1.時代背景、舞台、文脈背景
〇概要
各々が、分配された主からの奉仕を、御霊によって分け与えられた賜物を用いて果たし、父なる神の御手の業によって、計画通りに仕事、即ちその成果を持ち帰ることで、終わりの日に大きな評価を受ける。その事をパウロは、11節までで充分明らかにした上で、それぞれの奉仕や賜物、その仕事の成果に優劣は無いのだと言うことを確認した。
私たちに求められる事は、大きな成果を得る事ではなく、自ら割り振られた奉仕に対して忠実な事である。奉仕と、必要な賜物を与えて遣わせば、計画された通りの仕事(成果)を必ず持って帰ってくると言う忠実さの実績に対し、父なる神は終わりの日に、私たちに対して「忠実なしもべよ、よくやった」とお褒めの言葉を下さるのである。
これは私たちにとって福音である。何故なら、決してクリスチャン同士は決して競い合う同士ではなく、目的が競合するのでもなく、他人の手柄を羨ましいと思う必要もなく、自身の役割を果たす為に協力し合って行けば、全ての者が同じように神から評価を受け得ることが、はっきり示唆されているからである。これによって、私たちは右にも左にも視線を逸らす事無く、ただ、自身が主イエスより分配された奉仕にのみ集中することが出来る環境を与えられる。私たちの奉仕が、父なる神による大きな計画のどの部分を担うのか、その重要性について推し量ることができる者など誰も居ないのだから、各々が自分のことにだけ集中していれば良いのである。
何故なら、奉仕は「分配」されるものであり、仕事(成果)は、計画が成就する為の1パーツに過ぎないので、その仕事(成果)の大きさすら、私たちは考える必要がないからである。これを忘れてしまった時、私たちは個人主義に陥り、神の民の集団である「教会」であるという事実を忘れ、互いに競い合ったり、争ったり、その仕事を阻害し合ったりしてしまい、時には、神の計画に関わる他の兄姉を教会の中から排斥するような真似まで行ってしまう。逆に、自分の仕事の小ささに絶望し、自らの奉仕を過小評価して、最悪、自分の意思で教会から躓き、去っていくものも出る。しかし、教会の中には、実に豊かな多様性があるように見えて、その多様性は、神の御心という一つの法則に従って、聖霊によって統一されている。私たちに割り当てられている奉仕の大小すら、私たちにとっては関係がないのだという視点を、私たち一人びとりが持たなければならない。
これについては、既にパウロも7節で、「皆の益となるために」という言葉を態々用いて説明しているのであるが、先週の研究部分では、より仔細に前段階のことを理解する為に触れなかった。しかし、今週分の研究に於いては、この部分こそが主題となるのである。
既に11節での結論や、4-6節で語られたように、私たちは一つの御霊によって、多くの物が割り振られ、父なる神の御計画を成就させるという、一つの目的の為にこの身を捧げている。私たちに力を与えるのも、自らが果たすべき責務を良く示すのも、全ては私たちが得ている聖霊によってである。
この聖霊は、各々が受けた「聖霊のバプテスマ」によって私たちに与えられている。これについて、パウロは「飲んだ」という特異な表現を行っており、この聖霊が正に私たちの内側に、飲み込まれたように存在していることをよく示している。パウロの言わんとしている内容から、私たちは「聖霊のバプテスマ」について、勘違いを行わないようにしなければならない。これは、水のバプテスマ、即ち、教会で行われる洗礼式と同時に、私たちに対して例外なく与えられる者であり、私たちがクリスチャンとして洗礼を受けたのならば、その自覚の有無にかかわらず、私たちは聖霊のバプテスマを受けているのだと言うことができるのである。その前提の元、私たちは、クリスチャンであるならば、誰一人聖霊が与えられて居ないということはなく、私たちは常に、共通して「飲み込んでいる」聖霊によって、自らの役割を悟り、賜物を頂き、仕事の成果を持ち帰るのであるのであって、一度飲み込んだならば、もうそこからは逃れられず、切り離されることも出来ない事が十分に言い表されている。だから、私たちは誰一人、他の兄姉も、自分自身も、教会の一員ではない、役にたたないと蔑むことは許されないのである。
私たちは自分自身が、集団の働きの中の何を為しているかについて無関心であってはならない。他の兄姉の行っている事に関しても無関心であってはならない。自分自身の割り当てが達成されたとて、それだけで主の御計画が成る訳ではないし、私たちが切に、父なる神の役に立ちたいと願うならば、その献身は、他の兄姉の奉仕の達成に対しても、向けられなければならないからである。
何か大きなプロジェクトを打ち立てて、それを成功させようと願うならば、各々が得意分野に分かれて「分業」することは当たり前であるし、その分業ごとに求められる得意分野が変わってくることも当たり前のことである。それ故に、聖霊によって割り振られる賜物には多くの種類が存在するのであるし、その賜物の大小や価値を比較しても無駄なのである。それは奉仕や、それによって得られる「成果」についても同じ事である。
例え、それぞれの部分が、自分に無い賜物をあげつらって、「私は役に立たない」といったところで、神は分配していない賜物によってその者を召した訳ではないのであるから、その話の一切は成立しない。神がその人に求められているのは、「足りない」と嘆いている賜物を用いて手に入れる「成果」ではなく、既にある賜物を用いなければ手に入れることが出来ない別の「成果」だからである。
正に、足は「歩く為」、耳は「聴くため」に存在するのであり、足に聞く事、耳に歩く事を、賜物を分配する聖霊は最初から求めてなどいないのである。
故に、私たちは自らの奉仕や仕事の大小を嘆くことは一切必要ない。時計の部品で大きな歯車よりも、小さな歯車の方が時に重要となるように、神が求めるのは、働きの成果の大きさや形ではなく、部品の精巧さと完成度、即ち、忠実さだからである。
したがって、教会という組織の中で、神の計画に参画しようと考えるならば、私たちは自身に与えられた奉仕を、如何に丁寧に、手を抜く事無く行って、求められた通りの成果をどれだけ厳密に持ち帰るかが重要である事を弁えるべきである。
身体も、教会も神によって創造されたものであるが故に、そこには何一つ無駄が存在しない。なくなって良い部分など一つも無いのであるから、教会の中で無駄に存在しているもの、意味も無くそこに置かれている者など一人もいないのである。この事については、私たち自身が実感をもって判っていなければならない。だから、自分を卑下してはならないし、他の兄姉を不要と断じることも許されない。神の計画性の完全さを、私たちはどれほど理解し、信じることができているだろうか。
○12-13,20節
「(全体的な)身体(ギ:ソーマ)」と「(体の各々の部分の)肢体(ギ:メロス)」は、そのまま実態の肉体の全体と肢体を指し、人間の肉体として描写が行われていることから、組織と言う一つの集団が、擬人化されて語られていることが判る。ここで使い分け、読み間違えないように気を付けなければならないのは、全体的な身体(ソーマ)と、それぞれの部位・肢体(メロス)は、別の物としてこの話題の中では扱われている。
「飲んだ(ギ:ポティゾウ)」は、飲む、飲ませる、浸透させるという意味合いがあり、聖霊を飲み込むだけでなく、浸透してもはや私たちの一部になっていると解釈することができる。即ち、最早一度受けた聖霊は、私たちと同化しており、私たちがどのように奔走しても、これを切り離す事が出来ない。
一つの組織を、全体的な体という統一と、多くの肢体という二つの要素に分けて、人間的な比喩で説明することは、既にギリシャ文化の中でも、一般的な思想として定着していたようである。
○14-19節
この部分については、珍しくギリシャ語的な釈義が必要とならない部分である。
扱われている単語が示すものは非常に単純明快であり、これについてはそのまま和訳を用いて考えて良いようである。
今回の箇所で解釈上問題となるのは、その擬人化的比喩そのものについてではなく、15-16節に書かれている足、手、耳、目が、教会の中でどのような位置関係を表しているのかについてである。
例えば、一見、足が手を羨んだり、耳が目を羨んだりしている場面があったり、また、21節以降では、目が手に、頭が足に強気に出ているので、上下関係が存在するのではないかというように思えるのであるが、パウロによってこれが否定されているので、そういう訳でもなさそうである。
耳は、目よりも後ろにあり、足は手よりも位置的に下があるので「目立たない」と言う点に於いては、相手を羨ましく思うようなことも推測することはできる。目も耳も情報収集の役割を持つが、目は耳よりも多くの情報を得られることから、同じ役割を持っていても、所謂「花形」にはなれない下支え、サポート役を「耳」と取る事も出来る。
また、足も行動全体の下支えを司るが、手程は多く細かな仕事を出来る訳ではない。手のような働きをある程度足で行うこともできるが(実際、足を使って絵を書いたりする人もいれば、物を足でつかむこともできる)、手程は行うことが出来ないので、足も手の活動の為の下支え以上のことが出来ないサポート役であると考える事も出来る。
しかし、ここでパウロが言いたいのは、耳は、目では得られない情報を得る事が出来、足は手に出来ない事を行うことが出来るということである。それによって一つ一つの身体の目的が達成されるのであるから、それぞれの身体の働きに最終的な優劣は無く、無くてはならない者であるという点についてはまったく変わりがないということをパウロはコリント教会の信徒に対して伝えたいようであることが、文脈から読み取る事が出来る。
その結果、最終的な結論として、各々が個人主義的な行動に走り、教会の一致や全体の為の配慮を忘れることは許されないと言うことが、21節以降で確認されるのであるので、19節までで私たちが解釈すべきことは、身体の部分の価値についての落差は存在しないのだということをよく確認し、教会の中で馬鹿にされる者、排斥される者が現れないようにする努力が必要である事を示しているようである。
2.詳細なアウトライン着情報
○聖霊による共同体
12a 身体が一つでも、多くの部分があります。
12b 部分が多くても、身体は一つです。
12c ちょうど、それと、キリスト(の教会)も同様なのです。
13a 私たちはみな、一つのからだとなりました。
13b 私たちとは?:ユダヤ人も、ギリシャ人も、奴隷も、自由人も。
13c 何によって?:一つの御霊によってバプテスマを受けたことによってです。
13d そして、皆が一つの御霊を飲んだのです。
○身体と肢体
14a 実際に、身体はただ一つの肢体から成り立ってはいません。
14b 多くの肢体から成り立っています。
15a たとえ足が、こういっても、身体に属さなくなるでしょうか。
15b セリフ:私は手でないから、身体には属さ(ず、属す価値も)ない(属す価値が)。
16a たとえ耳が、こういったも、身体に属さなくなるでしょうか。
16b セリフ;私は目ではないから、身体には属さ(ず、属す価値も)ない。
17a もし、身体全体が目であったら、どこで聞くのですか?
17b もし、身体全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
18 しかし、実際、神はみこころにしたがって、身体の中に、それぞれの肢体を備えてくださったのです。
19 もし全体が唯一つの肢体だとしたら、(集合体、全体としての)身体はどこにあるのでしょうか。
20a しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
着情報3.メッセージ
『一つの身体』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章12〜20節
中心聖句:『ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』(Tコリント人への手紙12章12節) 2024年3月10日(日) 主日礼拝説教要旨
自分の奉仕を賜物を用いて達成するところに、神様からの評価と報いがあると先週は学びました。しかし、教会の中を見れば明らかに自分より活躍している人々が大勢おり、神様に対する貢献度も各々で違うようにも感じます。自分が貢献できていないと感じる時、私たちは悲しくなるかもしれません。貢献出来ない私たちは、神の群れに不要な存在なのでしょうか。
今日の箇所でパウロは、教会と言う組織について、身体全体と、肢体の二つに例えて、コリント教会の人々に教えようとしました。教会内の兄姉には、それぞれ役割も、与えられる賜物にも多様性があるように見えますが、それらは、神様のみこころに従って聖霊が采配され、統制されていることを、パウロは伝えたのです。目が物を見て、足が身体を歩かせるように、得意とする賜物によって、私たちは神の群れに肢体となって貢献します。それぞれが与えられた聖霊によって、このことが私たちの上に実現するのです。水によって洗礼式を受ける時、私たちは、聖霊による洗礼をも授かります。誰一人例外なく、神の霊である聖霊を「飲んで」、教会という身体の肢体に変えられるのです。「飲んだ(ギ:ポティゾウ)」とは、原語では身体に浸透したという意味も持ちます。自覚の有無によらず、私たちには既に聖霊様を飲み、身体の隅々まで浸透され、各々が教会の肢体という切り離せぬ存在に変えられているのです。
私たちはそのように、全体の身体の一部となる肢体となって、神様の為に働きます。肢体が自分勝手にではなく、身体全体のために動くように、私たちも教会という全体の益となる為に自らの奉仕に当たっていくことが求められるのです。一つの運動をする為に、身体全体が連携して動くように、私たちも各々の役割を果たすことによって連携し、父なる神様の御計画が成就されるように働きに対して取り組むのです。しかし、その過程で他の人が、自分に似た働きを、より上手にこなしているのを見ると、どうしてもそれを気にして羨ましく思ってしまうようなことも起こるでしょう。情報収集に於いては、目が耳より役立つことが多いので、耳が目を羨んでしまうこともあれば、自分の指を器用に動かせない足が、器用に指で作業をこなす手を羨ましく思うようなこともあるでしょう。また、働きが似て居なくとも、眉毛が目や鼻、耳、口を羨むように、周りが皆、立派に貢献している者ばかりだと、自分がその集団の中で存在していいのか、不安に思ってしまうようなこともあるかもしれません。しかし、どうでしょうか。神様の御計画は、精密に組まれた時計のようなものです。時計は、大きなパーツだけで動いているものではありません。時には見落としてしまうような小さな歯車こそが、全体に一番必要なパーツになることもあります。人間の目には貢献度の大小があるように見えても、私たちには、自分の働きが、神様の御計画にどれほど重要なのか、推し量ることが出来ないのです。
神様の叡智によって創造されたものに無駄は無く、存在価値が無い部分など一つもありません。実際、身体に不要な部分が一つもないことは、私たち自身が良く知っていることではないでしょうか。身体も、教会も、同じ神様が創造されたものです。ならば、神様の御手によってそこに置かれている私たち一人びとりにも、決して無駄にそこに置かれている者は存在しないのです。しかし、私たちは自身の基準で物を見て、自分や他人を不要な存在と決めつけて、悲観したり、排斥したりしてしまうことがあります。そこに人間の罪があるのです。教会に対する貢献度の差異があろうが、全ての働きは、神様が計画された大切な部品です。そこに無駄な奉仕や働きなど存在しないことを、私たちは十分に弁えるべきです。だから悲観したり、不安に思ったりせず、自分の奉仕を、神様の為に喜んで行っていくようにしていきましょう。
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