1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
肉に属する価値観から脱却することが出来ず、教会に集う他の兄姉を、出し抜く対象であったり、争う相手としか認識することが出来ない。そんな人々が集まると、一体教会の中はどういうことになってしまうのかがよく表されている箇所である。
現代の私たちからすれば、この聖礼典(サクラメント)である聖餐式は非常に厳かで大切な物であるという印象を受けるが、当時はこの聖餐式がある程度、軽んじられてしまう傾向にあったようで、それ故に聖餐式の中で「弁えずに飲み食いする」人々が非常に多かったように見受けられる。現代の聖餐式で言われる所の「弁えず」とは、自分自身の罪を悔い改めずに聖餐式に預かろうとする人間を指すのであるが、当時はそれ以前に、聖餐式そのものを厳かな場であると受け止める事すら出来ない人々が多かったようである。
当たり前ながら、当時であろうと、現代であろうと、キリストの十字架を記念する為に行うように命じられた聖餐式は、私たちが集い行う儀式の中ではもっとも重要である。主日礼拝を行なう全ての民が、牧師も信徒も、皆で聖餐台に向いて礼拝を行なうように礼拝堂の構造が完成していることからもこれがわかる。
聖餐式は礼拝の中心であり、私たちクリスチャンにとって最も大切な儀式なのである。
また、この聖餐式が、主イエスが記念するようにと命じられたので、記念として行っている「だけ」の食事会ではない。弁えないで飲み食いすれば、その場で主の裁きと懲らしめを受ける程に(29-32節)、主キリストがそこに臨在されている食事の席なのである。それ故に、この聖餐は「主の晩餐」と呼ばれている。いつも、私たちは、主イエスが自ら用意し、招いて下さる食卓に預かる為に、主日の礼拝の場に詣でるのである。それ故、例え聖餐式がその日に行われないとしても、私たちは常に、主の食卓、聖餐の場に招かれて教会へやってきていると言う意識を、決して忘れてはならないのである。
それを弁えず、聖餐式の場を、自分の優越感を満たす場として利用し、かつ、神の教会を軽んじる場として用いていた人々への裁きは非常に大きなものであった。パウロいわく、身体の弱っている人々や、死んだ者が多い原因はそこにあると言わしめるほどに、この聖餐を軽んじるコリント信徒の態度は致命的なものであった。
何故、聖餐が軽んじられる事になったのかと言えば、それは、当時聖餐が、愛餐の最後に行われていたという状況が原因であると考えられる。当時の日曜日は、現代の月曜日のようなものであり、皆、日曜は普通に仕事を行っていた。それ故、皆の仕事が終わる夕方ごろに、それぞれが食事をもってあつまり、共に夕食を取って愛餐の交わりを行ってから、その最後に聖餐式を行うというのが通例であった。
しかし、裕福な者は早く集まり、自分の優雅な食事を周囲に見せつけて悦に入るというようなことを行っていた。貧しいものほど働く時間は長くなるので、彼らは後からくるのであるが、そのころには、裕福な者たちは食事を食べつくしており、後から来た兄姉を辱めて楽しむような状態にあった。このような状態で聖餐が始まるのだとすれば、正に聖餐と、神の教会は軽んじられていた事になるのである。
神の教会を軽んじるとは、一体どういうことであろうか。パウロは、教会を信徒の集まりという意味で取り扱っている。信徒とは、それぞれ役割を与えられた神の愛される一人びとりであり、神の前には、皆等しく大切に取り扱われている存在である。その違いは、与えられた仕事や、その仕事の為に与えられた立場や力、持ち物だけで、神の前に一切の身分の差異はないのである。
それ故に、神から裕福な立場を与えられて居る者は、貧しい立場を与えられて居る他の兄姉の為に、共に預かる食事を用意するべきであった。これが、神の国の価値観に基づく役割分担である。しかし、実際にはそうではなく、愛餐は、貧しい立場と役割を与えられた兄姉を辱める場所として用いられた。特に、奴隷としての立場が与えられて居る兄姉は、時間通りに集まる事など出来るはずもないのであるが、それらの人々を無視して、他の兄姉をもてなさなければならない裕福な人々は、自分の食事のみを行って、立場の弱い兄姉の分まで食事を食べつくしてしまった。それ故、「空腹な兄姉が居る一方で、酔っている者もいる始末」となるのである。
何度も言うが、神の前に集う兄姉は、立場と役割の違いがある以外には、皆平等で等しく、神の御前に大切な存在である。それらの兄姉を辱め、躓かせる者は、神の宮を破壊するのであり、そのような人々を神は滅ぼすと固く誓われている(3章16〜17節)。それ故に、クリスチャンでありながら、裁かれる人々が多かったのである。何もそのような態度は金持ちだけではない。金持ちは平民を見下し、平民は奴隷を見下して、と正に肉の価値観による力関係が、教会の中にも持ち込まれているのである。
そのように、神の教会の中に、この世の価値観を持ち込み、等しく愛されている筈の兄姉を侮り、辱めるというのならば、そのような人々は、神の教会に対して挑戦しているのである。結局のところ、教会を私物化しても良いと考える事は、神の教会を侮っている考え方の表れであり、私たちはそれについて厳格に気を付けて行かなければならない。
また、主日の礼拝は、正に「主の食卓」と呼ばれる、キリスト自身が用意して、私たちを労り、励まし、力づけて下さる為に招いて下さる厳格な場である。私たちは、招待客として招かれているのであるから、喜んでこれに参加しなければならないし、食卓を用意して下さった主役こそ、キリストなのであるということは重々弁えて、自分が主役であると勘違いせず、キリストの栄光が表される為にこの食卓を囲むべきである。
さて、そのようなことが説明されている17〜22節であるが、新改訳2017では、日本語として意味の通らない部分がいくつかあり、ギリシャ語の直訳から内容を類推する必要が少なからずあるようである。今回の釈義は、これらのギリシャ語の直訳を中心に行っていきたい。
○17節
「命じる(ギ:パラグゲリオウ)」は、支持する、命じるといったニュアンスを持つ単語である。何を支持するのかと言えば、11章末尾の33節「食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい」という命令に掛かっていると考えられる。
その一言を命じるまでの間に、色々と添えて命令を行っているのである。
「褒める(ギ:エパイノウ)」は、命じるに続いて否定と同時に用いられている単語であるので、このパウロの命令は、叱るのと併せて下される「改善命令」であることが強調されている。
「集まり(ギ:スネルケッセ)」は、「教会(ギ:エクレーシア。元々は招集されて行われる議会の意味)」とは違う単語を用いており、集会、集合、集まりを純粋に指す言葉である。
教会に集まることで、私たちクリスチャンは霊が燃やされ、良い効果を得る事が出来る。それ故、クリスチャンにとって、集まりは必要不可欠であり、欠かしてはならない栄養素のようなものであるが、コリント教会では、逆にこの集まりが人々を躓かせ、集まらない方がマシであるという状態を作り上げていた。
体を強める為の食事で、毒を食べて弱っているのと同じ様子が連想される。
悪いものを食べれば、良い食事も悪いものへと変わるように、愛餐や聖餐も、手順に従って正しく行わなければ、決して人々に利益を齎さないのである。
○18節
「分裂(ギ:スキスマタ)」は、1章10節で、仲間割れと訳されている単語である。分裂や意見の相違を現わすもので、教会の中が分断されている、またはもめているような様子を指すものである。
この分争は、「発生する(ギ:ヒュパルケイン)」と併せて書かれているので、この問題について議論が交わされている、と言うよりは、集まり度に小競り合いが頻発する傾向にある、というニュアンスで書かれているようである。
また、「第一に(ギ:プロウトン・メン)」と書かれている事については、18節から分派の問題が語られていることから、18-22節が「第一の問題」であって、12章、13章でパウロが連続して語っている問題が、第二の問題、第三の問題と考えて受け取る事がよさそうである。12章や13章の話題もまた、17節で語られている、教会での集まりが返って害になっている理由の一端となっているからである。
第一の問題で取り扱われている「分裂」自体は、パウロ自身も、「ある程度(ギ:メロス)」は存在すると、「信じている(ギ:ピスティス)」と言っているため、教会が精錬される為には「分裂」が必要な過程の一つであることが認められてはいるものの、だからと言って、今回のような分裂はそれに程遠い、低俗なトラブルであると叱責されている。時にはそれも必要だろうが、だからといってこれは酷すぎると、そのような叱り方を行っているのである。
○19節
「本当の信者(ギ:ドキモイ)」とは、承認された人、試験済みの、証明された人、という意味の単語で、実際に試練を潜り抜けて、本当のキリストの弟子として成長した人々を指す。そのような人々が洗い出される為に、教会の中ではしばしば、「振るい」にかけられることがある。これは、クリスチャンであるならば、誰でも承知していなければならない事である。その手段の一つとして、「分派(ギ:アレイセイス)」が起こり、本物の人々が迫害を受けたり、また、一部の不心得者に対して正しい行いをしなければならないような「試練」は確かにある程度は起こらなければならないのである。
しかし、今回の案件については、そのようなもののうちには入らないのである。
では、何によってそれらの小競り合いが起こっていたのかと言えば、恐らくは、この食事の際の問題に加えて、12章以降で語られる、一つ一つの問題が原因で言い争いや論争が起こっていたのだと思われる。そういう意味でも、18節で「第一に」とパウロが書いた文脈は、14章まで続いていくようである。
ちなみに、分争(アレイセイス)と分裂(スキスマ)は、単語が判れており、その差異についても論じられているが、文脈的にはどちらも同じ意味で用いられており、特に意識的な使い分けはされていないようである。
○20節
「したがって、あなた方が一つの所に集まっても、主の晩餐にまもる(行う)ことが出来ないでいる」と直訳できる。
人々の間に諸々の分裂や言い争い、揉め事が存在しているので、主の晩餐を成立させられないでいる、と読むのが妥当であるように見える。
「晩餐(ギ:デイプノン)」は、主に午後で食べる一番重い食事、及び正式な食事の席を指す言葉で、最後の晩餐や、ヘロデ王の誕生日の宴会、神の国の宴会(アブラハムの懐)といったところで使われている、大きな夜の食事を現わす言葉である。
守る事が出来ないでいる、というのは、聖餐式をしているつもりかもしれないが、それは聖餐になっていないという意味合いでの「守れないでいる」である点については確認しておく必要である。
集まった全員が厳かに、心を一致させてそれに向き合わなければ、主の聖餐を行っているつもりが、結局行えていないということになってしまうのは現代も同じである。
聖餐式を儀式として、形だけ守れていればサクラメントを執行できていると考えるのは危険な事である。
○21節
「各々が、自分の夕食をさっさと食べてしまい、そして、空腹の人も居れば、酔っている人もいるからです」が直訳である。20節と併せると、各々が、自分の夕食をさっさと食べてしまうせいで、空腹の人もいれば、酔っ払っている人間もいる始末で、あなた方が一つの所に集まっても、主の夕食が成立していないからである」と訳すのが妥当であるように見える。
○22節
「軽んじる(ギ:カタフォロネイテ)」は、軽蔑する、軽んじる、軽く見る、といった意味合いがある単語である。積極的な侮辱なども意味する。軽んじるとは、自分の為に教会の場を用いることに対して何らためらいはないという意味であり、正に教会を「自分が楽しむ場」として扱っていることをが明白となる。
それは、明らかに自分中心の肉に属する価値観の故に起こることであり、神を中心に物事を考える御霊に属する価値観で考えるならば、絶対に選択肢に上がらない、最も愚かな行為となる。
教会の場は、個人個人が自分の欲や必要を満たす為の場ではないということは、よくよく確認されなければならない。皆で食事を行う愛餐は大切な物であるが、その場を壊してしまう程の空腹を抱えているならば、各々自分の家である程度食事は行うべきである。貧しいからと言って、教会で貪ろうと考えず、豊であるからといって、教会を自分の都合の良い場にしようとせず、全ての人間が節度を持ってそこに集うからこそ、主の晩餐を守る事が出来るような状態が保たれるのである。
だから「教会は愛の場であるから何をしても良い」と考えるは間違いである。結局のところは、もう既に語られた通り、利己主義にとらわれず、何をするにしても神の栄光が現れる形で、全てのことが行われなければならないのである。
2.詳細なアウトライン着情報
○教会の集まりが害になっている問題について
17a ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなた方を褒める訳にはいきません。
17b 何故?:あなたがたの集まりが駅にならず、かえって害になっているからです。
○分裂の必要性
18a まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。
18b ある程度は、そういうこともあろうかと思います。
19a 実際、あなた方の間で、分派が生じるのも(時によっては)やむを得ないからです。
19b どんな時?:本当の信仰が明らかにされる為に必要な場合。
○必要性が全く見られない分裂
20 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐をたべることにはなりません。(要、直訳)
21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
22a あなたがたは、食べたり飲んだりする家がないのですか?
22b それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいというのですか?
○是正せよ
22c 私はあなたがたにどういうべきでしょうか。
22d (すくなくとも、)このことでは、(あなたがたを)ほめるわけにはいきません。
着情報3.メッセージ
『神の教会を軽んじる』
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章17〜22節
中心聖句:『それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。』(Tコリント人への手紙11章22節) 2023年11月5日(日)主日聖餐礼拝説教要旨
パウロは、「神様の御心を探り出す為に行われるのが教会の話し合いである」と教えた後、「私たちの集まりは、『主の食卓』となるべきである」と、コリント信徒達に語り始めます。互いに争っていては、教会の集まりは「主の食卓」となりません。それは、「各々が神の教会を軽んじているからだ」とパウロは言っているのですが、一体どういうことなのでしょうか。
日曜日の集まりは、初代教会では、礼拝と別に行われる「主の食卓」と呼ばれる集まりでした。当時の日曜日は、月曜日のような週初めの平日であり、それぞれ仕事が終わった後の夜に集まり、行われていたのです。そこへ互いに食事を持ち寄り、パンを割いて、聖餐が守られていました。この聖餐の食事は、聖礼典(サクラメント)と呼ばれ、今日でも最も大切な儀式とされ続けています。この聖餐式は、ただ、イエス様を記念して行うだけの記念式ではありません。私たちをいつも傍で見て、日常生活でどのように辛い思いをしているのか知っておられるイエス様が、自らの手で用意し、私たちを力づける為に招いてくださるのが、聖餐の食卓なのです。イエス様が自ら用意し、招待客として私たちを招いてくださるので、私たちは、主日の集まりを、「主の食卓」と呼んでここに集い、招いて下さったイエス様を主役として、心から礼拝を捧げます。例え、主日礼拝で聖餐式が行わなれない週であっても、イエス様が用意された食卓に、私たちが招かれ、集っているという事実に変わりはないのです。イエス様は、聖餐の食事によって、十字架による罪の赦しと、永遠の命の約束を思い起こさせ、また、命のパンである御言葉によって、私たちの心を励まし、力づけて下さいます。私たちは、この場でイエス様が用意して下さった食卓を囲み、糧を頂いて、各々、日常の場へと派遣されていくのです。
イエス様が用意して下さる主の食卓に招かれるからこそ、私たちは日曜日にこの場に集まることができるのです。だから、牧師も、信徒も、礼拝に参加する者は皆、この食卓である聖餐台の方を向いて礼拝を行ないます。そこには、父なる神様も、また天の御使い達も列席しています。それほどまでに、この主の食卓は大切な場所なのです。しかし、コリント教会では、信徒たちが、この大切な主の食卓を、各々、自分の欲を満たす場として利用し、小競り合いを起こしていました。遅い時間でないと来られない兄姉達を待ちもせず、用意された食事を全て平らげて酔っ払ている者や、様々に騒いで場を混乱させ目立とうとする者、教会の中の弱い兄姉を虐げて優越感に浸る者などが後を絶たなかったのです。このような人々が、主の食卓や教会の中のあらゆるものを、自分の欲を満たす為に用いても良いと考えるのは、神の教会を軽んじているからに外なりません。そこがイエス様の用意してくださった席であるとも考えず、また、父なる神様や御使い達が列席していることも考慮に入れず、招待されてやってきた自分こそが主役であると勘違いして横暴に振舞い、その場の全てが自分の為に存在すると考えて私物化しようとしてしまう。このような自分中心な性質の中にこそ、人間の罪はあるのです。
主の食卓は、イエス様がまごころを込めて、私たちの為に用意してくださるものです。私たち一人びとりが、神の独り子であるイエス様に、それほどまでに気にかけられている存在だからです。ですから私たちも、主の食卓に招かれた招待客として、このイエス様を食卓の主役と認め、主日の礼拝も、教会の働きも、全てがイエス様の栄光の現れる形で行っていかなければなりません。イエス様は、私たちの日々の苦しみや悲しみを全て理解して慰め、労り、励ます為に、毎週主の食卓へ招いてくださるのです。だから私たちも、喜んでこの招待に応答し、主の食卓へ謹んで参加し、主役であるイエス様の御名を、共に褒め称えようではありませんか。
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