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牧師の説教ノート(10月22〜29日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章1〜16節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の中では、時事的な問題を取り扱う場面である。
 パウロは時事的な問題を取り扱っているが、結局、この章を通して話している事は、10章までで触れられた内容の応用であり、神の国の価値観に基づいて判断し、肉に属する者の価値観を選び取らないようにという勧めなのである。

 今回、開いた聖書の箇所については、2000年後にこの手紙を読む私たちが把握しなければならないことがいくつかある。
 それは、当時のコリント市や、コリント教会に於ける男女の服装の情報の客観的資料が残っておらず、どのような状態が「正常」であったのか、解っていないということである。

 もう一つは、今回のパウロの主張の何処までが神の言葉であり、どこからが当時の時事に即したパウロ個人の使徒としての勧めであるのかの区分けの結論が出ていないことである。

 聖書に書かれている御言葉は、当時の時代には有効ではあるが、時代の移り変わりとともに、神の教会の文化が変遷し、適応されなくなるものもある。キリストの到来によって、私たちが、日ごとの生贄の義務から解放されたり、食事規定、祭儀規定から解放されているのが、その最たるものであろう。

 神の教会の文化は、教会のある地域の文化や風俗、秩序に基づいて判断される部分も多いので、その場その場での正解は変わっていくのである。

 当時のこの手紙は、当時の教会への処方箋として宛てられたものであり、書かれている全てのことが、字義が時代を通して普遍的に有効ではないということである(勿論、有効ではないと考えられていたところが、実は有効だったという例もある)。

 端的に言えば、現代の教会では女性はかぶりものをかぶらなくていいし、髪の長い男性が礼拝に参加していても問題にはならない。みことばにそう書かれているからと言って、慌ててかぶる帽子を探したり、髪を切りに行く必要も無い(特に理由がないなら、男性は髭を剃り、程度の差こそあれ、短髪でいることが望ましいことというのは、現代日本の社会通念と一致していないこともないが)。

 それ故に、私たちは、聖書の御言葉は字義だけでなく、文脈で読むことも求められる。例え、教会の文化背景が変遷し、状況が変わったとしても、この箇所でパウロが本当に言いたかったことは、時代を越えて有効であるし、私たちも弁えなければならないことだからである。

 まず確認したいことは、パウロは、ここで男女諭を宣べているが、決して毛髪の長短や、女性の帽子について熱弁している訳でもないということである。これらのことは、実際そのことで問題が起こっているので取り扱っているだけであり、パウロが言いたいことの本質はもっと深いところに存在する。

 パウロは、これらの問題を通して、コリント教会の信徒に、「皆で神の栄光を表す為に、教会内の秩序を一致して共有し、異議を申し立てず、大切にせよ」と言いたいのである。

 この問題が、例えば礼拝の演奏に相応しくない楽器を持ち込んでいる者がいると揉めているようなことであったり、礼拝中に飲食をしている人々が居る問題であっても、パウロの言うことは同じである。

 即ち、「皆で神の栄光を表す為に、教会内の秩序を一致して共有し、異議を申し立てず、大切にせよ」である。

 パウロが、今回の当該箇所の問題を取り扱っているのは、目立って周囲にマウントを取る為に帽子をわざとかぶらず参加する女性がいたり、逆にかぶりものをかぶったり、奇抜な髪形をして参加するような輩が存在したからで、本質的に、「周囲に差をつけて優位に立つために」、「わざと教会の場を騒がせて」、「神の栄光を穢している」輩がいることが問題なのである。

 例えば、男が髪を伸ばして髷を結うのが当たり前の社会の中で、それが自身にとっての神の前での聖なる装いであると確信し、神の栄光を表す為に「正装」して礼拝しているというならば、その男性は、神の栄光を表す為に行っている良心の故に、髪を伸ばしている事は良しとされる。

 髪を剃り落として、丸め、それによって自身の献身を表す、例えば仏教のような立ち姿の価値観が当たり前になっている文化の中で、それが、神の栄光を表す為の最善の姿だと判断し、良心に従ってその姿でいるならば、被り物をせず、頭を剃り落としている女性が、教会内で非難される理由は何もない。

 結局のところ、やはり大切にされるのは、結果や形の表れではなく、その途上にある過程なのである。神は、結果よりもその途上を重視される方であるから、それが自己顕示欲や、承認欲求に駆られ、肉の価値観で行ったものなのか、神の栄光を表す為に真剣に考え、良心に従って行った霊の価値観によるものなかは、全て見抜かれた上で、私たちを判断される。

 私たちにとって大切なのは、互いに話し合って一致し、神の霊によって御霊に属し、その場で最善の秩序を共有することであり、それに対して異議を唱え、自分の欲を満足させようとする、肉に属する者の試みは、その一切を排斥すべきなのである。

○1-2節
 「全ての事について(ギ:パンタ・モウ)」とあるように、コリント教会の信徒達は、パウロが与えている言い伝えを全て守っているという点で、彼らは称賛されるに値する人々であった。
 「伝えた通り(ギ:パラディドミィ)」は、引き渡す、教える、伝授する、云い渡すといった意味のある言葉であり、「伝えられた教え(ギ:パラドセイス)」は、伝授するから派生した、言い伝えという意味の単語である。
 当時の教会は、当然ながら新約聖書というものは存在しなかったので、こうした使徒からの「言い伝え」は、口頭にしろ、手紙によるものにせよ、従わないならば教会の中で戒規に処せられる程に重要なものであった。

 コリント人への手紙の中では、しばしば勘違いされやすいが、コリント信徒達は別段、不信仰で不忠実な人々であったわけではない。
 少なくとも、聖書の基準に従って、この「言い伝え」に従い、努力していこうと、日々取り組んでいる人々であった。
 問題なのは、パウロも言っている通り、神の国の価値観ではなく、肉によるこの世の価値観のままで聖書や言い伝えに従おうとしていたところであり、その為に生じた様々な「不具合」に振り回されている状況であった。



○3-9節
 「知っていてもらいたい(ギ:エイデマイ)」は、覚えて置く、知っておくという意味の単語である。
 これらの事は、2節までの褒める事や、17節以降の叱る事でもなく、一つの助言、参考意見として語られている部分であると解釈して良さそうである。
 
 「頭(ギ:ケファレー)」は、頭(かしら)を指す単語であるが、人間の頭部や頭脳そのものを指すのではなく、リーダー的な意味合いで用いられている。これは教会内での「男>女」という序列を示し、それに従えと強制しているのではなく(どちらの方が上か下かで考えている時点で、既にそれは神の国の価値観ではない)、神が教会で定めた指揮系統の中に、私たちがそう定められているという位置的な問題の話を行っている。

 これらの事を前提に、4節以降、被り物の話に入っていく。
 「被り物(ギ:カタ・ケファレス・エクォン)」は、上(カタ)・頭(ケファレス)・持っている(エクォン)ということで、頭の上に何か持っている、所有しているという書き方で、かぶっているという表現になる。
 所謂、帽子やヴェール、地域によってはターバン、若しくは王冠など、何でも被り物は様々であるが、とりあえず頭の上になにかをかぶっている状況全般を指す。

 「辱める(ギ:カタイスクノウ)」は、恥をかかせる、恥をかく、赤面する、赤面させるという意味があり、今回は能動相で書かれているので、恥をかかせるという意味で受け取って良い。即ち、頭に何かを被せるのは、私たちが、自分の頭に恥をかかせていると、パウロはそう言っているようである。

 4-5節では、男と女と両方のケースで語られているので、教会の中で男が何かかぶっていたのかもしれないとも思われるが、どうにも、6節以降が、女性視点(?)で話が展開しているので、実際に起こっていた問題は、礼拝の中で被り物をしていない女性が見られた事なのだろうと思われる。

 何にせよ、少なくともこの時代に於いては、男性は帽子を取り、女性は帽子をかぶるのが、礼拝に参加する為の「正装」であったようである。ユダヤ文化の中では、外では女性は被り物をするのが当たり前のみだしなみとして認識されていたし、口伝律法でそのような規定もあった(タムルード:ネダーリーム30b)。
 敬虔なユダヤ教徒の女性の中では、家の中でも被り物をかぶっていたという記録も残っている。しかし、前述の通り、このユダヤの「常識」が、コリント市に於ける正装の概念にまで用いることが出来ていたかというのは、資料が欠如しているので、「多分そうだったのだろう」以上の事を言うことが出来ない。

 文脈的に、パウロは男女の被り物の認識はそうだという前提で話しているようなので、この箇所を読み解く際には、男性は被り物をかぶらない、女性は被り物をかぶるという行動が、ユダヤからギリシャにかけて広く共有されていた(パウロが「諸教会」という言葉を使っているため)、当時の時代、この地域での常識であったと仮定して研究を行っていく。

7-9節のパウロの男女観は、創世記2章をベースに語られているようである。まず男が作られ、そのあばら骨から、男を支える為に女が作られたと書かれている通りに理解して、これらの事を騙っている。

 「神の形(ギ:エイコン)」は、アイコンという英語からもわかる通り、それを表す肖像、胸像、イメージを表す単語である。ここで、男が神の形と言われているのは、神の代行者として、この世の被造物を管理する為の仕事を与えられているという意味合いである(詩編8篇)。この世界の被造物を、男達が正しく管理する時、その働きを通して、全てを統べ治められる神の実態が浮かび上がるのである。

 その一方で、女は男の栄光の表れ、女が男の為に造られたと書かれている通り、男は女の手助け無しには、自らの神の形としての仕事を決して達成する事が出来ない。何故なら、男が一人でいる状態は完全ではないと、神御自身が言われたからである。

 女は、男が神の形を表す事が出来るように、神が造り上げた助け手である。女のこの役割は、全被造物の中で女しか成し遂げる事が出来ない。男ですらそれは不可能なのである。全ての被造物は、男の助け手となることが出来なかった事もまた、創世記2章で語られている通りである。

 それ故、神の造られた秩序を乱さず、その役目に殉じる為に、男も、女も、互いに尊重し、お互いに相手を必要不可欠として与えられた役割を果たすのである。11-12節にある通り、男は女無しに仕事を果たすどころか生まれることすら出来ず、女も男が居なければその任どころか、神から与えられた存在意義すら全うすることが出来ないからである。これらのことは、全て神が「そう在れかし」と定められたものであるのだから、私たちはこれを受け入れなければならない。

 更に言うならば、私たちは「そう在れかし」と定められた権威に従うのであって、そこに順列は存在しないと言うこともよく覚えなければならない。私たちの中で建てられる「長」は、他より優れているから長としてたてられる訳でもなく、また、長に選ばれなかった者は、長より価値がないので、長に隷属しなければならないわけではない。

 他でもない「神」が、自らの計画の為に役割を与え、それに準じて役割に応じた力を付与するが故に、私たちは、自身の役割に応じて権威が与えられているだけなのである。

 男であれ、女であれ、牧師であれ、信徒であれ、長であれ、補佐であれ、私たちは神の前になんら劣る者でも、優れた者でもない。ただ、私たちが置かれた場所は、「神から出たもの」である、私たちは生ける神を「主」と仰ぐが故に、自分の置かれた場所の役割を全うするのである。

 男は、神の栄光を現わし、神の代理者として被造物を管理する為に作られ、その権限を与えられた。女は男の働きを補佐し、男が力を発揮できるようにする助け手として主に置かれた。それ故に、当たられた権限に応じて、その場その場で必要な行動があり、それを順守するのは、互いの優劣故でなく、立ち位置を与え、権限を与えた「主」に従うが故に、これを大切にすべきなのである。


○10-15節

 さて、9節までを鑑みて、実際、女性がかぶりものをかぶることが、時代を越えて真理足りえるかと言われれば、結論から言うとそうではないだろう。

 これは、当時の教会の時代や社会通念から導き出された期間限定の秩序であり、様々な文化の中で宣教していく以上、そういう常識が通じない場所で礼拝が行われる事は、当然想定されるべきだからである(但し、ユダヤ教では口伝律法ではっきり規定されている)。

 とはいえ、パウロが言っている事には一理あり、神の前で、女性が男性を立て、男性が女性を庇護し、その上で一致して共に互いの立ち位置を十分に尊重し合ったうえで、共に頭であるキリストに、そしてキリストを通して、天地を創られた父なる神に仕えていくという基本理念は、時代を越えて私たちが大切にしなければならないものである。

 大切なのは、帽子をかぶる事の是非ではなく、女性が男性の権威を貶めて、自分だけが神の前に輝いていればそれでよいという精神性の部分であろう。即ち、女性が男性に対して抱く「対抗心」の部分について、諫められていると考えて読むのが良いだろう。

 コリント教会では、たまたま女性のそのような部分が目立ったために、パウロが女性側に対して強めに訴えかけているが、別の教会で、女性を蔑ろにして礼拝の中に入れないようにする男性たちが現れた場合、パウロは男性側に対して強く指導したことであろう。

 「頭を剃る(ギ:ケイラッソゥ)」は、仏教の尼僧のように頭を剃り上げる事だけを意味しているのではなく、短髪全体を表すものである。ここで言いたいことは、社会通念上、神が短いことが恥ずかしいという認識を自分が持っていると自覚しているのならば、そうするようにという勧めである。アオリスト・命令法・中動相で書かれているので、「頭を剃れ、髪を切れ」と他人に強要された場合、それに対して屈辱を感じるようであるならば、というようにパウロは語っているようである。

 この時、尼僧のように頭を剃る事が当たり前の文化にあり、それについて自分が、寧ろ正装を行っていると自認するならば、別にそこに恥じるべき理由は何もないのだから、そのまま礼拝に出れば良い。寧ろそういう文化の中では、半端に毛が生えていたら、無精ひげのように「だらしない」と判断されて、「ちゃんと頭に剃刀をこまめにあてろ」と怒られるかもしれない。そういう文化の中では、そう言われても、頭を剃るという、注意の趣旨そのものには屈辱を覚える事は無いだろう(叱られてしまったことは恥ずかしいかもしれないけれども)。

 やはり問題は、自分でも不自然だと認識していることを、自身が優位をとったり、他人を貶めたりする為にわざと行っている部分であると考えられる。

 コリント教会の中で、ある信徒の女性(若しくは一部の女性のグループ)が、敢えて被り物を礼拝の中で外すような行動を取っているのは、恐らく最初から最後まで帽子を外していたのではなく、祈りを行う際にトランス状態に陥って、かぶりもをかなぐり捨てるような行動であったと考えられる。
 そのような態度は、恍惚状態で祈る女預言者に良く見られたものだと、アイキュロスの著書などで記述がみられるからである(榊原康夫「コリント人への第一の手紙講解」530頁)。

 となれば、トランス状態で祈ったり、祈っている最中に恍惚状態になってはならないのかという話になるが、多分そう言うことでもないだろう。現代でも祈りの中や、賛美の中でそうなる人々はいるし、彼らもまた、信仰を共有すべき大切な兄姉である。

 更には、いくら恍惚状態になったからといって、帽子を取らないでいる程度の理性的な行動は確実に可能であるだろうから(そうでないなら、彼女達は酒や薬物に酔っているのであって、それはそれでまた問題である)、やはり、この女性達が、男性に対抗し、若しくは、男性たちを蔑ろにしたり、男性たちのことなど歯牙にもかけず、自身が優位に立つために行っていると考えた方が自然である。これは、結局、1〜2章の党派争いと同じ問題であり、そのような事を続けているのならば、彼女達もまた、神の国の価値観によって行動出来ていない、肉の人ということになる。

 現代では、あまり考えられない事であるが、当時の女性達は教育を一般的には受けていなかった。ユダヤ文化の中ですら、聖書に纏わる知識と教養はシナゴーグで、ラビから男性達だけが与えられるものであり、女性は教育を受けた男性から教えを間接的に施されることが、当時の社会秩序とされていた。それ故に、まず男性が聞いて、その聖書と律法の知識に於いて、説教や奨励を理解し、後で、家に帰ってから自身の妻や娘にそれを説明するのが、教会内で礼拝を受ける際の秩序とされていたのである(14章34-35節)。

 そのような前提を鑑みるならば、御言葉をその場で聞き、御霊によって判断しようとしている男性陣の前に女性が飛び出し、トランス状態になって踊り狂うことは、礼拝の妨害、及び迷惑行為以外のなにものでもないのである。それは、男性陣という礼拝の場での主役を差し置いて、自身が礼拝の中の主役になり、優位に立とうとする行為と受け取られても仕方ない事であった。

 勿論、稀に良く学ぶ例外的な女性はおり、その人達は、被り物を外さずに、男性に対して預言し、教える事もあった。彼女達のような人は、14章34節のような、「女性は、礼拝中は黙って待っているべき」という勧めは適用されない。あくまで34節は、教育を受けていない女性が圧倒的多数であるという状況を鑑みて、礼拝内で御言葉の取次ぎが脱線したり、混乱が起こらないようにする為の処置であり、教育を受け、良く学んでいるならば、礼拝中に的を得た質問ができる女性が発言しても問題なかったし、教える側に回る事も問題なかったのである。そのような女性達ならば、自身がヴェールを外すのが輪を乱すことになるのも、十分に弁えていたことだろうから、頭の被り物の問題は起こらなかっただろう。彼女達が男性陣に「教える」ことは、礼拝内の秩序を乱す行為ではないのである(大淫婦と呼ばれた女預言者イセベルのような例外もあるが、男性側にも偽預言者である「大使徒」がいたので、この際は問題にならない)。

 そのような意味で、13節では、自分自身で判断するように、その女性、若しくは女性グループに対して、「かぶらないで(ギ:アカタカルポトス)と言う言葉を用いて、パウロが問いかけている。恍惚状態で我を失うので仕方ないという話ならば、語り掛けられるべきは、それを止めない周囲であり、自身で判断しろとは言われなかっただろう。実際に、既にコリント5章では、自身の罪を判断できない状態にある人々について、何故戒めないのかと、制止しない周囲に対して語り掛けられている。
 相応しい(ギ:パレ―ポン)は、そうなる、適切、正しいという意味であるが、これは、御言葉を真摯に聞こうとしている男性たちの前に、被り物を取って躍り出て邪魔することが、礼拝に対する態度に相応しいか、という意味以上に(勿論その意味もある)、神様がその場で定めている、男性が聴いて女性に教えるという秩序と権威を貶めてまで、自分が男性に対して優位に立とうとする精神状態が、神の前に出るのに相応しいか判断するように、求められているように見える。

 だから、彼女達は、例えパウロの言い伝えを完全に厳守できているのだとしても、自分達の行いと、自分達の心の中について良く探り、判断し、反省し、悔い改めるべきである。私たちクリスチャンは、ルールを守っていれば後は何をしても良いという態度で居てはいけない。それ以上に、まず、霊的な価値観で物事を判断し、御霊に属する者として、何が神の御心であるかを良く考え、自分を戒めて行動しなければならない。それが、パリサイ人の義に勝ると言うことであるし、神の国に入る為に必要なことなのである(マタイ5章20節)。

 また、他と争ったままで神の前に出るな、とはキリストも教えている大切な理念である。自分自身が、他の兄姉と争っていても同じ事である。(マタイ5章21-26節)。

 「教会の中に敵は居ない」というのは、大切な神の国の価値観による認識である。


○16節
 異議を唱える、という言葉について、少し研究が必要に思える。
 唱える、の部分に相当する「ギ:ドケオウ」については、期待する、望む、希望するという意味がある。更に、今までずっとそう思っている、思う、という意味合いがある。
 また、異議の部分の相当する「ギ:フォロネイコス」は、喧嘩好きの、論争好きの、自説を曲げない、という意味合いがあり、かつ、これは形容詞である。

 ここから、類推すると、パウロの言っている事を、「皆が争い好きだと思っても」、若しくは「みんなが、自説を曲げない奴だと思っても」というふうに読むことが出来るようにも思える。

 しかし、直後にBe動詞に相当する「ギ:エイミィ」が付属しているので、「争いたいと思っても」と訳すのが正しそうである。

 「そのような習慣(トイアウテン・スネセイアン)」は、そのまま、そのような習慣と訳せる。
 「スネセイア(ギ:習俗、風習、習慣)」という単語は、なれている事、慣例といった感じの意味があり、これが何に対して向けられているのかを、どう受け取るかで意味合いが変わってくる。

 文脈的には、自説を曲げない為の論争を行いたいと思っても、という所に掛かっていると思われる。恐らくは、使徒からの教えに対して、論争を行うという習慣はないということであろう。

 これらの事を加味すると、「スネセイア」は、皆で一致して取り決めた秩序に対して、人間的に論争する習慣、という意味合いで話している事が判る。

 教会は、人間的な組織と違い、相手を説得する為にではなく、神の御心を探り出す為に話し合いを行う。
 自分の論説を相手に押し付け、納得させるために、世の人々は相手を説得するために話し合いの場を設けるのであるが、それに対して、教会は、それぞれが与えられた神の霊によって、その霊が何を言っているかに耳を傾け、お互いに、神の御心が何であるかを探り出す為に話し合いの場を設けるのである。

 神の御心を探り出す為に話し合いを行う、といっても、御霊を受けず、肉に属したままの人間には理解できない概念であろう。しかし、教会の中の話し合いはかくあるべきであり、皆が一致して、これが神の御心だと探り出したことがらについては、それが自分達への命令であると受け取って、従うのである。

 それぞれが受けた神の霊に従って一致し、探り出した御心については、それは神から出たものであるので、それに従うクリスチャンにとっては是非もない。

 肉に属する人間が、霊ではなく、肉的な自分の思いから、その結論に対して挑戦したとしても、それはたちまち浮き彫りになり、肉に属する人は、御霊に属する人全員から、その醜態を見抜かれることになるのである。

 こういう訳で、肉に属する人が、いくら教会の秩序に対して論争をしかけたとしても、それに対して取り合うような習慣は、御霊に属する人の集団には一切存在しない。それは、神に従うか、肉に属する人間ごときを恐れて屈するかという二択であって、神の教会がそれを選択することは起こり得ないからである。

 そのことを弁えず、御霊によって定められた秩序に肉的な思いで挑戦するならば、その人への裁きは非常に大きなものとなる。「万軍の主の戦列」に挑戦する気概があるならば、そのように御霊によって定められた教会の秩序に対し、論戦を仕掛けてみるのも良いのではないだろうか。


2.詳細なアウトライン着情報

○秩序に従って、指導者に倣いなさい
1a 私がキリストに倣う者であるように、
1b あなた方も私に倣う者でありなさい。


○コリント教会の忠実さへの賛辞
2a さて、私はあなたがたをほめたいと思います。
2b あなたがたは、すべての点で私を覚えています。
2c また、私があなた方に伝えたとおりに、伝えられた教えを堅く守っているからです。


○被り物によって起こった礼拝内の混乱についての提言
3a しかし、あなたがたに次のことを知っておいてほしいのです。
3b すべての男のかしらはキリストです。
3c 女のかしらは男です。
3d そして、キリストのかしらは神です。

4  男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。
5a しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物をつけていなかったら、自分の頭を辱めることになります。
5b それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。

6a 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。
6b 髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

7a 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなのです。
7b それ故、頭にかぶりものを着けるべきではありません。
7c 一方、女は男の栄光の現れです。

8  男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。
9  また、男が女のために作られたのではなく、女が男のために造られたからです。
10  それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。
11  とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。
12a 女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。
12b しかし、すべては神から出ています。

13a (そいうわけで、)あなたがたは、自分自身で判断しなさい。
13b 女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
14a 自然そのものが、あなたがたにこう教えては居ないでしょうか。
14b 男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、
15a 女が長い髪をしていたらそれは彼女にとっては栄誉なのです。
15b なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。


○教会の話し合いは論争の為に行われるのではない
16a たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはありません。
16b またそれは、神の諸教会にもないのです。

着情報3.メッセージ

『秩序を見据える』
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章1〜16節
中心聖句:『たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。』(Tコリント人への手紙11章16節)  2023年10月15日(日)主日伝道礼拝説教要旨

 偶像に献げた肉の問題を通し、パウロは、神の国の価値観に基づいて、何事においても神様中心に、その栄光を現わす行動をするように教えました。続けて取り扱われる問題は、男性と女性の被り物についての問題です。礼拝中に、一部の女性信徒が、被り物をかなぐり捨てて大声で祈り、騒ぎ始めるような問題が、当時のコリント教会でしばしば起こっていたようです。これをどこかで聞いたパウロは、「教会や礼拝の秩序を乱さないように」と厳しく指導したのでした。実は、当時のコリント市や教会に於ける、女性の正装がどのようなものであったかは、資料が発見されておらず不明ではあるのですが、パウロがこのように言っているのですから、礼拝内で、女性が被り物をするのが当時のマナーだったのだと思われます。パウロはここで、男女間の信頼関係や、神様が定められた立ち位置の問題に触れた上で、何故被り物が礼拝の秩序であるのかを、詳しく説明し、最終的に自分で判断するように求めます。男女間の説明部分については次回触れることとして、今週は教会内の秩序について考えていきたいと思います。

 まず初めに確認しなければならないのは、パウロの言う、「女性は被り物をしなければならない」という勧めは、当時のユダヤ社会、ギリシャ社会の中でのみ有効な規定だということです。御言葉まで用いて語っているので、私たちも何か時代を越えた普遍的な規定を聞いている気分になるのですが、そうではありません。当時の、小アジア地域の教会に集う一人びとりが、自分達の文化と、御言葉に基づいて、神様の栄光を現わす為の一番相応しい姿が何かを霊的に考え、祈り、一致した結果が、「男性は教会内で被り物を脱ぎ、女性は被る」という形だったのです。当然、場所が変われば、土地ごとに礼拝に相応しい姿は変わっていきます。例えば、昔の日本ならば、男性は髪を伸ばして髷を結うのが、秩序に則った相応しい姿でした。キリシタン大名だって髷を結って礼拝に出ていたはずです。パウロが、言っているのは、そのように、各々の文化の教会で、既に霊的に一致して取り決めた決まり事があるのならば、それは神様によって承認された秩序なのだから、人間的な思いで挑戦してはならないということなのです。

 私たちは、神の国の視点に立って物を見なければなりません。確かに、時代と場所、文化によって、何が秩序とされるかの共通認識は変わり、時には社会運動が教会の秩序に挑戦することもあるでしょう。しかし、教会内の秩序は、人間的な発想や外的圧力によって定められるものではありません。その場に集う一人びとりが、各々与えられた神の霊である聖霊様に尋ね、神様の栄光を現わす為に相応しいことを、互いに祈り合って探り出し、一致することで教会内の秩序は導き出されていくのです。それ故、いつも教会内は、全会一致を基準に物事を定めます。だから、教会は霊の一致によって定まったものは、「神様の御心によって定まったもの」として扱いますし、そこには議論の余地は一切生まれないと考えるのです。そうであるにも関わらず、肉的な価値観で物を見る人は、この秩序に挑戦して、神の栄光ではなく、自分の栄光の為に、敢えて教会の中に混乱を巻き起こそうとするのです。ここに人間の罪があります。

 いつも、どのような時でも、生きておられる神様は、聖霊様を通して、私たちに語り掛けて下さいます。だから私たちは、それぞれ、何がその場に相応しいか自分で判断できますし、それを分かち合い、共有することで、何が神様の秩序に相応しいことかを確信し、安心して日々を過ごすことができるのです。私たちが聖霊様によって、いつも安心して日々を歩むことは、自らの御霊を与えて下さった神様の御心です。だから与えられた御霊によって互いに一致し、秩序を悟り自分中心ではなく、神様を中心に、いきいきと生活していこうではありませんか。


『神から出たもの』
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章1〜16節
中心聖句:『しかし、すべては神から出ています。』(Tコリント人への手紙11章12節)
 2023年10月29日(日)主日礼拝説教要旨

 先週、私たちはこの1~16節より、教会で行われる話し合いは、相手を説得する為ではなく、神様の御心を探り出し、互いに一致する為に行われるものであるということを学びました。それとは別にもう一つ、パウロはこの箇所で、男女の関係と立ち位置について語っています。「被り物の問題」そのものは、当時の時代背景に基づいた限定的な教えではありますが、ここで語られる、各々の立ち位置についての教えは、時代を越えて、私たちが学ぶべきことです。

 まず、男女の差異について、パウロは創世記の1~2章を用いて説明を行っています。この天地を創られた父なる神様は、御自分が創られた被造物を管理させる為に人間を創造し、その人間が、一人で役目にあたることは良くないと考え、人間からあばらを取り、そのあばらで女を創造されました。その時から、人間には男と女という二つの立場が生まれたのです (創世記1~2章)。このことに触れた後、パウロは、各々に定められた男女の役割を弁えて、それぞれ自分の立場に応じて神様にお仕えしていくべきであることを教えたのです。7-12節でパウロが語っている男女についての話は、神様から与えられた「役割」の違いについて話しているのであって、優劣を論じているわけではありません。男性と女性のどちらが優れているとか、そういう話題ではないのです。そもそも「勝ち負け」や「優劣」という考え方そのものが、御霊に属する人の価値観ではありません。私たちは、勝ち負けや優劣に拘るこの世の価値観から離れ、この霊的な価値観による前提を、正しく理解していかなければならないのです。

 では、神の国の価値観に基づいた「役割の違い」とは一体どういうものなのでしょうか。それを理解する為に、まず私たちは、神様によって、一人びとりが愛され、大切にされていることを確認する必要があります。私たちは、それぞれが、他ならぬ神様御自身から、「あなたは高価で尊い」と言って頂ける掛け替えのない存在です(イザヤ43章4節)。その上で神様は、御自身の計画に私たちを参加させてくださり、各々に立場と役割を与えて、自らの目的を、皆で達成されようとしてくださるのです。神様は、各々に与えた立場や仕事に応じて、それを達成できるのに必要な力や持ち物をお与えになります。しかし、それはあくまで目的を達成させるために必要だからであって、それぞれの存在に優劣があるからではありません。子供は、ごっこ遊びをするとき、大切なおもちゃや人形に役を割り振って遊びますが、遊び終わった後は、どれも大切におもちゃ箱に仕舞います。わき役を割り振った人形はもういらない、とはならないはずです。同じように、私たちは神様の前に等しく大切にされています。たとえ割り振られた役割が、男であろうが、女であろうが、その扱いに全く差はありません。ただ役割は、神様が私たちを信頼して、各々に与えて下さっているものです。だから私たちは、男なら男として与えられた役目を果たし、女なら女として与えられた役目をはたして、私たちを愛して下さる神様にお仕えしていくのです。しかし、人間は、神様の定められた自らの役割を無視し、能力や持ち物によって、互いに優劣をつけて貶め合います。ここに人間の罪があるのです。

 一事が万事、全ては同じです。男であろうが、女であろうが、牧師であろうが、信徒であろうが、上司であろうが、部下であろうが、親であろうが、子であろうが、全ては神様から出た役割であるが故に、私たちは従うのです。だから私たちは、どのような立場に居ても謙遜に振舞い、相手がどのような立場にいても敬意をもって仕えます。たとえ何も持っていないとしても、それでも尚、私たちは神様にとって、役割を委ねられたかけがえのない存在なのです。だから自らの現状に一喜一憂せず、神の国の価値観に持って、神様にお仕えしていきましょう。



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