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牧師の説教ノート(7月7~14日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙14章1〜19節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 14章に入り、パウロはいよいよ、コリント教会問題の本丸とも言える「異言問題」について取り組み始める。なぜなら、この異言を語るグループこそが、今回のコリント騒動の主犯だからである。おおよそ、彼らによってそそのかされたコリント教会の状態は、明らかに「滅茶苦茶」であり、その教会の惨状たるやひどいものであった。

 教会全体は、「分派して互いに言い争っており」、「異邦人の間にも見られない程の不品行を放置するどころか奨励まで行って褒め称え」、「何でもかんでも法廷に訴えて教会の中の些細な問題で争う兄弟同士の裁判が絶えず」、「変な禁欲主義が横行して、夫婦別居や離婚が行われている」かと思えば、「偶像の宮に出かけて平気で偶像礼拝の食事に参加する者がおり」、礼拝ともなれば、「皆好き勝手飲み食いして酔いつぶれる為、聖餐式を守る事が出来ないでおり」、あげくは「一部の無教養な女性達が被り物をかなぐりすててトランス状態に陥り『イエスは呪われよ』と叫んで、説教や奨励をしようとする人々の言葉を遮って集会の邪魔をしようとする」といった調子であった。

 その上で、その混沌の中で「霊感を得た」と自称する人々がいきなり立ち上がって、意味の解らない言葉(自称異言)で喚くように祈り始めるのであるから、その様子は、秩序だった礼拝というよりは、混沌に満ちた悪魔崇拝(サバト)のような様相だったのである。

 パウロは、明らかにこれらを鎮静しようと、一つ一つの問題に向き合って人々に対して訴えかけ続けてきた。そして、おそらくは疑いようも無く、この「異言」を主張しているグループこそが、これらの騒動の中心になっている台風の目であったし、パウロもそう断定していた(そうでなければ、どうして他の問題に比べれば、厳密には問題と言い切れないこの微妙な話題を14章の一連の話題の最終結論にもってきたのか、説明がつかない)。

 このような「霊の人」「大使徒」「預言者」を名乗る反キリスト的な人々が、教会の中に混乱を引き起こしていたのは、Tヨハネの手紙など、別の使徒の手紙の中からも窺い知ることが出来るのである。コリント教会は、今一度基本に立ち戻って、この狂気とも言える霊的な熱狂状態、混乱状態を鎮めるべきであった。

 パウロが、この箇所に限らず今まで一貫して主張し続けてきたのは、教会全体の成長につながることを、個々人が、それぞれの賜物を活かして行うべきであるという主張だった。派閥争いも、法廷沙汰も、偶像礼拝も、不品行の横行も、聖餐の妨害も、全ては自己中心、利己主義の精神から巻き起こる問題であった。そして、今回とりあつかう異言を至高とするグループも、正に自己中心、利己主義を煽って、他の人々に混乱を齎していたのである。

 その為に、前章の13章でパウロは、価値のない最も小さなものに惜しみなく注がれる愛、即ち十字架に見られるキリストの愛(アガペー)こそが、私たちの持つべき最も大切な賜物であり、また精神であると言うこと。また、それを伴わない「賜物もどき」は、聖霊ではなく不詳の霊、即ち悪霊による現象であるとはっきりと宣言してから、この14章の話題に触れたのである。


 この14章を通して、私たちが知る事ができるのは、コリント教会の中で用いられて居た「異言」が、決して聖霊の賜物として分配される「異言」ではなかったということである。少なくとも、コリント教会の中で、自称「霊の人」を中心としたグループが用いて誇ってた「異言もどき」は、聖霊を伴わない教会にとって益にもならない不詳の霊(もしくは悪霊)の働きであって、教会を建て上げることについては全くの無益であり、寧ろ、コリント教会を困らせ、その働きを阻害する害悪となっていたことである。パウロは、この偽物の異言を完全に否定する文脈でこの14章を書くのと同時に、例え正しい賜物としての異言を持っていたとしても、一万の異言よりも五つの預言のほうが教会を建て上げることについては役に立つと、その価値については断定してしまっている。異言は貶められるような賜物では無いにせよ、伝道や牧会に於いては、さして大きな重要性はないし、少なくとも異言こそ至高であるという派閥がおこるような価値があるものではない。

 私たちが、この14章を読む上で注意して理解しなければならないのは、コリント信徒が主張する異言をパウロがある程度認め、「その内容が判りさえすれば役に立つ」と言っている訳ではなく、「それらの異言もどきは全くの偽物なので、そもそも意味が存在せず、解釈すらできない(本人だけでなく、神にすら何を言っているのかわからない)」ものであり、またそれは、壁に向かって(パウロは空気に向かってと表現)喋りかける、意味のない独り言である」と、そして「それらは、本人にとってすら何の利益にもならない意味のない行動なのだ」と痛烈に批判し、全否定していることである。

 では、異言というものは存在しないのであろうか。否、異言自体は確かに存在するし、パウロ自身も、賜物の中に異言を数えている。しかし、本物の聖霊によって与えられる「異言」は、コリント信徒の用いた異言とは全く別物であり、その運用も大きく異なるのである(異言の正しい運用については、20節以降で解説予定)。

 本物の異言は聖霊の賜物であり、聖霊の賜物として正しく機能しているのならば、それらは全て愛(アガペー)に基づいて運用されているはずであり、愛によって運用されているのならば、それらは知性をもって完全にコントロールされていなければならず、知性によってコントロールされているのならば、異言を用いて語っている際に、自分が何を言っているのか判らなければならないのである。だから、話している本人にすら何を言っているのか判別できない「コリントの異言もどき」は、全くの偽物であると断定することができる。

 本物の「異言」の賜物は、他に利益があり、教会を建徳的に成長させ、またそれによって自分も恵まれる「はっきりした音」として運用されなければならない。これは「異言」に限らず、全ての賜物について、そうでなければならないのである。

 パウロ自身も、コリント信徒の用いる偽物の異言ではなく、解き明かしも知性も伴う本物の異言を扱うことができたようであるが、その存在は使徒行伝を記し、パウロと常に行動を共にしたルカでさえ記述することがなかった。もし、パウロが異言を好んで度々用いて、一人でも祈っているようなことがあれば、ルカは使徒行伝にその様子を一度は描写しただろうし、あえて描写しなかったということはないと思われる。ルカも気づかない程、パウロの異言は秘められたものであったのである。だから、この異言に拘って熱狂し、霊的ななにがしを追い求めるようなことは、決して肯定されてはならないし、パウロ自身も、そのような無駄な労力を、教会を建て上げることに費やすようにと勧めているのである。



〇1節
 「御霊の賜物(ギ:プニューマティコス)」は、霊的な、霊からでる、御霊の賜物といった意味があり、これはパウロが言い出した単語ではなく、恐らくはコリント教会で騒動を引き起こしている、「異言で語る人々(即ち自称霊の人、自称預言者達)」が、自分達が持っていると主張する「異言もどき」を指して「御霊の賜物」と呼んでいたのだと思われる。

 「御霊の賜物」は、霊から出たあらゆる賜物全般を指す言葉であるので、実際には異言以外にも全ての賜物を指して包括的に呼称する言葉である。それを逆手にとってパウロは、「御霊の賜物」という言葉を敢えて使用し、「異言以外の賜物」、即ち預言を求めるようにとと、異言至高主義の人々に真っ向から対立する姿勢を明らかにしたのである。

 なお、異言自体は間違った賜物ではなく、問題にされているのは、コリント教会の一部が主張していた「異言もどき」であるので、異言と言う賜物そのものが否定される訳でない事については注目したいし、コリント教会に蔓延っていた現象をとって「これこそ異言である」と解釈するのも間違いであるので気を付けたいものである。また、異言を指して「御霊の賜物」と呼ぶことも決して間違いではないので、異言を必要以上に排除する姿勢は避けなければならない。事実、パウロは、コリントの惨状をその目で実際に見てから見極めたわけではないので、コリント信徒の中には、本当に異言の賜物を与えられている人間が若干名存在する可能性も否定しきれなかった(故に、そのような人々の為に、26節以降で賜物の正しい運用方法を提示してもいる)。

 「追い求めなさい(ギ:ディオウコウ)」は、追い求める、追跡するという意味のある単語であり、迫害する為に徹底的に狩りだすという物騒なニュアンスも含む。命令形で強く語られており、真剣に、熱心にそれを捕らえられるように追跡せよと語られている。また、能動相、現在で語られているため、遠い将来のことではなく、愛は、「今この時に持っていないので」、現在進行形で追跡しつづけなければならないものであるとパウロは薦めているのである。コリント教会の人々が、現在進行形で、パウロが言う所の「愛(ギ:アガペー)」を、賜物として所有している、また、御霊の実として結んでいるということが無いのは、現状を見れば明らかであった。また、愛を追い求めよと銘打つことで、全ての賜物が愛によって運用されていることを印象づけているようにも見える。

 「熱心に(ギ:ゼロオウ)」は、熱心にもとめる、追及する、競争する、張り合う、妬む、嫉妬するといった意味合いが込められており、熱心に求めるあまり、持っていないことを悔しく思う程にという強い意味合いがある。
 熱心に求めるべきものは、御霊の賜物であり、特に「預言(ギ:プロフェテウオウ)」することである。
 この「預言する」は、希求、現在、能動で語られており、預言「できるようになること」を熱心に求めるようにと命令されている。
 (預言できる賜物を持っている人は、預言が軽視されるコリント教会にはあまりいなかったのかもしれない(?))
 自分がその賜物を持っていないと、競い、争い、張り合い、時には嫉妬したりするほどに熱狂していたのは、まさにその「異言もどき」についてである。ここに「その妙な熱意を、偽物の賜物ではなく、預言にこそ向けよ」という皮肉も含まれていることは、恐らく間違いないだろう。



〇2〜4節
 「異言(ギ:グロッサ)」は、主に言語的な意味合いを伴っての「舌」という意味があり、言葉、言語、また異言といおう意味もある。パウロの手紙の中では、主に冠詞(ギ:テイス)が伴う場合、そのまま一般的な「舌」や「言葉」という意味で用いられ、冠詞が無い場合は「異言」という意味でこの単語を用いているように見える(14章9節などについては諸説あるが)。


 ちなみに異言とは、初代教会に伴って現れた霊的現象の一つであり、霊動状態で発する異様な音声である。
 他宗教においても、類似の現象があり、トランス状態に伴う「声にならない声」の発露がこれに当たるとされる。
 天使の言葉や天使の声といった風に呼ばれる事もあった。
 これは、使徒2章に於ける、使徒達を含め多くの人が外国語で話しはじめた「しるし」とは、全く別種のものであり、「コリントの教会の中だけ」に見られた「特有の現象」である(混同されやすい)。異言について取り扱っている箇所は、新約聖書の中でも、コリント、しかもTコリントだけに見られるものであることから、この異言という賜物について、特に注目されたり、問題になったりするようなことは、初代教会では殆ど無いようであった。

 現在でも、この現象については確認されており、これを用いることが出来る人間(もしくはそう自称する人間)も多く存在する(ようである)。それらの「異言」が本物であるかどうかは、後述する特徴をしっかり持っているかどうかで判別することが出来るだろう。しかし、それらの賜物が本物であろうがなかろうが、これに熱狂する姿勢そのものをパウロは決して推奨していないし、神もそのパウロの姿勢を追認し、御言葉として「推奨しない」ことを、新約聖書の中にはっきり納めている。ならば、私たちは必要以上にこの賜物について熱狂すべきではないだろう。

 それら本物の異言と、コリントの「異言もどき」は、はっきり分別されなければならない。ここで「誰にも(ギ:ウーデイス)」という言葉を用いて「誰にも判らない」と表現されている部分であるが、この「誰にも」の「誰」の範囲をどこまで含めるのかによって、パウロの語っている内容に文脈が大きく変わってくることを覚えさせられる。

 この「誰にも」が、人間全体、即ち「他人」を指す言葉であるならば、素直に「異言とは神に向かって語るものであって、その内容は人には計り知れない」と解釈することが出来るのであるが、この「誰にも」の中に神すら入っていると考えると、「人にも神にも本人にも判らないタダの妄言」という話を、非常に皮肉の効いた言い回しでパウロが語っている事になる。
 随分と迂遠な言い回しではあるが、そのような分かりづらい言い回しをしている時、大抵パウロは、他の人々の発言を「引用」して用いている。となれば、おそらくはパウロがここで語っている「神に向かって語っている」という言い回しも、自称「霊の人」「預言者」が、自らの「異言」について、そのように宣伝、吹聴していたのだろう可能性が高く、それを皮肉って「彼らは神に向かって語っているというが、その言葉は神にすら判らない」といっていると考えることができる。そして、神にすら判らないようなことを語っているのだから、「空気に向かって話している」(9節)ことになるのである。また、カルヴァンは、これを指して「壁にむかって妄言を離している」と評価している。

 また、続く「御霊によって」の範囲も、「与えられている聖霊によって」なのか、それとも「自分の中に入っている不詳の霊によって」なのか、解釈に差が出てくることになる。おそらくは後者であり、良く判らない悪霊のなにかで、誰にも判らない妄言を宙に向かって吐き散らしていると解釈するのが妥当そうである。何故なら、この箇所については、カルヴァンも皮肉として受け取っているからである(つまり私たちにとっては伝統的解釈となる)。また、「神に向かって語る」という大それた言葉が、新約聖書の他のどこにも出てこないことから(神には賛美するか、感謝するか、祈るのである。神に向かって対等に「語る」権利があるものなど存在するはずがない)、明らかに肯定的とは受け取りにくいのである。


 「人に向かって話す(ギ:アンスローポイス・ラレイ)」は、「人間(ギ:アンスローポン)」と「話す(ギ:ラレイ)」に分解される。意味合いは「He speak a man」と変わらない。三人称単数で表されているので、「彼は人間ではなく、神に向かって話しているのです」となるだろう。

 「御霊によって(ギ:プニューマティ)」は、与格、中性、単数であり、同じく男性形、単数の「話す(ギ:ラレイ)」に語っていると考えられる。それ故に、「御霊」は、「彼自身の霊」と訳す事も出来る。「彼自身の霊」が何に当たるかは議論の余地がありそうであるが、少なくとも文脈的には聖霊ではなさそうである(聖霊が私の霊、彼の霊と形容されることはない)。となると、不詳の霊、若しくは彼自身の魂という解釈が妥当そうである。

 「奥義(ギ:ミュステリオン)」は、奥義、秘密という意味があり、秘められた神の計画、意図、営みなどを指し示す単語である。ただし、聖書の奥義とは、以前は啓示されていて現在は判明していること、即ち、キリストの到来によって明らかにされた神の福音の計画そのものを指してパウロがつかっていることから、ここでは、奥義というよりは「秘密」という言葉で翻訳することが適切であるように思われる(明かされていないものは奥義とは呼ばない為)。また、パウロは、この「秘密」について特に重要性を見出して語っていないことから「何か良く判らないけれど、何か秘密を話しているのだろう。特にその内容について興味はないが」といった態度でこれを宣べているように見える。

 「成長させる(ギ:オイコドウメオウ)」は、建てる、建築する、人を向上させるといった意味がある。良く出てくる「徳を高める」という言葉に翻訳できそうであるが、「徳」に当たる単語は原文には登場しない。
 また、「教会を建て上げる」はともかくとして、「自分自身を立ち上げる」という言葉は、聖書の他の箇所には登場しない言葉である。即ち、用法や文脈から注意深く読まねばならず、安易に「良い意味」として解釈してはいけない部分である。何故なら、「愛は自分の利益を求めない(13章5節)」のであるから、「自分だけを建て上げること」を、「霊的な成長」と同義として解釈するのは、文脈的に矛盾が生じるのである。
 少なくとも、「自分だけを建て上げる為」に騒がしく語られる異言には「愛」が伴う筈も無く、故にそれは「やかましいドラ」や、「うるさいシンバル」と同じであると断定される皮肉が、ここになって効いてくるように思われる。
 8章でも、「人を建て上げてやる」と語った一部の人間によって、弱い人々が「滅びに向けて教育される」という皮肉が痛烈に語られている訳で、その流れを汲めば、やはりこの表現にも痛烈な皮肉が込められていると考えるのが良さそうに思える。
 少なくとも、他の人々に益する行動を取ろうという考えを一切持たない人々の騒がしい礼拝の妨害は、どう譲歩しても「良い」と評価することは出来ない。



〇5〜6節
 「あなたがたが皆、異言で語ることを望む」は、素直に読めば、「異言が皆にあたえられればよいと思う」とパウロが言っているように見えるが、実際にはそうではない。何故なら、同じ賜物が全員に与えられるということはないからである。
 同じ賜物が全員に与えられて居るという状況は、寧ろ、その「賜物らしきもの」が偽物であることの証左となる。
 故に、ここでパウロが言っている言葉は、「異言が御霊の賜物でないことが暴露されるよう願う」という意味としてとらえるべきである。愛以外に誰もが追い求める事の出来る賜物は全くない。

 「それ以上に願うのは(ギ:マッロン)」は、もっと、更に、一層、益々という意味のある副詞である。パウロがそれ以上に願っているのは、「全員に異言が与えられる事」ではなく、「異言が偽物であると暴露されること」である。しかし、そのような暴露よりも、パウロは純粋に人々が「預言する」ことを望むと言っているのである。

 「解き明かし(ギ:ディエルメネウオウ)」は、翻訳する、解釈するという意味がある。純粋に内容が判別できる形に変換するという意味であり、異言の内容から何か特別な説教をするとかそういう意味ではない。パウロが言う所の本物の異言は「解き明かされる」ものである。

 「啓示(ギ:アポカルフィス)」、「知識(ギ:グノウシス)」、「預言(ギ:プロフェテイア)」、「教え(ギ:ディダケー)」と、語る際に必要な四つの指針も取り扱われている。

 「啓示」は、神から私たちに伝えられる情報のことである。自然や日々の生活など、様々なところから与えられる気づきや証などがこれに当たるだろう。

 「知識」は、御言葉や聖書など、ユダヤ教に付随する神の知識のことである。聖書の学びそのものとも言える。預言と違うのは、預言は知識から建徳的な学びを見出していくが、知識は聖書そのものへの理解を深めていくことである。

 「預言」は、旧約聖書の御言葉を通して語られる説教や奨励のことである(当時は新約聖書が無かったた為。現代は、新約聖書も含めて預言とするため、現代では、預言と教えは合同して一つのものとして取り扱われる)。また、教理そのものを指し、後にこれはカテキズムなどと呼ばれるようになった。

 「教え」は、イエスの教えを受けた使徒によって語られた教えである。イエスの教えにさかのぼるものものあれば、使徒が語った独自の教えもある。平たく言って「新約聖書の教え」と解釈しても問題ない。
 
 いずれにせよ、建徳的な言葉、教会を成長させる言葉は、知性的な「学び」が伴わなければ決して語る事が出来ない。「霊的な情動だけで建徳的な説教が出来る」、即ち「熱心に祈ってさえいれば、何も学ばない、勉強しない、知識を増やそうとしなくとも、良い説教が出来る」と考えるのは全くの間違いである。それは異言に於いても同じ事である。


〇7〜10節
 「いのちの無い(ギ:アフォウコス)」は、非生物、命の無いものという意味であり、このところでは楽器を指している。ここでは、笛、竪琴、ラッパなどが用いられて居る者の、違う音やはっきりした音を出さない楽器の音色には意味は生まれないといっているだけなので、文脈情は日本語のまま読んでも問題なさそうである。
 9節でも、「舌」の単語が出てくるが、ここでは定冠詞(テス)が使われているので、異言ではなく、そのまま「舌」と訳すのが良さそうである。
 「明瞭な(ギ:ユーセモス)」は、解りやすく、理解しやすくという意味があり、相手に伝えたいことを明確に伝える事が出来て、初めて言葉に意味が生まれるということを言っている。
 10節の文脈もその範疇にある。
 「意味のない(ギ:アフォウノス)」は、無声の、意味を伴わないという意味である。

 「どうして分かるでしょうか」は、受け身で「どうして知られるであろうか」と記されており、つまるところ、吹いている本人にも、聞いている人にも判らない音色が流れるという意味を指す。「何が鳴っているかを明確に説明できる人が、(奏者をふくめ)誰も居ないような音色に一体何の価値があるだろうか」とパウロは言わんとしているのである。
 鳴っている音がはっきりしなければ、奏者の自主練習にすらならないのだから。


〇11節
 「外国人(ギ:バルバロス)」は、バルバロイなどとも言う、ギリシャ語においての外国人であり、ユダヤ人の言う所の異邦人とは少し違う意味合いを持つ。元々の意味合いが「バーバー(もしくはバルバル)言う人々」という意味であり、ギリシャ人にとって、他の言語で話す人々の言葉がバルバル聞こえて意味が解らなかったことから、「何を言っているのか判らない(なんだかバーバー言っている)野蛮人」という侮蔑の意味を込めて、バルバロスと呼ばれるようになった。
 日本人にとっては、理解しがたい話ではあるかと思われるも、コリントやギリシャ語地域にすむ人々にとって、このバルバロスと同じような振る舞いをしていると言われるのはとてもショックなことであった。
 異言で話している自分達の姿が、バルバロスと同じようなことをやってるのだと言われれば、コリント教会の人々は相当衝撃を受けただろうし、パウロもその衝撃を狙って与えようと、このような表現を用いているようである。


〇12節
 新改訳2017では、御霊の賜物と訳しているが、厳密には「諸々の霊(ギ:プニューマトン)」という言葉であり、これは聖霊によって分割されている諸々の賜物、即ち1節の「御霊の賜物(ギ:プニューマティコス)」とは別の単語が用いられていることに注目しなければならない。

 要するに、人々が熱心に(それも嫉妬する程に)追い求めているそれは、聖霊ではなく、出所の判らないもろもろの不詳の霊であるとパウロは言っているのである。聖霊も、本人の霊も、その他の諸々の不詳の霊も関係なく、霊的になにか効果が表れている現象であるなら、コリント教会の人々は何でも無条件に熱狂して追い求めたのである。こういった現象は、残念ながら現代の教会の中でも存在する。なにか牧師や一部の人々がカリスマ的な超常現象を起こせば、それが無条件に「神の御業」であると信じて熱狂する態度が、諸々の場所で見受けられる。これは本質的にコリント教会で起こっていたことと、何ら変わりはなく、そのような態度こそを、パウロはここで非難しているし、そのような労力をさして、「無駄な労力」と文脈的に断じている。

 その後、接続に「〜の方に(ギ:プロス)」が使われており、それが、「啓発する(ギ:オイコドウメ)」は、建てる、強化、善導、建徳といった意味のある単語に繋がっている。また、啓発するは、「教会(ギ:エクレシアス)」に掛かっており、その後に補足として、「探し求める(ギ:ゼテオウ)」と「豊かに、溢れる(ギ:ペリッセウオウ)」が用いられて居る。
 これを踏まえると、新改訳では、「それが豊かに与えられるように求めなさい」となっているが、実際には、「それを、教会が教会が啓発されることを、豊かに探し求めることに用いなさい」となる。
 「それ」とは、もちろん、霊的な現象を熱狂的に追い回している無駄な労力を指している。



〇13〜15節
 「わたしの霊(ギ:ト・プニューマ・モウ)」は、そのまま、自らの霊と言っている単語である。わたしのとわざわざ言っているのであるから、聖霊とは分けられるものであろうと考えられる(聖霊を私の霊と私物化するようなことをパウロは他の聖書箇所でも言っていない)。若しくは、「私にまとわりついている諸々の霊」という意味合いで語っている可能性がある。もしそうであるなら、私にまとわりついている諸々の霊が、「私を通して」祈ったところで、私には何の収穫も無いとパウロは言っていると言うことになる。異言は、なんらかの霊の働きによって、神がかり的に起こるのであるということ自体は、どうやらパウロも認めているようである。ただし、その働きは決して教会を建て上げる聖霊によるカリスマではなく、不詳の霊、もっと厳密に言えば悪霊の働きによるのであるし、しかも、それは恍惚状態で行われるものであって、自分が何をしているのかもわからずに行われることであるので、本人とっては何の学びにも経験の積み重ねにもならないという意味で、全く無益だというのは疑いようがないことであろう。

 「知性(ギ:ヌース)」は、知能、思考力、分別という意味がある言葉である。「心」とも訳されることがあるのであるが、この章でパウロは霊とはっきり分けて語っているので、霊と知性は全く別物であると言う文脈で語っていると考えてよさそうである。

 ここからも言える事であるが、聖霊の賜物の働きは「愛」が無ければ無益であるというのは、12〜13章で語られてきたことであるのだから、聖霊の働きには愛が伴うのであり、愛の働きは私たちが生涯を賭して「追い求める」ものであるのだからして、知性を伴うということも確実である(そうでないとすれば、知性や自覚が伴わないものをどうやって追い求めるというのだろうか)。だからこそ、知性が伴わず、その実を結ばない聖霊の賜物などは一切存在しないと言い切って良いと思われる。……というならば、少なくともパウロがここで言っている「コリント教会の異言」は、決して聖霊の賜物ではありえない。

 つまりどういうことかといえば、本物の「異言」は、少なくとも語っている本人は自分が何を語っているのかを必ず説明できるということである。他の人が語っている異言を他の人に説明する能力は、また別に「異言を解く賜物」として存在している。



〇16〜17節
 「初心者(ギ:イディオウテス)」は、素人、普通人、私人、凡人、平信徒などと言った意味を持つ単語であり、この場合は、興味は持てどもまだ洗礼には至っていない求道者という意味での初心者を指す言葉であるという解釈が一般的である。しかし、今までの文脈的に考えると、どちらかといえば「部外者」という意味で書かれているように思われ、「異言に関係ない人」「異言の心得の無い人」「異言を騙るグループの部外者」と読むほうが適切そうである(新解釈2017でも、同様の別訳提案がある)。何故なら、当時は教会堂のような概念は無く、一般家庭に皆で集まって行う家庭集会のような形が主流であったので、決まった「初心者席」などを常に用意できたはずもなく、そのような席に常に誰かが座っていたとも考えられないからである。よって、後者の「異言グループの部外者」という意味で考えるのが妥当であると考える。

 「アーメン(ギ:アメン)」は、「その通りです」と心を一つに合わせて同意する時の掛け声であり、キリスト教の祈りに於いては必ず用いられる締めの言葉でもある。当たり前ながら、何を言っているのか判らない祈りにたいして、心から「アーメン」といえるような人は、どこにだって存在しないだろう。

 「感謝(ギ:ユーカリステオウ)」は、感謝する、ありがたく思うといった動詞である。全体を指せば、この「感謝」は異言による祈りや感謝、賛美、全てをひっくるめて表現していると考えられるが、17節での文脈的にはおそらくは感謝の祈り単体のことを指して言っていると考えられる。

 「育てられる(ギ:オウコドウメオウ)」は、建てる、建築する、(人を)向上させるといった意味を持つ単語で、この場所では、教会全体の霊的な成長を指して「建てる」と表現されているようである。また、直接法、現在で表現されている為、そのような祈りは現在進行形で今正に役に立っていないということが強調されているようである。

 前述の通り、重ねて言及することがあるとすれば、やはり本物の聖霊の賜物によって与えられた「異言」を持っている人は、知性によっても祈り、また賛美しているわけであるのだから、その場で自身の語った異言を説き明かすことも当然できるはずであるということである。その場で「解き明かし」が行われたならば、それは普通にただの賛美と預言となるので、聞いている他の人々も、それに同意して「アーメン」と言えるのは間違いないだろう。



〇18節
 「より多く(ギ:マロン)」は、もっと、一層、さらに、ますます、といった意味を持つ副詞である。新改訳2017のほうでは、多くの異言という数的な意味で訳しているが、本来的な意味で見ると、さらに優れたという意味で語っているように見える。量的なというよりは、質的に優れている本物の異言を喋る事が出来る。また、その賜物が与えられて居る事を神に感謝していると取った方が文脈的にも適切であると思われる。

 「感謝(ギ:ユーカリステオウ)」が、一人称単数で書かれているので、これについて感謝しているのはパウロ自身であり、自分のことについて神に一人感謝している。

 「教会(ギ:エックレイア)」は、現代で言う所の礼拝堂ではなく、信徒が集まっている集会そのものを指す言葉である。教会は、人が集まるところに成立するのであり、集まる為の会堂が教会なのではないことは確認しておきたい。

 「教える(ギ:カテーケオウ)」は、口頭で教える、教授するという意味の単語であるが、ユダヤ教やキリスト教問答を指す言葉(ローマ人への手紙2章18節、ルカの福音書1章4節、ガラテヤ人への手紙6章6節)でもあり、現代でこれは「カテキズム」などとも呼ばれることもある。パウロも願った通り、このような教えの伝達、口頭での指導こそが、教会の中では最も重要とされる働きなのである。

 教会に於いては、一万の異言よりも、五つの預言の方が役に立つとパウロはいうのであるが、では異言が本当の意味で役に立つのはどこなのであろうか。ここまで学んで「異言に価値が無い」と考えるのは間違いである。異言の本当の役割や、その有意義性、賜物として与えられて居る必要性については、20節以降でパウロが解説している為、次回に研究したい。

2.詳細なアウトライン着情報

〇一部のグループが主張している異言もどきについて

1a (そういう訳ですので)愛を追い求めなさい。
1b また、(一部のグループが主張している通り)御霊の賜物を熱心に求めなさい。
1c (御霊の賜物の中で求めるのは、異言ではなく)特に預言することについてです。

2a (あなた方が言う所の)異言(らしきもの)で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ってい(ると、主張してい)ます。
2b (しかし、内容そのものがないので、その意味については)誰も(もちろん神にすら)理解出来ません。
2c しかし、(本人は)霊(自分の霊か、諸々の不詳の悪霊によってかはしりませんが…)によって(何かの)秘密を語っている(つもりな)のです。

3a しかし、(それに対して本物の御霊の賜物によって)預言を行う人は、人を育てる言葉や勧めや慰めを話します。
3b これは、神に向かってではなく、人に向かって(これを育てる為に)話すのです。

4a 異言で語る人は、自ら(だけ)を成長させ(ようとし)ます。(故にそこに愛はありません)
4b しかし、預言する人は教会を成長させるのです。

5a (こういうわけで、一部の人々の「異言もどき」が、御霊の賜物とは全く別物であると明らかになる為に、)私は、あなた方が皆、異言で語る事を願います。
5b しかし、それ以上に、あなた方が預言することを願います。

6a ですから、兄弟たち。 
6b 私が、あなたがたのところに行って、(一部の人々が主張するものと同じ)異言(もどき)で語ったとします。
6c しかし、(何を語っているのか自分でも判らないような意味不明の言語でどうやって)あなた方にとって何の益をもたらせるでしょうか。
6d 啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ(それが何の言語だったとて、そこに益は無いと思います)。

7a (例えば)笛や竪琴など、いのちのない楽器で(すら)も、変化のある音を出します。
7b そうでなければ、何を吹いているのか、何を演奏しているのか、どうしてわかるでしょうか、

8a また、(もう一つ例えますが、)ラッパがはっきりしない音をだしたらどうでしょうか。
8b だれが(それによって)戦いの準備ができるでしょうか。

9a 同じように、あなたがたも、舌で明瞭な言葉を語らなければ、話していることをどうして分かって貰えるでしょうか。
9b (もはやそれは)空気に向かって話している(のと同じ)ことになります。

10a (私がおもうに、)世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあります。
10b しかし、(その中に)意味のない言葉は一つもありません。(言語とはそういうものです)
11a それで、もし私が(相手の語っている言葉を聞いた時、その)言葉の意味をしらなければ、私はそれを話す人にとって、バーバー話を行う野蛮人の一人となるでしょう。
11b また、私にとっても、それを話している相手の人間は、バーバー物を話す野蛮人となるのです。

12a あなたがたも、(出所の判らない悪霊による)御霊の賜物(と本人達が呼んでいる霊現象)を熱心(それも熱狂的に)に求めているのです。
12b (そんな無駄な労力や体力があるならば)、教会を成長させることが豊かに与えられるように求めなさい。
13  そういうわけで、異言を語る人は、(まず)それを解き明かすことが出来るように祈りなさい。(自分ですら説き明かせない異言は全て偽物だからです)
14a もし、私が(あなた方の主張する)異言(もどき)で祈るなら、私(にまとわりついている不詳)の霊は祈るでしょう。
14b しかし、私(本人)の知性は(その霊の働きに介在していないので、全く)実を結びません。(果たしてそんなものが賜物と呼べるのでしょうか?)

15a それでは、(本物の異言を用いるためには)どうすればよいのでしょうか。
15b 私は、(異言を用いて自分の)霊(即ち魂)で祈り、(それに伴って自分の)知性でも祈りましょう。
15c (異言を用いて自分の)霊(即ち魂)で賛美し、(自分の)知性でも賛美しましょう。(それによって少なくとも自分の異言は説き明かせるからです)

16a そうでないと、異言を語るグループとは関係ない他の兄姉が、どうしてアーメンと言えるでしょうか。
16b あなたの祈りに対して。
16c あなたが霊において賛美をした(のだ)と(主張)し(たとし)てもです。
16d なぜなら、あなたの言っていることが、(他の兄姉どころかあなた自身にすら全く)わからないのですから。

17a (皮肉をこめて)あなたが感謝するのはけっこうです。
17b しかし、そのことで他の人が育てられるわけではありません。

18a 私には、あなたがたの誰よりも、優れた本物の異言を語る賜物が与えられています。
18b そのことを神に感謝しています。
19a しかし、教会(の交わりの中)では、異言で一万の言葉を語るより、むしろ私の知性(即ち学んだ教理によって)で、5つの言葉を語りたいと望みます。
19b (教会内の交わりに於いては、異言の賜物は用いられにくいですし、)他の人にも教え(、それによって徳を立て)る為(に必要だから)です。

着情報3.メッセージ

『教会の成長を求める』
聖書箇所:Tコリント人への手紙14章1〜12節
中心聖句:『教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。』(Tコリント人への手紙14章12節) 2024年7月7日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨 

 14章に入ってパウロは「コリント騒動」の中心である「異言問題」にメスを入れていきます。この話題は、Tコリント人への手紙で取り扱った全ての問題の主犯である、「異言を誇るグループ」、即ち自称「預言者」や「霊の人」(37節)を中心とするグループを非難する目的で展開されています。この「異言を誇るグループ」こそが、礼拝を妨害し、教会の中を混乱に陥れていた中心勢力であり、彼らの誇る「異言もどき」は否定されなければなりませんでした。

 「異言」とは、一般的には人に判別できない形で意味のある事を語り、聞いている人に判らない形で、祈ったり、賛美したり、教えたりする為の賜物です。これはパウロ自身も、聖霊の賜物に挙げている通り(10節)、実在する物でありました。しかし、コリント教会の中で一部の人々が宣伝していた「異言もどき」は、明らかに本物の異言ではありません。何故なら、彼らの「異言もどき」は、そもそも意味が存在しないので誰にも解くことができず、語っている本人たちですら、自分が何を語っているか判らない無益なものだったからです。2節の「だれにも理解できませんが」という言葉は、周囲の人間だけでなく、「神様にすら理解出来ない」という意味で語られています。「そもそも意味が存在しないのだから、神にすら意味は見出せないのである。そんなものは聖霊の賜物ではない」と、パウロは痛烈に批判しているのです。
 そもそも、聖霊が「御霊の賜物」として分配する種々の賜物は、全てが「愛(アガペー)」によって運用されて、初めて役に立つという前提があります。これは13章までに学んできたことです。また、愛は「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めない(5節)」のですから、「自ら(だけ)を成長させる(4節)」ことを良しとする、それも、各々騒ぎ立てて礼拝を妨害するような賜物など、聖霊の賜物の中に存在するはずがないのでした。賜物は各々に分かれて分配されるものであるのに、こぞって皆が「自分は持っている」と主張しあっていたことからも、これが聖霊の賜物でないのは明白です。故にパウロは、「全ての人が異言で語ること」を願って、それら「異言もどき」が偽りの賜物であることが明らかになるよう望んだのでした。

 「本物の異言」がどのようなものかは次回に、本来どのような役目を持つ賜物なのかは、次々回語らせて頂きますが、今日、覚えて頂きたいことは、「聖霊が与える賜物は、全て教会を建て上げる為に有益に働くものとして、神様から提供されている」ということです。世の中では、現代でも種々の霊的な現象が起こっています。トランス状態に陥るような現象が、教会の中ですら無作為にもてはやされることもしばしばです。しかし、それら全てが教会の建て上げに役立つわけなど無いのですから、私たちは、霊的な賜物については注意深く吟味せねばならないのです。そもそも、霊現象に浮かれてそれを追い求めるような熱狂自体に、パウロは否定的でした。故に「その無駄な労力を、教会成長に費やしなさい(12節)」と勧めたのです。

 パウロは、教会を建て上げる為に各々が預言(即ち教え。現代ではカテキズムとも言います)を語ることを望みましたが、それに関わらず、私たちは何に於いても教会全体が成長していくことを追い求めるべきです。そうでなければ、私たちの教会はこのコリント教会のように、不詳の霊(即ち悪霊)がもたらす、「御霊の賜物もどき」に熱狂してしまい、不品行が横行し、礼拝は「イエスは呪われよ」と叫ぶ人々によって妨害され、聖餐は廃れて執行されず、信徒全体が派閥に分かれて争うような惨状になってしまうのです。神様は、聖霊様を通して、私たちの教会が成長できる為に賜物を与えて下さいました。私たちはこれにどう応答できるでしょうか。霊的現象を熱狂して追い求めず、教会が建て上げられることを喜び、追い求めましょう。



『霊と知性で祈る』
聖書箇所:Tコリント人への手紙14章13〜19節
中心聖句:『それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。』(Tコリント人への手紙14章15節) 2024年7月14日(日) 主日礼拝説教要旨 

 パウロは、御霊の賜物である「異言」の存在について12章ではっきり認めた後、コリント教会にはびこる「異言もどき」が、全く別物であることを14章で指摘します。聖霊の賜物は、教会全体の益になり、かつその働きについて他の兄姉が心から「アーメン」と同意できる働きを行う筈です。何故なら、それは愛によって用いられるものだからです。話している本人にすらその意味が解らず、他の兄姉を困らせるような「異言」は、本物のそれではありえません。

 では、「本物の異言」はコリント教会に存在しなかったのでしょうか。それは未知数でした。何故ならパウロは、実際に現地でそれらを目で見て、確認した訳ではなかったからです(もっとも、「クロエの家の人々(1章11節)」からの伝聞だけでも、殆どの「異言」が偽物であるのが判断できるほど教会の状態は酷かったのですが……)。そこでパウロは「本物の異言」を見分ける為に、「それを解き明かせるように祈ること」を人々に勧めました。聖霊の賜物は、「教会全体を成長させ、その徳が立つように、愛によって運用される(できる)もの」という大前提があるので(12〜13章)、本物の賜物ならば、その全てが「その運用の推移を、少なくとも本人は把握でき」、「本人の意思によって、完全に掌握できている」はずです。そうでなければ、自分の賜物が愛によって用られているかどうかを本人が知る事はできませんし、それを追い求めることも出来ません。従って「本物の異言」もまた、本人が自分で解いて何を言っているのか説明出来るはずなのです(他の人の異言を解く賜物はまた別です)。だから、「万が一、本物の異言の賜物を持ちながら、その真偽の判断に苦しんでいる兄姉が存在するなら、それを解き明かしてその賜物を確認出来るよう、まず神様に祈るが良い」と、パウロは薦めたのでした。

 それを祈った上で、まだ自分が口にした異言が、自分で解き明かせないというのならば、それは最早、異言ではありえません。聖霊でも自分の霊でもない、出所の判らない不詳の霊(すなわち悪霊)の仕業であります。神がかりとなった人を通して何らかを喋らせる「口寄せや霊媒の霊(Tサムエル記28章9節)」や、「占いの霊(使徒の働き16章16節)」は全てこの類であり、しかも異教では珍しい存在でもありません。これらの霊は、憑依した人間の口を用いてなんらかを喋らせて私たちを恐れさせますが、それが本人の進歩に役立つようなことは決してありません。喋らせる霊と、喋る人の理性は無関係だからです。だからこそ、自身が進歩し、それによって教会を成長させる為にも、全ての賜物は、自分の魂に加えて、知性によってもコントロールされる必要があるのです。そうでなければ、異言は勿論、私たちの賜物は、神様から与えられている「本来の役割」すら果たせなくなってしまいます。これを話しているパウロもまた、(恐らくは本当に偶々)本物の異言の賜物を与えられている一人でしたが(18節)、常に共に居たルカ(福音書や使徒の働き記者)が一度もそれを記述しなかった程に、これを用いませんでした。異言本来の「役割」を良く理解し、知性によってこれを制御していたからです。

 異言に関わらず、全ての賜物には使いどころがあります。そして、全ての賜物が神様のご計画の役に立つ場面で用いることができるように、聖霊によって分配されているものだということを、私たちは決して忘れてはならないのです。しかし、私たちの心の中には罪があるので、自分に与えられた能力や持ち物が、自身の価値を担保するものであると勘違いして、これに熱狂してしまうこともあります。ここに人間の罪があるのです。正しい場面で、神様の為に用いられてこそ、私たちの賜物は本来の輝きを見せます。常に自身の賜物を慎重に取り扱い、神様の為に用いることが出来るように、霊に知性の伴った祈りをもって信仰生活を歩みましょう。




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