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牧師の説教ノート(4月14日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章21〜27節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 からだ全体の統一性について言及されている部分であり、何故、聖霊によって賜物が分配され、必要ならば私たちに力が着せられる(ルカ24章49節)のかについてのロジック的な解答を行っている箇所でもある。
 私たちは、賜物を持っている者はそれが活かされ昇華され、賜物を持っていない者には、相応しい賜物が後天的に与えられるのだということを、20節までで学んだ。
 それが一体、どのような理由によって行われているのかという解答こそが、私たちが全体的にひとつのからだだからなのである、というものなのである。

 からだは全体がつながっていて、それぞれ無駄な所が一つも無いのは私たちも知っている通りである。どのような箇所でも、失ってしまえばからだはあっという間に成り立たなくなるのであるし、もし身体の一部(小指の先のような些細な部分であったとしても!)でも痛むならば、それは身体全体の悩ましい大きな問題になるのである。
 指が骨折したとて、他の全部の部分は健康なのだから、無視して他の部分は心穏やかに過ごす事ができる、などと言うことが無いように、例え身体の九割九分が無事だとしても、一分が痛むなら身体全体が苛まれるのである。

 それは、教会という一つの組織の中でも同じであり、私たちはキリストを頭とする共同体であり、一つの身体なのであるから、それらの身体の法則は、教会全体にも全て適用されるという事実を決して忘れてはならない。そうであるにも関わらず、教会の中では、現代に於いてすら、自身の賜物を誇る人々が、他の人々を見下して「あなたがたは必要ない」などということを平気で発言することがあるのである。全体を眺めず、自らが何処に立っているのかも弁えず、また、神の身体の一部であるということも自覚せずに、自分勝手で自己中心な思いから、他の部分を避難しようとしてしまうところに、人間の罪の姿があるのだということを、忘れないようにしなければならない。

 パウロは、この事を説明するために、身体と服の関係から話を行っていく。
 服とは、私たちの身体を覆い隠すものであり、見苦しい部分を見栄え良くするための道具である。
 腹周りが気になる人は、ゆったりした服を着るし、布で覆い隠すことは、大きな傷跡などがある時に、それを見せない事に役に立つであろう。
 むしろ、身体の中で自慢になる部分は、可能な限り露出させるし、自身の見栄え良い部分に合わせて、似合う服を着るというのも、所謂ファッションの基本である。

 服を着るということの根源的な目的は、自身の身体の一番見目麗しい部分に合わせて、身体全体を均一化させるところにある。自身のたくましい上半身を自慢したい人は、シルエットの出る服を好んで切るし、寧ろだらしない身体を隠したい人は、シルエットが出ない服を着る。全体が均一化することで、相手に与えるイメージは一定になる。それが可能な限り、自分の身体の中で一番見目麗しい水準にあわされるようにコーディネートするからこそ、服というものには価値が出るのである(逆に、どれだけ良い服を着ても身体に誇るべきところが一つもなければ、その人は服に着られている感じになるだろう)。

 同じように、神もまた、教会という一つの身体について、全体的な見目麗しさが均一化されるように、各々に賜物を与え、各々の能力が均一化されるように取り計らわれるのである。それを行うことによって、それぞれの身体の部位が、お互いを不必要だと言い合って分裂しない為であり、御互いをいたわり合って、気遣うことが出来るようになるためである。

 しかし、ここで本当に私たちが注目しなければならない事は、もっと本質の部分にあるような気がする。
 それは、見栄えが良かろうが、悪かろうが、身体の部位は各々必要であり、無駄な所が何一つないという事実である。
 例えば、お腹が出ているのが見栄えが悪いからといって、腹部が無くなればどうなるだろうか。胴と下半身は泣き別れになる上に、必要な内臓器官も失われて、身体全体が死んでしまうことになる。
 脚が太くて醜いからといって、脚が無くなればどうなるだろうか。最早、移動も出来なくなり、生命維持そのものが危ぶまれることになる。血管一つだってそうであり、太ももの大動脈が切断されれば、あっけなく人は死ぬのである。

 即ち、私たちが教会の中で一つの身体とされ、その中に組み合わされている時、後から着せられる賜物は、見栄えを良くする為の飾りに過ぎず、私たちはそのような賜物が例え無かったとしても、必要であるからその部位に納められていると言うことが出来るのではないだろうか。賜物や部位に、良い見栄えが与えられるのは、その本質を無視して、本当に必要な働きを、身体自身が失わないようにする為であり、そうならないようにする為の神の配慮なのである。

 賜物がある者は教会の役に立つ、賜物が無いものは賜物が与えられる。しかし、神が私たちをそこに置いているのは賜物によってではない。賜物や能力、その他の記号に左右されない、私たちという存在そのものが、無くてはならないものであると判断して、神が私たちを教会の中に置いているのである。同じ賜物があれば、その人の替えは効くのであろうか。賜物が後から与えられたから、お情けでその人は教会の中に居場所が与えられて居るのであろうか。決してそんなことはない。貴方がそこに必要であるから、貴方がそこから動かないようにと、神は私たちに賜物を着せてくださるのである。私たちは「あの人が居なくなると、これが出来なくなるからこまる」のか、「あの人が居なくなる」こと事態に心を痛めるべきであるのか、よく考えなければならないのではないだろうか。


○21節
 「あなたはいらない(ギ:クレイアン・ソウ・ウーク・エコウ)」は、「必要、必須(ギ:クレイア)」の単語を、否定のウークで打ち消して構成されている文である。必要ではない、必須ではない、という意味である。つまり、積極的に排斥しようとしているニュアンスではないようで、「あなたは居なくても特に問題ない」といっているようである。
 必要ない、要らない、捨て去りたいという意味合いが強くなれば、その部分が多少なりとも益があっても切り離す決断を降すのであろうが、「居なくても特に問題ない」という言い草は、明確な意思を持って憎悪したり、敵対するよりも酷い言い草であるように思われる。


○22〜23節
 「弱く見える(ギ:アスセース)」は、力の無い、弱い、病気の、みじめな、貧弱な、弱々しい、という意味がある単語である。これは比較的であり、見栄えの良い部分に比べれば、という意味合いであろうとは思われる。
 「見栄えが劣っている(ギ:アティモス)」は、尊敬されない、軽蔑される、見栄えのしない、立派ではない。という意味がある。
 「見苦しい(ギ:アスケモウン)」は、見苦しい、恥ずかしい、いやらしい、陰部という意味がある。

 単語がいろいろ並べられているが、貧相(例えば筋肉が無いとか)であったり、軽蔑の対象であったり(太っている)など、見ていて恥ずかしい部分(恥部)であったり、と、そういった意味合いが示唆されている。
 自信が無い部分、人に見せられない部分など違いはあるものの、そう言った部分にこそ「服」が必要であるという文脈については、読む上で大差がないであろう。
 何にせよ、人に見られたくない部分には布をかぶせて隠し、私たちは格好を整えるのである。

 また、「なくてはならない(ギ:アナグカイオス)」は、必要な、欠くことの出来ないという意味合いがある。注目すべきは、「必要不可欠であるからこそ見栄えを良くするために覆いを被される」のであって、「多いが被されているから必要不可欠となる」訳ではない事である。

 即ち、神は私たちが、各々、相手を不必要であると評価しない為に、賜物を与えて覆いを被せられるが、覆いがあろうがなかろうが、本質的に私たちは、その身体全体にとって、必要不可欠なものとして、その場に置かれているのである。


○24節
 「組み合わせる(ギ:スグケランヌミ)」は、混ぜ合わせる、組み立てる、結合させるという意味のある単語である。即ち、神はただ、材料を組んでいくだけでなく、結合させ、混ぜ合わせてキリストの身体をつくられているとパウロは言っているのである。
 即ち、その極意は均一化であり、全てが揃っていて初めて調和がとれている状態を、意図的に神が創り出されたということを私たちは弁えなければならない。

○25節
 「配慮し合う(ギ:メリムナオウ)」は、心配する、気遣う、思いわずらうという意味である。それは即ち、他の場所で起こっている問題を、自分の問題であるかのように思いわずらうことである。隣人を自分のように愛するとは、即ち隣人の問題を自分のことであるかのように思いわずらうことである、とも言えるかもしれない。

○26節
 「共に苦しむ(ギ:スミパスコウ)」は、一緒に苦しむ、同じ苦しみを受ける、共に苦しみを忍ぶという意味があり、単純な「苦しむ(ギ:パスケイ)」よりも、より、その苦しみが連帯されるところにニュアンスの重点が置かれている。
 「共に喜ぶ(ギ:スグカイロウ)」も、一緒に喜ぶ、喜びを共にするいった、連帯ありきの喜びの単語である。即ち、一つの部分の栄光は全体の喜びとなる。これは、勿論、身体の各部位が活躍した時の話であるが、本意としては、キリストが栄光を受ける事で、身体全体が喜びに包まれるという意味合いが強いのであろうと思われる。

2.詳細なアウトライン着情報

○四肢全体が身体であると言うこと。

21a 目は手に向かって、言うことは出来ません。
21b 何を?:あなたはいらない。と言うこと。
21c 頭が足に向かって、言うことも出来ません。
21d 何を?:あなたがたはいらない。ということ。
22a それ(要らないということ)どことか、かえってなくてはならない(必要)のです。
22b 何が?:からだの中で、ほかより弱く見える部分が。

○服によって行うからだ全体の統一化
23a また、私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、覆います。
23b どこを?:ほか(他の身体の部位)より劣っていると思う部分を
23c こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になります。
24a しかし、格好の良い部分は、その(覆って見栄えを良くする)必要がありません。
24b (同じように)神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えます。
24c (その上で)からだを組み合わせられたのです。

○からだ全体の連携
25a それは、からだの中に分裂が無い為です。
25b (また、)各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
26a 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみます。
26b 一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


着情報3.メッセージ

『すべての部分』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章21〜26節
中心聖句:『それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。』(Tコリント人への手紙12章22節) 2024年4月14日(日) 主日礼拝説教要旨

 久しぶりにコリント人への手紙を学びます。先週は、聖霊によって賜物を着せられるので、私たちがキリストの証人足り得る者にされると言うことを学びました。私たちにとって、教会の中で必要とされているかどうかは、とても気になるところです。自分はあの人より能力があるので必要とされているだろうと安心することもあれば、逆に能力が無いので必要とされていないのではと、不安に思うこともあると思います。私たちにとって、「賜物」はとても重要で、教会内での存在意義そのものにも思われます。しかし、それは本当に真実なのでしょうか。

 今日の箇所でパウロは、私たちの教会全体が、イエス様を頭(かしら)とした一つの身体であることを強調して、コリント教会の人々に教えようとしました。何故なら、自分の能力や賜物を誇り、「あなた方は賜物が無いので、教会にとって居ても居なくてもどちらでも良い存在だ」と、他の兄姉にいう者が、教会内に少なからず存在したからです。「お前など居なくても別に大差ない」という言葉ほど、愛の無い言い草はありません。それは、嫌われて追い出されるより余程辛い言葉でしょう。そのようなことが起こらないように、神様は、聖霊を通して賜物を分配し、全体的に調和がとれるようにされているのだとパウロは教えたのです。即ち、能力のある人はそれが活かされ、能力の無い人は、新たに賜物が与えられて、見劣りがないものとされます。それはあたかも、服で着飾って身体全体を見栄え良く整えるのと同じことだと教えたのです。これによって、それぞれ賜物によって役立つので、お互いに「お前など居なくても良い」と言い合って、教会が分裂することも無くなります。これは、各々がお互いに調和して一致し、一つの目標に向かっていく為に与えられた神様からの恵みであり、憐みなのです。

 これらの事を踏まえて考えれば、私たちにとっての教会の中での立ち位置は「賜物」によって保証されていると言うことになるかと思われます。では、教会の中での私たちの存在意義が、「どのような賜物を持っているか、もしくは与えられているかによって決まるのである」と言うなら、元々賜物を持っていなかった人は、本来は教会に必要無い存在であるにも関わらず、お情けで居場所を与えられた哀れな存在であると言えるのでしょうか。決してそうではありません。何故なら、「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない」と、はっきり宣言されているからです。例えば、少しウェスト周りのたるみが気になるからといって、腹部は私たちにとって必要なくなるものでしょうか。腹部が無ければ、胴と下半身が泣き別れになりますし、内臓がなくなれば私たちは生きていくこともできません。お腹まわりの見栄えだけなら、ゆったりめの服で隠せば見栄えはよくなりますが、別に服でたるみを隠そうが隠すまいが、腹部の本質的な存在意義が変わるわけではないのではないでしょうか。勘違いしてはいけません。賜物があろうが、なかろうが、元々キリストの身体に必要とされて召され、あるべき場所に配置されているのです。例え、賜物があろうがなかろうが、私たちは、神様から、この神の民、キリストの身体に「必要不可欠な存在」として、置かれているのです。

 神様は、私たちに「必要不可欠な存在」だと言われ、教会の中に配置してくださいました。理由はどうあれ、神様がそう言われているのなら、私たちは「必要不可欠な存在」なのです。だと言うのに私たちは、賜物の有無や、自分達でつくった勝手な基準によって、他の兄姉を不必要だと評価したり、自分の存在価値を疑って憂い、落ち込んだりしてしまいます。ここに人間の罪があるのです。私たちは、イエス様を頭とした一つの身体です。見栄えの良し悪しに関わらず、必要不可欠な存在なのです。だから各々自信を持って、神様にお仕えしましょう。




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