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牧師の説教ノート(5月5日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章1〜3節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要

 愛と言う概念について、13章では本格的に語られている。パウロが、ここで愛について語ったのは決して脱線ではなく、あくまで賜物の話題の一環としてである。
 愛という概念が、私たちの賜物に如何に密接に関わっているかについて、パウロの発言を通して私たちは良く知っておかなければならない。なぜならば、この愛という賜物の要素が伴わなければ、私たちが養っているあらゆる能力や功績は無に帰すからである。これは決して大げさな言い草ではなく、事実、そうなのであることを私たちは知っておかなければならない。私たちがどのような功績を上げても、またどのように素晴らしい能力を持っていても、この愛が伴わないならば、そこには一切の価値が生まれないのである。

 ところで、ここで語られている「愛」と呼ばれるものが一体何であるか、私たちは良く考えて置かなければならない。ギリシャ社会に於いて、愛とは、「性愛(ギ:エロース)」と、「友愛(ギ:フィレオウ)」のどちらかに必ず属するものであると考えられて居た。性欲と友情以外の感情を知らなかったのかと、これを聞けばそのように感じるかもしれないがそういうことではない。
 肝心なのは、性愛にせよ、友愛にせよ、愛とは相手に価値を見出した時に発生するものであり、それ以外の愛など起こり得るはずがないと考えられていたことである。「相手が大切な存在であるが故に、その人を大切にする」とは、ローマ人にとっては当たり前の感情であり、また、義務でもあった。大切にするべき責任を負う相手にこそ、愛を注がなければならぬと、ローマ人は厳しく自身を戒めたのである。それ故に不義を働くことは、ローマ社会に於いても忌み嫌われた。

 パウロが、また聖書が言う所の愛とは一体何であろうか。弟を大切にする兄の感情は「フィレオウ」であって、聖書の愛ではない。母が子を大切のするのも「フィレオウ」である。少年が好きな少女を守ろうとするのは「エロース」である。性愛と言えば、肉欲のみに思えるがそういうことではない。少年が少女を好きになる感情は自然のものである(同性愛については敢えて語るまいと考えるが、基本は同じであろう)。
 弟が死にかけていれば、兄は命がけで助けるであろう。子を母が身を挺して庇うのも同様であろう。夫が妻の為に命を捨てるのも美徳である。少年が少女の為に、命を懸けて冒険をするのも不思議な感情ではない。
 では、弟を命を懸けて助けようとする兄は、全く関係のない浮浪者の為にも同様に命をかけるであろうか。子を身を挺して守る母は、全く無関係の隣の女性を命を懸けて庇うであろうか。違うと言うのならば、それは聖書のいう所の「愛(ギ:アガペー)」ではないのである。

 パウロのいう所の、また聖書のいう所の「愛(アガペー)」は、キリストが、全く価値の無い罪びとである私たちの為に、十字架に架かったのと同じ類の愛である。それは即ち、価値の無いものの為に、惜しみなく注がれる愛である。
 私たちがもし、聖書のいう所の愛を実践しようとおもうならば、相手が子でも母でも、父でも妻でも、浮浪者でも孤児でも、或いは自分を殺そうとする敵であっても、同列に実践しなければならないのである。

 到底無理に思えるようなことであり、荒唐無稽に思えるかもしれないが、しかし、それが、パウロのいう所の「愛(ギ:アガペー)」なのである。
 それ故に、これの獲得と実践は困難を極める。なんとなく、信仰生活を送っていればその内身につく類のものでは無いということを、前回は学んだが、つまりそういうことなのである。

 私たちは、この「愛」についてよくよく考えて真剣に捕らえなければならない。安易に、また覚悟もなくこれを実践しようとするものは、唯の頭の悪い理想主義者に成り下がる。それは「愛」ではない。苦汁を舐めるような辛い思いを良く知り、またその実現の困難さ、無謀さを十分に理解した上で、それでも実践されるところに「愛」の獲得があるのである。
 これは私たちの努力だけでは、決して到達されるものではなく、神の助けと聖霊の聖めが必須となってくる。

 だからこそ、私たちはこの愛について、常に祈り求めなければならないし、その実践について、昼も夜も御言葉を学びながら向き合い続けなければならないのである。
 それらの内容については、次回4節以降で語られるのであるが、まずこの3節まででは、これらの実践は、私たちにとって「まったく価値の無い相手」に対しても発揮できる者でなければならないという事実を、十全に受け止めることを学ぶべきなのである。

 そして、それらが達成できた時に初めて、私たちの功績、能力、更に行う事の諸々に対して価値が現れる。完全に実現することは、それこそ神なる存在でなければ不可能であろうが、しかしそれでも私たちは、なおもこれを追い求め、自身の賜物に、愛によって価値を見出していかなければならないのである。

 何故そこまでして、この愛を習得し、実践しなければならないのだろうか。それは他でもなく、パウロが言うように(9章24〜25節)、私たちが「賞を受ける為」である。私たちは、耐え忍んでこの愛を実践する時、神からの限りない称賛を受けることが出来る。それは私たちにとっての究極の栄光に繋がり、それによって私たちは、神から「忠実なしもべよ、よくやった」と称えられるのである。愛(アガペー)は、利己的な要素を一切排除しなければならないが、その愛の実践の究極的な動機は、神から「自分が」称賛を受けるという利己的なものでなければならない。私たちは、自分にとって何の益も無い、空を打つような拳闘をしている訳ではない。私たちは、この世の全てのものと引き換えにしても得る事が出来ない、神からの栄光という最大の宝を目指して、この愛を実践するのである。



〇1節
 正確な文章を読み取るのが難しい箇所であり、色々と翻訳の候補が挙げられる。
 ざっと直訳すると、「エアン(もし)、テイス・グロウサイス・トン・アンスローポン(人間の舌によって)・ラロウ(私の語る事が)、カイ・トン・アンゲレオウ(天使のそれと並び立っても)、アガーペン・デ・メ・エコウ(アガペーがなければ)・ゲノマ・カルコス・エコゥ(私はうるさい青銅(どら)をならしているのである)、エ(もしくは)・クムバロン(シンバル)・アガラゾン(かちゃかちゃさせている)」となる。

 新改訳2017は、異言という言葉を用いているが、文脈や並んでいる単語の意味合いから考えて、恐らく異言が考慮されて言われている箇所ではないと思われる。
実際には読んだ通り、「私の語る人としての言葉が、天使の語る言葉のレベルまで並び立つような完成度を見せたとしても、そこに愛が無ければうるさい銅鑼やシンバルの騒音と大差ないというのが現実である」という訳仕方が適切であるように思われる。

 それで、これが何を意味しているのかと言えば、使徒の賜物について言及しているのだろう。パウロは、あくまで13章は、12章からの賜物についての説明の文脈で語っている。「はるかに勝る道を示しましょう」と言っているのだから、それは当たり前なのであるが。

 「どら(カルコス)」は、厳密には青銅という意味だが、同時にドラという意味でも使われる。当時、異教の神殿ではどらやシンバルを鳴らすのが慣例であったので、青銅をうるさく鳴らしたり、シンバルを鳴り響かせる場面はコリントの人々にとってなじみ深い場面であった。誤解が無いように書いておくと、どらもシンバルも、けっして悪い音という訳ではない。どらもシンバルも、異教の礼拝の中ですら、それを鳴り響かせるべき適切なタイミングがあったというだけの話である。最高に盛り上がるところで、厳かに鳴り響かせるのでどらには意味があり、盛り上げていく場面で適切にならすのでシンバルには意味が生まれるのである。うるさいどらとは要らないところで鳴らすせいで会場を盛り下げる雑音であり、いたずらに鳴り響くシンバルとは、どこが盛り上げどころかわからずにとりあえず鳴らしまくっている空気の読めない雑音ということである。どんなに良い弁舌も、時と場所、そしてタイミングが御心に適ったものでなければ、それはただの雑音や騒音と同じものである、ということである。

「愛(ギ:アガペー)」は、先述の通り、ギリシャでいう所の、「性愛(ギ:エロース)」や、「親愛(ギ:フィレオウ)」とは全く別の概念であり、あまり使われる単語ではなかった。旧約聖書の70人訳ですら、20回しか出てこないものである。

 このアガペーを適切に翻訳する言葉は、日本語に於いても完全に見出すことが難しい。博愛という言葉が一番近しいようにも思えるが、あれは唯の平等主義であって、全員を公平に扱う以上の意味はなく、かつ、自分も含めて平穏な関係を形成する目的を持った行動理念のことである。アガペーは、実際には何かを目的としたものでも、また行動理念ですらなく、愛するということそのものを目的とした博愛よりも更に次元の高い愛である。平等という概念や、平和な関係の形成という目的すら持たず、目の前にいる相手に対し、相手の立場や情報、その存在すら考慮せずに、惜しみなく注がれる愛こそが、アガペーだからである。ただ愛するが故に、その存在を問わず惜しみなく注がれる愛、これこそがアガペーである。


〇2節
 「エコウ・プロフェテイアン(預言者の賜物を持っていても)」「エイドウ・タ・ムステリア・パンタ(ギ:全ての謎を理解していても)」「エコウ・パスタン・テン・ピスティン(全ての信仰を持っていても)」の、三つの事柄が、「エアン(もし)」という言葉でくくられている。これは、間接的に、パウロが先に挙げた、「教師の賜物」「預言者の賜物」「使徒の賜物」にかけて話しているのだろうと考えられる。
 先に挙げられた三つの重要な賜物を、しかも実現しうる最高の状態で保っていたとしても、やはり愛(アガペー)がなければ、私は居ても居なくなくも変わりない存在であるという旨が話されている。

 「無に等しい(ギ:ウーデイス)」は、つまらない、無価値、無効といった意味がある。例え三つの賜物を最高の状態で保っているような存在であっても、愛がないなら、それはただのつまらない、無に等しい存在なのだとパウロは言い切っている。

 1節は、第一の使徒の賜物について語ったが、2節では、第二の賜物の預言、また、第三の賜物の教師について語っている。つまり、1節、2節と併せて、教会と言う信仰集団の中での持ちうる全ての能力(賜物)の究極が語られているのであろう。パウロは直前に、「皆が使徒でしょうか、皆が預言者でしょうか、皆が教師でしょうか」と語って、全ての賜物を完全に持ち合わせている存在など居ないことを述べたが(12章29節)、13章1〜2節では、例えそれを実現するような、ある種「化け物」が存在したのだとしても、愛(アガペー)が伴わなければ、何の価値も無いことをパウロは、はっきりと言い切っているのである。


〇3節
 3節は、自身の行動について述べられている。
 これについては、種々の賜物について語られているのだろう。1〜2節と同じように、「皆が癒しの賜物を持っているでしょうか。異言を語るでしょうか。その解き明かしをするでしょうか」という問いかけに掛かっていると思われる。
 使徒、預言者、教師の下に同列に並ぶ、種々の賜物、力ある業は、即ち神の栄光を現わす為に存在する賜物である。
 色々と、その力の表れ方は違うものの、しかし、それらの全てが、その能力によって、神の栄光を現わすことでこそ価値を発揮するということについては、コリント教会の人々も異論は無かったであろう。そして、これは、前述した、使徒、預言者、教師の賜物についても同じ事である。

 病気や傷を癒す奇跡を起こせたとしても、その力を金儲けにつかってるのなら、その業には何の価値も無い。
 異言を多く語る力があっても、その異言で今夜の晩御飯の献立を離していたら、そこに何の意味があるだろうか。
 全ての会計を掌握する力があったところで、教会の会計に携わっていないならそこには何の意味もないし、有り余る財産を持っていても、それを一切献金しないならば何も持っていないのと同じである。

 要するに、癒しの奇跡は、それによって神様の力が示されるところに意味があり、異言は解き明かすものによって神の栄光を現わす内容が示されるところに意味があり、会計の掌握は、教会の会計が完全に公正に取り扱われる為に発揮されてこそ意味があり、大きな財産は、教会の後ろ盾となるところに神の力と栄光が表されるのである。

 ……となるならば、神の栄光を急に表す行動を突き詰めて考えるとどうなるであろうか。
 おそらくは、自身の全ての財産を他に分け与えること、そして自分の身すらも投じて殉教に至るところが究極地点となるであろう。

「分け与える(ギ:フォウミソウ)」は、「自身の全ての財産(ギ:ウパルコンタ)」にかけて言及されている。自分の全財産を人に分け与えるという意味がある。

 それに並んで、「私のの身体を引き渡す(ギ:パラドウ・ト・ソーマ・モウ)」という言葉が取り扱われる。これは、「カウケソウマイ(誇ることになっても)」と併せて置かれているので、自分の身体を引き渡す事で誇ることが出来るような結果になることが示唆されている。教会の中でそのような状況を考えるなら、それはまさしく殉教を成し遂げることに外ならない。

 種々の力ある業の到達点は、やはり全て施しと殉教へとつながるのである。

 つまり、自分の全財産を分け与え、栄光の殉教を成し遂げるとは、自身の全てを神の為に用いることに外ならず、種々の賜物を与えられた人々の究極の姿であろう。何故ならそれは私たちにとっての最高の奉仕であり、キリスト者が目指すところの最終目的地だからである。

 ところで、最後に置かれている「益になる(ギ:ウーフェロウマイ)」は、一人称単数で書かれており、かつ、「ならない(ギ:ウーデン)」と掛け合わされているので、「私にとっての益にならない」と言う意味である。周りの人々の益にならない、ではなく、自分自身の益にならないという意味の言葉がここに置かれている。神の栄光を現わし、他の利益になればそれで問題なかろうと思われるにも関わらず、ここで自分自身の利益が出てくるところに違和感を覚える者もいるかもしれない。これは一体どういうことなのだろうか。

 そもそも、「自分にとっての益にならない」とはどういうことであろうか。それは勿論、「神からの栄誉を受ける事が出来ない」という一点に尽きる。私たちが他人に持ち物を分け与え、殉教を成し遂げても、それが、「愛(ギ:アガペー)」を動機とするものであったり、またそれを伴うもので無かったのだとしたら(即ち、自分の名誉の為だとか、人から称賛を受ける為だとか、自分の名を歴史に残す為だとか、そういう理由であったのならば)、私たちはその功績によって、神からの賞賛を受けることはできない。これは、私たちにとって致命的なことである。

 そもそも「健全な信仰生活」とは、他人の為、また神の為に行なわれることが一見美徳にも見えるのであるが、究極的に言えば、その目指すところは全て自分の利益の為に行われているべきものである。これは、「栄冠を勝ちとる為に、競技者として信仰生活に挑むべき」というパウロの考え方にも一致している。信仰生活の目指すべきところは、自分自身の栄冠を手に入れるところにあり、神から認められて一番の栄誉を授かる為にあるべきである。利己的と言えばそうなのかもしれないが、その利己的な部分が失われた時、私たちは自分が何をしているのかもわからなくなり、その信仰生活は、空を撃つ拳闘のようなつかみどころのないものになってしまうだろう。本当の意味での「競技者」になる為に、私たちは自身の究極の利益、即ち目標を見誤ってはならない。わたしたちが、自分の人生を走り終えた時、そこに待っているのは、神からの賞賛という、自身の最高の利益でなければならない。これは当たり前のことではないだろうか。
 走るべき行程を全て走り終え、種々の賜物の究極地点に到達し、端から見れば究極の信仰生活を送ったところで、その道行に、愛(アガペー)が伴わなかったならば、それは自分にとっては、何の賞にもつながらないというならば、それは完全に徒労であり、しなかった方がマシだったのであり、競技者にとっては、何より致命的なことなのである。

 これについては、使徒の働き5章で、アナニアとサッピラが実際に実践して失敗例を提示しているように見える。愛(アガペー)によって、他の兄姉の為に自身の畑を売って、その代金を教会に献げたバルナバは(使徒4章36〜37節)、他の兄姉や神から称賛を受けたが、それを羨んで同じ称賛を得ようと畑を売って教会に献金したアナニヤとサッピラは、寧ろ神と使徒からの叱責を受ける事になった(使徒5章1〜11節)(直接的な原因は代金を誤魔化したからなのであるが、例え代金を誤魔化さなかったとしても、人からはともかく、神からの賞賛をうけることは出来なかっただろう)。私たちの行うべき信仰的な行動の全ては、愛(アガペー)を伴ったものでなければならないのである。

 愛(アガペー)自体は、「損得を考えず、相手を選ばず惜しみなく注がれる愛」であるが、それを実践するのは「神から称賛を受ける自分自身の栄光の為」であることも忘れてはならない。これを見失った時、私たちは「愛(アガペー)」を実践するとき、ただただ苦しみを受けるだけになってしまうであろう。

2.詳細なアウトライン着情報

〇愛(アガペー)がもし無いとするならば

1a 愛(アガペー)が無ければ、(御心に適った場所やタイミングに於いて、発言することが出来ないので、)わたしの語る言葉は、(場所やタイミングを弁えない)うるさいドラや、いたずらに鳴り響くシンバルと同じでありましょう。
1b 例え、わたしが人の舌をもって語る言葉が、天使の言葉と同じもののよう(に卓越していたの)だとしても(場所やタイミングを外したならそれは雑音なの)です。

2a 愛(アガペー)がなければ、(神の望んだ通りの役割を果たす事が出来ないが故に、)わたしという存在は実につまらないものです。
2b 例え、わたしが預言者であり、全ての謎と知識について精通しており、山を動かすような信仰を持ち合わせていたとしてもです。

3a 愛(アガペー)が伴わなければ、わたしの(信仰的な)行動は、(神からの賞賛をうけることが出来ない故に、)わたしにとって何の益にもなりません。
3b 例え、自分の財産を他の人に一切合切分け与え、人に誇れるような己の身を引き渡し(即ち殉教)を行ったのだとしてもです。


着情報3.メッセージ

『賜物の土台』
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章1〜3節
中心聖句:『たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(Tコリント人への手紙13章3節) 
 2024年5月5日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨

 パウロは、「愛」の追求こそが、自らに無い賜物を求めるより遥かに勝る道であると人々に勧めました。全ての賜物の土台には愛があり、これが無ければ、私たちの持つ賜物や功績は何の益にもならないとパウロは言います。何故、それ程までに愛が必要とされるのでしょうか。

 そもそも、愛とは何でしょうか。わかるようで、わからないものの筆頭であるように感じます。聖書では、この愛を、「アガペー」という言葉で表しています。このアガペーは、本来、古代ギリシャ人、ローマ人たちが使っていた、親愛(フィレオウ)や、性愛(エロース)と全く違った愛の概念で、当時でも珍しいものでした。フィレオウは、友人や家族に向けられる親愛で、エロースは、配偶者や恋愛対象に向けられる愛のことです。親愛と性愛も違う種類の愛ですが、共通しているのは、「自分にとって価値のある人々に向けられる」と言う部分です。「愛」とは、「自分の大切な相手に向けられる特別な感情である」と、古代ギリシャの人々は考えていましたし、現代の多くの人々ですら、そのように考えているのではないでしょうか。しかし、アガペーはそうではありません。イエス様が、本来何の価値もないはずの罪びとである私たちの為に、罪の罰の身代わりとなって十字架に掛かり死んで下さった愛こそが、アガペーなのです。すなわち、愛(アガペー)とは、自分にとって価値の無い相手にも惜しみなく注がれる類の愛を差すのです。これは、現代の多くの人々にとってすら、理解しがたい概念なのではないでしょうか。しかし、この愛に根差さなければ、どのような良い賜物も、誇れるような功績も、何の役にも立たないことを、パウロは、改めてコリント教会の人々に伝えたのです。

 ところで、クリスチャンは何故、賜物や功績を求めるのでしょうか。それは、御計画の中で自身の役割を果たし、神様からの賞を受ける為です(9章24節)。私たちは、神様から「忠実なしもべよ、良くやった」と褒めて頂き、天の富を与えて頂くために、自らの役目を全力で果たすのです。しかし、私たちがどのような賜物を持ち、誇るべき功績を挙げたように見えても、それが愛に根差し、それの伴った行動でなければ、決して神様からの評価を受けることはできません。何故なら、神様の御心は全て愛(アガペー)に根差しているからです。私たちは、人から褒められる為に賜物を用いて事を成すわけではありません。たとえこの世の基準では評価されず、寧ろ憎まれ迫害されるようなことになっても、私たちのとった行動が愛に根差し、それを神様が評価して賞を与えてくださるならば、私たちにとっては益となるのです。逆に、どれだけ熱意と労力を費やし、挙句、自分の全財産を人々に分け与え、命を投げ捨てて殉教するような結果になって誇っても、それが愛の伴わない、即ち御心に適わない動機や形で行われたものであったならば、神様からは何の賞も与えられず、本当の意味で徒労に終わってしまうのです。私たちの賜物や功績は、神様からの賞を受ける為にこそあるべきです。しかし、私たちはそれを見失い、自身の賜物の大きさを誇ったり、人から受ける賞賛に気をとられて、神様の御心、即ち愛という一番大切な部分を見逃してしまうのです。ここに人間の罪があります。

 父なる神様も、イエス様の十字架によって、価値の無い私たちに惜しみなく独り子の命を与え、愛(アガペー)を示してくださいました。そして今も、私たちに賞を与え、惜しみなく永遠の命を与えるために、自身の御計画の中へと招いてくださっているのです。だから私たちも、神様の与えて下さる賞を全て頂き、お褒めの言葉に預かる為に全力で行動しましょう。神様の示す御心である愛(アガペー)を、各々が熱心に追い求めていこうではありませんか。


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