1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
3節までで、神の霊による働きと、種々の悪霊の働きを、(特別な賜物が無い限りは)感覚的に見分ける手段が無い事が明かされ、それ故に、何が起こっているかで霊の働きを見分けるようにと、パウロはコリント信徒に霊の働きについて語った。
4節からは、実際に、神の御霊によって、多くの賜物が私たちに分与されているということが、事細かに説明されている。というのも、この箇所の一連の説明は、コリント教会を異言によって脅かす自称「預言者(霊の声を聞く人の意味)」や「御霊の人」(14章37節)に対する反駁の準備であり、正しい霊に関する知識を、まずコリント教会の人々に身に着けさせようとする目的をもって語られているからである。
賜物のグループは三つに分けられ、
1.知識と知恵といった元々の能力を昇華されているによって信仰面や御言葉の取り扱いに特化したグループ(8-9a節)
2.信仰や霊性面に特別な力や御業が与えられているグループ(9b-10a節)
3.異言を語る、または説き明かすグループ(10b節)
と、それぞれに役割分担がある。
聖霊は、適宜、各々に与えられた働きに従って賜物を分与する分配型を取っており、全ての賜物を持っているものもいなければ、何の賜物も持っていない人もいないことや、それぞれの賜物についての優劣が存在しない旨についても、しっかりと語っている。
ある人には、一部の特化した賜物があるが、別の賜物が全く無い場合もあり、複数賜物が広く浅く与えられているが、特化した人ほどではなかったりする。自身の賜物が、どのように組み合わさっているのかを、自己吟味しながら確かめることが大切であるし、また、自身に無い賜物があることを自覚することも重要である。
しかし、何より重要である事は、後にパウロも申し入れている通りに、自身の賜物を誇って、他の人々に対して増長しない事が大切である。何故なら、賜物が与えられていないひとはおらず、その賜物を与えられて居るのは他でもない神の霊であって、賜物を受けている私たちそのものには、なんら差など存在しないからなのである。
また、今現在、賜物が無いからと言って、別の賜物が新しく与えられないなどということは無く、逆に、必要であるならば、今持ち合わせている賜物が失われることもある。私たちは、自身の状況や役割に応じて、適宜、賜物を返上し、また受ける事で、御心の通りに神に仕えることが出来るのである。
すなわち、賜物とは、私たちにとって手段でしかなく、これがあるかどうかは、決して神の前の評価につながる事はない。それ故、賜物があろうが、無かろうが、多かろうが、少なかろうが、私たちはそれによって誇っても卑屈になってもならず、謙遜な態度でいつづけなければならないのである。
○4〜6節
〜はあるが、〜は同じであるという構文が、三回連続で並列で続いており、修辞学的に綺麗に説明されている。
この説明は、聖霊、主、父と、三つの神の表れについて語られており、後に、この並びが三位一体の神という概念の下になったとも言われている。
「賜物はいろいろ(ギ:ディアイレイス・エイシン)」は、もともと、分配、割り当てがある「分け与える(ギ:ディアイロウン)」の名詞形であり、大前提として、これらの賜物は、聖霊による分配物であるというパウロの言説が良く表れている言葉遣いである。それ故に、「さて、賜物はいろいろありますが」と訳されているが、本来なら、「さて、賜物は分配されますが」と訳す方が適切であるかもしれない。少なくともそういうニュアンスはもっているようである。
「賜物(ギ:カリスマテオウ)」は、恵み(ギ:カリス)の累計であって、恵みによって与えられたものという意味がある言葉である。ここでは、特定の信者に授けられる、賜物を表している。
これらの賜物にも、色々分類があり、信仰に入ってから超自然的に授けられるものもあれば(預言、異言など)、生まれた環境によって、もともと賜っていたものが御霊によって昇華される能力(知識、知恵、信仰など)もあり、中には、超自然的な現象をそのものを起こす賜物さえ存在する(癒しの賜物、奇跡を行う賜物等)。
「務め(ギ:ディアコニオン)」は、奉仕とも訳されており、この場合は狭い意味の職務ではなく、各々に、時に応じて与えられている奉仕全般を表すものである。職責ではなく、仕事そのものを指す。
「働き(ギ:エネルゲマトン)」は、賜物(カリスマテオウ)を用いて、務め(ディアコニオン)を果たす実際の効果全体を表している。即ち、務めを果たす為の賜物は聖霊が与え、その御霊を振るう場(即ち奉仕)は、主(キリスト)が与え、賜物によって奉仕が達成して起こる結果は、全て父なる神の差配によって用いられているのである。
5節部分の、「務め」については、新改訳2017等では「仕える相手は同じ主です」と訳されているが、これは補足であり、実際の文脈に沿う場合、「奉仕を割り振るのは同じ主です」と訳する方がより適切であるように見える。
即ち、賜物、活躍の場、それによって引き起こされる結果、全てが同じ神の御霊によって支配されているのであり、私たちは自身の能力によっても、与えられた奉仕によっても、また、それによって得られた成果についても、人に誇ることは出来ないのである。
○7節
「皆の益(ギ:スムフェロン)」は、同士であり、共通の利益、全体の益という意味合いがある。どこまでをもって「全体」と受け取るかが難しいが、話の文脈的に考えた場合、「コリント教会全体の益」と捕らえるのが適切であると思われる。あくまで、教会内部の話であり、教会内外含めて全ての人の益になるというのは難しいものであるし、教会内部と、外部の益が食い違うこともある為、教会というキリストの身体全体のことについて、これらの意味は受け取らなければならない。
それ故に、全ての賜物や奉仕は、教会全体の利益になる為に用いられなければならず、教会に混乱を引き起こしたり、他の兄姉に損害をあたえるような方法では、この賜物や奉仕が与えられる事は無い。もし、そのような結果になるのだとしたら、それは神から出た物ではなく、人間か、若しくは種々の不詳の霊から出たものであると考えることができる。その中でも、一番多いのは、各々が自分の欲と、自分だけの利益に従って、この賜物を振るう場合である。それぞれが、自分の欲を満たす為に、賜物と奉仕を利用するなら、全てが滅茶苦茶になってしまう。それ故に、私たちは、各々が、自制して、教会の為に、群れ全体の為になるかどうかを良く推し量りながら、奉仕に当たり、賜物を用いて行かなければならないのである。
○11節
文脈的に繋がるので、先に11節から。
「御霊(ギ:プニューマ)」は、主に聖霊と訳す時に用いられる単語であり、全ての働きは聖霊によるということになる。
「御心のままに(ギ:ボウレタイ)」は、意図の通りに行なうという動詞であり、「分け与える(ギ:ディアイロウン)」は、ボウレタイに連なる分詞として扱われている。賜物の分配は、御心を意図の通りに行う為であり、その意図は父なる神の意図であって、聖霊は、全てそれに従ってこれらの御業を行っているのである。
それ故に、「補わなければ完成しないこと、誰も自分の賜物によって高ぶってはならないこと、自身の賜物に不満をもってもならないこと」を、私たちは気を付けなければならないのである。
○8〜10節
「ある人(ギ:アロウ)」と、「ある人(ギ:ヘテロウ)」で、同じ意味でも、用いられている単語が違う件について、「ヘテロウ」の部分で、御霊の分類が分けられていると考える事ができるようである。
即ち、「知恵のことば、知識のことば」、「信仰、癒しの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力」、「種々の異言、異言を説き明かす力」の三グループの分類に分ける事が出来る。
元々備えた学識が昇華されるグループ、超自然的な奇跡が扱えるようになるグループ、異言が話せるようになるグループの三つがそうかと思われる。
実は、異言について書かれているのはコリント人への手紙だけであり、「常時用いることの出来る」異言の賜物については、コリント教会という小さなグループ特有の賜物であったかもしれない(例外的に、エペソ(使徒19章)などで異言を離し始める場面などが見受けられるが、それは一時的なものであった。一時的に与えられた能力のことを「賜物」とは呼ぶことができないので、コリント教会のそれはいつでも永続的に用いることが出来た異言のようである?)。
「知恵(ギ:ソフィアス)」と「知識(ギ:グノウセオス)」は、明確にこうと区別がつきにくいものの、使徒や教職に於ける賜物であっただろうことは確かなようである。「ことば(ギ:ロゴス)」も、教理や理論の事ではなく、むしろ実際的な発言という意味のある言葉なので、説教者の賜物がここにあるだろうと考えられる。
「信仰(ギ:ピスティス)」は、殉教も厭わない程の特別に強い信仰のことを指すのであって、普遍的な信仰については、ここには含まれていない。必要最小限の信仰ではなく、山をも動かすようなカリスマとしての信仰である。
「預言(ギ:プロフェテイア)・霊を見分ける力(ギ:ディアクリセイス・プニューマトン)」は、似たようなものに見えて、大切な差がある賜物である。預言は、旧約の時代のような歴史の先々を見通すものではなく、限定的に未来の事を予告する類の物でもあるようだが(使徒行伝には、預言者アガボが未来を予告する様が二度ほどある)、それらの予告が教会全体の益となったことは無く、また、人々に動揺を与えるだけのものであり、その賜物が「全体の益となっている」ものであるかどうかは非常に怪しいように思える。彼が預言者であったことは確かなようであるが、このような預言は、ヨハネで終わったのであり、ヨハネより以前の預言者がまだ残っているが故に起こったことであるのならば、この「未来予告」は、私たちの賜物からは除外されるべきである。
また、預言とは、基本的には聖書の御言葉から人々を奨励する働きであって、パウロがコリント人への手紙で語っているのもこれに当たる。預言の霊は預言者に服従するものであって、霊的に発狂させたりすることはありえない(14章31-32節)。
また、霊を見分ける力は、語られている言葉が、悪霊によるのか、それとも聖霊によるのかを直接的に見分ける賜物である。識別方法が明示された事である程度見分けがつくようになる他の人々と違い、様々な観点からこれを直接見分ける力を持つのが、この賜物である。預言する霊と、それを見分ける霊が違うという点に於いては、注意して見なければならないところがある。何でも預言して話す霊の働きが、必ずしも聖霊によるのではないということを、私たちは十分に弁えた上で、これを取り扱わなければならないのである。
「異言(ギ:タウタ)」は、諸々の舌という意味の言葉で、異言語を語ったペンテコステの働きとは違い、神と直接コミュニケーションを取る為のものであることが、手紙内の記述で判る(14章14-16節)。したがって、これは人に対するコミュニケーションではなく、他の人と共有する為には、異言を説く賜物が必要となる。これについての詳しい記述は、後程行われる為、今回は、他の部分に注視したほうが良いだろうと考えられる。
2.詳細なアウトライン着情報
○神の霊による分配
4a さて、賜物はいろいろあります。
4b しかし、(与える方は)同じ御霊です。
5a 奉仕はいろいろあります
5b しかし、(仕える相手は)同じ主です。
6a (御手の)働きは、いろいろあります
6b しかし、同じ神が全ての人の中で、すべての働きをなさいます。
7a 一人びとりに御霊の現れが与えられています。
7b (それは、)皆の益となるためです。
○賜物のリスト
8a ある人には、御霊を通して知恵のことばが与えられています。
8b ある人には、同じ御霊によって、知識のことばが与えられています。
9a ある人には、同じ御霊によって、信仰が与えられて居ます。
9b ある人には、同一の御霊によって癒しの賜物が与えられて居ます。
10a ある人には、奇跡を行う力が与えられて居ます。
10b ある人には、預言が与えられています。
10c ある人には、種々の異言が与えられています。
10d ある人には、異言を説き明かす力が与えられています。
○御霊による分与
11a 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、
11b 御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。
着情報3.メッセージ
『賜物の分与』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章4〜11節
中心聖句:『御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。』(Tコリント人への手紙12章11節) 2024年3月3日(日) 主日礼拝説教要旨
聖霊による働きは、私たちに対して良い影響を与えるものである事を、1~3節では学びました。続けてパウロは、この聖霊が、私たちを正しい信仰へと導くだけでなく、それぞれに賜物を分与して下さることも、コリント教会の人々に語ります。それは、自らの賜物によって、他の兄姉に誇り、これを見下そうとする一部の人々に対して、釘をさす為でありました。
クリスチャンには、各々に与えられている得意分野や能力が存在します。これを総じて賜物(たまもの)と呼びます。この賜物は、各々に割り振られた仕事(奉仕)を達成し、それによって得られる成果(働き)を得るために、聖霊によって分配されているものなのであります。分配されているのは賜物だけではありません。奉仕や、働きすらも、最初から神の霊によって計画されているものです。私たちは、どのような賜物を持ち、大役を得て、結果、どのような成果を収めたとしても、それは神様の計画に従って行われていることに過ぎないので、誇れる部分など何もないということがパウロによって確認されているのです。全ては、この天地を創られた父なる神様が、御計画に従って実行されていることなのです。だから、そこから生まれる栄光は、余すことなく神様のものなのであります。私たちがそれを誇ることは、決して許されません。しかし、私たちは、しばしば増長して、分配されている賜物や奉仕、働きを私物化し、それらを自らの栄光としてしまうことがあります。そこに人間の罪があるのです。また、奉仕についても、生涯に一つだけでなく、その時々で適宜与えられるものです。聖霊は必要とあらば、場合に合わせて、私たちの賜物を追加で分配することも引き上げることもされます。その分配すらも、各々に与えられた奉仕の大きさに従って適切に行われるのですから、仕事に対して賜物が足りなかったり、働きも無いのに賜物が過剰であったりすることも起こらないのです。聖霊は、知恵や知識といった才能や能力のある人に対して、その能力を昇華させて賜物とすることもあれば、才能や能力を持たざる人に対して、特別に強い信仰や奇跡、癒しの力、預言、霊を見分ける力を与えて奉仕に当たらせることもあります。そして、各々が割り振られた奉仕を全う出来るように調整されるのです。それ故、この世の人々と違い、クリスチャンとなった私たちは、自らの何をもってしても、他の兄姉に優劣をつけることは出来ないのです。
それでも、もし、私たちが自らの事について誇ることが出来るとするのならば、それは自らの賜物によって、自らの奉仕を果たし、働きを得たことで、自らの役割を全うしたという実績によってのみであります。得られた働きの大きさによってではなく、役割を全うしたことによって、私たちは、神様からお褒めの言葉と有り余るほどの大きな報酬を与えて頂くことが出来るのです。私たちが、自らの賜物を駆使し、思い悩みながらも自身の奉仕に如何に取り組んだかという献身の軌跡こそが、私たちが持つことの出来る唯一の誇りなのです。勿論、それによってですらも、私たちが他の兄姉を見下すようなことは許されませんが、神様が私たちを褒め、報いて下さるという一点に於いて、私たちは、大いにそれに期待する事が出来るのです。
自らの賜物を用いて、与えられた奉仕を全うする所に、仕事の大小は関係ありません。それ故に私たちは、他を羨まず、また蔑まず、時には各々の奉仕の為に協力し合いながら、自らに定められた働きを得るために邁進するのです。賜物はその為の手段に過ぎません。賜物を用いて、定められた働きを得、喜んでそれを報告する時、神様は、私たちに対して同じように褒めて共に喜んで下さいます。だから人と自分を比べるのではなく、自身に与えられている賜物をもって、主の為に役に立つことに喜びを覚える。そのような信仰生活を送っていきましょう。
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