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牧師の説教ノート(2月4-11日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章1〜3節

1.時代背景、舞台、文脈背景

 「〜についてですが(ギ:ペリ)」という前置詞で始まる今回の箇所であるが、この前置詞によって、11章までの一連の話題が終わり、パウロの話が切り替わったことが示唆されている。
 12章からは、全く新しい話題、恐らくコリント教会からの質問に対する、次の項目の解答に入っているのだと思われるが、1節文頭にある接続詞、「ギ:De(デ)」のせいで、解釈が非常に難しいものとなっている。これは「しかし」という意味もある為、11章最後の「他の事については、私が行った時にきめることとします」から、連続して「しかし、御霊のことについては知らずに居てほしくありません」と読むこともできるのである。そうであるならば、12章は、11章の内容への例外的な補足であると読むことも出来る。
 しかし、「さて」とも、読むことが出来るので、話題が移り変わっていると捕らえる事もできる。多分、新改訳のように「さて」と訳すのが区切りもついて良いかと考えられる。

 どちらにせよ、この手紙は全体が一つの(即ち、皆が語る事を一つにして、仲間割れせず、同じ心と考えで一致することを目的とする1章10節の)文脈によって語られているので、話題が切り替わっていても、パウロの言わんとしていることには連続性があるし、「本当の意味で神を恐れて自身を吟味せよ」という11章の内容を十分に理解し、かつ受け止めていなければ12章の問題も理解できないのである為、どちらにとっても構わないだろう。とりあえず、コリント教会からの質問に応じて項目を切り替え、霊全般の働きについて、パウロは12章から話を始めていると考えれば問題ない。

 今日の箇所は、たった3節と短く、また、後の話題にダイレクトに繋がっている(ように見える)ので、深く読まずに読み飛ばしがちになるのであるが、「知らずにいてほしくない」という表現は、「無知(ギ:アグノエイン)」という単語が用いられて居る為、態々「兄弟達よ」と、優しい表現で中和しなければならない程に、きつい表現が用いられている。だから、この1〜3節の話題は、4節以降の話題から独立して、パウロにきつい物言いを余儀なくさせるような、緊急性の高い話題、即ち4節以降の「質問に答える」前に行う「叱責」なのである。

 3節まで、私たちに一人びとり与えられている霊、即ち「聖霊」の見分け方について語られている。2節までで語られている通り、この世界には、私たちには見えない多くの霊が働いていて、私たちは少なからずそれらの霊と「接触」し、影響されながら生活している。

 「騒がせる霊」「怒らせる霊」「駆り立てる霊」「堕落させる霊」など、私たちはこれらに接触することで、多くの影響を受ける。そこには私たちの意思の強さや、実力などは関係なく、私たちは故も無く、自らの行動に「指向性」が与えられるのである。私たちは時に、それを「その時の気分」といった言葉で表現する。

 勿論、それらの指向性を、自らの鋼の意思で押さえつけて自制できる、自我の強い人は多く存在する。しかし、その一方で、自制の賜物が無く、触れた霊にひっぱられて、本意ではない問題行動に走るような弱い人は一定数存在するし、例え普段は自制出来る人であっても、心が弱っていたり、ショッキングな出来事があって冷静でいられない時には、それらの付与された「指向性」に逆らえないことも多い。私たちはこの状態を、所謂「魔が差した」とか「気の迷いで」などという言葉を用いて表現する。心が弱って、自らの欲に逆らえない状態をつくってしまうのは私たちであるが、それらの「欲」に対して、私たちの知らない内に影響を与えている存在についても、私たちは良く気を払って身を守らなければならない。

 私たちは霊の影響下では、自分の意思とは全く別の不思議な行動をとるものであるが、そのような行動をとっているからといって、それが全て「聖霊の働きによる」といえるかどうかといえば、全く話は別なのである。

 その一例として、パウロは2節で、私たちは誰に言われるでもなく、「なんとなく」で、受動的に偶像の宮に参拝していた事実を挙げる。現代の私たちも、未信者であるなら(もしくはそうであった過去には)特に理由も無く、正月には神社に初もうでにいくものだという思い込みで、神社に出かけたりしたことはないだろうか。普段、信心とは無縁の生活をし、神など居ないと鼻で笑っていても、折々ではなんとなく、神社にでも行こうかという「気分になり」、また、出かけている人を見ると、良いものだなと、「なんとなく」好意的な気分でそれを見ることになる。それらの働きは、パウロのいう所の、聖霊以外の諸々の霊の働きなのであって、以前はそういうものに、私たちは知らずに影響されていたのだということを知らせようとしているのである。

 さて、そういうわけで、クリスチャンとなり、「敬虔でありたい」と強く真面目に願う人程、霊的な導きについて求めるものなのであるが、私たちには基本的に霊という存在は見えないので(見えると主張する人々もいるが、それは殆どの場合、脳の病気である。(参考文献:「https://twitter.com/deltaburst93/status/1702120778945475044 」)、自分が影響を受けている霊が、一体何の霊なのかを客観的に識別することは非常に難しい現実がある。

 創世記3章で、アダムとエバによって神から与えられた神性が破壊された人間は、神と交わる能力を喪失、若しくは一部が破壊されてしまっているので、霊の働きを「感じる」ことは出来ても、直視することはできないのである(何事にも例外があるので、見えるケースが完全に無いとまでは言わないが、殆どの場合はそうである)。

 そういう訳で、「触れた」霊の働きによって、強く感情を揺さぶられたり、温かみを感じたり、薄寒さを感じたりしたときに、敬虔な人ほど、それを「聖霊の働きだ」と決めつけて喜びたがるものなのであるが、それは非常に危険な事である(たとえそれが、「教会の礼拝堂の中」であったとしてもである!)。私たちは、慎重に自分に影響を与えているであろう、霊的働きの源泉を、常によく探り続けなければならない。そうでなければ、「自分は素晴らしいものと出会った」と大喜びしながら、安易な滅びの道へ誘導される(しかも多くの場合、そのように誘導された事にも気づかない)ことになるのである。

 それ故、パウロは、「イエスは呪われよ」と言うことは無く、「イエスは主です」と言える霊の導きにのみ従うようにと、コリント信徒へ教えたのである。しかし、私たちはこの二点を、ただ、そういうセリフがいえるか否かという浅い観点で見てはならない。実際、それを心から言えている状況は、聖霊の支配下に無ければ再現することはできないし、聖霊の支配下にある時、私たちは行動に於いても「キリストは主である」と言わしめるに足る行動を取れるはずなのである。
 神は、私たちにそれぞれあるべき場所を与え、居るべき教会を定め、働くべき職を与え、そこへ留まるようにと命じられているのに(Tコリント7章24節)、それに逆らって、自分の気持ちや楽しみを優先して、そこから離れては居ないだろうか。神の憐みによって手を引かれて場所を動かされるという特別なケースを除いて(創世記19章16節)、自身が置かれている教会から離れ、他所の教会へ入りびたることは、少なくとも神の御心とは程遠いところにないだろうか。与えらている神の御言葉に文句を言ったり、神の御心によって動いている教会や教団の動きや流れに対して不遜な物言いをしてはいないだろうか。そんなことをしているのに、どうして「私たちはキリストは主であると言える」と豪語し、「私はキリストは呪われよとは決して言わない」と、自信を持って言えるのであろうか。自分の行動を振り返れば、自身が触れていた霊が、本当に聖霊であったかどうかは自ずと判るのではないだろうか。

 つまるところ、これは私たちの霊性の問題である。私たちは本当に自己を吟味しながら、本当に「キリストは主である」と言わしめる霊に触れているか、「キリストは呪われよ」という霊に触れていないか、良く探って確認しなければならない。ただ、神の御心に従う道へと導こうとする霊にのみ従わなければならないのである。与えられた場所に不平を言い、神の御言葉に従わず善し悪しを判断しようとし、神を恐れず、その働きに従おうとしない態度を取り続けていることに、私たちは案外気づかない。しかし、その状態は結局、遣わされたモーセに逆らい、神に挑戦し、不平を恐れなく言ってのけ、神の恵みを粗末な食べ物とまで言い切った滅ぼされた世代と全く同じ事なのではないだろうか(民数記21章5節)。その結果、そのような民に何が与えられるのかについては、民数記21章の6節以降に書かれている通りである。

 せっかく従ってついていったのに、不平不満を並べ立て、神の御心に従わなかったので、モーセについていった人々は約束の地に入る事が出来ず、荒野を40年さまようことになった。キリストは主であると、私たちに本当に言わしめ、私たちを聖め、導いて下さる神の霊の声は非常に小さい。私たちは、けたたましい惑わす霊ではなく、本当に恐れを持って神の霊にのみ仕えなければならない。何故なら、神がモーセに従ったイスラエルに用意されていたように、荒野の中のような苦しい場所の中であったとしも、その場にとどまって忠実に神の霊に仕える人を炎の柱と雲の柱で守り、約束の地に導き入れるのと同等の、最善の恵みが用意して下さっているからである。神の御霊に忠実に従う以外の所で、私たちが良いものを手に入れることは出来ない。私たちは、本当の意味で恐れて、キリストは主であると言わしめる神の御霊に従っているだろうか。

 さて、実はここまで取り扱ったが、この12章1〜3節は、14章37節以降にある「本当の本題」へつなげる為の壮大な「前振り」である。自身を預言者か、霊の人だと勘違いし、神を恐れず、その御声にも御心にも従わず、自分が何者かであると思い上がっている一部の人間に対する一連の叱責ころが、12〜14章の「本筋」である。その序章として、本当に私たちは「キリストは主である」と、口でも身体でも発言できているかどうかを、手厳しく問うのは、一連の文脈にも相応しいものだろう。

 そう考えるなら、「コリント教会から寄せられた質問」の毛色も少しわかるのではないだろうか。恐らくは、御霊の賜物についての詳細な情報提供を求める者ではなく、「御霊の賜物を
自称して教会を惑わしている、一部の神を恐れない人間達にどのように対応したらよいか」が、本当の所の質問内容であったのではないだろうか。 神に従っていると口ではいいながら、実際には神を恐れていない人間は、何時の時代にも教会の中に一定数存在する。この問題について、教会はどのような時代、どのような状況であっても、十分に向き合ってよく考え、自己吟味を続けていかなければならない。


○1節
 「御霊の賜物(ギ:プニュマティコス)」は、霊に関係のある、霊的な、霊の賜物、霊から出る、霊を与えられた、などと言ったニュアンスがあり、単語全体としては「霊にまつわる」とか「霊関連」とか、そういう意味合いのとらえ方が妥当であるように思える。また、霊的な人を形容してこう呼ぶこともある。基本的には、霊的な賜物の話題を用いるときは、プニュマティコスではなく、「御霊の賜物(ギ:カリスマ)」の単語を用いる為(4節ではそれが使われている)、これを「御霊の賜物」と訳すのはどうかという議論もある。

 とはいえ、コリント教会からの質問状の項目に応答しているという前提から考えると、明らかにコリント教会は御霊の賜物、即ちここの能力について質問してきたと思われるのであって、その流れを考えると、御霊の賜物と訳すのは正しいのであるが、態々単語を変えているところを見ると、パウロ自身は、もっと包括的なニュアンスで受け取って欲しいと考えて居るようにも見受けられる。

 今回の場合、属格・中性(中性は霊的なもの全般の特性)、複数で語られているので、直後の主格男性複数の、兄弟達(アデルフォイ)に掛かっているように見える。
 「兄弟達、あなた方に纏わる霊的な事柄全般について、私は無知で居てほしくない」と言うふうに訳すのが妥当可とも思われるが、意見は色々あろうとも思われる。文脈的には、この後にパウロが賜物(カリスマ)の話を行うので、霊的な賜物と平行して訳したくもなるが、態々違う単語が用いられている上に、パウロが語っているのは霊的な総括の話題であるので、やはり、霊的な事柄全般と訳した方が、文脈には沿うように思える。
 「無知(ギ:アグノエオウ)」は、知らない、知っていない、知らない事によって、という意味合いがある。語尾にエインをつけて、アグノエインとすることで、現在、不定、能動になり、直前の「欲しくない(ギ:ウー・セロウ)」と併せて、「是非知ってもらいたい」、とか、「知らずに居てほしくない」という認知を希望する意味合いになる。理解しないという意味もあり、正しく理解していないという意味合いでの誤認の「知らない」というニュアンスが強く、パウロも恐らくは、霊的な事柄について良く知っていると勘違いしているコリント教会の人々に対して、誤認したままで居てはいけないという文脈で、この霊全般のことについて語り始めているようである。


○2節
 「御存じの通り(ギ:オイダ)」は、知っている、理解する、関りがある、といった意味のある単語で、現在完了で書かれているので、ご存じの通りの役で良い、コリント教会の信徒の一人びとりも、既に体験済みであろう話をパウロは行っている。

「誘われるまま(ギ:アゴオウ)」は、導かれる、引かれる、誘導されるという意味合いがあり、今回の箇所では、直後の「引かれていく(ギ:アパアゴメノイ)」と、連動して、「引っ張られて連れていかれた」と訳するのが適切であると辞書には書かれている(岩隈ギリシャ語辞典8P)。また、構文的に大変珍しい配置にもなっており、文法的趣旨として、何度もぐるぐると連れまわされていたというニュアンスを読み取る事ができる。即ち、幾つもの様々な「神」なるものの神殿を、あちらへこちらへ受け身に行かされ続けていたという受け取り方がよさそうである。また、アパゴメノイは、〜から離れるという意味の「アポ」と、導くという意味の「アゴオウ」が合わって、「アパアゴオウ」という単語になっているので、この「引かれていく」には、「間違った方向への導き」というニュアンスが含まれていることも注目される。

 ……となると、物言わぬ偶像の所へ、「何に」引っ張られて連れていかれていたのかについて考える必要がある。
 文面だけを見ると、「あなた方(即ち兄弟達)」が、導かれて引っ張られていたというところで主語の説明が完結しており、導いて引いていた存在については語られていない。
 唯、文脈的に見れば、前の節でパウロは、「霊関連(ギ:プニュマティコス)」の事について知っておいて欲しいと前於いているので、岩隈辞書の言うように、「(霊に)引っ張られて連れていかれていた」と訳すのが適切だと思われる

 即ち、物言わぬ偶像の所に、私たちをなんとなく引っ張り続けていたのは(即ち行かないといけないような気にさせていたのは)、私たちに触れた何らかの霊の働きによるのであり、多くの場合、私たちの自発的な意志や決意によるものではないのである。中には信心深く、決意を持って神社仏閣等へ能動的にお参りに行く人もいるかもしれないが、大部分は、年中行事のような強いられる理由によって受動的に、若しくは「なんとなく」で引っ張られるように参拝する人が多いのではないかと思われる。そのなんとなくひっぱっていく霊こそが、パウロの知って欲しい「不詳の霊」、即ち悪霊の働きなのである。

 ここで、パウロが態々「ものを言えない(ギ:アフォーナ)」と偶像につけていた意味が生きてくるように思われる。偶像自体は私たちの信仰や、崇拝、問いかけに対して何も答える事が出来ないが、その偶像の所へ連れて行こうとする霊は確かに存在し、しかも、それらの霊は私たちに影響を与えるだけの危険な力を持っていると言うことなのである。そのような不詳の霊に触れている時にも、私たちは「霊的な働き」を感じるのであるが、それは決して聖霊によるものではない偽りの霊感であり、私たちを建て上げる働きでは決してあり得ない。サタンですら御使いのふりをするのであるから(11章14節)、私たちはこれらの「霊感」を、自分の力で正しく見分けることは不可能に近いのである。

 では見分ける為にどうすればよいのか。主イエスは、この類の者は祈りに依らなければ退けることは出来ないと断言している(マルコ9章24節)のだから、私たちはそれに従って、神の御霊に対して、自分の霊性の為に切に祈り続けなければならないのである。正しい霊感を祈り求めて、神の御心がどこにあるかを常に探り、自己を吟味し続けることが求められるのである。

 特にギリシャ文化の中では、霊による狂気の中からこそ、偉大なものが生まれてくると言う文化思想や背景があった。プラトンですらソクラテスを通してそう語っている(パイドロス244A-B)。そのような思想に引っ張られて、騒がしいほど良い、狂っているほど良いと考えて、コリント教会の人々は行動した。御言葉の中、聖書の外からもたらされる「善性」は、私たちに悪い影響を与える事もある。だから私たちは、良いものを受け取る時、御言葉に照らしてこれを受けなければならない。特に霊の働きはそうなのである。神の御子の目の前ですら、悪霊の霊感による働きはいくつも起こった(マルコ1章24節、5章7節、9章17-20節)のだから、私たちは、自分がそれを見分けられるなどと、決して過信し、思い上がってはならない。

 
○3節
 先に単語的な釈義を行うなら、「呪われよ(ギ:アナセマ」は、ヘヴル語聖書「ヘーレム」の訳語である。積み上げられたもの、神々に捧げた奉納物という意味を元々もつ単語であったが、神にささげた者は手の届かない場所へいって消え去ってしまう方式、即ち聖絶という形で捧げられたことも多かったものであるから、聖絶された捧げものは「破壊されたもの」、転じて「呪われたもの」という意味でつかわれるようになったようである(神の御心による、ヨシュアを通して聖絶されたエリコの街は、後に呪われた街として扱われ、ヨシュアによって固く再建を禁じられた(ヨシュア6章26節))。即ち、ニュアンス的には、呪われよに加えて、破壊されよという意味もあり、キリストに纏わるあらゆるものを否定するという意味にもとれるかもしれないが、パウロが文脈的に言っているのはおそらく、恍惚状態になったコリント信徒の中の一部の人間が、キリストが十字架に架かり、「私たちの為に呪われた者となられた」という話の流れを受けて「キリストは、(私たちの為にもっと)呪われた者となれ」などと叫んでいるのを聞いたので指摘しているのではないかと考えられる。確証はないので憶測にすぎないが、コリント信徒ならば言いそうなことであるようにも思える。そう考えるなら「私たちの為にもっと十字架に架かって下さい」とか、「キリストの痛みを喜ぼう」とか、「十字架は麗しい」とか、受難の苦しみを美化したり肯定的に喧伝するのも、「呪われよ」と叫んでいるのと同じ意味合いとなるのかもしれないので、気を付けなければならない。

 「ですから(ギ:ディオ)」は、それ故に、それで、それ故に(つまり〜)といった意味合いの接続詞であり、前の節の内容を受けての結論を指す為の言葉である。
 以前、クリスチャンで無かった時に、霊によって物言えぬ偶像のところへ、私たちがなんとなくで引っ張られて居たというパウロの言い分は2節まで理解できるが、3節の内容を見る時に、話が飛躍していてつながりが無いように見える。
 ここまで話せばわかるだろうと考えて説明を省くのは知識人の悪い癖であるが、2節と3節の話題の飛躍の合間についても、私たちは文脈を見ながら考える必要があるだろう。

 私たちが、何かよくわからない「霊的なもの」によって、物癒えぬ偶像の所へひっぱられていたことは2節までで明らかになった。この引っ張られていたことについては、過去未完了で書かれている為、「以前はそうであった」という意味合いで語られていることが判る。
 つまり、もう終わっている事である為、クリスチャンとなった現在、最早なんとなくで、霊によって、物癒えぬ偶像のところへ引っ張られるような危険性は既に無いのであるが、それを踏まえて、敢えてパウロは聖霊の見分け方を3節で提示している。

 結局、この話の飛躍の間にあるものは、文脈から推測するしかないのであるが、おそらくは、「以前私たちを偶像の所へ引いていた霊」と、「今、神のみ前に私たちを留めている聖霊」の差を、私たちが見分ける術がないのではないか?という問題提起をパウロがしているのではないかと思われる。

 私たちは、自らが触れた霊の影響を受けて、気分が変わったり自分の意思を変えられてしまうことがある。感情的になって激しく怒ったり泣いたりした後、思い返すとなんであんなことであんなに怒ったのかと不思議になるような体験は、誰にでも一度は二度はあるのではないかと思われる。過去の自身の行動が腑に落ちないような経験について、私たちは良く「魔が差した」などという言葉をつかって表現するが、私たちは、目に見えない霊に触れた時に、その霊の影響を少なからず受けて行動するのである。

 問題は、その霊が私たちの目に見えない為、「何の霊に触れたのか」「いつ触れたのか」「実際触れているのかいないのか」の判別を付ける方法が私たちに無いところにある。
 気が付かない内に正気を失い、いつも通りでいるつもりで、異常な行動を取っているという危険性が、私たちの人生には常に付きまとうのである。

 「疲れていた」とか「気の迷い」とか「魔が差した」とか「お酒のせい」とか、私たちには、自分の行動の不整合について、無理やり理由をつけて納得させるきらいがあるが、本当にそれで終わらせてよいのであろうか。少なくとも、私たちが自らに触れる霊と、それによって影響を受ける自分の霊性について、常に敏感に、注意を払っていなければ、私たちは「気の迷い」を何度も繰り返すのである。

 それ故に、パウロは3節で、自分が触れている霊が、神の霊であるのか、その他の不詳の霊であるのかを見分ける方法をコリント信徒達に語っているようである。

2.詳細なアウトライン着情報


○霊について無知で居ない為に

1a さて、兄弟たち。
1b 私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。
1c 何を?:御霊の賜物(霊のこと全般)については、

2a ご存じのとおり、
2b 何を?:誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。
2c いつ?:あなたがたが異教徒であったときには、

3a ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。
3b 教え1:神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、
3c 教え2:また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。





着情報3.メッセージ

『正しい御霊に仕える』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章1〜3節
中心聖句:『神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく』(Tコリント12章3節) 2024年2月4日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨

 私たちは、時折、意味も無く感情的になったり、普段の自分らしからぬ行動に出て、大きな失敗をしてしまう事があります。逆に、自覚が無いにも関わらず、周囲から「良い意味で変わったね」と評価されることもあります。これらの事は、多くの場合、私たちが知らない間に働いた、霊の影響によってもたらされたものです。私たちは日常生活の中で、想像以上に多くの霊に触れ、影響を受けています。問題は、その影響や働きが、私たちの目に見えないことです。

 当時、コリント教会では、自身が預言者、あるいは御霊の人(霊的に特別な存在)だと自称する人物が、不詳の霊によって語ったり、トランス状態に陥って騒いだりして、他の兄姉を躓かせて悩ませていました (14章37節)。私たちは、自らの目で霊を見ることができないので、所謂「スピリチュアルっぽい」人間に対して、恐れや憧れを抱いてしまいがちです。だから「これが聖霊ないしサタンの働きだ」と乱暴に言い切ったり、トランス状態に陥って叫んだりしている人を見たりすると、私たちはその人が、何か特別な存在であるかのように錯覚してしまうのです。また、自分がそのような体験や力を手に入れてしまうと、それが全て神の霊の働きによる、良いものであるかのように感じてしまいます。しかし、殆どの場合、本当に霊的な体験は、私たちの自覚していない時に、人知れず起こるものです。例え教会内で、そのような霊の働きが感じられたとしても、それが必ず聖霊によるものとは限らないのです。聖霊による聖めを体験したクリスチャンは多いですが、自分がいつ、どのように変えられたかを、全てを厳密に言うことが出来る人は居ません。霊による影響は、私たちの行動という形にならないと判らないからです。心の内で、変化をもたらす霊の動きすら知覚できないというのに、どうして外から働く霊を、私たちが見定めることなどできるでしょうか。故にパウロは、霊的な事柄を安易に取り扱わず、警戒することを教える為に、霊を見分ける方法を人々に伝えたのです。

 その一つが、「聖霊の働きによっては、誰も『イエスは、呪われよ』とは言わない」という基準です。これは、「イエスは、呪われよ」という言葉を、字句通り発言するか否かだけを問うているのではありません。神様が御心によって私たちに与えられる働き、仕事、環境、母教会に対して、不平不満を持って呟く態度全てが、この言葉に繋がっています。出エジプトの民は、自分の意思で従ったというのに、荒野の中で、神様が用意された指導者(モーセ)に逆らい、マナなど恵みの御業に対して罵詈雑言を並べたてました。神様が御心によって与えられた全てに対して呟き、御心を否定する者は、間違いなく、出エジプトの民と同様に、「イエス(神)は、呪われよ」と叫んでいるのです。しかし、今日の箇所の趣旨は、それを指摘して自他を裁くことではありません。大切なのは、自身が健全だと思っている霊性の一部、ないし大部分が、自身の罪や、「イエスは、呪われよ」と叫ばせる霊の穢れによって構成されているのを自覚することなのです。しかし、自分の信仰に自信のある人ほど、これを受け入れられないのです。

 自信満々に御霊の人を名乗る者を悔い改めさせる為、パウロは聖霊を見分ける術を人々に授けました。これは神様の恵みと、憐みによることです。霊的に迫られ、辛い思いをすることは、恵みでないと考える人もいるかもしれません。しかし、私たちは迫られ、衝撃を受け、辛い中で悔い改めることでしか、神様への恐れを獲得出来ないのです。この恐れこそ、人の努力では決して勝ち取れない素晴らしい宝物です。神様への恐れによらなければ、誰も正しい御霊の、小さな声に耳を傾け、従うことが出来ないからです。私たちは、霊に対して無防備であってはなりません。危機感を持ち、聖霊にのみ従うことを祈り求めていこうではありませんか。


『荒野の中を通れ』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章1〜3節
中心聖句:『聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。』(Tコリント12章3節)
 2024年2月11日(日) 主日礼拝説教要旨

 私たちが、日々、様々な霊的存在から受ける影響は、自分で思う以上に大きなものです。その影響は、意識的に聴き従おうと考える程大きくなっていくものです。神の霊からの影響を最大限享受する為にも、私たちは意識的に、聖霊の小さな声に耳を傾けなければなりません。しかし、神の御霊の声に聞き従うことは、私たちにとって必ずしも快適だとは限らないのです。

 世の中の人の多くは、自分の人生を自分の意思だけで生きていると考えていますが、実際はそうではありません。それをパウロは、教会の面々が、以前様々な偶像の宮を無意識に引き回されていた事実を例に、説明しました。私たちは、特に意識しない限り、関わる霊の影響を無作為に受けてしまいます。だから、霊的な事柄に対して無知や無防備であってはなりませんし、意識的に正しい霊に仕えなければならないのです。私たちは、自分が聖霊の影響をどの程度強く受けているのかについて、良く知っておかなければなりません。その為の基準を、パウロは、コリント教会に伝えたのです。それこそが「イエスは主です」と言えるかどうかという基準です。勿論、ただそれを字句通りに言うだけなら、誰にでもできます。そうではなく、自らの行動や言動、態度などを通して、「イエスは主です」と言えるような生き方が、どのぐらい出来ているかを、この基準は私たちに問うているのです。勿論、そのような生き方が完全に出来ている人は稀でしょうし、罪を犯さず生きることも出来ません。しかし、少なくとも、この基準で己を測り続ける限り、私たちは自身の霊の状態を見極め続けることが出来るのです。

 聖霊様は、私たちを、いつも「イエスは主です」と言わしめる生き方へ導いて下さいます。神様もその導きを通して、私たちの為に用意された最善の賜物と生き方を与え、私たちを喜ばせようとして下さるのです。しかし、その為に通るようにと聖霊が求める道は、私たちにとって決して快適なものばかりではありません。神様が御心によって与えられた土地、仕事、役割、奉仕、教会、時には健康状態までもが、私たちにとっては耐えがたい程の苦難であるかのように思われることもあるのです。自分にとって喜びが無い道を通される時、私たちは「神様は愛が無い」とか、「何故喜ばせてくださらないのか」とか、「まさか力がないのか」と考えてしまうかもしれません。決して勘違いしてはいけません。神様は、私たちに最善を必ず与えようとして下さいますが、そこへ至る道までもが、快適であるとは限らないのです。モーセに連れられ、エジプトを出たイスラエルの民も、嗣業の地へ到達するために荒野を通らねばなりませんでした。神様は、荒野の中でも、彼らを最短の距離で、恵みを与えながら導かれたというのに、「快適ではない」という理由で、民は文句を呟いて、その導きに逆らったのです。神様は常に最善へ導いて下さるというのに、「快適ではないから」という理由で呟き、信用しないのはいつも人間の側です。私たちは、「今快適ではない」ので、聖霊の声を否定し、耳障りの良い不詳の霊の声を聞き入れて、神様の御心に逆らってしまうのです。ここに人間の罪があります。

 私たちの最善は、常に快適と同義ではありません。荒野のような道を通ることを、求められることもあるでしょう。しかし神様は、荒野の中を通った民を、常に雲と火の柱で守り、マナを降らせて養い、海を割って最短で約束の地へ導かれました。同じように神様は、苦難の中でも倒れないように守った上で、私たちを、最善へ導き、喜ばせてくださるのです。だから私たちは思い上がって、神様のなさる御業に対して、不遜に呟くようなことがあってはなりません。自身の霊性を常に確認し、「イエスは主です」と言わしめる聖霊の声にのみ耳を傾けて、神様の守りを信じて荒野の中にも踏み入ることのできる。そのような信仰を獲得しましょう。



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