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牧師の説教ノート(4月28日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章28〜31節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 12章の話題の締めくくりに、パウロは入っている。パウロは、お互いの賜物を意識し、その大小を競って互いを排斥し合おうとしている状態を一喝し、その上で、賜物など関係なく、全ての人が必要とされているので、教会の中に置かれているのだという話を行った。
 賜物も、聖霊が分配しているという意味では、全ての人に平等であり、かつ、それによって排斥が起こらないように配慮もされている、神様からの恵みだということも確認された。

 しかし、それはそれとして、賜物に重要性の大小があることは否めず、しかも、一度与えられた賜物の大小は、人間が後天的に変えることも出来ず、また、どれだけ追い求めても、聖霊の分配を受けなければ得る事が出来ないという事も示された。

 それでは、結局私たちには与えられるべきものが全て与えられているということになり、一部の人々が主張するように、私たちは既に「完成している」ことになるとも考えられる。私たちに追い求めるべきものは何もないのだろうか?

 決してそんなことは無い。パウロは、賜物に順列があり、そして全ての人が与えられた賜物以外のものを自力で取得できない事を認めた上で、一つの可能性を提示する。それは、第一とされた「使徒の賜物」以上に重要で優れている賜物を、教会の誰もが追い求め、取得することが可能であることを告げたのである。

 それこそが、13章から書かれている「愛」である。「愛」がどのようなものであるか、それは13章で説明されているので今回は置くとして、この愛こそが、「使徒の賜物」以上に、私たちにとって有益な最上級の賜物なのである。

 逆に言えば、この「愛」の賜物が無ければ、使徒の賜物すらも意味が無くなってしまう程に、この賜物は根源的なものなのである。

 更に大切な事として、パウロは、これは熱心に求めるべき類の賜物であることを提示している。即ち、愛は、私たちに元々備わっているものでなく、欲しいと求めて初めて手に入る類の賜物なのだと言っているのである。

 最初から、愛に溢れている人間など居ない。忍耐し、練達し、希望をもって初めて手に入る、最大の賜物なのである。この素晴らしい賜物を取得出来た時、私たちが元々与えられて居る賜物も輝くのである。

 逆に、この愛を追い求めない限り、私たちの賜物が輝く時は永遠に訪れないであろう。
 そういう意味では、私たちもある意味「がんばる余地」、「努力する余地」が残されているとも、言えるのかもしれない。


〇28節
賜物が挙げられているが、一番目、二番目、三番目、と順列が付けられている。
まず、これらの賜物が与えられている教会について。
固有名詞の「テ(ギ):英語でTheの意」がついている事から、所謂カトリックチャーチ(公同の教会)を表していると考えられ、パウロはここで、コリント教会という地方の一教会のことではなく、教会という集団全体について話していると思われる。
それに従って言うならば、教会全体を普遍的に見た場合に、賜物の順列が語られる。

第一に、「使徒(ギ:アポステス)」。キリストによって派遣された人々であり、教会を建て上げた人々の持つ賜物である。教師、預言者が判れていることから、指導者としての賜物であると考えられる。キリスト共に居る者、ということから、神の御言葉の代行者として、キリストに限りなく近い聖い生活をしているという意味にもとれるかもしれない。

第二に、「預言者(ギ:プロフェタス)」。これは、広義には薦めるものという意味でもあり、御言葉を通して、神の御言葉を取り次ぐ賜物を持つ人々の事である。神の御言葉を直接聞いて語る人々という意味での預言者は、既にバプテスマのヨハネで終了しているから、この人々は所謂「説教」の賜物を持つ人々と考えたほうが妥当だろう。

第三に、「教師(ギ:ディダスカロウス)」。これは、御言葉を学ばせる人々の事である。まず大前提として、当時、書物は非常に高価であり、旧約聖書と言えども、誰でも持っている訳では無かった。それ故に、御言葉そのものを読み聞かせ、学ばせる役割を持つ人々は非常に重要な存在であった。所謂聖書研究を担っていたのが教師である。預言者と似た働きに思えるかもしれないが、教師によって御言葉を知り、知った御言葉によって取次ぎを受け、その取次ぎを心得た上で、指導者に従って行くという意味で、やはり、教師、預言者、使徒の順に、その賜物は貴ばれるのである。

他の賜物は順番が降られておらず、同列に扱われている。挙げられて居ない賜物もあるが、そう大きな意味は無く、皆が別々に様々な賜物を与えられているというだけの事である。


〇29〜30節
「全ての人がそうではない(ギ:メ・パンテス)」という表現が何回も繰り返されて、賜物にある程度順列があるにも関わらず、それを全ての人が持っている訳でないことをパウロは語る。もし、順列通りに取得の難易度が難しいのならば、使徒は以下の全ての賜物を持っているし、持とうと思えば持てることにもなるが、そうはならない。
賜物の重要度に多少順列があろうが、それは割り振られているという意味では大差ないのであり、27節以前でパウロが宣言したように、全ての人の賜物が必要なのである。


〇31節
 「より優れた(ギ:タ・メイゾーマ)」は、「賜物(タ・カリスマタ)」に掛かって書かれており、賜物には、「タ(Theの意味)」が前置されているので、これは「あらゆる賜物を凌駕する」という比較級で書かれていることが判る。
 即ち、この賜物は普遍的な全ての賜物を指しており、パウロが第一と掲げた「使徒」すらも凌駕する素晴らしい賜物であることが判る。
 そして、「あなた方は求めなさい(ギ:ゼロウテ)」と、二人称複数で書かれていることから、「使徒」の賜物すら凌ぐ究極の、それでいてそのような職務すら関係なくなるほどの根源的な賜物が存在する事が示されている。
 即ち、それが下敷きになければ「使徒」の賜物すらも意味が無くなるほどの賜物。それこそが、13章から語られる「愛」であり、パウロが示そうとしているものなのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇全ての人に共通する、より大切な賜物があります

28a 神は教会の中に備えて下さいました。
28b 何を?その1:第一に、使徒達。
28c 何を?その2:第二に、預言者たち。
28d 何を?その3:第三に、教師達
28e 何を?その4:そして(それに加えて)力あるわざ(癒しの賜物、援助、管理、種々の異言)(のことです)。

29  (それを踏まえて問いますが)皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。
30  皆が癒しの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。

31a あなたがたは、(互いの賜物を羨まず、全ての兄姉が手に入れうる)より優れた賜物(こそ)を熱心に求めなさい。
31b 私は今、はるかにまさる道を示しましょう(ますから)。


着情報3.メッセージ

『より優れた賜物』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章28〜31節
中心聖句:『あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。』(Tコリント人への手紙12章31節)  2024年4月28日(日) 主日礼拝説教要旨

 賜物を競い合って他を排斥しようとする人々に、パウロは「賜物を受ける前から、私たちは主に必要とされている」という核心を述べ、全ての兄姉がキリストの身体の一部として置かれていることを教えました。しかし現実として、それぞれの兄姉の受けた賜物には、その重要性に明確な順列が存在します。しかも、その順列は人間の力によっては覆すことが出来ません。この歴然と存在する賜物の順列に対し、私たちはどう向き合っていくべきなのでしょうか。

 パウロはまず、我々に与えられる賜物の重要性には順列があり、教会の中での重要度、貢献度にも差があることを認めました。第一に重要な賜物は、使徒の賜物で、これはイエス様に派遣され、教会を建て上げる指導者としての賜物を指します。第二に重要な賜物は、預言の賜物です。預言とは、聖書の御言葉を取り次ぎ、神様の御声を皆に聞かせる説教の賜物のことです。第三に重要な賜物は教師、即ち聖書の内容について人々に教える賜物のことです。当時は、全員が聖書を持てる時代では無く、聖書を読み聞かせ、基礎を学ばせる知識を持った人が、教会では特に必要とされていました。今も、聖書を学び基礎知識を身に着けることで、取り次がれた御言葉から神様の御心を正確に聞き取る事が出来るようになり、その御心から教会の方針が定められます。教師の賜物から預言者の賜物。預言者の賜物から使徒の賜物へと、より賜物の重要性が増していく実情は、公同の教会に於いて、現代でも何も変わってはいないのです。

 その他の種々の賜物は、それらの下に同列に存在するもので、既に私たちは、聖霊によってこれらを与えられています。必要に応じて与えられたこの賜物が活かされ、私たちは神様の御心に従って教会を建て上げていくのです。しかし、そう考えるなら最早、私たちには必要な物が全て揃ってしまっていることになります。自身の努力や意志によって賜物を左右することも出来ませんから、ある意味、一部の人々が主張するように、私たちは最早、自分が何か完成したもののように勘違いしてしまうのも仕方ないかもしれません(4章8節)。実際、そのように勘違いした人が教会の中で問題も起こしました。全てが聖霊のお陰で、各々の努力が介在する余地が無いなら、私たちが自身で追い求めて手に入れられるものは何もないのでしょうか。

 決してそんなことはありません。パウロはこれらの事を全て話した上で、「第一」に挙げた「使徒の賜物」すらも上回る、「より優れた賜物」を熱心に求めるようにとコリント教会の人々へ道を示したのです。それは即ち「使徒の賜物」よりも優れた、熱心に求めるべき最重要の賜物が存在しているということになります。しかも、この賜物は、他の賜物のように割り振られる類のものではなく、各々が強く望んで祈り求め、努力して習得せねば、決して勝ち取ることの出来ないものなのです。この賜物こそが、「愛」です。「これを各々必ず獲得せよ」とパウロは、他の賜物を無いものねだりするよりも、はるかに勝る良い道を示したのであります。

 私たちは愛という、全ての賜物よりも遥かに根源的で、かつ重要な賜物を追い求めなければなりません。何故ならこれは、努力せずとも勝手に得られる類の賜物では無いからです。神様は、ただ与えるだけでなく、私たちが追い求めるべき道すらも用意して、本当の意味で平等に、一番良い賜物を与えて、その道を開いて下さっているのです。ここに神様の知恵と、大きな御恵みがあります。私たちは何もしないでも、そのうち自分が愛の人へと成長できるなどと勘違いしてはいないでしょうか。与えられた賜物だけで満足してはなりません。熱心にこの大切な賜物を祈り求め、獲得できるよう努力していく。そのような信仰生活を歩んでいきましょう。



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