた。
正に、地とそこに満ちるものは、全て主が精算して買い取られているものなのである。
クリスチャンは、これらの行動原則に加えて、この世の価値観で生きる人々とは、全く別の考え方や物の見方に従って行動している。所謂、神の国の価値観と呼ばれるものである。
それらの神の国の価値観は、全て、ある理念を趣旨に基づいて定まっていることを、私たちは確認しておかなければならない。
それこそが、「全身全霊をもって神を愛すること」そして、「隣人を自分のように愛する事」の二つである。
そのうちの「全身全霊をもって神を愛すること」という理念を更に細分化すると、「全ては神の栄光を表す為に行動すること」という、今回パウロが、コリント信徒に教えている理念の一つになるのである。
この理念に基づいて行動することで、私たちは与えられた御言葉の命令や、聖書の原則を正しく運用していくことができる。今回、パウロが例に挙げている、偶像に献げた肉の問題や、食事に出かけて行った先での振る舞いの問題についても、全てこれらの理念に基づいて、原則を上手く運用することで、クリスチャンとして、適切な正しい行動を取る事ができるのである。
例えば、27節から、信仰の無い誰かに招待され、その食事会に行きたいと思う時というケースが書かれているが、これも、この神の栄光を表す為に、行くべきか否か、と考え、決断した前提に基づいて話が進んでいることが判る。
私たちが、食事会に招待されるようなことになった場合、私たちはまず、自分が行きたいか、そうでないかで判断を降そうとする。面倒で億劫に感じた場合、当たり前だが「行きたくない」と思うことだろう。その場合、「神の栄光を現わす」という基本理念を忘れてしまっているならば、「相手が躓かないようにうまいこと断ったらそれでよい」と判断し、可能な限り行かないで済む方法を考える事だろう。
しかし、それは基本的な理念に反する行動である。何故なら、自分を食事に招待してくれる親しい未信者が、キリストに出会って救われる事は、明らかに神の御心に適うことであるし、神の栄光が現れることだからである。わたしたちは、可能な限りその人が救われる為に良い交わりを保ち、その人が、クリスチャンと交わることに好感を覚え、それが神と出会うきっかけになるように、あらゆる出来る事を行うべきである。
したがって、基本的な理念に基づいて行動する限り、喜んで「行こうと思う」以外のケースは存在しないということになるのである。パウロはあっさりと書いているが、この行く決断を喜んで行うこともまた、神の国の価値観と、理念、原則に基づいて下されるべき決断なのである。
食事会の中で、目の前に出されたものを、どれも詮索せずに食べることもまた、「神の栄光を現わす為」という理念に基づいた行動である。出されたものについて、それを根掘り葉掘り尋ねて疑うことは、もてなそうとしてくれる相手の善意を傷つけ、踏みにじる結果につながってしまう。
それに加えて、せっかくだされた持て成しの品を食べることに気後れしてしまえば、そのような心の動きは、必ず自分の身振り手振りに反映されて、招いてくれた相手を心配させることになってしまうだろう。だから、私たちは、招いてくれた人の利益の為に、また、その利益によって神の栄光が現れる為に、キリストの十字架の贖いに信頼して、出されたものを詮索せず、感謝をもって全て食べきるのである。キリストの十字架の血潮によって、全ての罪が精算されていることを良く知っていれば、恐れず感謝して食べる事ができるのだから、相手を救いに導く為に、善き交わりを作るという目的に対し、全力で集中することが出来るだろう。
28節から取り扱われている、その場の誰かが、「これは偶像に献げた肉です」と告げた場合についても、結局は同じ事である。いくつかの注解書で、この部分については解釈が分かれているが、どの解釈を採用したとしても、私たちがやるべきことも、弁えるべきことも同じである。恐らくパウロは、次から宣べるいくつかのケース全てを包括して、このことを言っているのであろう。
一つ目は、同席した信仰に入って間もないクリスチャンが、それを食べても良いかどうか悩んでいたり、また、それを自分に対して申し出てきた時である。実際にそれは食べて良いものなのであるが、信仰に入ったばかりの全ての人が、「キリストの十字架によって精算されたものを、感謝して受け取る」ことを、直ぐに実行できるわけではない。心の準備の為に時間が必要なこともあるだろう。
もちろんその場で、「キリストの十字架による、地とそこに満ちるものに対しての清算」について説明することは可能である。しかし、その説明で、一時その兄姉が納得したとしても、後に思い返して躓きにならないとは限らない。
信仰に入ったばかりの兄姉が躓くことは、神の御心であり、神の栄光が現れることだろうか。当たり前ながらそうではなく、そのようなことがあってもならないので、その「肉を食べない」という選択を、私たちはとるのである。
二つ目は、同席した未信者の人が、こちらの信仰を理解した上で尋ねてくれている場合である。自分自身は信仰に入っていなくても、私たちがクリスチャンであるということに好感を覚え、かつ理解を示した上で、好意的に交流してくれる人、というのは、この世に一定数存在する。「彼はクリスチャンだから、夕食の時にお酒を勧めるのはまずいかもしれない」とか、「お仏壇から下げてきたお饅頭を出したりしたら、食べるに食べられなくて困るかもしれない」とか、色々と、完全な善意によって彼らは気を使ってくれるのである。
そのような流れで、「これは、(自分達の)神にささげた肉をつかった料理なのだが、クリスチャンの君に出しても良いものだったかな?」と、相手が確認してくれた場合、当然忠告してくれたその人は、「クリスチャンは、他の宗教儀式で用いた肉は食べられない」ことを前提に忠告してくれているのであるから、当然、その善意を無駄にしない為に、私たちは肉を食べずに遠慮すると言う決断を行うのである。
この様なケースは他にも存在する。キリスト教を良く知らない、外部の未信者の人々は、一般的な共通理念として、「クリスチャンは清く正しい聖なる人々だ」というイメージを少なからず持っていると考えられる。実際にはそうではない、罪が赦されただけの罪びとの集まりなのである事は、救われた私たちが一番よく知っていることなのであるが、可能な限り、私たちはそのイメージを崩さないように行動すべきである。実態はどうあれ、外部の人が持つそのようなイメージは、私たちを救ってくださったキリストに、そして聖なる神に連なる者のイメージとして適切なものであり、神の栄光を表す為に有益なものであって、私たちが目指すべき理想の姿だからである。
このように、全ての物事は、「神の栄光を表す為」という理念に基づいて決断が下さるべきである。私たちは、その理念に基づいて、パウロがそうしたように、全ての人々の救いの為に仕え、身を粉にして、日々働いていくのである。
○27節
信仰の無い(ギ:アピストス)は、信じられない、信じない、不信仰、不信者という意味のある単語である。今回の箇所では、純粋に、まだ信じていない人、または異教の信仰を持つ人を表す為に用いられていると考えるのが妥当に見える。
使い方によっては、攻撃的、敵対的な意味合いを持つ単語になるが、お互いに、食事会に招こうと思い、かつ、それに対してクリスチャン側も「行こう」と判断するぐらいなのだから、善き関係を持つことが出来てはいるが、まだ信じるに至っていない人、ぐらいに考えた方がよいだろうと思われる。
行きたい(ギ:ポレウオマイ)は、単純に出かけるだけでなく、活き活きと道を行くというニュアンスのある単語である。少なくとも嫌々ではなく、良い感情を持ってそこへ出かけて行こうとする時に使われる単語であるので、招いてくれた未信者、異教徒のホストと、自分自身が良い関係、良い交わりを持っている状態を想定することが出来る。良い交わりを持っており、この人に宣教出来たらと考える事は、日本人クリスチャンならば、誰でも体験していることだと思われる。そのような人々に対して、証の立つ行動を取り続けることは、自分の感情の上でも、また神の御心にもかなうことであろう。
○28〜30節
偶像に捧げた肉と訳されているここは、神に献げた肉(ギ:ヒエロストン)と書かれており、偶像に捧げた肉(ギ:エイドロストン)とは、すこし違うニュアンスを持っている。
恐らく、先にも説明した通り、招待してくれたホスト自身が、クリスチャンの信仰に配慮して教えてくれるパターンも想定されているので、ヒエロストンの単語が使われていると考えられる。また、信仰の浅い、または入って間もないクリスチャンは、まだ確信をもって「偶像(エイドロス)」と言うことが出来ず、ヒエロストンという単語を使ってしまう場合も考えられる。
どちらかのパターンだけだと限定して考える事は、文脈を狭める結果となり、適切ではないのではないだろうか。
「良心(ギ:スネイデシス)」は、主に、意識、自覚を示す単語で、神への良心という意味合いも持つ。自分自身の良い意識、モラルといったニュアンスのある単語でもある。神への良心という意味であるなら、それについて頭の中でしっかりと整理のついているクリスチャンにとって、偶像の肉を食べた程度でそれが乱される事などありえないだろう。しかし、信仰に入ったばかりのクリスチャンや、未信者はそうではない。
そういう意味合いで、自分の良心ではなく、相手の良心に合わせるようにとの勧めがはいっているようである。
しかし、勘違いしてはいけないのは、私たちは、人を恐れて他の人に合わせるわけではないということである。他の人が、自分の価値観によって私たちをどうさばいて来ようと、私たちは自分の良心に従って行動するし、それを評価されるのは神である。それ故に、人を裁くという行為には何の意味もないし、それをされることによって、自分に何の影響も無いと言うことを、私たちは心に留めておくべきである。人から何を言われても、私たちという存在そのものには何の影響もない。それ故に、私たちは人を恐れる必要はまったくないのである。
むしろ、恐れるべきは魂が失われ、主御自身から裁かれることである。他の人を躓かせないことは主の為であり、他の人の利益を求めるのもまた、主の為である。私たちが使えているのは主であり、他の人にではない。それ故に、私たちは神の栄光が現れることのみを求めて行動するのである。
○33節
原文を見ると、パウロは自分の利益ではなく、全ての人の利益を追い求めている、と語った上で、「それは、多くの救いの為(ギ:ヒナ・ソトシン)」という補足を加えている。従って、パウロは、自分の理になる事ではなく、多くの人が救われると言う利益を追い求めて、「全ての事について喜んで奉仕している(ギ:パスィン・アレスコウ)」と語っている。新改訳2017では「楽しませようと」と訳されているが、これは文脈的に人の機嫌を取る為という解釈に繋がってしまう恐れがあり、適切ではないかもしれない。
2.詳細なアウトライン着情報
○食事に招かれた場合
27a あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、
27b 自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
○肉を食べてはいけない場合
28a しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
29a 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。
29b 私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。
30a もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。
○神の栄光を表すという理念に基づいて
31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。
着情報3.メッセージ
『神の栄光の為に』
聖書箇所:Tコリント人への手紙10章27〜33節
中心聖句:『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
』(Tコリント人への手紙10章31節) 2023年10月8日(日)主日礼拝説教要旨
私たちクリスチャンが、いつでも迷いなく行動することが出来るように、パウロは偶像の肉の問題を取り扱う事によって二つの行動原則を示しました。それは、他の人の利益、即ち他の人の救いの為に行動すること、そして、自分自身も躓かない為に、与えられる恵みを詮索せず、感謝して受け取ることという原則です。パウロは、この行動原則を教えた後、27節から、これらの原則が、「全ては神の栄光が現れる為」という基本理念に基づいていることを語ります。
基本理念はとても大切なものです。どのような原則に基づいて行動していても、その理念を理解せずに行っているならば、それらの行動の全ては形骸化してしまいます。旧約聖書に書かれた神様の律法も、それを受け取ったユダヤ人達が、「神を愛し、隣人を愛する」為に定められていると言う律法の基本理念をまるで理解していなかった為、形だけ決まりを守っていればそれでいいと考えて形骸化させてしまい、後に来られた子なる神であるイエス様を、大いに呆れさせることになってしまいました。私達クリスチャンも同じです。「神の栄光が現れる為」と言う大切な理念を見失ってしまえば、決して正しく行動することは出来ないのです。
例えば、良い関係を持つ未信者の知り合いから、異教の風習に基づいた食事に誘われたとします。その誘いに対し、私たちが「億劫だ」と思い、他のクリスチャンの目を恐れて、「行きたくない」とも思ったとします。その時、原則を形だけ守っているような人ならば、丁重に断って相手を躓かせなければそれで良いと考えることでしょう。しかし、これらは「神の栄光が現れる為」に判断するべきことです。未信者の友人が救われることは、確実に神様の御心なのですから、私たちは神様の栄光が現れる為に、喜んで行こうと思わなければならないのです。
出かけて行った先で、出された料理を詮索せずに食べる事も、全ては「神様の栄光が現れる為」に行われることです。善意でもてなそうとしてくれている好意を喜んで受け取り、未信者の人に「クリスチャンとの交わりが豊かなものである」ことを体験してもらうことは、神様の御心に適う、その栄光が現れる為の行いになるからです。28節でパウロが言っていることについても、臨席した誰かが、私たちの信仰を気遣って「これは別の宗教の儀式に用いた肉である」と教えてくれた場合、神様の栄光が現れる為に、私たちはそれを食べないという決断を行います。彼らの善意に感謝し、忠告に従って、その肉を食べないで置くならば、彼らを躓かせる結果にはならないからです。丁寧に説明すれば、食べても問題ないのかもしれませんが、人間の心の中を見通すことなど私たちには出来ないのですから、相手を躓かせ、神様の栄光が万が一でも汚されないように、肉を食べないと言う確実な決断を、私たちは行うべきなのです。
このように、私たちは、いつも神様の栄光が現れる事を求めて、私たちに関わる他の人々が一人でも多く救われる為に行動します。また、自らも躓かないように、神様の恵みを受け取りながら、神様と共に活き活きと過ごす道を選択し続けるのです。この理念をよく理解し、与えられた行動の原則に従って生きている限り、神様は私たちに大きな恵みを与え、他の人に分け与えても尚余りある、素晴らしい毎日を過ごさせてくださいます。私たちが救いを堅く保って、この世の終わりの時にイエス様にお会いすることもまた、神様の栄光が現れる行動だからです。パウロはそれを十分に理解した上で、人間の目を恐れて自分の利益を求めず、神様の栄光だけを求めて、常に他の人の救いの為に身を粉にして働き続けました。私たちはどうでしょうか。神様の栄光が現れる為に、喜んで他の人が救われるように、日々お仕えしましょう。
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