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牧師の説教ノート(6月2日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章8〜13節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 愛の永続性について議論が行われている箇所である。
 全ての賜物の中で、愛というものが何故最上位に位置するのかについて、パウロはその理由を愛の永続性に紐づけて結論し、説明しようとしている。

 パウロが言う愛の永続性とは、キリストの再臨以後の新天地に入るタイミングにラインを引き、その後に存続するものと、そこで途絶えて廃れるものがあると、グループ分けされて議論されているものである。新天地において残る賜物があり、新天地が訪れた際には廃止される賜物もあるということを言わんとしているのである。

 パウロは、この8〜13節に於いて、私たちクリスチャンが新天地へ命をもって到達することを前提に話を行っている。世の多くの人々と違って、私たちにとって、この世に於ける肉の身体の生涯は全ての時間ではない。キリストがこの地上に来られ、復活の希望に預かり、福音の約束を得て新天地に立った後のことを、信仰をもって当たり前のように議論できるところに、私たちクリスチャンの恵みがある。この世の人々と決定的に価値観が食い違ってしまうのも、ここに理由があるだろう。

 預言や異言、知識、その他、この世界の中で神の計画に従い与えられる様々な能力は、愛によって運用されるべきであるというのは、既に7節で学んだ通りであるが、愛によって運用されるこの賜物たちは、キリストが再びこの地上にやってきた時点でその役目を終える。

 その一つ目の理由は、最早それ以上の宣教が必要なくなるからである。宣教の為にこそ賜物が与えられ、教会はキリストの身体として運用されているのであるから、キリストが再び地上にやってこられた時にはその働きを終える。私たちの持っているあらゆる賜物は、そこで一端役目を終えるのである。

 私たちの持つ多くの賜物のうち、その大部分が廃れる二つ目の理由は、私たちにとって伏せられていた多くの情報が、その時点で明らかにされるというところにある。私たちは、目に見えない神について、啓示を通してしか知る事が出来ない。その啓示の大部分は、その被造物から読み取る事が出来る一般啓示によるものであり、そこから神に辿り着く事は至極困難を極める。私たちに御言葉と言う形で与えられて居る特別啓示によって、更に深い部分を知る事も出来るが、その特別啓示すらも、私たちにとって最低限必要な部分しか明らかにされておらず、私たちはその神秘の全容を知恵によって解き明かすことは出来ないのである。私たちはその御言葉による僅かな部分を通して、キリストのことや、また父なる神のことを知ろうとしている。これは、巨大な建造物を至近距離から、懐中電灯で照らしてなんとか形を把握しようと努力する様に非常に近しい無謀な行為であろう。
 しかし、キリストが再びこの地上に訪れた時、最早、全ての全容は太陽で照らされたように明らかになる。その時には、全体の一部しか知る事の出来なかった私たちは、神について、またこの世界についての全容を知ることになり、それと同時に自分達が何も知らなかったという無知を思い知らされることになるであろう。最早、全てのことが明らかになれば、部分的な情報は一切必要がなくなるのであるから、不完全なこの世の知識や預言などの情報は、全て廃れることになるのは当たり前である。

 さて、終末の時を越えて存続する賜物は三つあると言われている。それは、信仰と希望と愛である。これらは、ガラテヤ5章22節の御霊の実と結び付けて考える事が出来るかもしれないが、パウロはここでは、御霊の身についてなど一言も言っていないし、これはコリント人への手紙なのであるから、パウロの言わんとしていることの推理は、可能な限りこの手紙の文面の中だけで行なうべきである。

 普通に考えれば、信仰も希望も、神と直接対峙して、顔と顔を合わせる(12節)ようになれば、他の知識と同じように廃れて消え失せせおうなものであるが、何故か信仰や希望もいつまでも残るとはっきり書かれている。
 この箇所については長年議論が続いているようで、ギリシャ語の文法解釈によって、文脈の意味合いも変わってくるのではないかと考え探るアプローチもなされているようである。しかし、用いられている単語などを見るに(後述の釈義情報参照)、素直に信仰と希望と愛の三つは、再臨後の新天地に於いても、しっかり残ると考えたほうが良いと思われるし、自然な解釈になるように思われる。

 即ち、私たちは神と顔と顔を合わせて、直接顔を見るようになった時、そこで神を知っておしまいというわけではなく、そこから新しく関係を始めていくことができるのである。新天地は、全てが停滞した神の箱庭ではない。私たちは、その新天地でも自由意思によって神と共に交わり、神をその目で見るようになっても尚、神の間に信頼関係が構築していくことが許されるのである。私たちは、神が更に素晴らしいものを見せて下さるという希望を持って良いのである。だからこそ、私たちは、永遠に続く時間を、倦むことなく、活き活きと過ごしつづけることが出来るのである。
 私たちは、新天地の生活には「先」があり、新天地への「到達」は、完成と終了ではないと、希望を持って宣言する事が出来る。これはとても素晴らしい恵みではないだろうか。

 そのように永遠に続く神と私たちの関係の中で、信頼と希望移譲に貴いものは、愛であるという主張は当然のことであろう。何故なら、神は信仰の神でも、希望の神でもなく、愛の神であり、私たちは神に愛され、、その愛に応答して髪を愛すると言う関係性の中にこそ、基礎をおいて、神を信頼し、希望をもってつき従って行くからである。神の愛は、永遠の時に至るまで決して崩れることがない。この愛によって、私たちは愛され、その愛への応答によって神を愛して、永遠のいのちの交わりを完全な者とへとしていくのである。

 この世で私たちの誇りとなるものは終わりの日に全て消え去るが、神との関係は終わりの日を越えても永続する。それどころか、寧ろ終わりの日に全く新しく始まり、希望と信頼と愛に満ちた新生活が始まっていくのである。天地創造の時から、終わりの時を超え、新天地まで残るもの。それこそが、神と私たちの間に結ばれた関係なのであり、永遠に続く命の交わりの道なのである。私たちはその関係の中に身を置き続けるからこそ、対象を選ばず、神を愛するが故に、相手を問わずこの愛を実践することができる。神との交わりの中に入らずに、無理なく愛を実践できるものなど、どこにも存在しないのである。


〇8節
 「絶える(ギ:ピプトゥ)」は、倒れる、墜落する、落ち込むという意味であり、地に伏せる、途絶えるという意味もある。
 これに、「決して〜ない(ギ:ウーデポテ)」が合わさり、決して途絶える事が無いとなり、愛の永続性がここで断言されている。
 唯の否定ではなく、決して〜と、強く否定されている事や、他の同士も全て未来形で書かれていることから、おそらくパウロがこの「途絶えない」を、天地が再創造された新しい世界までも見据えて言及していると考えるのは、決して行き過ぎではないだろう。

 「すたれる(ギ:カタルゲウ)」は、やむ、なくなる、廃止されるという意味であり、「預言(ギ:プロフェテイアイ)」と合わさって用いられているので、預言は廃止される、若しくは預言は無くなるという意味合いで書かれていると考えられる。これも同じく、キリスト再臨後のことまで見据えて語られており、新天地に於いては最早神が共に居られるので、預言というシステムそのものが無くなってしまうという意味が語られているのではないだろうか。
 知識と共に語られているのもこのカタルゲウであるが、他が複数形で書かれているのに対し、これは単数形である。心理や真実といった、私たちにとって唯一無二なものであったとしても、やがて天地が新しくされると同時に、意味の無いものへと過ぎ去ると言う意味だと考えられる。

 「やみます(ギ:パウオウ)」は、やめさせる、おわらせる、中止するという意味がある。これは、新改訳2017では異言と訳されている「舌(ギ:グロウッサイ)」と併せて用いられている。この「舌」が、本当に異言を指しているのかどうかは実は判らないが、どんな巧みな弁論も、最早神と共に居るという前提に立った時には閉じられるのは当たり前の事である。最早、舌によって相手を騙すことは出来ず、偽る事も出来ない新しい世界がやってくるからである。次の章からは、異言についても語られるので、これについては異言と仮定して解釈しても問題にはならないだろう。


〇9節
 「一部分(ギ:メロース)」は、分け前、取り分、一部分、多少、一切、といった意味があり、実にほんの一部分であるというニュアンスを含んでいるようである。少なくとも、半分以上の大きなパーツを指すようなニュアンスはないようである。
 私たちが、(たとえ聖書の御言葉を通してですら)知る事ができるのも、また預言によって御霊から知らされることも、私たちに隠されている事のほんの一部分にすぎないという意味が、この単語には込められている。そして、一部分しか知る事のできない全ての知識の全容は、キリストの再臨後に全て明らかにされるのである。


〇10節
 「完全なもの(ギ:テレイオス)」は、終わりに達した、十分に成長した、大人、完成した、完全なという意味がある。
 「一部分(ギ:メロース)」は、9節と同じ単語が使われている。
 ここで言う完全なものとは、勿論、再臨後のキリストや、そこから私たちと共に居られる父なる神御自身を指すものであるというのは明確であるが、文脈的に言えばもっと端的に、全容が知れれば部分的な情報は役に立たなくなるといった概念的なことを言わんとしていると考えられる。
 「すたれる(ギ:カタルゲウ)」の単語は8節の通り。


〇11節
 「幼子(ギ:ネピオス)」は、幼い、幼児、子供、無学な人、未丁年(みていねん。即ちおおよそ成人のこと。当時は12歳未満程度)と言った意味があり、本来は、言葉をまだ喋る事が出来ない乳幼児のような姿を指す言葉である。
 
 「大人(ギ:アネール)」は、男、諸君、皆さん、兵卒、といった意味のある言葉である。大人というのは意訳であるものの、諸君とか、一兵卒であるとか、皆さんと呼ばれる男性は一人前と認められた人であるから、大人と訳すのは適切である。物も癒えないような乳幼児ではなく、誰が見ても理知を弁えた、即ち道理を大人の男性になった時に、子供のようなみっともない幼稚な振る舞いをパウロは「やめた(ギ:カタルゲウ)」のである。

 「話し(ギ:ラレオウ)」、「思い(ギ:フォエオネオウ)」、「考え(ギ:ロギゾマイ)」は、話して、判断し、結論付けるという意味合いが単語の中にあり、道理が判らないなりに議論して結論付けている様が見られるものの、大人になって勉強し、世間を知り、世の中の道理を理解したならば、世の中の理不尽に幼稚に怒ったり、暴力などの短絡的な手段で物事を解決しようとするような、子供を諭すとき特有の議論や振る舞いなどは、その人に必要が無くなるであろう。

 「やめました(ギ:カテルゲカ)」は、現在完了で書かれており、全ての道理が明らかになったが故に、今はそれを辞めています、という意味である。

 11節全体を見れば、パウロが文脈的に信仰的な話をしているわけでないことがわかる(もし信仰的な話をしているのならば、最早パウロは大人になって完成していると言っており、それは即ち栄化の恵みに預かったと自負していることになる。もしそのような文脈でパウロが話していたのならば、次の節でやがて完全に知るようになるだろうとは言わないであろう)。実際に、パウロ自身が自分の成長体験から、一般的な人間が幼子から大人に成長するプロセスを例に取って話しているのであって、信仰もこれと同じで、キリストの再臨を経験して全てを知らされた状態を、成人した少年になぞらえて話しているだけなのであるから、読み違えて混乱しないようにすべきである。


〇12節
 「鏡(ギ:エソプトロン)」は、そのまま鏡を指す単語であるが、当時は銅鏡を始めとした良く磨いた金属板が鏡として用いられて居た。現在のような水銀の鏡ではなく、余程手入れを欠かさない限りは、映してもぼんやりとしか見る事ができないものが一般的であった。

 「ぼんやりと映る(ギ:アイニグマ)」は、謎、わかりにくい、ぼんやりと、といった意味がある単語である。金属板に移した程度の〜という文脈もあるので、ここはぼんやりとしていると言った意味が正しいだろう。

 「そのとき(ギ:トテ)」は、その時、それから、といった意味のある副詞で、過去にも未来にも用いられる言葉である。
 ぼんやりと鏡でみるようにそれを見ているけれども、そのときになったら、顔とを顔を合わせてみるように見ると語られているようである。「しかし(ギ:デ)」と併用されているので、しかし、その時になれば〜と訳す事が出来る。

 「完全に知る(ギ:エピギノウアコウ)」は、それと知る、認める、認識する、気づく、見出す、知る、知っている、理解するという意味があり、未来形でも書かれている為に、その時になれば、全ての謎について知る事になるという意味で書かれていることがわかる。これは、一人称単数で書かれているため、完全に知るのはパウロ自身であるのだが、これは彼が自分のことに例えて説明しているためであり、クリスチャン一人びとりに適用して解釈することは可能であるし、パウロもそう願ってこの文脈を離していることは、想像に難くない。私たちは「その時」、即ちキリストの再臨に立ち会う時にこそ、全てのことを完全に知ることができるのである。


〇13節
 「残る(ギ:メノウ)」は、留まる、離れないでいる、何時までも変わらないという意味がある。
 直接法、能動相、現在で書かれているため、今現在もそうであるし、これから後もいつまでも変わらないという永続を指す単語である。
 その永続性は、勿論キリストがこの世に再臨され、古い天地が廃れ、新しく創造された後も永続することを指すようである。

 「希望(ギ:エルピス)」は、期待、希望、望みという意味があり、多くは良い方向での望みを置くという用法で用いられる。何に対する希望なのかと言えば、勿論キリストと父なる神に対しての希望であろう。
 信仰、希望、愛のどれも、主格、女性形、単数で書かれており、対象が単数に絞られて書かれていることから、「神への」「キリストへの」という補足が付けられると考える。「神を信じること」、「神に望みを置くこと」、「神の為に愛すること」の三つは、新天地へ行った後も継続して私たちが行っていく事柄であるのだが、その中でも最も素晴らしいものは愛なのである。

 「優れている(ギ:メガス)」は、大きい、広い、高い、広いと、寄り大きな単位を表す言葉である。
 これが、形容詞にのメイゾンに直されている事から、「最も優れている」という訳になる。
 信仰、希望、愛、これらの中でもっともすぐれているという形容詞が付くのは、愛なのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇最後まで残るものは

8a 愛は決して耐える事がありません。
8b 預言ならすたれるでしょう。
8c 異言ならやむでしょう。
8d 知識ならすたれるでしょう。

9a (何故なら)私たちが知るのは(ほんの)一部分だからです。
9b 預言するのも一部分だからです。
10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。

11a 私は、幼子であったときには、幼子として話しました。
11b 幼子として思いましたし、幼子として考えました。
11c しかし、大人になったので、幼子であることはやめました。

12a 今、私たちは鏡にぼんやりと映るもの(即ち私たちの主イエス)を見ています。
12b しかし、(キリストが再びこの世に訪れた)そのときには、顔と顔を合わせて(神を)見ることになります。
12c 今、私は(キリストのほんの)一部分しか知りませんが、そのときには、私も完全に(キリストのことを)知ることになります。
12d いま、私が(キリストに)完全に知られているのと同じようにです。

13a こういう訳で、いつまでも残るのは、信仰と、希望と、愛の、これら三つなのです。
13b その中で一番すぐれているのは(もちろん)愛です。
す。


着情報3.メッセージ

『最後まで残るもの』
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章8〜13節
中心聖句:『こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。』(Tコリント人への手紙13章13節)  2024年6月2日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨 

 13章の最後にパウロは、「愛が何故全ての賜物に勝るのか」という議題について結論を出します。それは、愛が他の賜物と比べて、いつまでも残るので重要性が高いということです。コリント信徒だけでなく、しばしば私たちも誇ってしまう多くの賜物は過ぎ去りますが、愛は最後まで残り続けます。この愛が最後まで残り続けるとは、一体どういうことなのでしょうか。

 パウロは8節から、「愛は決して絶えることがありません」と、愛の永続性について言及しています。これは「永遠の時を越えても、いつまでもそこにあり続ける」という、とても強い表現です。その表現の通り、愛は天地が滅び、新しく創造されても残り続ける賜物なのです。私たちクリスチャンは、死んだらそれまでと考えるこの世の人々と違い、自分の死後どころか、天地が滅び去った後まで視野を広げて物事を評価します。クリスチャンがしばしば、この世の人から「愚かである」と評価されるのは、新しい命すら勘定にいれて行動する様が、肉体の命こそ全てとして行動する世の人々のそれと、決定的に食い違うからです。この世で持て囃される知識、暴力、財産、権力は、我々クリスチャンから見れば、天地が新しくなった際に無用の長物と化してしまう詮無いものです。勿論、この世で生きる際にとても役に立つものではありますが、だからと言って我々にとって、それらが人生の全てを費やしてで追い求めるほど重要性が高いものになるかといえば、そうはなりません。それは、教会で尊ばれる預言や異言の賜物についても同じです。預言や異言の賜物も、神様と共に過ごすようになれば廃れてしまいます。本人が目の前にいるのに、伝言を頼む人など居ないからです。同じ理由で、聖書の知識や伝道の能力も、また技術すらも、新天地では神様が目の前にいるようになるので、最早必要なくなるのです。だから、やがて不要になる賜物を誇ったところで、何の意味もありません。

 しかし、その一方で、この天地が滅び去って全てが新しくされた後も、信仰、希望、愛の三つは残り続けるとパウロは宣言します。愛に加え、信仰と希望は何故残りつづけるのでしょうか。ここでパウロが何を言いたいのかいえば、たとえ天地が新しくなっても、神様との関係は永遠に続くということです。私たちと神様の関係は、イエス様の再臨によってある種の完成を見せますが、だからといってそれで終了とはなりません。再臨は、私たちにとっての終わりではなく、全ての始まりだからです。私たちは、神様と顔と顔を合わせる時に、今まで知らなかった神様の全容を知ることになります。しかし、それを知った上で新しく始まる関係というものもあるのです。私たちは、神様と顔と顔を合わせるようになって、そこから更に神様と共に、新しい体験を重ねていきます。その新しい生活の中で、私たちは神様のことを更に信頼(信仰)し、神様との新しい未来に期待(希望)をもって歩み続けます。その歩みが、永遠の時に至るからこそ、それが永遠の命の道となるのです。その関係の中で私たちと神様を繋ぐ大切な要素こそが愛です。私たちは神様に愛され、また愛しながら、愛の交わりの中で永遠に過ごします。だからこそ、私たちにとって愛こそが、最後まで永遠に残り続ける最も大切な賜物なのです。

 私たちが、本当の意味で「愛」を行動に移して実践しようとする時、その愛は常に神様との関係の中で振るわれるものであることに気づかされます。私たちはイエス様と父なる神様の愛の中で取り扱われ、また私たちもその愛に、愛によって応答するので、その愛をどのような相手にも振るうことが出来るようになります。私たちは、愛を振るう相手を見てそれを実行するのではなく、神様こそを見上げ、その交わりと関係の中で愛を実践していくことが出来るのです。愛の賜物は、永遠の時にまで至ります。この賜物を追い求め、実践し続けましょう。




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