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牧師の説教ノート(1月14日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章23〜34節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 聖餐について制定された最古の文書である本日の箇所は、聖餐式の聖書的根拠の根源となる記述である。福音書よりも、パウロの手紙の方が書かれた年代が早い為、福音書に書かれた聖餐の記事は、この手紙の後追いとして書かれたものであると言うことが出来る。

 元々、本文17節から書かれている通り、この記事は本来厳粛に執行されるべき聖礼典、及び、教会の愛餐の時が、愛の無い乱痴気騒ぎに堕している状態を憂いて、パウロが叱責を行っている箇所である。これまでも、不品行等の多くの罪に触れてきたパウロであるが、他の箇所と違い、ここでは、「この乱痴気騒ぎが、教会員一人びとりの病気や死に直結している」と、緊急性の高い警告を、緊張感を持って行っている。聖礼典の執行の不備、及び、それに対する冒涜が、他の罪に比べても限りなく致命的であることを、私たちはこの箇所を通して知っておかなければならない。

 元々聖餐式で、主イエスが行われた儀式は、出エジプト記24章8節の、主とイスラエルの民の契約の儀式になぞらえたものである。モーセは生贄を裂き、その血を二つに分け、一つを祭壇に、もう一つを民に振りかけた。裂かれたパンは、そのいけにえの肉であり、与えられた杯は、民に振りかけられた契約の血なのである。即ち、この儀式そのものが、神と人との間の契約の儀式そのものであり、これを受けた一人びとりは、その度に神の立てられた契約の内に入って、その契約の内容を思い出すのである。即ち、これは唯の儀式ではない、主イエスが、自らの身体と血潮によって立てられた贖いの契約に、私たちが直接あずかり、その契約の内に入れられていることを、実質的に確認する重要な手段なのである。そしてなにより、「わたしを」記念せよと言われた、救い主である御子イエスを記念し、共に在る事を確認する、キリストとの人格的な結合の時なのである。

 パウロは、この聖餐についてのイエスの言葉と命令を、他人からの伝達や又聞きではなく、「「私は(ギ:エゴゥ)」という言葉を使い、自ら受けた直接啓示であることを強調している。当たり前のことながら、時系列的に、パウロが聖餐制定の場所に居なかったことは明らかであるので、このパウロの言い分は矛盾しているように感じられるかもしれない。しかし、この聖餐が定められたタイミングと、信仰的な意味合いを加味する時、私たちはこのパウロの言い分についての一つの理解を得る事が出来る。即ち、キリストが十字架に引き渡された夜、罪びとである私たちは、皆その場に居て聖餐の命令を受けており、かつ、その後に主イエスを裏切って、十字架につけるために引き渡したのだ信仰告白を行ない、かつ、私たち一人びとりがその意識を持たなければならないことを、パウロはここでコリント信徒に教えようとしているのである。

 イエスが、パンを割き、杯を回したこの時は、直後にイエスが裏切られ、受難への道を歩み始められる直前の出来事である。パウロ自身も「主は渡される夜」とわざわざ念を押して書き記している部分である。即ち、「記念せよ」と命じられ、この最初の聖餐に預かった弟子達は、その後に直ぐ、全員が主を裏切ったのである。そして、それは弟子達だけでなく、罪のある私たちもまた同じくして、キリストを裏切り、自身の罪の為に十字架の死へと引き渡したのである。

 「神の独り子を裏切った一人びとりの中に、罪びとである私たち自身が確かに居て、その中に数えられていたのだ」と考えることは、敬虔な信仰的態度として、正しいものであると言える。私たちの罪が、キリストを十字架に掛けたように、私たちの罪が、この聖餐の取り決めた直後のイエスを裏切るのである。私たちによって、その夜にイエスは、十字架の死に「渡された」のである。それ故、パウロもまた、自らがその場に居て、イエスの命令を直接聞いていた一人であると証するのである。

 しかし、当のイエス自身は、この聖餐式を制定する時に、「あなたがたのための、わたしのからだです」という言葉に加えて、「わたしの血による新しい契約です」という宣言を用いて、後に、これを受けている一人びとりが加担するその裏切りを、全て判った上で予め赦された上で、この聖餐を命じられていることが判る。主イエスは、そのように十字架に引き渡した私たち一人びとりを、決して断罪したり、責めたてられたりすることはない。全て理解された上で、私たちが押し付けた全ての罪を、自ら引き受けて、十字架の上で精算してくださったのである。

 キリストは、実質的にイエスを売り渡したイスカリオテのユダについても、全てご理解された上で、聖書の御言葉が実現する為に、その動きをお許しになられたし、そのような役割を引き受けなければならないことについて、生まれてこない方が、まだ彼の為に良かったと言われ、憐れまれている。更には、聖餐を受ける弟子達が裏切って逃げる事(特にペテロは三度も自分を知らないとさえ言うこと)もまた、この世に義人が存在しないことが明らかにされる為に必要なことであると受け止めておられ、責めになるどころか憐みによってお許しになられ、ペテロに至っては立ち直った後に皆を力づけるようにとさえ、予め赦し、祈って、慰められたのである。この様に、私たちの主イエスは、私たちの罪と裏切りを、全て判られた上で受け入れて、十字架に架かって下さった。その上で、その血潮による罪に赦しと、福音の約束を与えて下さったことを、私たちは、粛に心に覚えるべきなのである(ヨハネ6章65節)。

 そして私たちは、その応答としても、この聖餐が、私たちの罪の裏切りと、それに対する血の赦しの儀式であることを十全に承知した上で、厳かに執行する義務がある。もし、それらを弁えないで、相応しくない態度を取ってこれを軽んじるならば、正にその罪と裏切りへの血の責任は、他でもない私たち自身に降りかかるのである。私たちは正に「裁かれるべき者」とされ、自らのその態度によって、己に裁きを招くのである。

 ところで、聖餐に用いられるパンと葡萄酒が一体なにであるのかという議論は、これまでの歴史の中で多く行われてきた。聖餐式そのものが、キリストをただ記念して思い出す以上の意味はない象徴の一儀式であると考える象徴説のような主張もあれば、この儀式が正に、栄化されたキリストの肉体を受ける現実的な手段なのであると考える共在説ような見解もある。更に行き過ぎた見解では、カトリック教会の伝統理解のように、これによってパンと葡萄酒(もしくは葡萄汁)そのものが、直接キリストの身体として変化し、顕現しているものと考える化体節のような考え方まである。
 どの説が正しいのかについては、聖書的証拠が無いため、一概に決めつけることは出来ないが、これが単なる象徴的な礼典に過ぎず、ただの記念式に過ぎないと決めつけてしまうことは、流石に早計に思える。

 大切なのは聖餐式が、キリストも言っている通り、この儀式を受けず、これに預からない者のうちに命はないという、はっきりした御言葉による宣言であること(ヨハネ6章53〜58節)。そして、キリストの肉とされるパンと、血とされる杯(即ち葡萄酒とぶどう汁)について、「これがそうである」とイエス御自身が宣言されたことによって、キリストの予告である御言葉、即ち「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(同6章51節)「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(同6章54節)、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」(同6章56節)の成就の方法が確立されたことである。どうやって、キリストは肉を他人に与える事ができるのかと、激しい議論も起こったこの予告ではあったが、このキリストの宣言と聖餐の執行の命令によって、書いて字のごとく実現する術が言い表されたのである。

 それ故に、私たちは、象徴諭や、聖餐論争に代表されるような、葡萄酒とパンについて、「パンと葡萄酒に何か物理的な変化がある」とか「ただの象徴に過ぎない」だとかの、不毛な論争に対して労力を割くのではなく、キリストが身体と宣言し、また、血と宣言されたものを頂くことによって、ただの記念ではなく、現実的な手段として、新しい契約、即ちキリストの宣言された永遠のいのちの約束を、この身体に頂くところに注目しなければならないのである。

 また、私たちはこの聖餐が定められた趣旨についても注目しなければならない。聖餐式は勿論、キリストの死を記念して行うものなのであるが、この記念は。26節ではっきり命じられている通り、「あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせる」為に定められたものである。
 聖餐は、本質的にまだ聖餐を受けていない人々に対して、主の死を告げ知らせる伝道の場でもあるのである。それ故、私たちは、伝道の場、説教の場で、キリストという存在を歴史的になぞったり、物語を告げ知らせたりすることで、「イエスが居たこと」や「イエスの愛」を伝えることができたのだとしても、決してそれだけで満足してはいけない。イエスの「贖いの死」を伝えることが出来なければ、私たちは主イエスの命令を順守したとはいえないのである。私たちは、キリストの死の意味を告げ知らせて、初めて伝道を行っている事になる。聖餐台が礼拝の中心に置かれるのも、牧師がキリストの贖いの死を中心に説教を行うのも、礼拝堂に十字架が大きく掲げられているのも、それが私たちの使命だからに他ならないのである。聖餐は、自身の罪によって、神の子が人となられ、十字架に引き渡され、身代わりの死に至ったのだということを厳粛に心に受け止めた上で、主の死と復活、そして再臨を、その場で聖餐に至っていない人々に告げ知らせなければならないのである。

 そのような訳で、私たちは、このような重要な聖餐の場に於いて、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲むようなことは決して許されない。私たちは、それぞれが、自ら罪を犯す事で主を十字架の死へ引き渡し、自らは罰を受けずに逃げて裁きを免れたのであるから、この事実を十分に自分の心の内に留め置かねばならない。そのような場で、本日の箇所のように、前後不覚になって騒いだり、乱痴気騒ぎを行って式そのものを冒涜し、人々にとって証にならない態度をとっている者が居るのならば、人からではない、主御からの懲らしめが与えられることになる。

 しかも、その懲らしめは、終わりの日に行われるのではなく、速やかにその者に対して執行される。そのような冒涜が続けば、主の計画の「妨げ」となるからである。主は、自らの計画の妨げになるものを速やかに取り除かれる。これがどういう意味であるのか、私たちは厳粛に受け止めなければならない。
 主への礼拝、及び捧げもの、礼典を蔑ろにした人間がどのようになるかは、既にTサムエル記の冒頭で、大祭司エリの一家に降りかかった災いを見れば一目瞭然である。聖礼典は、主の儀式の中でも最も重いものであるのだから、主への捧げものを横取りしたホフニとピネハスの二人の息子へ向けられた神の怒りと同じ類のものが、不敬虔な態度で聖餐式に臨むものに向けられるのである。

 しかし、その一方で、「取り除かれるような存在」になり得た者から、憐みが取り除かれることはない。主は命を絶って速やかに改宗から断つのではなく、病や多くの警告を通して「懲らしめられる」ところから始められる。それ故に、私たちは懲らしめを受けている事を自覚したならば、速やかに悔い改めて自らの行動を律さなければならない。私たちが、行っている行動の一つ一つによって、私たち自身が、この世に終わりに行われる、本当の意味での裁きを受けないようにする為である。


○23節
 「受けた(ギ:パレラボン-(現)パララムバノウ)-」と、「伝えた(ギ:パレドカ-(原)パラディドミィ)」は、伝承の伝授を表す専門用語であり、これを受けて、パウロは誰かから、聖餐の伝承を伝授され、また、それをコリント信徒へ伝授したと読み、また考える根拠とされてきた。
 しかし、文頭に、「私は(ギ:エゴゥ・ガル)」と、「主から(アポ・トゥ・クリオウ)」という二つの言葉は、又聞きではなく、直接本人から伝聞を受けた形を表している。
 パウロ自身が、聖餐を制定された場所に居なかったのは明らかであるので(パウロが主イエスと出会ったのは、昇天後である)、明らかに彼は使徒やその他の弟子からこれを聞いたのであるが、敢えてこのような表現を使ったのだと考えられる。意味合いについては前述の通り。

 また、別解釈として、23〜25節までの一連の文そのものが「伝えられるべき伝承」の原文の抜粋であるという見方を行うこともできるが、抜粋したり、人の言説を取り上げる場合、パウロは「」等、囲いを使って言い表す筈で、他の箇所ではそのようにしていることからも考えると(10章23節etc..)、どちらかと言えば前述の通り、彼の信仰的な態度が、この命令を直接掲示であると言わしめていると考える方が妥当だと考えられる。


○24節
 「これは私のからだです(ギ:トウト・モウ・エスティン・ト・ソーマ)」という言葉については、教会の中で長らく論争が行われてきた箇所である。何故なら、この言葉によって、聖餐に用いられるパンと葡萄酒そのものに、何か霊的な意味があるというオカルト的な要素や見解が加わる事になり、このパンと葡萄酒が何なのであるのか、初代教会や歴代の教父達の間ですら計りかねる問題が起こったからである。これが、実際にキリストの肉と血ということになるならば、パンと葡萄酒は物理的に何か別のものへと変わっている事になるが、どうなのであろうか。

 これについて考えるには、「からだ(ギ:ソーマ)」が中性形で書かれていることに注目しなければならない。「パン(ギ:アートン)」は、男性系単数で書かれており、もし「このパン自体が私の身体そのものだ」と、キリストが言い表したならば、対応するからだの部分も、男性系単数で書かれなければならない。しかし、実際にはそうではなく、中性形で書かれている所を見れば、、パンを割き、皆に分け与えて共に食べると言う一連の儀式全体が、イエスが言う所の「私の身体」であって、パンそのものを儀式によって何か妙なものに変化させて食べさせると言う、所謂魔術的な行いが示唆されている訳ではないことがわかるのである。

 では、「パン」と「からだ」が連動していないとすれば、中性形の「からだ」に対応するのは、イエスのセリフのどの部分なのであろうか。それは、「からだ(ギ:ソーマ)」直後の「これ(ギ:ト)」の部分である。「これ」は要するに、今まで行った一連の動作を含む包括的な言い回しであり、やはりパンそのものというよりは、「パンを割いて配り、皆で食べる」と言う一連の儀式全体が特別なものなのだと読むことが出来るようだ。また、「これは(ギ:トウト)〜です(ギ:エスティン)」と、イエス本人も、手に持っているパンを指して「これは〜です」と、比喩的表現を用いて取り扱っていることからもわかる。儀式という特別な手順の中で扱われているからこそ、そのパンには意味があり、それがないならば、それはやはりただのパンなのである。何か特別な物質に変化したりしている訳でないと結論するのが妥当であろう。

 故に、化体説のように、パンそのものを聖体として扱ったり、栄化されたキリストの身体が部分的に降臨しているなどと言ったりして、パンを何かオカルト的な物質として扱い、特別視しすぎることは、危険な行為に繋がると考えられる。勿論、聖別を受けて割かれたパンは、例えただのパンであったとしても、聖別された特別な存在であるので、それそのものに何の意味も無いと考えて、粗末に扱うことは許されない。実際にパンが変質するわけでなかたのだとしても、私たちは裂かれたパンを、キリストのからだであると本気で見なして食べるのであり、その行為によって、私たちはただの記念儀式ではなく、本当に栄化されたキリストの身体を頂いたと受け止めるのである。ちなみに、余った聖餐のパンや杯の残りは、基本的に司式者が全て食べる事で、聖餐の食物は食べきられなければならないのであるが、これについては、議論したり根拠を示すまでも無く、聖餐の儀式の内である。

 また、「あなたがたのための(ギ:ト・ヒュペル・ヒモン)」という言葉は、後に書かれる福音書内では、イエスのセリフの中に無い言葉なのであるが、福音書はその代わりに、「多くの人のあがないとして自分を与える為である」という、更に詳細な前置きが追加されており、文脈的にはどちらも共通していることがわかる。パウロは手短に話す為に、これらの言葉を短い言葉で省略し、補ったと考える事が出来る。


○25節
 「杯(ギ:トテリノン)」は、パンの次にキリストが取り上げたものであるが、ここでは中身が指定されていない。即ち、パンと同じく、同じ杯から回し飲むという行為そのものに意味があるのであり、中に入っている「飲み物」については、厳密に指定されているものではない。
 しかし、福音書の中では、「わたしがぶどうの実から出来た物を飲むことは決してありません」と、イエス自身が言われているので、杯の「中身」については、「ぶどうの実」から作られたものであることは確かなようである(マタイ26章29節etc..)。
 それ故に、御言葉的な意味合いでは、「杯」の中身が葡萄酒である必然性は無く、葡萄からつくられたものであるならば、葡萄酒でも、葡萄汁でも。どちらでも良いと考えられる(厳密に言うならば、混ぜ物のない赤葡萄100%が望ましい。ちなみに、当時、ワインのような完全に発酵した葡萄酒が食事に用いられることは希だったので、微発酵した、殆ど葡萄ジュースと変わらない飲み物が用いられていた。ワインのような完全発酵した飲み物は「濃い酒」と表現されている(士師13章14節、Tサム1章15節etc..))。

○26節
 「告げ知らせる(ギ:カタゲッレェテ)」は、二人称複数、直接法、能動相、現在で記されているので、いつであっても、「現在」有効な命令として受け取る事が出来る。現在、聖餐の恵みに預かっている私たちも、「今」、実行しなければならない命令である。私たちは聖餐を受ける度に、いずれ再臨される主の死、即ち、贖いの死と福音、再臨を、求道者、未信者に宣べ伝えて伝道を行う義務があるのである。そうでなければ、私たちの内にも、永遠の命はないのである。

○27節
 「したがって(ギ:ホステ)」は、結論に入る為の前置詞であり、26節までが前置きであったことを指し示す。パウロの言いたい本題はここからである。
 即ち、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲むものに対する警告がここで行われる。
 「誰でも(ギ:ホス)」が用いられていることや、「食べる(ギ:エステ)」と、「飲む(ギ:ピネ)」が、強い仮定で書かれているので、これらのことに例外が無いことが見て取れる。
 私たちの身代わりとして死なれた主の十字架に対して、相応しくない態度をとるのであるから、当然、主を十字架に掛けた他の罪びとと同じ怒りを身に受ける事になることを、私たちは覚悟しなければならない。これについては、聖餐に限らず全ての事についてそうである。私たちは、キリストの十字架の死や贖いの前に、相応しくない態度をいつだって取るべきではないし、それを茶化すようなら、相応の裁きが待っている事を弁えねばならない。キリストの十字架は玩具にしてよいものではない。

○28〜31節
 「吟味(ギ:ドキマゼトウ)」は、検査、試験、判別などという意味合いがある言葉であり、主に「試験の結果、本物であるかどうか判別する」というニュアンスのある単語である。
 また、「わきまえないで(ギ:メ・ディアクリノン)」は、区別しない、正しく判断しない、自分自身と議論しない、自分が間違っているかどうか考えて躊躇わないなどの意味がある言葉である。

 即ち、聖餐を受けるに相応しい存在であるかどうかについて、私たちは聖餐を受ける前に自己吟味を行わなければならず、それをしない、または相応しくない者は、聖餐を通して恐ろしい裁きを自分自身に招くのである。30節では、コリント教会に、現在進行形で病気の者や死んでいる者が多い事は、聖餐が正しく執行されていないことが要因であるとパウロは宣言している。現地に行って細かく確認している訳でもないパウロがそう言い切るのは、他の不徳や罪の表れよりも、この「聖餐が正しく執行されていない」という聖礼典に纏わる問題が、他の罪とは別次元で危険なことであるからだろう。他の要因多々あれど、これが一番の原因であるのは、神に仕える指導者にとって、「火を見るより明らか」なことなのである。

 しかし、そうはいっても、本当の意味で聖餐を受けるに相応しい存在など、この世には一切居ないのであるから、私たちはいくら悔い改めようが、誰も自分自身を聖餐を受けるに相応しい存在であるとか、なったとか言うことは出来ない。

 従って、私たちが行うべき自己吟味とは何かといえば、「自分自身が、本来聖餐を受けるのにふさわしくない存在であるにも関わらず、この場で聖餐を受けている」ことを、自分自身に問いかけて確認し、敬虔に良く弁えることである。それを弁えるからこそ、決してその場でふざける事など許されないことも良く解るはずなのである。当然、キリストの福音を信じ、それを告白して洗礼を受け、キリストの弟子となっていることも最低条件である。

 聖餐式の場に於いて、これらの「吟味」は、自分自身で行わなければならない。何故なら、神以外、他者の心の中を見通すことなど出来ないからである。他者が、「聖餐に相応しいかどうか」を判別できるのは、せいぜい聖餐を受ける者が信仰告白を行っているかどうか、洗礼を受けているかどうかを確認することぐらいであり、それ故に、とりあえず聖餐を受ける資格の最低条件は、「洗礼を受けている」とされているのである。しかし、それは最低限の必要条件であり、十分条件ではない。宗派によっては、他の宗派の信仰告白や洗礼に対してまで責任を持てないとし、自身の宗派以外の信仰告白や洗礼を行っていない者を聖餐式に参加させないこともあるが、聖餐を受ける当人が裁きを受けない為の配慮であって、排斥や嫌がらせが目的でないことは弁えるべきである。「洗礼を受けていること」は、聖餐を受ける為、外部が判断できるごく一部の、ただのチェック項目の一要素に過ぎず、「洗礼を受けているから聖餐を受けるに相応しい」と、自分自身を判断するのは、余りにも軽率である。
 
○32〜34節
 「こらしめ(ギ:パイデウオメーサ)」は、懲らしめ、教育、訓練を示し、悪意による攻撃や、無意味な痛めつけ、攻撃、また処罰で無い事を示している。寧ろ。子供を育てる、教育するといったニュアンスの言葉の受動系として考えたほうが良い。

 即ち、最終的に処断されることを表す、「裁き(ギ:クリーマ)」とは、性質の異なるものである事を理解しなければならない。
 例え、主の聖餐の場を弁えず、主の計画の妨げを行うような一人びとりであったとしても、その処罰が永遠の滅びに直接つながる事は無い。大きな処罰が下されることになったとしても、それはあくまで、悔い改めて、正しい道に戻る為の布石なのであることを、私たちは十分に弁えなければならないのである。

 それ故に、大切な事は、事故を吟味することであって、自らが何者であるか相応しくわきまえていれば、主の「懲らしめ」は一時的なものであり、永遠に続くものではない。
 私たちにとっては、既に5章5節で呼んだように、肉体的な死と滅びに至る「懲らしめ」すらも、これ以上神を冒涜して罪に定められることがないようにと与えられる「一時停止処置」程度の意味しかないものなのである。私たちは、死を終わりとは考えない。それ故に、主の懲らしめによって死んだからと言って、その者が滅びたとも考えないのである。

 最後に、一つ誤解があってはならないのは、教会の中には病にかかったり、死んだりする兄姉は存在するが、病にかかっている兄姉が敬虔でないから裁かれていると考えたり、死んだから何か大きな罪を犯したのだとか、そのように受け取る事は間違いである。そういう側面によって裁かれる者も確かにいるが、そうでなく、単純に病に伏せる兄姉もいるのである。パウロとて、身体に抜けない棘と本人に言わしめる程の病を負いながら伝道をしていた。病や死は、イコール私たちの不敬虔だと安易に考えてはいけない。人に対しても、また当然自分に対してもである。

2.詳細なアウトライン着情報


○聖餐の取り決めの伝達、及び確認
23a 私はあなた方に伝えました。
23b 誰から?:主から
23c 何を?1:即ち、主が渡される夜、パンを取り、
24a 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こういわれました。
24b 「これはあなたがたのための、わたしの身体です。わたしを覚えて、これ(パンを裂くこと)を行ないなさい。」
25a 何を?2:食事の後、同じように杯を取って言われました。
25b 「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これ(杯をまわすこと)を行いなさい。」
26a ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

○一時的な主の裁き
27a したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、罪を犯すことになります。
27b 何に対して?:主のからだと血に対して
28a (それゆえに)だれでも、自分自身を吟味して(から)、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 (さもないと)みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
31 しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。
32a 私たちがさばかれるとすれば、
32b それは、この世とともにさばきをくだされることがないためです。
32c 誰によって?:(他でもない)主(御自身)によって懲らしめられる、ということなのです。

○とりあえずの命令
33a ですから、兄弟たち。
33b 食事に集まる時は、互いに待ち合わせなさい。
34a 空腹な人は家で食べなさい。
34c あなたがたの集まること(が原因になること)によって、さばきを受けないようにするためです。
34d このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。


着情報3.メッセージ

『自分自身を吟味する』
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章23〜34節
中心聖句:『だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。』(Tコリント人への手紙11章28節) 2024年1月14日(日) 主日礼拝説教要旨

 本日は、聖餐の箇所を開きました。聖礼典(サクラメント)の一つである聖餐式は、洗礼を受けた者だけが預かる事の出来る、キリスト教の中で最も厳かな儀式の一つです。聖餐式の最中は、誰であってもふざけることは許されません。それに加えてパウロは、誰でも自己を吟味しながら、これを受けねばならないと教えました。そもそも「聖餐」とは何なのでしょうか。

 聖餐は、イエス様が私たちに命じられた、パンを割き、杯を回して行う記念の儀式です(23~26節)。何の記念かと言えば、イエス様が、私たちを含む全ての罪びとに裏切られ、引き渡され、十字架の上で罪の罰の身代わりとなって死なれたことの記念です。渡される夜、聖餐を命じられた弟子達は、その後すぐに、祭司長達に捕らえられたイエス様を裏切り、逃げ出してしまいました。我が身可愛さに、イエス様に、全ての責任を押し付け逃げ出したのです。そのような弟子達の中に、私たち自身も含まれているのです。パウロは態々「主イエスは渡される夜」と書き記して、そのことに目を向けるようにコリントの信徒たちに教えました。聖餐の命令を、「私は主から受けた」と、直接の伝聞として語ったのも、「私たちは、皆その場にいたのだ」と教える為なのです。それ故、私たちは、聖餐を受ける度に、その命令の通りに、イエス様の十字架による死の意味を告げ知らせることを大切にします。常に聖餐台が礼拝の中心に置かれ、牧師が、十字架の死を中心に御言葉を取り次ぐのもそれが理由です。私たちは、自分が罪の責任と罰を、全てイエス様に押し付けて、十字架の死に明け渡した張本人です。その為に、今裁かれずに済んでいますし、何なら今現在ですら、「そうし続けている」のですから、この事実を粛に受け止め、聖餐へ臨まなければなりません。それ故にパウロは、乱痴気騒ぎで聖餐を台無しにしているコリント信徒に、聖餐を受ける際の自己吟味を厳しく求めたのです。

 聖餐を受ける際に必要な自己吟味とは何でしょうか。それは「自分が、到底聖餐を受けるに相応しくない者であること」を弁えることです。例え洗礼を受けていようが、私たちはイエス様に罪を押し付けて滅びを免れたのですから、例え誰であろうと、イエス様の前に出て聖餐を受けるに相応しいと自己評価できる人間は居ないのです。そうであるにも関わらず、私たちはイエス様から招かれて、聖餐の席でパンと杯を頂きます。それはただひたすらに、イエス様御自身が、私たちを聖餐の食卓へ招いて、受け入れて下さっているからに他ならないのです。イエス様は、渡される夜、全てをご存じになられた上で、弟子達を励まされました。ペテロに三度裏切る事を予告された後、立ち直ったら他の弟子を励ませるよう優しく祈り、慰められました(ルカ22章31〜34節)。同じように、イエス様は私たちが自らの罪の裁きに耐えきれないことをご存じになられた上で、私たちの罪を自ら引き受けて、御自分の十字架の犠牲によって「赦す」と宣言してくださいます。私たちを「相応しくないまま」で聖餐の席に招き、自らの血潮による新しい契約によって、罪の赦しと永遠のいのちの交わりに加えて下さるのです。

 聖餐は、私たちが考える以上に厳粛に、自らの事を吟味しなければならない場です。それを弁えず、聖礼典を軽んじれば、その大切さを理解させるために、神様御自身が、その者を懲らしめられる程であります。しかし、私たちが悔い改めて、自身に目を向けて吟味しつつ、聖餐の場に集うならば、そこにはイエス様の優しい赦しと招きがあり、私たちは本当に、喜びながら神様と共に生きる、活き活きとした人生の中へと招かれるのです。主日の全ての礼拝は、聖餐こそが中心となって行われます。私たちは、主日に教会へと集う時、十分に自己を吟味しながら礼拝に参加しているでしょうか。良く自らを吟味して、弁えつつ御前に詣でましょう。



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