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牧師の説教ノート(5月26日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章4〜7節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 愛の賛歌と呼ばれる箇所の続きとなる。
 愛の賛歌とは呼ばれているが、別にこれはパウロによる人間賛歌に似た愛の賛歌ではない。
 あくまで聖霊と賜物の相関関係の中で語られている御言葉であり、賜物の究極の形が愛であるということを話しているだけである。パウロが、愛について細かく説明しているのは、実際に追い求めよと命じたものが、具体的にどのようなものであるかを詳しく口伝する為である。
 どれだけそれが重要であり、私たちにとって必要な物であっても、追い求めるべきものが一体何であるのかが判らず、見当もつけずに探求することは、正に目標の定まらない走り方、空を打つ拳闘である。そして、絶対に私たちにとって必要な物であるからこそ、パウロは話の本筋から多少脱線してでも、愛と言うものがどういうものであるのか、仔細に説明しようとしているのである。それ故に、パウロが気分よく愛の素晴らしさを語っているのだと考えるのは間違いであるし、もしそのようにこの箇所を捕らえるのだとすれば、私たちは特にこの箇所に目を留めずに読み流してしまう事になるだろう。

 4〜7節で語られている「愛」、即ちアガペーと呼ばれるものが一体何であるのかということをパウロが語っているが、それらの総括は7節に集約されている。それは、自分にとって、一番どうでも良い相手に惜しみなく愛を注ぐためには、相手の行ってくる全ての理不尽に忍耐し、相手がどのような苦しい言い訳をしても、それを好意的に受け取り、相手が悔い改めない時であっても、相手がいつかは解ってくれると希望を捨てず、全ての人がその人を見捨てて誰もいなくなっても、自分だけはその場にとどまり続けるという情け深さや、待望する姿が実践されなければならない。

 しかし、実際にこれを実行しようとしても、私たちは到底これを行いきることが出来ない現実を思い知らされる。これを馬鹿正直に実行すれば、私たちは、私たちを騙そうとする悪人や詐欺師の「カモ」でありつづけなければならず、自分が騙されていると判っていて、わざとそれを看過し、破産し、破滅しなければならないということになるからである。
 詐欺師のカモになって破産するのがクリスチャンの正しい姿であるというなら、私たちは誰もこの世で生き残ることは出来ないであろう。

 この、聖書が示す理想と、私たちがこれを適用することなど出来ない現実のギャップは、どのようにして埋まるのであろうか。これを解決しないまま、出来ると信じて実行するのも勿論結構であるが、しかしその試みは恐らく大きな失敗に終わるだろうと思われる。
 また、出来もしない事を「出来る」と口にすることは、明らかに「きれいごと」の領域を出ず、口では出来ると言いながら、結局実行するつもりなど無いというならば、最早それは偽善者を通り越して詐欺師と呼ばれても仕方ないものになるであろう。

 恐らくは、世の多くの人が、クリスチャンの事を偽善者であるとか、鼻持ちならない連中であるとか、そういった印象を受けるのは、クリスチャン自身に、この「ギャップ」と言う大きな溝を埋める手段と力が無いためである。「どうせ出来やしないが、目指すべきではある」という結論に至ることも決して不可能ではないが、その結論に至る前に、突き詰めてこの事については考えるべきではないだろうか。

 この大きなギャップを埋めるために、私たちが考える為の一つのヒントとして、この愛の特質が、神との関係の中で語られているという所に注目したいと思う。普遍的に、誰に対しても、4〜7節で語られる愛の特質を実行していては、私たちの破滅はそう遠くはない。しかし、私たちと共に居られ、私たちの出会うあらゆる出来事を見ておられるのは、この天地を造られた神であるということも忘れてはならないのではないだろうか。
 このような愛の特質を語る際に、私たちは、もし心無い人間に出会ったら、相手が最悪の人格であったならば、詐欺師であったならば、と多くの事を考えるだろうが、そのような人々と私たちが深く関わろうとするとき、私たちをその手から守って下さるのもまた神であるということも考えるべきである。

 私たちは、出会う人々全てに関わらなければならないわけではないし、私たちが実際に関わる人々は、人類全体のほんの一部の限られた人のみである。そのような中で、相手に対し愛を実行しなければならない状況になった時、私たちは以外にも、目の前の相手が極論を形にした人物ばかりではないと言うことに気づくことになる。
 何故なら、相手を信じるにせよ、信じないにせよ、自身が騙されない為に行う最低限の自営の対応を私たちは学んで行うことが出来るし、私たちを破滅させようとする悪い人々については、他でもない私たちと共に居られる神御自身が遠ざけて下さるからである。

 私たちは人と関わる時、常に無防備であってはならない。相手が自身を騙そうとする人であるのか、本当に助けを求めている人であるのかは、慎重に見極めなければならない。およそ、多くの詐欺については、案内を聞かないことや、身分を偽る相手には名乗った公的機関に折り返して自分から連絡するといった対策手段を取ることができるし、それによって、関わる前に多くの騙そうとする人々には関わらないようにすることが出来る。

 そうでなく、判断のつきづらい相手であるならば、まずは神に良く祈ってから関わっていかなければならない。よく祈り、神と共に相手に臨むならば、その相手が本当に関わってはならない相手であると神が判断すれば、人しれずその相手を、御自身の手によって退けて下さる。私たちに関わらせようとする人は、神御自身が選んでくださるからである。

 だからこそ、愛を実行する際には、信仰と、「主への」希望が欠かせなくなる。相手に対して愛を実行しようとする際、私たちは何よりも無防備になるが、その無防備になった私を
神の霊が守って下さると信じなければならないし、そうしてくださるように、常日頃から祈らなければならない。

 つまるところ、愛を実行する為に一番必要な事は、主への信仰と希望を捨てない事である。愛の本質とは、即ち主への希望そのものだと言うことも出来るかもしれない。

 この愛とは、本気で実行すれば、直ぐにでも私たちの人生を打ち壊し、私たちを破滅に追いやりかねない危険なものである。これを本気で実践するならば、たちまち悪意を持った人々に、私たちは搾取されつくして滅びてしまうだろう。この愛の実践は、私たちを誘惑に遭わせず、悪から救い出して下さる神が共に居て、初めて成立する概念である。それ故、この愛の実践はクリスチャンで無ければ決して実現することができない(勿論試みることは出来るが、クリスチャンではないただの「善人」ならば、たちまちに破滅してしまうだろう)。愛とは、私たちが自分の力で達成するものではなく、私たちを守らんとする神への信頼と、また希望こそが必要なのである。それ故に、愛の本質とは、神への信頼であり、そして希望である。この信頼と希望は、キリストが再び再臨した時に消え去るものであるが(なにせ直に確認できるために憶測で物を言わなくてよくなるのだから)、新天新地での愛の実践と行動は、永遠に残り続けるのである。


〇4節
 「寛容(ギ:マクロスメオウ)」は、気が長い、寛容、根気強い、辛抱強いという意味がある。主に、自分の感情(スモス)が爆発するまで、長い時間(マクロ)をかけることを表す単語で、「短気(ギ:オクススミア)」の対立語である。早とちりしない、相手に対して短気を起こさない。自身の感情を抑制することがこの単語の意味合いにある。

 「親切(ギ:クレステウオマイ)」は、親切である、慈悲を示すという意味がある。即ち、相手に対して「かわいそうだ」と思える心を常に持ち続けるところに、この親切と慈悲の本質があると考えられる。

 「ねたまない(ギ:ウー・ゼウオイ)」は、熱心に求めない、得ようと努めない、妬まない、嫉妬しないという意味がある。確保する為に必死になったり、物事に固執してしがみついたりする態度、また、自分以外にそれを持っている相手に対して向ける妬み嫉みが、この単語の本質である。愛を熱心に追い求めることと、それに必死になって目的を見失うことは全く別のことであるので、愛を追い求めることと、この単語は矛盾しない。

 「自慢せず(ギ:ウー・ペルペレータイ)」は、ホラを吹かない、自慢しないといった意味がある。本質的には自分の栄光を求めないという所にその意味の中心があるだろうと思われる。自分を大きく見せて相手をコントロールしようとするのは世の人の常であるが、そのようにしてつくホラ話や自慢話を「行わない」こともまた、愛の性質である。相手をコントロールしようと考える意思を放棄するという意味もあるかもしれない。

 「高慢にならない(ギ:ウー・パロズネタイ)」は、思い上がらない、高慢にならない、膨れ上がらないといった意味がある。4章で語られている通り、思い上がって相手に高圧的に振舞おうとする態度や、示威的な行為を行うことは、決して愛の性質とは相いれない。常に謙遜であり続けるのが愛の性質である。


〇5節
 「礼儀に反する事(ギ:アスケモネオウ)」は、見苦しい、無作法、失礼な真似をするという意味である。つまり目の前の相手を侮ったり軽蔑したりする態度を示すことは、愛の性質の中には含まれない。例え尊敬できないと判断されるような相手であったとしても、見下したりせず、対等な相手として対応しなければならない。

 「自分の利益を求めず(ギ:ウー・ゼテイ・タ・ヘアウテス)」は、「自分を相手に探さない」と直訳することができる。ゼテイは、妬み嫉み(ゼウオイ)と同じ語源の言葉であり、探す、求める、得ようと努めるなどの意味がある。即ち、自分のやり方を人に押し付けたり、自分の利益を相手から得るための打算を行うことは愛の性質ではない。相手から利益を得ようと考えたり、人に配慮をする気が全くない行動をとったり、また独善的に相手を自分に従わせようと考えて関わろうしたりすることは、神の御心で無い事を弁えるべきである。

 「苛立たず(ギ:パロクネオウ)」は、字義的には鋭利にするという意味であるが、古典にこの用法で使われているものは見当たらない。怒る、激昂するという意味合いがあり、ちょっとしたことで直ぐに怒るというのがこの単語の指すところであろう。何に於いても早合点して、直ぐ怒り、人の話を聞かなくなるような態度は、神の求める愛の性質ではない。

 「人がした悪を心に留める(ギ:ロギゾマイ)」は、数える、勘定に入れる、計算する、人に責任を押し付ける、といった意味がある。新改訳2017は大分意訳のように思われる。相手が自分に行った悪い事を、何時までも恨みがましく数えて居たり、もしくは、何かにつけて人のせいにする他責思考は、愛の性質ではない。


〇6節
 「不正を喜ばず(ウー・カイレイ・エピ・テ・アディキア)」は、アディキア(不正、不義、不正な報酬(賄賂))を、喜ぶ(カイル)という意味合いがある。広く色々と取れるだろうが、自分にとって利益のある不正を喜んで受け入れる事をしてはならないということで、大体の意味は受け取る事が出来るだろう。

 「真理(ギ:アレッセイア)」は、そのまま真理という意味である。正しい手順に、合法的な手段、不正の無い姿という意味合いに取るのが良いだろう。


〇7節
 「耐える(ギ:アテゴウ)」は、覆い隠す、耐えるという意味がある。相手が自分に行った事に対する激情を覆い隠すということであり、相手の不義や不正を隠ぺいするという意味ではない。何方かと言えば、忍耐強く耐えるという意味合いが強い。

 「信じる(ギ:ピスティス)」は、信仰、信じるという意味合いがある。相手のことを信じるとは、全面的に信頼を寄せるという意味ではなく、相手の言い訳を信じて受け入れるという情け深い姿を示すものだと思われる。苦しい言い訳でも情けを見せて、相手にチャンスを辛抱強く与え続けるというのが、この本質だろう。

 「望む(ギ:エルピゾウ)」は、希望、希望を持つ、希望を置くという意味であり、希望を置くという意味が一番文脈に近いと思われる。即ち、相手を見限らない、見捨てない、情けをかけ続けることを切り上げないことを指す。

 「忍ぶ(ギ:ウポメノウ)」は、後に残る、残留する、耐える、待つ、待望するという意味合いがある。アテゴウと似たような意味に思えるが、残留するというのが、本質的な意味合いの部分だと考えられる。誰もが見捨てて居なくなってしまっても、自分だけは相手の為にそこに残り続ける姿や、相手が悔い改めるその時を諦めずに待望し続け耐える姿が、この愛が実践された正しい姿である。

2.詳細なアウトライン着情報

〇愛とは何か

4a 愛は寛容であり、愛は親切です。
4b また人を妬みません。

4c 愛は自慢せず、高慢になりません。

5a 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。
5b 苛立たず、人がした悪を心に留めません。
6  不正を喜ばずに、真理を喜びます。
7a 全てを耐え、全てを信じます。
7b 全てを望み、全てを忍びます。

着情報3.メッセージ

『愛の本質』
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章4〜7節
中心聖句:『すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。』(Tコリント人への手紙13章7節)  
 2024年5月26日(日) 主日礼拝説教要旨 

 パウロは、13章に入ってから、私たちが追い求めるべき究極の賜物である「愛」について、コリント教会の人々に語ります。よく愛の賛歌などと呼ばれる箇所でありますが、あくまでこの箇所は、賜物を行使する為に必要な根源的要素である「愛(アガペー)」について語っているのであり、愛を褒め称えるのではなく、非常に実践的に愛によって賜物を活かす方法が教えられて居ます。私たちは、愛を用いる方法について、良く知っておかなければなりません。

 具体的にパウロは、愛がどのような性質を持つかを語っています。愛はまず寛容であり、親切な性質を持ちます。寛容は、気を長く持ち、辛抱強い態度を指します。親切は、慈悲深い、即ち相手の事を「可哀そうだ」と憐れんで、何かしようとする態度を指すものです。次の、人を妬まず、自慢せず、高慢にならないとは、相手よりも、自分を優位に置こうとする態度、即ち対等に人と接さない心を自制する愛の性質を表しています。私たちの心には罪があるので、その罪の性質によって、相手を侮って見下すことに快感を覚えてしまいがちです。逆に、下に見る事が出来ない相手には嫉妬し、周囲に自分を大きく見せる為に自慢話を振りまき、実際に相手を見下して対等に扱わないような態度を取るのも罪の性質によるものなのです。これに支配されているようでは、いつまでも愛を獲得することは出来ません。礼儀に反する事を行なったり、自分のやり方を押し付けたり、苛立ったり、人にされたことを根に持ったりするのも、全ては、罪の性質から出る私たちの「自己中心」から出ていることなのです。愛は、この自己中心から最も遠い性質を持ちます。愛の本質は、イエス様の十字架に示される愛です。自分にとって価値の無い相手の為にでも、自身を犠牲にして惜しみなく注がれるのが愛なのです。

 この愛を、現実に実践していこうと思えば、7節に書かれている通り、相手が自分に何をしても忍耐強く我慢しなければならず、どれほど苦しい言い訳をし続けても、相手にチャンスを与え続けねばならず、相手がどれほど愚かなことをしていても望みを捨てて見限らず、他の全ての人がその人を見捨てても、自分一人だけはその場にとどまり続けなければならない。このような姿が要求されるのです。しかし、いくら御言葉がそれを要求しているからといって、本当にそれを実践することなど私たちには出来るのでしょうか。少し考えれば、この様なことを実行すれば、私たちはあっという間に奪いつくされて破滅するしかないように思えます。世には、私たちよりもよほど悪賢い人々の方が多く、私たちが知恵によって彼らに勝つことなど出来ないからです。神様は、それも踏まえて、私たちに破滅せよと命じられているのでしょうか。

 決してそんなことはありません。私たちを破滅させかねない「愛」の実践を要求されるのは神様でありますが、それを実践すべき相手を委ねて下さるのもまた、神様だからです。神様は、私たちを信じ、希望を持って、愛を実践して欲しいと願われる魂を委ねて下さいます。それと同時に、破滅させようと近づいてくる悪からも、私たちを守って下さるのです。私たちは、何も考えずに愛を実践していれば良い訳ではありません。騙されないように自衛し、蛇のように賢くその罠を抜け出なければなりません。また、試みに遭わず、悪から救われるように常に祈るべきでもありましょう。その上で尚、神様が私たちの前に連れてきて退けられないならば、私たちは喜んで、その人に鳩のように素直な愛を実践すべきなのです。私たちは、神様から信頼されて、希望をもって大切な魂を委ねられているのですから、その期待に応え、少しずつでも愛の実践を追い求めるべきなのです。私たちが最も小さな魂に施す愛の業は、正にイエス様に対する業です。だから、私たちも神様を信じ、希望を持って愛の実践に取り組みましょう。





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